第十七幕


 第十七幕



 第■■代アメリカ合衆国大統領の就任式が表向きは滞り無く執り行われた翌日、つまりホワイトハウスでの一悶着から一夜が明けた一月二日の昼下がり、僕ら四人の姿はワシントンD.C.から程近いワシントン・ダレス国際空港の出発ロビーの一角に在った。就任式を見物し終えた全米各地からの観光客達でもってごった返すロビーに設置された大型液晶テレビへと眼を向ければ、議会初日の所信表明演説に臨む、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の雄姿が見て取れる。

「私は手始めに、主に貧困層の生活レベルの大幅な引き上げと安定化に着手します! 特に社会保障制度と教育制度の拡充は喫緊の課題であり、まずこれを解決しなければ、国際社会に於けるこの国の地位を確保し続ける事は出来ません! そしてその次に着手すべきは、産業の空洞化問題の解決です! 目先の利益ばかりを追求した結果、安価な労働力を求めて海外へと流出してしまった企業の工場などを国内へと呼び戻し、雇用を創出する事によって人々の暮らしを支える地域の経済的地盤を作り上げようではありませんか! 勿論第二次産業である製造業だけでなく、農業や漁業と言った第一次産業にもまた必要充分な予算を投入し、これを活性化させる事によって国力の増強を図る事は言うまでもありません!」

 液晶画面越しにそう言って一席打ち上げたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の所信表明演説は、昨夜の晩餐会での決意表明とほぼ同様の趣旨でありながら、その文言からは黒人国家の樹立や白人のヨーロッパ大陸帰還事業に関する箇所がごっそり削除されていた。

「あらあら、どうやらアンブローズさんも心を入れ替えられて、国家運営の方針を転換されたみたいね?」

 ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアが液晶テレビに眼を向けながらそう言えば、大きなボストンバッグを手にした黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルもまた「ああ、そのようだな。これで一安心ってもんだ」と言って、ホッと安堵した様子である。

「ふう、これでやっと、フォルモサに帰れるのね。ああ、もう! 万丈なんかに付き合ったせいで、とんだ冬休みになっちゃったじゃないの! まったく!」

 僕の隣ではそう言って、何だか妙にわざとらしい表情と口調でもって、キャスター付きのキャリーケースを転がした淑華がぷりぷりと怒りを露にしていた。そしてそんな彼女が口にした言葉通り、これから僕と淑華とグエン・チ・ホアの三人は旅客機に乗ってフォルモサへ、そして黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは『新ブラックパンサー党』の本拠地が在るテキサス州のダラスへと帰還するところである。

「ええ。そうね? 万丈くんも淑華ちゃんも、なかなか愉快で興味深い、随分と刺激的なお正月を迎えられたのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアがくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言い終えるのとほぼ同時に、ロビーの天井付近に設置されたスピーカーから「フォルモサエアラインより、出発ロビーにお集まりのお客様方にご案内申し上げます。只今からワシントン・ダレス国際空港発、ノーザンフォルモサ国際空港行きの便の搭乗手続きを承ります。ご搭乗されるお客様は国際線の出発カウンターまでお越しください。本日もフォルモサエアラインをご利用頂きまして、誠にありがとうございます」とのアナウンスが耳に届いた。どうやら僕ら三人が乗る旅客機が、そろそろ離陸の時間を迎える頃らしい。

「あら、もうそんな時間でして? でしたらキャンベルさん、あたし達三人はそろそろ搭乗手続きを開始いたしますから、あなたとはここでお別れね? ジュネーヴで出会われてからのほんの数日間の短い付き合いではありましたけれども、ここまであなたとご一緒出来て、本当に楽しかったのではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに握手を求めるかのような格好でもって、そっと右手を差し出した。勿論黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに、彼女の手を拒む理由は無い。

「グエンさん、俺の方こそ楽しませてもらったし、あんたらには本当に感謝している。さすがに大統領をぶん殴っちまった件に関しては迂闊に口外出来ないが、ホワイトハウスの内部にまで潜り込んだってのは、末代までの語り草になる良い土産話だ」

 褐色の皮膚に覆われたその顔ににこやかに笑みを湛えながらそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、グエン・チ・ホアと固い握手を交わし終えると、今度は僕と淑華の二人に向き直る。

「万丈くん、淑華ちゃん、キミ達二人にも本当に感謝している。思えばほんの数日前、俺がジュネーヴのレストランで万丈くんをうっかり殴ってしまっていなかったら、こうしてワシントンD.C.までやって来て大統領をぶん殴る事も無かったんだからな! まったく人生って奴は、次の瞬間に一体何が起こるのか本当に分からないもんだ!」

「ええ、それじゃあキャンベルさん、お元気で」

「さよなら、キャンベルさん。一応忠告しておきますけど、もう人を殴るのは程々にしておいてくださいね?」

 僕と淑華もまたそう言いながら、別れの言葉と共に、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルと固い握手を交わし合った。そして手を放した彼は不意に身を屈め、周囲の人々には聞こえないような小さな声でもって、そっと僕だけに耳打ちする。

「万丈くん、キミが鈍感なのは仕方の無い事なのかもしれないが、好意を抱いてくれている女の子は出来るだけ大事にしてやれよ? 同じ男として、そして人生の先輩からの、せめてもの忠告だ」

 そう言って耳打ちした黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは悪戯っぽく微笑み、最後に「じゃあな、また会おう!」と言ってくるりと踵を返すと、彼が乗る国内線の出発カウンターの方角へと足を向けた。そして彼の背中がロビーの雑踏の向こうへと消え去ったのを確認した僕ら三人もまた踵を返し、各々の荷物とフォルモサ行きの航空券を手にしながら、国際線の出発カウンターの方角へと足を向ける。

「ねえ、万丈? ちょっと聞いていい?」

 やがて搭乗手続きを開始したフォルモサエアラインの旅客機に優先搭乗し、機内持ち込みの手荷物を座席の下のカーゴに収納し終えた僕に淑華がそう言って問い掛けたので、僕は「ん? 何?」と言って問い返した。ちなみに今回、フォルモサへと帰還する僕らのために用意された座席もまたこれまで同様、グエン・チ・ホアがどこからともなく手配したファーストクラスの座席である。

「さっき、キャンベルさんが別れ際にあんたとこっそり内緒話をしてたみたいだけど、何か気になるような事でも言ってたの?」

 そう言った淑華の問い掛けに対して、僕は正直に返答するにやぶさかではない。

「ああ、うん。何だか良く分かんないけど、好意を抱いてくれている女の子は出来るだけ大事にしてやれよ、だってさ。そりゃまあキャンベルさんの方が歳上なのかもしれないけれど、ホアさんの事を「女の子」だなんて、大人の女性に対して失礼だよね」

 僕がそう言い終えた次の瞬間、淑華が思いっ切り僕の無防備な脇腹をぶん殴った。

「痛っ! おい淑華、いきなり何すんだよ!」

「うるさい、万丈の馬鹿! 年増好きの熟女マニア! あんたもちょっとくらいはデリカシーってものを身に着けなさいよね、この鈍感虫!」

 激痛に喘ぐ僕に向かってそう言った淑華は謝る素振りも見せぬまま、ファーストクラスの彼女の座席にどっかと腰を下ろしながら、またしてもぷりぷりと怒りを露にする。

「まったくもう、何が何だか分かんないよ……」

 どうやら脇腹を殴られた事を謝罪してもらえないばかりか、殴られた理由すら教えてもらえそうにない僕はそう言ってぐちぐちと愚痴を漏らしながら、淑華に続いて自分の座席に腰を下ろした。そしてそんな僕ら二人の遣り取りをさかなにするかのような格好でもって、今日もまた純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアは、くすくすと愉快そうにほくそ笑んでいる。

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