エピローグ


 エピローグ



 やがてほぼ全ての学生達と教師達に惜しまれながら、僕が通う国立南天大学付属高等学校の冬休みは幕を閉じ、憂鬱な新学期初日を迎えた。

「さて、それでは三学期初日の本日は始業式とLHR《ロングホームルーム》のみでもって諸君らは解放され、本格的な授業は明日の一限目から開始される事となる。永いようで短かった、短いようで永かった冬休みの間に、きっと諸君らも思いっ切り羽を伸ばしてくれた事だろう。しかしながら運良く留年さえしなければ、後ほんの三か月後には、諸君らは晴れて三年生へと進級する予定だ。そうなってしまえば、もう受験まで一年間の猶予も無い。だからこそ、この受験生になる直前の最後の三か月間を、決して後悔する事の無い充実した三か月にしてほしい。いいね?」

 講堂での始業式を終えて教室に戻ると、登壇した担任の陳教諭がそう言って、LHR《ロングホームルーム》は恙無つつがなく進行する。

「それでは諸君、明日からの授業に備え、今夜も良く寝て良く食べて英気を養ってくれたまえ! 以上、解散!」

 最後にそう言った陳教諭がLHR《ロングホームルーム》を終わらせたので、僕は自分の学生鞄を引っ掴み、教室の出入り口の方角へと足を向けた。

「ちょっと! 万丈ったら、待ちなさいよ! あんた、そんなに急いでどこに行くつもりなの? ひょっとして、また真っ直ぐ家に帰らずに、あの胡散臭いベトコン女のお店に行くつもりなんじゃないでしょうね?」

 今まさに教室から退出しようとした瞬間、背後からそう言って僕を引き留めたのは僕の同級生であると同時に幼馴染でもある女生徒、つまりおでこが無駄に広くてセルフレームの眼鏡を掛けた王淑華ワン・シュファである。

「何だよ淑華、僕がホアさんの店に行こうが行くまいが僕の勝手だし、そもそも僕がどこで何をしてようがお前には関係無いだろ?」

「もう、またそんな事言って! 何度でも警告しておきますけど、あたしはあんたのおば様に、あんたを家まで送り届けるよう頼まれてるんですからね!」

「だったら、どうするつもりだよ?」

「だからあんたがどうしてもあの胡散臭い女のお店に行くって言うのなら、あたしも一緒に行って、ちゃんと門限までに家に帰るよう見届けるまでです!!」

「えー……お前もホアさんの店まで来んの? マジで?」

 そう言ってがっくり肩を落とす僕の言葉通り、どうやら淑華は僕と一緒にグエン・チ・ホアの店に行ってでも、この僕の帰宅するまでの行動を監視するつもりらしい。

「そうと決まったらあたしも荷物を纏めて帰る支度をしますから、あんたは大人しくそこで待ってなさい! 言っておきますけど、どうせ行き先は把握されてるんですから、逃げても無駄ですからね!」

 そう言った淑華は彼女の荷物を纏めた学生鞄を抱えると、僕の隣にぴったり張り付きながら二年D組の教室から退出し、数多の生徒達で賑わう新校舎の廊下を渡って下駄箱まで移動した。そして僕ら二人は下駄箱の前で外履きに履き替え、昇降口の扉を潜って小雨が降りしきる戸外の空気にその身を晒すと、そのまま正門の向こうの繁華街の方角へと足を向ける。

「ほらほら、もっと背筋をぴんと伸ばしてまっすぐ前を見て、はきはき歩く! 肩を丸めない! 姿勢の悪さは、生活態度が乱れてる証拠そのものなんですからね!」

 そう言って発破を掛ける淑華に急かされながら、僕は如何にも重い足取りでもってとぼとぼと通学路を歩き続け、やがて夜市の裏通りの骨董街の一角に建つ雑居ビルへと足を踏み入れた。そして狭くて暗くて傾斜が急な階段を、硬い木材で出来た手摺を撫でつつ駆け上がれば、やがて『Hoa's Library』と言う店名が掲げられた一枚の扉の前へと辿り着く。階段の手摺と同じく硬い木材で出来た扉にはレトロな歪みガラスがめ込まれ、何十年もの永きに渡って人の手によって繰り返し触れられて来たせいか、その木目は鈍い飴色に光っていて眼に眩しい。

「こんにちは」

 僕は鈍い黄金色に輝く真鍮製のノブを回して扉を開けると、そう言って物憂げな挨拶の言葉を口にしながら、この雑居ビルの二階にテナントとして入居する『Hoa's Library』の店内へと足を踏み入れた。扉を潜ると同時に、甘く爽やかな白檀の香りが鼻腔粘膜をくすぐって、どこか遠い異国の様なエキゾチックな空気に包まれる。

「あら、いらっしゃい? 万丈くんと、それに、今日は淑華ちゃんもご一緒なのね? お二人揃ってうちのお店に遊びに来てくれるだなんて、何日ぶりの事かしら?」

 どこまでも澄み渡る春先の青空の様に一点の曇りも無い、それでいて少しばかり妖艶な香りが漂う流麗な声でもってそう言って、店内に足を踏み入れた僕と淑華を一人の成人女性が出迎えた。

「ええ、お久し振りです、ホアさん! 正月の旅から帰って来てからこっち、溜まってた冬休みの宿題を片付ける作業に追われてたもんですから、ご無沙汰してました!」

 僕がそう言って暫くこの店に顔を出していなかった事を詫びれば、僕らを出迎えた一人の成人女性、つまり古い本や家具などのアンティーク雑貨を取り扱うこの店を経営するグエン・チ・ホアは、くすくすとほくそ笑みながらそれを否定するにやぶさかではない。

「あらあら、そんなにかしこまる事は無くってよ? あなた方の様な若くて元気なお客様はいつだって大歓迎なのですから、ここ数日ばかりお会いする事が出来なくて、あたしもちょっとだけ寂しく思っていたところなのですからね?」

「そうですか、そう言ってもらえると光栄です!」

「ふん、寂しく思っていただなんて、ものは言い様ね! どうせこんな、年がら年中閑古鳥が鳴いているようなお店にお客なんて来やしないんだから、寂しいもへったくれも無いでしょうに!」

「おい淑華、なんて事言うんだ! ホアさんに対して失礼だぞ!」

 僕がそう言って淑華の無礼な暴言をたしなめれば、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、店の奥に用意されたカフェテリアの方角を指し示す。

「さあさあ、お二人とも? こんな所で立ち話も何ですし、奥のカフェテリアで待っててくださるかしら? 今すぐ美味しいお茶を淹れて、お茶菓子と一緒に持って行って差し上げますからね?」

「はい、ありがとうございます!」

 軽く頭を下げながらそう言ってお礼の言葉を口にした僕が仏頂面の淑華と共に、所狭しと陳列されたアンティーク雑貨の隙間をすり抜けながらカフェテリアの方角へと足を向けた、その時であった。不意に僕は見慣れぬ新たな商品が陳列されている事に気付いて、ふと足を止める。

「ん?」

 そこに陳列されていたのは、人間の背丈くらいの大きさのガラスのショーケースであった。そしてそのショーケースの中へと眼を向ければ、そこには子供くらいの背丈の二つの人骨の標本らしき存在が、肩を並べた状態で鎮座しているのが見て取れる。

「……えっと、あの、ホアさん? ちょっとお聞きしますけど、これってまさか……」

「ええ、そうね? つい先日の旅の最中に何度かお見掛けした筈の、ルーシーとアルディの化石人骨なのではないかしら? 実を言いますとこれらの化石人骨は、当店の新たな目玉商品の一つとして、つい二日前に入荷したばかりでしてよ? これから旧正月を迎えるにあたって、こちらの『ちびくろサンボ』の原書と並ぶ、このお店の良い宣伝材料になると思いましてね?」

 グエン・チ・ホアは事も無げにそう言うが、何故これらの貴重な化石人骨がここに在るのか、その理由が僕には理解出来ない。

「……これ、レプリカですよね……? ……まさか、本物じゃありませんよね……?」

「さあ、どうかしら?」

 窓の外では冷たい氷雨がしとしととそぼ降る中、グエン・チ・ホアは硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を手にしながらそう言って、くすくすと愉快そうにほくそ笑むばかりである。




                                    了

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グエン・チ・ホアの素敵な商売 大竹久和 @hisakaz

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