第十六幕


 第十六幕



 一月一日、つまり新年初日の夜を迎えたアメリカ合衆国の首都、ワシントンD.C.。そのワシントンD.C.のほぼ中心に位置するホワイトハウスの建屋内の、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールの最奥で、中身が未だ半分ほど残ったシャンパングラスを手にしたグエン・チ・ホアとアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は真っ向から対峙していた。

「……ほう? 問い詰める? グエンさん、あなたは一体、私の何を問い詰めると言うのですかな?」

 まずは相手の出方を窺いつつも先手を打つかのような格好でもって、タキシード姿のアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って問い質せば、純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアもまた少しも怯む事無くこれに応じる。

「ええ、そうね? でしたらまずは手始めに、今回の一件に関する国内の黒色人種ネグロイドの方々の意志や意見をどのようにして統一なさるおつもりなのか、その点に関して詳しくお聞かせいただけて? ヨーロッパ大陸へと帰還させられる白色人種コーカソイドの方々の反発は免れ得ないとしましても、少なくともあなたの同胞であるべき黒色人種ネグロイドの方々のほぼ大半に賛同していただかなければ、黒人国家の樹立だなんて一大国家事業が成立する筈も無いでしょう?」

「成程。グエンさん、あなたの仰る事は、もっともです。確かに様々な価値観や立場に依るであろう黒色人種ネグロイドの方々の意志統一が図られていなければ、黒人国家の樹立と言う私の夢もまた、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師のそれ同様道半ばでもってばらばらに空中分解してしまうに違いありません。しかしながら、私とて無為無策のまま闇雲に大統領令を発令して国政を混乱させるような暗愚ではないのですから、そのための策は既に講じ終えております」

「あら、そうですの? でしたらアンブローズさん、あなたがそれらを統一するために一体どのような策を講じられたのか、是非ともお聞かせ願えないものかしら?」

 既に策は講じ終えていると言うアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の返答を耳にしたグエン・チ・ホアはそう言って、小首を傾げながら、重ねて問い掛けた。すると新大統領は壁沿いに立つホワイトハウスの事務局職員達の方角を振り返り、顎をしゃくって合図を送れば、その事務局職員達が何やら白い布が掛けられた大きな箱の様な物をホール内へと運び入れる。

「国民の、特に黒色人種ネグロイドの方々の意志を統一し、国家国体の目指すべき方向性を内外に向けてアピールするためには、果たして何が必要なのでしょうか? 私はそれは象徴シンボル、もしくは偶像アイドルであると考えています。そうです、これより樹立せんとする黒人国家の文化と歴史と宗教を象徴シンボライズし、誰もが畏敬の念を抱かざるを得ないような偶像アイドルこそが、今のこの国には必要不可欠なのです!」

 エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホール内へと運び入れられた、白い布が掛けられた大きな箱の様な物を前にしながら、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は如何にも自信ありげな表情と口調でもってそう言った。

「あらあら、そんなに堂々と公言なさるだなんて、アンブローズさんったらご自分が講じられた策とやらに随分と自信がおありなのね? それで、その必要不可欠な象徴シンボルなり偶像アイドルなりは、その布の向こうに隠れてらっしゃると判断してもよろしくて?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は益々自信ありげにほくそ笑みながら、これまた如何にも勿体ぶった表情と口調でもって宣言する。

「それでは全米各地からホワイトハウスにお集まりの紳士淑女の皆さん、さっそくご覧に入れましょう! これこそ遠くエチオピアの地で私と私の仲間達が手に入れました、新たなるアメリカ合衆国、黒人国家としてのアメリカ合衆国の象徴シンボルとなるべき偉大なご先祖様のお姿です!」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って宣言し終えるのと同時に、大きな箱の様な物に掛けられていた白い布が取り払われ、その下に隠されていた人間の背丈くらいの大きさのガラスのショーケースが白日の下に晒された。そしてそのショーケースの中へと眼を向ければ、そこには子供くらいの背丈の二つの人骨の標本らしき存在が、肩を並べた状態で鎮座しているのが見て取れる。

「ご紹介しましょう! 皆さんから見て右側がルーシー、そして左側がアルディと名付けられた、アファール猿人の化石人骨です! ルーシーは今から318万年前に、アルディはなんと440万年前にアフリカ大陸のアファール盆地を闊歩していた、現在発見されている化石人骨としては人類最古の猿人の一人なのです!」

 得意満面の笑みを浮かべたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が声を張り上げながらそう言って、二つの化石人骨の素性をざっくりと紹介したならば、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達もまた「おおっ!」と言ってどよめきの声を上げた。どうやらその道の専門家ではないであろう彼ら彼女らにも、ルーシーとアルディの化石人骨が人類学の発展に於いてどれだけ貴重な標本なのかと言う事が、それなりに理解出来ているらしい。

「あらあら? エチオピア国立博物館の地下倉庫から忽然と姿を消された筈のルーシーとアルディのお二人は、こんな所にいらっしゃったのね?」

 ホールを埋め尽くす来賓達がどよめきの声を上げる中、グエン・チ・ホアはさほど驚いてはいないような表情と口調でもってそう言うが、そんな彼女を他所にアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は声を張り上げ続ける。

「聡明かつ博識な皆さんであれば既にご存知の通り、現生人類は今からおよそ700万年から500万年前、アフリカ大陸の東部でもって誕生しました! つまりアフリカ大陸こそ全ての人類の故郷であり、そのアフリカ大陸に今尚住み続ける黒色人種ネグロイドこそが、偉大な父祖たる最初の人類の直系の子孫なのです! ですから白色人種コーカソイド黄色人種モンゴロイドなどと言ったそれ以外の人種は、直系の子孫である我々からしてみれば、所詮は人類史の過程で生まれた分家に過ぎません!」

 ルーシーとアルディの化石人骨を前にしながらそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、更に過激な論調でもって、自らの主義主張を唱える事も躊躇ためらわない。

「そして皆さん、想像してみてください! 旧約聖書の創世記の第一章二十六節と二十七節に眼を向ければ、そこには神は神にかたどり、神に似せて人間を創造したと書かれています! もしこの記述が事実であるとするならば、神が自らに似せて創造したとされる最古の人類はアフリカ大陸で生まれ落ち、その直系の子孫である黒色人種ネグロイドこそが神に最も近い人種と言う事になるのではないでしょうか? だとすれば、きっと我々が信仰する偉大なる神もまた、現代の黒色人種ネグロイドに似た褐色の肌の持ち主であるに違いありません!」

 声高らかにそう言ってち上げられたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言説は、最古の人類がアフリカ大陸でもって誕生したと言う考古学事実を土台にしながらも、とうとう宗教の領域にまで踏み込む危ういものであった。

「ふざけた事を言うな! 神が黒人だなんて、それは神に対する冒涜だ! 聞き捨てならんぞ!」

 するとこれまでの二人とはまた別の白人男性の来賓が立ち上がり、怒気を孕んだ表情と口調でもってそう言ってアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言説に疑義を呈するものの、彼は一向に動じない。

「ほう、冒涜ですと? 果たしてあなた方の様な白人が、それを言えた立場ですかな?」

「何だと? それはどう言う意味だ?」

 そう言って問い返した来賓の白人男性に、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は饒舌に語り聞かせる。

「考えてもみてください! 神の子であるとされるイエス・キリストは、およそ紀元前四年頃に現在のパレスチナ地方のベツレヘムの地で誕生したユダヤ人であった事は、皆さんもご存知の事でしょう!! 当時のユダヤ人は未だヨーロッパの白人との混血が進んでおらず、むしろアラブ人に近い、現在のパレスチナ人によく似た風貌であったと考えられています! そう、きっと実在したイエス・キリストは肌の色が浅黒く、団子鼻で、黒く豊かな髪や髭は縮れていたに違いありません! であるにも拘らず、現代のキリスト教、特にカトリック系の宗派の教会に飾られている絵画や彫刻から窺えるイエス・キリストの姿をご覧なさい! 肌の色は雪の様に白くて痩せており、細い鼻筋は通っていて髪や髭はほぼ直毛、つまり典型的な北欧系の白色人種コーカソイドの姿でもって描かれているではありませんか! このイエス・キリストを北欧化しようとする試みこそ傲慢で、私が提唱する神の肌の色が褐色であると言う説よりも、むしろ神への冒涜以外の何物でもありません!」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は来賓達を睨め回しながらそう言って、一人のユダヤ人の青年としてのイエス・キリストの素性と、その有り得べき風貌について言及した。

「だからこそ2004年に公開された映画『The Passion of the Christ』に於いても、ユダヤ人やパレスチナ人ではなく北欧系のアメリカ人俳優がイエス・キリストを演じるような、欺瞞に満ちた行為がまかり通ってしまうのです! しかもこの映画を鑑賞したヴァチカンのローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、最終的には発言を取り下げたとは言え、よりにもよって「It is as it was」と言ってこの映画がさも真実を伝えているかのようなコメントを残したではありませんか! これら一連の行為を神への冒涜と言わずして、一体何を冒涜と言うのでしょう!」

「……」

 今度は映画の配役にすら難癖を付け始めたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の口振りに、彼に疑義を呈した筈の来賓の白人男性はそう言ってもごもごと口篭もり、二の句が継げない。するとすっかり調子に乗ってしまった様子の新大統領から言質を取るかのような格好でもって、グエン・チ・ホアは問い掛ける。

「でしたらアンブローズさん? そちらに並べられたルーシーとアルディの化石人骨こそが、あなたが仰るところの象徴シンボル偶像アイドルであると言う事でよろしくて?」

「ええ、そうです、その通りです。最古の人類はアフリカ大陸でもって誕生し、その直系の子孫こそ現代の黒色人種ネグロイドである事を科学的に証明するこの化石人骨こそが、私が国内の黒色人種ネグロイドの方々の意志統一を図るための偶像アイドルなのです。きっとこの偶像アイドルをご覧になった全ての黒色人種ネグロイドの方々は、偉大な祖先であるルーシーとアルディを起源ルーツとする自分達こそ神に最も近しい存在であり、世界一の超大国であるアメリカ合衆国を支配するに相応ふさわしい存在であると気付いてくれるに違いありません」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はさも自信ありげにそう言って、胸を張りながらふんと鼻を鳴らすが、そんな新大統領をグエン・チ・ホアは戒める。

「けれどもね、アンブローズさん? あなたはその二つの化石人骨を、一体どこで手に入れられたのかしら? 確かそれらの化石人骨は、エチオピア国立博物館の地下倉庫でもって、主任学芸員のハブタムさん達の手によって厳重に保管されていた筈でしてよ? だとしたらあたしの大事なお店から『ちびくろサンボ』の原書を盗み出そうとなさっただけでなく、あなた方ったら、エチオピア国立博物館からもそれらを盗み出してしまわれたのかしら? まったく、もう、本当に困った方々ね?」

 グエン・チ・ホアがそう言って溜息交じりに戒めたならば、さすがのアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領も、若干ながら恐縮せざるを得ない。

「盗み出したとは、いささかながら人聞きの悪い言われ様ですな。まあ、その、確かに無断で持ち出した事は紛れも無い事実ですが、事後承諾でもって拝借したとでも言い換えていただきたい」

「事後承諾でもって拝借ねえ……でしたらそちらのサイモン仁さんがエチオピアの皇帝陛下に謁見されたのも、やはりあなたが言うところの象徴シンボル偶像アイドルと、何か関係がおありなのかしら?」

「ええ、ええ、勿論です。私の従弟であるサイモン仁が謁見した際に、ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下には生まれ変わったアメリカ合衆国、つまり世界最大の黒人国家としてのアメリカ合衆国の初代皇帝の座に就いてほしいとお願い申し上げました。何故なら陛下は人類史上最古の独立国家の一つであるエチオピアの、正当なる皇帝の血統を受け継ぐ方なのですから、これは日本の天皇やヴァチカンのローマ教皇と並ぶ生きた象徴シンボルそのものと言っても過言ではありません。しかもエチオピアはアフリカ大陸東部に位置する、こちらに並ぶルーシーとアルディの化石人骨が発掘された人類発祥の地なのですから、尚更です」

 どうやら調子に乗ると口数が多くなる性分らしいアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って、本田サイモン仁が何故エチオピア帝国ソロモン朝の皇帝陛下に謁見したのかと言ったグエン・チ・ホアの疑問に、率直に返答してみせた。

「あら、そうですの? しかしながら陛下は、あなたが仰るところの生まれ変わった黒人国家としてのアメリカ合衆国の初代皇帝の座に就く事を要望されながら、それを固辞されたのね? 違って?」

 そしてグエン・チ・ホアがそう言って問い質せば、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は深い溜息を吐きながら、かぶりを振る。

「ええ、そうです。残念ながらゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下は、アメリカ合衆国の初代皇帝の座に就く事に難色を示されました。陛下であれば、きっと国民の意思統一に貢献してくれる良き象徴シンボルになっていただけると確信していただけに、残念でなりません」

「ええ、そうね? どうして陛下は、こんな降って湧いたような美味しい話を固辞されたのかしら? いきなり何の前触れも無いままアメリカ合衆国の皇帝の座に就くのは、一介の亡命皇帝の子には荷が重かったりしたのかしら? もしくは縁も所縁ゆかりも無いアメリカ人に政治的に利用されるのは、由緒正しいエチオピア帝国ソロモン朝の皇帝としてのプライドが許さなかったと言う理由も、考えられなくもない話ではなくて?」

 そう言って重ねて問い質すグエン・チ・ホアの言葉に、問い質されたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領もまたかぶりを振り続けながら、重ねて溜息を吐かざるを得ない。

「そうですね、確かにあなたの仰る通り、そう言った理由でもって陛下は初代皇帝の座に就く事を固辞されたと言う事も考えられなくもないでしょう。しかしながら、いずれにせよ、このルーシーとアルディの化石人骨が我々の手の届く所に在ると言うのは揺るぎない事実です。ですからこれら二つの化石人骨を、奉られるべき偶像アイドルとする事によって、国内の黒色人種ネグロイドの方々の意志統一を図ろうとする私の計画もまた動じる事がありません。……さて、如何ですか、グエンさん? ご理解いただけましたか?」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って問い返したならば、グエン・チ・ホアは相変わらずくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、首を縦に振って頷いた。

「ええ、そうね? あなたの見解の全てに納得してはおりませんけれども、理解はしましてよ?」

 するとそう言ったグエン・チ・ホアは気を取り直し、手にしたシャンパングラスの中身をくっと一口だけ飲み下すと、今度はまた新たな命題でもってアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領を問い詰めようと試みる。

「でしたらアンブローズさん、もう一つだけお聞きしてもよろしいかしら? 先程あなたはネイティブ・アメリカンの方々がこれまでに被って来られた差別や迫害の歴史と現状について熱く語っておられましたけれども、あなたが樹立する予定の黒人国家では、彼ら彼女らの処遇はどうなさるおつもりでして? 移民である白色人種コーカソイドの方々はヨーロッパ大陸に、アジア系の黄色人種モンゴロイドの方々はアジア大陸に帰還していただくとしましても、元々北米大陸で暮らしていたネイティブ・アメリカンの方々はそう言う訳にも行かなくてよ?」

 都合四杯目のシャンパングラスを手にしたグエン・チ・ホアがそう言って問い質したならば、問い質されたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、これに返答するにやぶさかではない。

「確かにあなたの仰る通り、私が樹立すべき黒人国家に於けるネイティブ・アメリカンの方々の処遇は、極めてデリケートで難しい問題です。しかしながら、私とて、決して血も涙も無いような鬼でも悪魔でもありません。彼らには黒色人種ネグロイドに次ぐ、もしくはほぼ同等の自由と権利を保証するつもりでいます。何故ならネイティブ・アメリカンの方々もまた白人による差別と迫害の歴史の犠牲者であり、言わば我々とは苦楽を共にした仲なのですから、これは至極当然の帰結と言えるでしょう」

「あら、そうですの? けれどもそうなってしまいますと、果たして黒色人種ネグロイドの方々とネイティブ・アメリカンの方々の、どちらが真のアメリカ人と言う事になってしまわれるのかしら?」

「どちらか一方だけでなく、黒色人種ネグロイドの方々もネイティブ・アメリカンの方々も、どちらも真のアメリカ人です。黒人奴隷の子孫である我々も、有史以前からこの地に住み着いていた彼らも、どちらも北米大陸の正当なる支配者たるべき権利の持ち主なのではないでしょうか。それでももし仮に両者を敢えて別々の言葉でもって表現するならば、黒色人種ネグロイドの方々が革新的なアメリカ人であり、ネイティブ・アメリカンの方々を伝統的なアメリカ人と言い換える事も出来るでしょう」

 タキシード姿のアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は自信ありげにそう言って、グエン・チ・ホアの問い掛けに対して返答してみせた。

「革新的なアメリカ人と、伝統的なアメリカ人ねえ……ねえ、アンブローズさん? あなたったら見掛けと態度は随分とご立派なのに、そのような姑息な言い換えばかりしていては、やけに詭弁じみた物言いをされるお方なんだなと言った印象を聴衆に与えかねなくてよ?」

 しかしながらグエン・チ・ホアがそう言って疑義を呈すれば、つい今しがたまで自信ありげだった筈のアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はにわかに表情を曇らせながら、眉根を寄せる。

「姑息? 詭弁? グエンさん、あなたは私の物言いのどの辺りが、そのような印象を与えかねないと仰るのですかな?」

「だって、そうでしょう? ネイティブ・アメリカンの方々を伝統的なアメリカ人と呼称なさるのは未だ理解出来るとしましても、果たして合衆国内の黒色人種ネグロイドの方々のどの辺りを以てして、彼ら彼女らを革新的だと言い表せて? そもそも特定の人種のみに依る国家を樹立しようなどと言うあなたの思想は、多様性が声高に叫ばれる現代の価値観と真っ向から矛盾し、革新的どころかむしろ時代を逆行してしまっているのではないかしら? ですからその時代を逆行する思想を革新的と言い換えるのは、これこそまさに、詭弁そのものでしてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉によって詭弁を弄する事をたしなめられ、また同時に彼自らの思想を時代に逆行しているとまで言われてしまったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は静かに憤り、その心中は穏やかではない。

「これはこれは、また随分と手厳しいご指摘ですな、グエンさん。とは言え、成程、あなたの仰る事も、至極ごもっともなご指摘なのかもしれません。確かに私の思想は現代の価値観とは矛盾し、多様性を尊重すべきだと主張される方々からしてみれば、時代に逆行してしまっていると言えなくもないでしょう。しかしながら、私は多様性の尊重と言う考え方自体、ある種の麻疹はしかの様な流行り病の一種だと考えています。もしくは熱力学で言うところのエントロピー増大の法則、つまり時間の経過と共にあらゆる事物が混ざりあって平均化されてしまう、そんな無秩序な状態を称賛する危険な考え方なのではないでしょうか。ですから私はこのエントロピーが増大し続ける状況から脱却し、再び秩序ある状態を蘇らせるための外部からのエネルギーとして、黒人国家の樹立を宣言させていただいたと言う訳なのです」

「あらあら、今度は熱力学の第二法則にまでたとえられるだなんて、アンブローズさんったら随分と博識なのね? とは言えつい今しがたのあなたのご発言同様、多様性の尊重だとか政治的妥当性ポリティカル・コレクトネスだとかが滅多矢鱈と持て囃される昨今の風潮には若干うんざりしていたと言うのも、このあたしの偽らざる本音なのではないかしら?」

「おやおや? 先程は多様性の尊重に反する私の思想と価値観の矛盾を糾弾していた筈なのに、それに同調されるとは、今度はあなたの発言が矛盾してしまってはいるのではありませんかな?」

「ええ、そうね? 確かにあなたの仰る通り、糾弾していた筈のあなたのご発言にうっかり同調してしまったあたしの発言もまた、矛盾していると言えない事もなくってよ? けれどもね、アンブローズさん? あたしの主張の一番の核心部分は、あなたの思想や価値観が決して革新的なものではないと言う点である事を、どうか忘れないでいてちょうだいな?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、矛盾を追及せんとするアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領による指摘を、さらりと回避してみせた。

「どちらにせよ黒人奴隷の子孫である合衆国内の黒色人種ネグロイドの方々が革新的でないとするならば、彼ら彼女らが北米大陸の正当なる支配者たるべき権利の持ち主と言い張られるには、いささか根拠に乏しいのではなくて? ましてやそれを『アメリカン・アメリカン』と呼称し、おこがましくも本当の意味での真のアメリカ人を名乗られるおつもりだなんて、自意識過剰も良いところでしてよ?」

 そしてグエン・チ・ホアがくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言って追い打ちを掛ければ、さすがのアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領も平静を装い続ける事が困難になったのか、その言葉の端々に怒りと困惑の色が滲み出ざるを得ない。

「根拠に乏しい? 自意識過剰も良いところ? それはまた、随分と辛辣で手厳しいご意見ですな、グエンさん。しかしながら、先般リベリアを例に挙げて申し上げさせていただきました通り、アメリカ合衆国で生まれ育った黒人は既にアフリカ人ではないのです。ですから祖先の出身地がアフリカ大陸であったとしても、我々にはアフリカ大陸へと帰還する義務もありませんし、また同時に『アフリカン・アメリカン』などと呼称されるいわれも無いのです。ベトナムからフォルモサへと移住したあなたの様に故郷を捨て、自らの意志でもって北米大陸へとやって来た白人やアジア人の移民と、強制的に拉致されて来た黒人奴隷の子孫を一緒にしてもらっては困りますな」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は冷笑的な表情と口調でもってそう言って、彼なりの皮肉を交えながら意趣返しを試みはしたものの、試みられた側のグエン・チ・ホアは全く以て涼しい顔のままである。どうやら合衆国大統領と一介の古物商との異種格闘技戦でありながら、その舌戦の力量ばかりは、華奢な女性である彼女の方に軍配が上がるらしい。

「そうね、でしたらアンブローズさん? 不肖の身ながらもこのあたしからあなたに向けて、是非ともお聞き入れ願いたいご提案があるのですけれども、よろしくて? この際ですからあなたが推し進めようとなさっておられる政策でもって実益を得る、もしくは実害を被ってしまう可能性のある当事者の方々の内のお一人から、率直なご意見を伺ってみると言うのは如何かしら? それが当事者の貴重なご意見ともなれば、たとえあなたが史上初の直接選挙でもって選ばれたアメリカ合衆国の大統領だとしましても、みすみす無視する事も出来ないでしょう?」

「……ええ、一向に構いませんよ、グエンさん。私も一人の男として、合衆国大統領として、あなたの提案にも国民の意見にも背を向ける訳には参りませんからね」

 眉根を寄せながらそう言って、図らずもアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、舌戦の手練れであるグエン・チ・ホアの挑発にまんまと乗せられる格好になってしまっていた。そして新大統領の承諾を得たグエン・チ・ホアはその場でくるりと踵を返し、こちらを振り向くと、僕の背後に立つ黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに向けて手招きする。

「ねえ、キャンベルさん? あなたのご都合さえよろしければ、ちょっとこちらに来ていただいてもよろしくて?」

 グエン・チ・ホアが手招きと共にそう言って黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの名を呼べば、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くし、彼女と新大統領との舌戦の行方を固唾を呑んで見守っていた来賓達の視線が一斉に彼の相好へと注がれた。そして『新ブラックパンサー党』の制服である黒い革のジャンパーに身を包んで黒いベレー帽を被った、全身黒尽くめの格好のマーカス・キャンベルもまた自分の顔を指差しながら「え? 俺?」と言って、どうにも驚きを隠せない様子である。

「まあ、俺は別に構わないが……」

 すると如何にも気が進まないとでも言いたげな表情と口調でもってそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、来賓達の好奇の視線を一身に浴びながらテーブルとテーブルの間を縫って前進し、やがて中央センターホールの最奥の一歩手前に立つグエン・チ・ホアの傍らまでやって来た。そしてグエン・チ・ホアはアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領と真っ向から対峙したまま、彼女の隣に立つ黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの肩をぽんと軽く叩いてから、若干緊張気味の彼に改めて問い掛ける。

「ねえ、キャンベルさん? あなただって馬鹿でも白痴でもつんぼでもないのですから、事ここに至るまでのアンブローズさんの主張はお聞きになられたし、ご理解もされた筈でしょう? でしたら一人の合衆国の国民として、また同時に一人の黒人奴隷の子孫として、彼が推し進めようとなさっておられる黒人国家の樹立とやらに対して何某なにがしかのご意見がおありなのではないかしら? もし仮にそうであるとしたならば、あなたの率直な胸の内を、是非ともあたし達に拝聴させていただけて?」

「は? 意見? 意見だって? おいおいおい、正気なのか、あんたら? あんたらこの俺なんかの意見を、本気で聞いてみたいって言ってんのか?」

 第三者からの率直な意見を求められた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って問い返し、唐突に表舞台に立たされた事による困惑の色が隠し切れず、言葉を詰まらせながら狼狽うろたえざるを得ない。

「まあ、そうだな、俺の意見は……」

 そしてごほんごほんと一旦咳払いをする事によって呼吸と喉の調子を整えると、暫し熟考した後に、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言ってゆっくりと口を開く。

「……最初、大統領がアメリカ合衆国で生まれ育った俺達の様な黒人こそ本当の意味での真のアメリカ人だと言ってくれた時、俺は正直言ってとても嬉しかった。いや、嬉しかったどころか、心の底から感動していたと言っても過言ではないだろう。その上更に、黒人の黒人による黒人のための黒人国家を樹立すると聞き及んだ際には、感極まってついつい眼から涙が零れ落ちてしまった事をこの場でもって白状させてくれ」

 ゆっくりと言葉を選びながら、しかしながらはっきりとした言葉遣いでもって、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って新大統領の黒人国家樹立宣言に同調した。するとそんな彼の言葉を耳にしたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はふんと小さく鼻を鳴らし、早くも勝ち誇ったかのようにほくそ笑みはしたものの、その雲行きはやにわに怪しくなる。

「だがしかし、そんな政策実現のために今この国に居る白人やアジア系の移民達などを別の大陸に追い返すつもりだと言うのなら、話は別だ。なあ、大統領? 富裕層出身のインテリであるあんたはどうか知らないが、俺達みたいに社会に虐げられ続けて来た本当に貧しい黒人は、少なくともこの俺は、そんな馬鹿げた政策なんか望んじゃいない」

 全身黒尽くめの格好の黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言って前言を撤回したならば、つい今しがたまでほくそ笑んでいた筈のアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は再び表情を曇らせながら、またしても眉根を寄せざるを得ない。

「ご覧の通り、俺はあんたらみたいな金持ちとは対極的な立場に在る、民族主義に則った暴力革命もいとわない事でもって知られる『新ブラックパンサー党』の党員だ。しかしながら、社会の最底辺とも言える黒人ゲットーで生まれ育ったこの俺だって、世の中には貧しい黒人に好意的な白人やアジア人だって少なからず存在するって事を知らない訳じゃない。だからこそそんな善良な人々を排除し、移民だからと言ってヨーロッパやアジアに送り返してしまう事が、果たして正義に基く行為であると言えるのか? もし仮に正義に基く行為でないとしたならば、それは『アメリカン・アメリカン』と呼称されるような、本当の意味での真のアメリカ人が行うべき行為ではないに違いない。俺は、少なくとも俺は、そう思う」

 神妙な面持ちでもってそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの言葉に、つい今しがたまで喧騒に包まれていた筈のエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールは、まるで水を打ったかのようにしんと静まり返った。

「だとしたらキャンベルくん、キミは一体、この国の政治に何を望むと言うのだね?」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が眉根を寄せたままそう言って問い返せば、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、再びゆっくりと言葉を選びながら返答する。

「俺達が望むのは、そのものずばり、自由だ。それも、俺達貧しい黒人の自由だ。何の落ち度が無いにも拘らず奴隷としてアフリカ大陸から拉致され、奴隷解放宣言のその後も故郷を遠く離れた北米大陸で永きに渡って迫害されて来た俺達貧困層の黒人に、白人と同等かそれ以上の権利と自由を保障してもらいたい。そうだ、たったそれだけの事なんだ。そして差別や迫害の世代間連鎖は、たとえそれが異なる人種に対しての正当なる権利であったとしても、決して繰り返すべき事じゃない。そうだろう、大統領? ん?」

黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言って、まるで幼い子供を諭すかのような穏やかな表情と口調でもって問い返せば、逆にアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の心中は穏やかではない。

「何を言うか! 私が宣言した黒人国家の樹立も、それを成し遂げるために必要不可欠な他人種の帰還事業も、決して差別や迫害などではない! この国を本来あるべき姿に、移民ではなく、ここ以外に帰るべき場所を失ってしまった人々の手にこの国を取り戻すための正当な手段なのだ!」

 一介の国民、それも『新ブラックパンサー党』の党員に諭される格好になってしまったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って声を荒らげ、褐色の皮膚に覆われた顔面を真っ赤に紅潮させながら激しく憤慨している様子であった。

「そう怒るなよ、大統領。せっかく着飾った服とハンサムな顔が、台無しだぜ?」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って新大統領をなだめたつもりだったが、なだめられたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はこれを皮肉交じりの挑発と受け取ったのか、逆に激昂してしまう。

「おい、貴様! この私を愚弄するつもりか!」

 すると遂に堪忍袋の緒が切れてしまったのか、そう言って怒声を上げたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの元へと歩み寄ると、彼が着ているジャンパーの胸ぐらを強引に掴み上げた。

「おいおい、落ち着けよ? な? この程度の事で一々怒ってたら、最低でも四年間の大統領の任期は務まらないぜ?」

 胸ぐらを掴み上げられた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは取り乱す事無くそう言って、再び新大統領をなだめようとしたものの、彼の平然とした態度と物言いにアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は益々激昂せざるを得ない。そして事の推移を遠巻きに見守っていた黒スーツとサングラス姿の要人警護官シークレットサービスの大柄な男達が、新大統領と黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルとを引き離すべく彼らの元へと駆け寄ったところで、遂にアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は一線を越えた言葉を口にしてしまう。

「この無学無教養で無知蒙昧な、恥知らずの負け犬どもめ! 私は只ひたすら、自らの内側から湧き上がる理念と信念のみに従って行動していると言うのに、何故それが理解出来ない! いつもいつも、お前らの様な物分かりの悪い連中が足を引っ張るせいで、私も含めた黒人全体が貧しく愚かな人種だと思われてしまうんだ! お前らが我々と同じ人種かと思うと、反吐へどが出る! いや、偶々たまたまどちらも肌の色が黒いと言うだけで、決して同じ人種ではあり得ない! そうだ、そうに決まってる!」

 激昂したアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言い終えた次の瞬間、彼に胸ぐらを掴み上げられた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの表情が瞬く間に険しくなったかと思えば、殆どノーモーションのまま新大統領の横っ面をぶん殴った。

「いっつ!」

 無防備な横っ面をしたたかに殴打されたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って苦悶の声を上げ、一瞬ふっと意識が遠退くのと同時に、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの胸ぐらを掴み上げていた手からも力が抜ける。

「確保! 確保だ! 暴漢を確保しろ!」

 するとそう言った要人警護官シークレットサービスの大柄な男達が、新大統領の顔面を殴打した暴漢、つまり黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに一斉に飛び掛かった。そしてあっと言う間に、およそ五人掛かりでもって、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールの床に彼を組み伏せる。

「大統領、ご無事ですか?」

「ああ、私なら大丈夫だ。問題無い。そんな事よりも、こんな暴漢がホワイトハウスの内部にどうやって侵入したのか、その詳細を早急に調べたまえ。場合によっては、警備を担当する部署の責任者の首が飛ぶぞ」

 彼の身を案ずる要人警護官シークレットサービスの男の問い掛けに、ひどく憤慨しつつもそう言って返答したアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の鼻腔から漏れ出た鼻血が、一滴の真っ赤な雫となりながら滴り落ちた。

「あらあら、一体どうしたものかしら? 何だかほんのちょっとばかり、大変な事になってしまいましてよ?」

 突然の暴力行為に騒然とする数多の来賓達の只中に在っても、グエン・チ・ホアはまるで他人事の様に涼しい顔でもってそう言うが、この状況は決して看過出来るようなものではない。そこで僕は殴打されたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領と、床に組み伏せられたまま身動きが取れない黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルを一瞥しながら、彼女の元へと歩み寄って助けを求める。

「ちょっとホアさん、どうするんですか、この状況! 何とかしてくださいよ! このまま何もしなかったらキャンベルさんが警察に連行されちゃいますし、僕らだって無事で済むかどうか分かりませんよ!」

 僕がそう言って助けを求めれば、助けを求められたグエン・チ・ホアはやはり他人事の様に「そうねえ、ここまで来ておいて、今更お巡りさんのご厄介になる訳にも参りませんものね?」と言いながら、ぐるりと周囲を見渡した。そして不意に高々と片手を挙げた彼女は、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達やその他の人々に向かって、可能な限り大きな声でもって呼び掛ける。

「今宵の晩餐会を楽しんでおられる紳士淑女の皆様方、ちょっとだけ、お時間をいただいてもよろしくて? ほんの一瞬ご覧になるだけで結構ですから、こちらにお顔をお向けになられて、あたしのこの眼帯の下の左眼に注目してはいただけないものかしら?」

 高々と片手を挙げながらそう言ったグエン・チ・ホアは、ホール内のほぼ全ての人々の視線が彼女に一点集中したのを確認すると、もう片方の手でもって彼女の左眼を覆う眼帯をまくり上げた。勿論僕や淑華や黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは咄嗟に顔を背けながら、これから起こるべき事態に備えて念には念を入れ、ぎゅっと眼も瞑る。

「!」

 すると僕ら以外の人々はグエン・チ・ホアの左の眼窩を覗き込むと同時にばたばたと気を失い、中には眼の前のテーブルの天板の上に並べられた料理の皿に、まるでパイ投げを喰らったB級コメディアンの様に顔面から突っ込んでしまう者さえ見受けられた。そして彼女がぐるりと一周、身体を一回転させながら周囲を見渡せば、つい今しがたまで騒然としていた筈のエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールはにわかに静寂に包まれる。何故なら僕と淑華と黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベル、それに鼻血を拭くために下を向いていたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領を除く全ての人々が、グエン・チ・ホアの不思議な催眠術によって昏倒してしまっていたからに他ならない。

「万丈くんに淑華ちゃん、それに、キャンベルさん? お邪魔だった方々には暫くの間お休みなさっていただく事にいたしましたから、あなた方は、もう眼を開けられてもよろしくてよ?」

 医療用の眼帯を当て直しながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に、僕と淑華はゆっくりと眼を開け、彼を組み伏せていた要人警護官シークレットサービスの男達が気を失ったがために自由の身となった黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルもまた眼を開けた。

「何だ……これは? 何なんだ……これは?」

 そして来賓だろうが要人警護官シークレットサービスだろうが給仕だろうが、老若男女の別無くホール内に居たほぼ全ての人々が一瞬にしてその場に昏倒してしまった事実に、鼻血を拭き終えて顔を上げたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って言葉を失わざるを得ない。

「あらあら? アンブローズさんも驚かれて? 実を申し上げますとあたしったら、人の心を惑わす事を得意とする、ちょっとした催眠術みたいなすべもまた心得ているのではないかしら?」

 くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言った純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアを、如何にも怪訝そうな眼差しでもってじろじろと睨め回しつつ、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は鼻血を拭き取ったハンカチをぎゅっと握り締めたまま改めて問い掛ける。

「グエンさん……あなたは一体……何者なんだ?」

「あら? あたし? あたしは以前も申し上げました通りベトナム出身の、今はフォルモサの骨董街でアンティーク雑貨を取り扱うお店を経営させていただいております、一介の古物商に過ぎないグエン・チ・ホアと名乗る者でしてよ? そうね、あたしの古いお友達の常套句を拝借させていただくとするならば、それ以上でもそれ以下でもない、と言ったところかしら?」

 やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言って、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の問い掛けに対して率直に返答し、グエン・チ・ホアもまた彼女の素性を改めて解説し直した。

「助かったよ、グエンさん。あんたがこいつらを眠らせてくれなかったら、危うくワシントンD.C.の警察署に連行されるところだった。……いや、まあ、そもそもあんたが俺を矢面に立たせたりしなければ、取り押さえられる事も無かったのかもしれないがな」

 組み伏せられた状態から解放された黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベル皮肉交じりにそう言って、今は気を失ったまま床に転がっている要人警護官シークレットサービスの大柄な男達を一瞥しながら立ち上がると、彼が殴打したアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領と再び対峙する。

「大統領、さっきは悪かったな、いきなり顔面をぶん殴ったりなんかしちまってさ。しかし俺にはどうしても、あんたを殴らなきゃならない理由があったんだ」

「私を殴らなきゃならない理由?」

「ああ、そうだ。貧しい黒人は安易に暴力を振るってはならないと言うのが俺のモットーだが、大統領、あんたはさっき俺達とあんたらが、どちらも肌の色が黒いと言うだけで決して同じ人種ではあり得ないと言った。それは同胞である筈の黒人同士を分断する言葉であって、たとえあんたが何者であったとしても、決して赦される発言じゃない。だから俺は、自分自身のモットーに反すると充分に理解した上でもって、あんたをぶん殴ったと言う訳だ。この行為とその結果に、後悔は無い」

 昏倒する人々で埋め尽くされたエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールの最奥で、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領と対峙した黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、胸を張りながらはっきりとそう言い放った。

「そうか、成程。つまりキャンベルくん、それがキミが言うところの、私を殴らなきゃならない理由と言う訳か。貧しい黒人は安易に暴力を振るってはならない……確かにその通りなのかもしれない。とは言え誠に残念な事ながら、家畜化されておらず、皮膚のメラニン色素が多い野生動物の集団は攻撃的になる事が一部の研究者の手によって報告されている。この報告を人間に当て嵌めて考えてみたとしたならば、皮膚のメラニン色素が多い黒人が本能的に攻撃的なのは、自明の事実だ」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言うが、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはこれに同意しない。

「もし仮にその報告が事実であったとしても、黒人が本能的に攻撃的なのが自明の事実であったとしても、それを理性でもって克服するのが文明的な人間社会のあるべき姿じゃないのかい? ん?」

 小首を傾げながらそう言って反論した黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの言葉に、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は「……」と無言のまま口篭もるばかりで、言い返す事が出来なかった。

「……だとしたら、私の考え方そのものが、最初から根本的に間違っていたとでも言うのか? この大陸に新たな黒人国家を樹立すべきだと決意したのも、そのためには既得権益を貪り尽くそうとする愚かな白人どもをヨーロッパ大陸へと送り返すべきだと決意したのも、全て間違っていたとでも言うのか? え? どうなんだ?」

 持論を完全に否定され、すっかり狼狽した様子でもってそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領に、グエン・チ・ホアは助言する。

「そんなに取り乱したりなさらずとも結構でしてよ、アンブローズさん? 勿論あなたの考え方は必ずしも間違っていないとは言い切れないものですけれども、この世に存在する殆ど全ての人々の思想や信条は大なり小なり間違っているものなのですから、此度こたびの失敗をバネにして少しずつより良い方向へと軌道修正なさればよろしいのではなくて? あなたの人生は、まだまだこれからが本番でしょう? それに最初から完璧を求め過ぎたあまりに頭の中身が凝り固まってしまわれて、己の間違いを認められなくなってしまわれたとしたならば、これこそまさに精神に異常をきたされている証拠ですものね? ですから自らの全能感や無謬性に固執したりなさらずに、より柔軟かつ多様な思考でもって、合衆国大統領としてのあなたが追い求めるべきこの国の真の姿を想像し直してみては如何かしら?」

「私が追い求めるべきこの国の真の姿を想像し直してみる……か。しかしながらグエンさん、私はもう、ここに居る来賓達の面前で黒人国家の樹立を宣言してしまったんだ。それを後から訂正して箝口令を敷いたところで、人の口に戸は立てられない。遅かれ早かれ私の発言は国民の知るところとなり、私は大統領の座から引き摺り下ろされるだろう。そうなってしまっては、幾ら自分の間違いを認めたところで、後の祭りと言うものだ」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はまるで悟り切ったかのような、もしくはすっかり諦め切ってしまったかのような表情と口調でもってそう言って、深い深い溜息を吐きながらかぶりを振った。しかしながら純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアは、そんな意気消沈した様子の新大統領に、より一層愉快そうにほくそ笑みながら悪戯っぽく微笑み掛ける。

「その点でしたら心配なさらずとも結構でしてよ、アンブローズさん? あたしの催眠術でもってこちらにいらっしゃる方々にお眠りいただいた際に、ついでに晩餐会が始まって以降の記憶を消させていただきましたから、彼ら彼女らはあなたの黒人国家樹立宣言を覚えておいでにはならないのではなくて?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は眼を見張りながら驚かざるを得ない。

「そんな事が……可能なのか?」

「ええ、そうね? こう見えましてもあたしに不可能はございません……と言ってしまうと、ほんのちょっとだけ大言壮語に過ぎるのかもしれませんけれども、大抵の問題は解決してしまえるだけのポテンシャルを秘めているのがあたしの自慢の一つでしてよ?」

 自慢げに胸を張りながらそう言ってほくそ笑むグエン・チ・ホアの鼻高々な様子に、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はもとより、僕と淑華と黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの三人もまた驚き呆れ返るばかりであった。そして手前味噌な自画自賛に一通り満足し終えると、舌戦に見事勝利してみせたグエン・チ・ホアは、その場でくるりと踵を返していとまを告げる。

「でしたらそろそろこの辺りで、あたし達はおいとまさせていただいてもよろしくて? 当初の目的であったサイモン仁さんを問い詰められただけでなく、合衆国大統領であるあなたとの興味深い討論ディベートもまた楽しませていただいたのですから、あたしはもうこれで充分過ぎるほど満足しましてよ?」

 やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは、来た道を引き返すかのような格好でもって、豪奢な造りの扉の向こうの廊下の方角へと足を向けた。そして僕ら三人に「さあ、万丈くんも淑華ちゃんもキャンベルさんも、そちらの要人警護官シークレットサービスの方々が眼を覚まされるその前に、さっさとここから退散しましょうね?」と言って、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを後にする。

「それではアンブローズさん、次にお会いする機会が訪れるまで、どうかお元気でいてくださいな? いつかまた、より一層ご成長されたあなたと再会出来るその瞬間を、首を長くしながらお待ち申し上げておりましてよ?」

 最後にそう言ったグエン・チ・ホアは僕らを背後に従えながらその場から立ち去り、後には昏倒したままぴくりとも動かない人々に取り囲まれたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領と、ガラスのショーケースの中で所在無げに立ち尽くすルーシーとアルディの化石人骨だけが残された。

「ねえ、ホアさん? もうこれで帰っちゃうんですか? このままだとサイモン仁を空き巣か何かの、例えば不法侵入だとか窃盗未遂だとかの容疑でもって、フォルモサの警察に突き出す事も出来ませんよ?」

 エグゼクティヴ・レジデンスの廊下を歩きながら僕がそう言って問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアは、至極満足げな表情と口調でもって返答する。

「ええ、そうね? けれどもあたしの本来の目的はあくまでもサイモン仁さん達を問い詰める事であって、彼らの犯した罪を白日の下に晒したり、断罪したりする事ではありませんものね? ですからもうこれで、先程も申し上げました通り、あたしは充分過ぎるほど満足しましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの表情は雲一つ無く澄み渡る青空の様に晴れ晴れとしており、もう何も、今回の旅で思い残す事は無いらしい。

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