少年Kの秘密

LIM

【前編】 盛夏、君を羨む



 席替えで通路側の席になってから、気がついたことがある。








 私の教室の通路側の空間が、他の教室とは少し違うという点だ。他クラスが狭い廊下に面しているのに対して、こちらには「踊り場」が広がっているのである。球状に飛び出たこの空間は器用にガラス張りにされ、日中は外の木々をすり抜けてきた日光が燦々と差し込む。真夏である今の時期は直射日光など耐えられたものではないが、五月あたりは緑緑とした葉が枝に生い茂り、天然のステンドグラスが出来上がって頗る心地がいいのである。まあ、その当時の風景があまりにも新鮮でつい褒めちぎってしまったが、正直広さは大層なものではない。一クラス分の学生が整列できる程度の小さなものだ。  







 ここにだけ踊り場があるというのも、ただ「校舎の構造上」に過ぎない。四組と五組の間には螺旋階段があり、五組側だけその分の空間が余っただけのことである。なんとも陳腐で風情を微塵も感じない理由である。本当のことは実際に設計した人間に聞かねばわからないが、大体その程度のものなのだろう、想像はつく。







 だがこの「おまけ」の空間は、息苦しい最上階に位置する一組から五組の生徒からすれば、休み時間の唯一の憩いの場ともいえる人気の空間であった。休み時間になれば他クラス同士の女子生徒がこぞってそこで雑談を繰り広げ、男子生徒達はプロレスごっこをして野太い声をあげる。昼には弁当を持ち寄るピクニックの場となり、放課後になれば恋人たちの集合場所に生まれ変わった。










 席替えで通路側の席になってから、気がついたことがある。









 この踊り場には自動販売機が二台設置されている。一台が紙パック、もう一台がペットボトル飲料水用である。そしてこれらの自販機は壁に埋め込まれる形で置かれており、なるほど踊り場を作る構想段階からすでに自販機を設置する計画だったのかと、私は密かに感心するのである。










 席替えで通路側の席になってから、気がついたことがある。










 二台の自動販売機の奥に、ボタン式の給水機が設置されているのである。ボタンは上部と足元に一つずつ、足元は上履きで押して利用するのであろう。









 私はその給水機を使っている生徒を、まだ一人しか見たことがない。











 私は、その男子生徒の名前を知らない。








 中高一貫校に在籍しているため、大半の生徒は顔と名前が一致しているはずだが彼の顔はどうも見たことがないように思える。おそらく高校から本校に入学してきた生徒なのだろうとは思うが、一年のクラスの編成は一組から五組が中入生、残りの六組と七組が高入生なのである。つまり最上階である三階は中入生のクラスしかないはずなのだ。高入生がわざわざ階を変えて、この踊り場の給水機で水分補給をしているとすれば、普段他人に関心のない私でも気になって当然のことだろう。












 さて、名前すらも知らない彼をここでどう呼ぼうか。




 一概に「生徒」とすればややこしいのが目に見えている。それならばひとまず「少年」とでもしておこうか。否、それだけだと抽象的過ぎやしないだろうか。「給水機」の頭文字Kをもじって「少年K」にでもしてみようか。ミステリ小説のそれっぽくなってきて実に興味深い。心なしか私の気分も上がってしまっているという事実はどうか無視してくれるとありがたい。 





 話を戻す。お節介だが私なりにこの踊り場の給水機にくる理由を考えてみたりもした。



 まず、二階に給水機がないのではないだろうかという説だ。だが、実際に確認すると下階も我々と全く同じ構造であることが判明した。つまり、彼は高入生ではなく同じ中入生であるという可能性が高まる。ただ私が三年間知らなかった中入生であるかもしれないということだ。その場合は自分の記憶力の乏しさに拳ひとつあげてやろうと思う。




 次いで浮かんだ説は、少年の「持参した水筒の水がなくなった」、もしくは単に「キンキンに冷たい水が飲みたい」というものだが、それならば自販機の水でも買えば良いではないか。




 まだ説はある。私のクラスに好きな人がいるという推測である。毎時間給水機での水分補給を口実に、好きな子を見に来ているのではないだろうか。これならなかなかに筋が通るかもしれない。が、私という平凡な顔立ちの分際で他人の顔を分析するのも気が引けるが、一つ言わせてほしい。








 彼はかなり整った姿形をしているのだ。




 時々クラスの女子生徒が囁き声で少年Kの話をしている(であろう)瞬間に居合わせることがある。数人の女子が通路側を指差しながら「超かっこいい」と黄色い声を抑えている場面に遭遇したのである。名前こそ聞きとることはできなかったが、確かにその時、踊り場には少年Kの他に誰もいなかった。


 

 目立ったエラのないシャープな輪郭に、耳に少しかかるくらいの柔らかい茶髪、肌荒れ一つない艶っぽい肌。周囲から頭ひとつ抜きんでた身長。性別が違くとも嫉妬してしまいそうな美貌であった。



 ここまで少年Kの容姿を嬉々として述べて何を言いたかったのかというと、誰がどう見ても美しいこの少年に好きな人がいるのだとしたら、「こんなにも地味な」アタックをするよりも正々堂々告白した方が良いのではないかと感じるのである。だからこそ、その少年に想い人がいるという説も結局は白紙に戻されるのであった。



 何にもならないこの思考が最終的にたどり着いたのは、少年が「貧乏」という説だった。自販機で水を買う金がなく、水分補給を毎回給水機で済ませているという推測が最も道理にかなっているのである。貧乏な中入生がただ水を飲みに来ているだけということだ。



 この結論に至ってやっと、私は自分のしていたことの小っ恥ずかしさに思わず俯いた。そう、だからと言ってなんだというのだ。余計な思考を巡らせた挙句の結論が少年の食い扶持とは、私は礼儀すらもどこかに置いてきてしまったのか、と。ああなんて気持ちの悪い女なのだ、もう考えるのはやめよう、と。

 私は頭を何度か叩いて止まることを知らない少年への思考を打ち消し、意識を授業に切り替えたのであった。










 放課後、私は補習用のプリントと共に教室に閉じ込められていた。


 原因は当然少年Kに関する余念である。補習となったのは幸い得意な化学であったが、得意であるはずのそれが補習となってしまったことには正直焦りを感じていた。



 プリントを解いてみて初めて、私は驚愕した。今日学んだはずの内容が半分以上頭に入っていなかったのである。私は喉が渇きはじめた。










 ああ、一口分の水分が欲しい。









 集中力が切れ始めると同時に、私の目線は無意識に踊り場の給水機に向いた。











 あと一問解けたら飲みに行こうか。






 視線をプリントに戻しかけたとき、私の動きと思考は停止した。










 動かした視界の端に一瞬、少年Kを捉えたのである。








 日照時間の長い夏場とはいえ、当然日没はある。今の時間帯であれば、私の教室にも強い西日が差し込んでいることは容易に想像できよう。誰かの瞳が赤色に煌めいたことで気がついたのだ。眼球に直に日光を受けた少年Kは相当眩しかったのだろう、顔をしかめてすぐにこちら側に背を向けてしまった。




 ああ、カーテンでも閉めておけばよかったか。謝罪の言葉一つでもかけたほうがよさそうか。否、なぜ私が謝罪しなければならないのか。そんな配慮の可否は今問題ではないだろう。私は西日に照らされる彼の背中をじっと見た。







 少年Kは、





放課後のこんな時間であってもここに水分補給をしにきた






のである。






 外からは野球部の掛け声と吹奏楽部のチューニングの音が空中で幼稚なチャンバラを繰り広げ、「青春」と言って仕舞えば聞こえの良い不協和音が奏でられている。校舎外装の白壁を境に、その内側にいる私と少年Kとの間には、教室内外を仕切る窓ガラス一枚しかない。




 放課後だからだろうか、もしくは彼に「少年K」などという、なかなかに粋な愛称をつけたからだろうか。私は少し浮ついていた。否、他でもない、私の補習という罪を招いた原因である彼が目の前にいるのだ。この瞬間私が迷惑をかけてこそ彼の罪が相殺されるのである、そうなるべきである、そんな「屁理屈」に舵を切ったゆえの浮つきであると言いたい。



 

 私は、今なら何をしても許されるような気がしていた。甚だ言い訳がましいが見逃して欲しい、




ともかく私は喉が渇いて仕方がなかったのである。




 

 私は椅子から立ち上がってそのまま教室から踊り場に繋がる廊下に出た。足音を耳にして少年Kは私のいる方向を横目で見たが、すぐに下を向いてしまった。 






 彼は踊り場の椅子に、教室に背を向けた形で腰掛けている。底辺よりも若干等辺の長い二等辺三角形を逆さにした形に近い美しい背筋が、汗で少し透けたワイシャツ越しに見えた。少し猫背に座っている彼の飛び出た背骨すらも魅力的だった。





 私は彼の真横まで歩いていき、立ち止まった。彼の後ろ姿を存分に堪能しておいて苦しいが、他意はない、ただ自販機の水が買いたかっただけだ。




 私は自販機に百十円を投入し、空の天然水のペットボトルがはめ込まれている段の真下にあるボタンを強く押した。廊下に出ただけで外の部活動の声がこんなにも聞こえなくなるものなのだろうか。三階という広い空間で、言葉を交わしたこともない人間がこれほど接近することがあるだろうか。自販機からペットボトルが落下する音が、異様に心臓に響いた。




 私はその場でキャップを開け、飲み口を口から離し、豪快に水を喉へ流し込んだ。口を付けずに器用に飲む大人を見たときは、卵を片手で割る程度の小さな驚きと憧れを抱いていたものだが、慣れた今そのような初々しい感情は遥か過去に置き去りにされていた。透明な流動物を嚥下しただけであり得ないことだが、私はこの一瞬で全細胞に水分が行き渡る感覚がした。 









 生き返った、ただそう思った。















 死んだ。帰宅した私はなぜか自分の部屋に着いて早々、そう呟いていた。



「…え?」

「飲めば」



 あの時、気がつけば私は、少年Kに自分の飲んだ水の残りを差し出していたのである。俯きがちな彼の視界にペットボトルが入るように、私は精一杯腕を伸ばした。



「え、いや…なんで」

「喉、渇いてるんでしょ。私一口だけ飲みたかったからさ、残りいらないんだよね」

「え、」

「口付けないで飲んだの、見てたでしょ。だから安心して貰って良いから」

「あ、いや、そういうことじゃ」

「給水機の水飲むからいらない?」



 補習を受けることになった腹いせか、それとも本当に単に気になっていただけなのか。きっと両方の疑問がせめぎ合った結果がこの言葉だったのだろう。水を差し出してしまった以上、今更手を引っ込めることはどうしても決まりが悪かった。その気まずさをどうにか察されまいとしたのか、話す口が私には止められなかった。



「だっていつもここの水飲みに来てるじゃん。給水機は二階にもあるし、キンキンに冷えた飲み物なら自販機で買えるのに」

「…あー、そういうことか」



 最初こそ目を丸くしながら戸惑っていたものの、説明を聞いて彼は納得して落ち着きを取り戻したようだった。ペットボトルを見ていた彼の視線がゆっくりとこちらの顔へ動いていく。床のシミをぼんやり眺めていた自分の焦点が少年Kに合わせられていく様子を、私自身がどこか遠くから見ているような感覚がした。そして、私と少年Kはこの瞬間初めて、自分たちの意思でお互いに目を合わせたのである。




 クラスメイトが口を揃えて言う通り、彼は美しかった。


 前髪が目に少しかかっており、その隙間越しに大きな瞳が控えめに瞬きをする。西日が踊り場の鉄柱を反射して、逆光の中で彼の顔に影を作った。睫毛が頬の高い部分に黒を落とし、それがさらに少年Kの色素の薄さを際立たせた。たったの数秒で、私は顔の熱がぐんぐん上がっていくのを感じていた。


「ふっ、あ、ごめん」


 少年Kはふっと鼻から息を出して笑った。彼の熱視線に耐えられずカクカクと顔を背ける様子は、きっとぜんまいの巻きがなくなりかけた人形のそれに見えたのだろう。さぞみっともない姿だったのだろうなと、その笑い方から察した。


「…うん、水、ありがたいけど大丈夫。…僕、この階の給水機の水が一番美味しくて好きなんだ」


 少年Kは、今まで邪推していた私が自ら進んで全ての罪を被ってしまいたくなるほどの優しい笑顔でそう応えた。そんな彼に私はなんと返したっけか。まあ私のことだ、どうせ会話すら続かない「句読点つき」の取るに足らない言葉でも添えたのだと思う。







 それ以来私は、少年Kにそこまで関心を向けることはなくなった。無論勝手ながら愛称をつけた以上、他の生徒よりも多少違う目で彼を見ることはあっても、それは今までの邪推の罪悪感故の償いの視線にすぎなかった。そしてあのとき話しかけて色々知ることができたおかげか、気が散る要因がなくなり、私は補習を受けることもなくなった。分野や科目によって多少点数が左右されることはあっても、成績をそこまで落とすこともなく、放課後のあの西日と不協和音は海馬からも捨てられかけていた。










 そして私はまた、浮ついていた。



 放課後だからではない。少年Kという愛称がミステリ小説のそれっぽくて気に入ったからでもない。




私は、






「私」という分際でしてしまった、身の丈に合わない「色恋」に、

十二分に浮ついてしまっていたのである。










 続く猛暑が残暑と呼ばれるようになったある日、私は教室でいちごオレを机に吹き散らかしていた。


 それは、「色恋」に浮つく私に降りかかった、少年K以来の補習に勤しんでいる日のことだった。









「幼馴染のこと、好きなの?」











 私一人しかいない教室でどこからか核心を突く一言が投げつけられ慌てて見渡したところ、半開きになった窓ガラスから顔を覗かせる生徒がいたのである。それに驚いて吹き出したのではない。











それを聞いてきた人間が、かの少年Kだったからである。










「えっ…」


 この感動詞だけ聞けばただ戸惑いのあまり続く言葉を失ったように見えるが、本当のところは聞きたいことが多すぎて質問が脳内でひしめき合い、言語野を通過できた言葉が何一つとしてなかっただけであると弁解したい。








 …彼はなぜ私に今想い人がいることを知ってるのだろうか。










 そしてそれが私の幼馴染であることをなぜ。












 そもそも少年Kとは同じクラスですらないのになぜ。なぜだろう。











 今思えば、私は本当に馬鹿だったと思う。この時に過っていたこれらの疑問を洗いざらい聞いていればよかったかもしれない。色恋に染まると知能が下がるなどという言葉をよく耳にしていたがどうやら本当だったようだ。私は、打ち明けたくても打ち明けられないこのくすぶった幼馴染への想いを誰か一人にでも聞いてもらいたかったのである。











 さて、主観で散々と語らせてもらったが、ここまでの「私」の言葉選びで大体想像はついているであろうから、ここは手短に話しておくに留める。なにせ少しくすぐったい話なのだ、早急に済ませたい。



 私は自分に対する「自信」が、極端になかった。学力や運動など、努力でどうにかなる部分はさほど気にしてはいなかったが、その分どうしようもない「容姿」に対するコンプレックスは、一度意識し始めてしまうと終わりなく増えていってしまうのである。






 例えば肌荒れだ。思春期という時期ゆえ大目に見られることはあれど、それでもやはり肌悩み一つない他人を見ると一気に消えたくなるのである。決して努力をしていないわけではない。以前よりも多少なりともスリムに、肌荒れもましになった方だ。 考えたくないが、私の場合は清潔感だけでは補えない「素材」に問題があるように思えた。





   


 

 少年Kに幼馴染への恋心を素直に相談したのも、実際に「美しい」彼なら根拠のある情報を教えてくれるかもしれないという淡い期待を含んでいた。

 だが、そんな私の希望は儚く散ることになる。












「じゃあ、水飲めば?」












「はあ?」

「つまり恋愛運をあげたいってことでしょ?風水的にいいかもしれないじゃん」

「あんた風水とか本気で信じてるタイプなの?」

「うーん、まあ。しないよりマシだと思うし」





 悩みを明かした後、彼は「すこし考える時間をちょうだい」と言った。その上での第一声がこれとは。やはり彼は相当いかした人間なのかもしれない。少しは本気で考えてくれると思って全てを打ちあけた自分の「純粋な心」がただの「阿呆」だったことに気がつき、私は声をあげて笑ってしまった。





 まあ、それくらい適当な方が恋愛もうまくいくのかもしれない。



 そんな彼の勧めで、私は人生で初めて給水機の水を飲むこととなった。いざ踊り場に立ってみると、教室の照明と暗い廊下とのコントラストで、「ガラス窓」のスクリーンで「教室」という映画でも観ているような気分だった。踊り場から見る私のクラスは、実際席に座っているよりもかなり小綺麗に映っていた。どこかの山頂から見る夜景が壮美なように、やはり自分の視界の遠い向こう側にあるものは些末なものですら輝いて見えるようにできているらしい。




 少年Kが先導し、私は初めて踊り場の最奥部にある給水機の前に立った。足だと加減がうまくいかないかもしれないと、初めは上部のボタンを指で押して飲んでみたが、そのやり方にして正解だった。水は思った以上に勢いよく飛び出し、このやり方ですらも顔にかなりかかってしまったからだ。エイムを口元に定め直し、慎重にボタンを押す。どうやら強さで水流を調整できる型のようで、今度は緩やかな弧を描きながら水が噴射された。少しずつ力を強めて円弧をどんどん大きくする。その歪な弧の頂点とも言える部分に、私は唇を近づけた。ピシャリと唇に当たった水はそのまま口内に入り、反射的にゴクリと飲み込む。私は不思議と達成感に満ちた。


 

 正直、味に関してはそこらの水となんら変わらず、裏を返せば「そこらの水と変わらないくらい普通に」美味しかったともいえた。彼のいう通り水は冷たく、そこを加点してしまえばむしろ他よりも少し美味しかったかもしれなかった。キラキラした目で私の水レポートを心待ちにする少年Kに多少気を遣った点は否定できないが、それでも彼が足繁くここに飲みにくる理由は少しだけ理解できたように思えた。













 その後一週間、私は少年Kと毎日給水機で水分補給をするようになった。



  

 無論私の意思ではない、彼のしつこい勧めである。


 



 少年Kは私が色恋の相談をして以降も相変わらず、いつも通り、毎時間、この階の給水機に来た。以前と変わったのは、彼がそのタイミングで通路側の席に座っている私にしきりに視線を送って手を振ってくるようになったことくらいだ。だがこれが少々面倒くさい。最初こそ無視していたが、彼からの視線だけに留まらずクラスメイトからのそれもなかなかに受けるのだ。まあ、美少年として密かに人気を集めているかの少年Kが私に「だけ」目配せをするとなれば、注目を浴びても仕方のないことだとは思う。



 大体こういう時のルーティンは決まってきた。私が彼を無視し続ける。そうしているとクラスメイトがざわざわし始める。少年Kの笑顔の先が誰なのか、吟味し始める。ああまたこいつか、と。そして私が嫉妬か羨望かも分からない周囲の視線に耐えられなり、赤面して踊り場に出て行く。

 

 そして私は彼に言う。










 あなたは自分の美の影響力に気がついていない、こういうことはやるなとは言わないが、もう少し控えてくれ



と。









 そして言うことを言って手持ち無沙汰になった私は、周囲の気を散らそうと給水機に向かう。あくまで水を飲みに行っただけだということをアピールするかのように。



 そう、給水機はその「ついで」なのだ。あんなに執拗に勧められていた割には共に水分補給をする意味など、もはやその程度のものと化しているのである。












 少年Kと意思にそぐわぬ水分補給活動を始めて一週間が経過して、気がついたことがある。



 何のおかげか、普段よりも体調が良い日々が続いているという点である。

 

 思えば、毎時間席も立たずに次の授業の準備だけして不貞寝していた頃は下半身の浮腫が次の日までなくならなかったことが日常茶飯事であったが、そのようなこともはたとなくなった。休憩時間ごとに起立する習慣がついた(厳密には、つかされたのだろうが)おかげで、体の巡りがよくなったのであろう。その影響か、少し前までしぶとく残っていた肌荒れの跡も、きれいさっぱりなくなっていた。












 少年Kと意思にそぐわぬ水分補給活動を始めて数週間が経過して、気がついたことがある。



 周囲の人間が私に優しいことだ。

 私と目が合うと男女誰もが優しく微笑んむ。教卓まで持っていかねばならないプリントも、通りがかりのクラスメイトが回収していってくれた。席から離れるという習慣がつくだけで、人は周囲の気遣いに気が付くことができるようになるのかと、クラスメイトの後ろ姿を見つめながら私は感動した。


 

 が、「自信」のない私に降りかかる感情はそんなに善いものばかりではなかった。




 私は、周囲の関心の中に私という分際がいる、


 「いてしまっている」


ことに小さな嫌悪と恐怖を覚えていたのである。














 そんな恐怖が押し寄せたのも、彼らの行動心理が明白だったからだ。
















 

 私が少年Kとつるむようになったから

 

 である。










 述べてこそいないが、彼はここ数週間の間に何人かの女子に告白されていた。この様子だと彼に好意を寄せる生徒たちから反感を買い、私が陰湿ないじめを受けかねないとも感じるだろう。だがおそらくその心配は無い。彼らの思考は「いじめ」ではなく、「少年Kと仲の良い私」と仲良くしておくことで、間接的に彼からの株を上げようとしているのだ。私は、一定数いるこのような魂胆の人間が心底嫌いだった。だが、まあ女の世界だ、これくらいのことは普通にある。

 

















 それは、雨こそ降らないものの雲量が多く視界が嫌にひらけていた日のことだった。私は、肌やコンプレックスがより鮮明に見えてしまう「そういう」曇りが大嫌いだった。


 












 そして運の悪い日は良くないことが重なって起きるものだ。














 私は例の想いを寄せている幼馴染とこの日、下校する約束をしていたのである。




 


 普段は彼の部活後、つまりは夜方に共に帰っていたが、なんとこの日に限って部活がないときた。私にとって「日中に下校すること」は、すなわち「自身の弱点が露呈すること」と同じことなのである。それを隠したい思いと一緒に帰りたい思いが天秤にかけられたが、結果は言うまでもないだろう。






 「コンプレックスは自分にしか分からない」なんて言葉はよく聞いたものだ。私自身も、少年Kの美貌を除けば他人の顔がどうとか、考えたことすらなかった。人間は自分に対しては随分と都合よく考えられるようにできているもので、甘い時は周囲がどれほど厳格な態度を示そうが甘く、厳しい時はどれほど認められようとも受け入れられないものなのである。私はとりわけ、容姿に関しては後者であった。だが、好かずも格言でもなんでもない通りすがりのその言葉を勇気の一欠片にしてしまうほどに、私は彼に夢中だったのだ。







 

 放課後すぐ、私は彼が来るよりも先に下駄箱に向かった。履き慣らした靴の踵は、革製であるのにも関わらずベラを使わないと内側に反り返ってしまう。私の履き癖のせいだが、今はそんなことはどうでもよかった。











 彼がくる前に身だしなみを整えたい。

 










 私は踵を踏んだまま反射率の高いガラス扉に走った。荒ぶれているであろう前髪から整える必要がある。そう考えながらガラス扉に映る自分を見て、私は言葉を失った。















 それは、雨こそ降らないものの雲量が多く視界が嫌にひらけていた日のことだった。私は、肌やコンプレックスがより鮮明に見えてしまう「そういう」曇りが大嫌いだった。












 私の肌は透明感に溢れた艶肌になっており、目つきが悪いと怖がられていた切れ長の目はぱっちり二重のアーモンドアイになっていた。丸い鼻は整形手術でも行なったのか見間違えるほど細く筋が通っており、リップバームも何も塗っていない私の唇は、そんなケアも必要ないほど潤っていた。



 私は、周囲の人間が優しく微笑み、プリントを回収してあげたくなるほどの、









 周囲の人間の関心の中に入り込んでしまうほどの、美人になっていたのである。








 その日の帰り道、私はひたすら上の空で、幼馴染とどんな会話をして帰路に着いたのか、全く覚えていない。



              後編につづく




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