第十五幕


 第十五幕



 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はぐるりと周囲を見渡しながら、晩餐会の会場であるエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達の期待と注目を、彼自身が一身に集めている事を改めて確認し直した。

「皆さん既にご存知の通り、そしてご覧の通り、私は生粋の黒人です。私の祖先は十七世紀が終わろうとしている頃に遠くアフリカ大陸のナイジェリアから北アメリカ大陸へと拉致され、本人の望むと望まざるとに拘わらず奴隷商人の手によって売買されると、裕福な白人が営む大農園プランテーションで綿花の栽培と出荷の仕事に強制的に従事させられました」

 そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、これから始まる決意表明の名を借りた演説が決して愉快なものではない事を察した来賓達は、勢い気を引き締めざるを得ない。

「十七世紀から十八世紀に掛けての綿花は、この国、つまり当時のアメリカ合衆国の経済を支える貴重な輸出品の一つでした。それでは果たしてその綿花を栽培する大農園プランテーションを、この国の経済を、事実上成り立たせていたのはどこの誰なのでしょうか? 大農園プランテーションを経営していた、自分達は汗一つ掻かずに豪奢な造りの屋敷の暖炉の前でふんぞり返っていた、裕福な白人の資本家達なのでしょうか? いいえ、違います! 地道に汗を掻き、時には血や涙を流しながら綿花の栽培と出荷に従事した労働者、つまり私の祖先を含む黒人奴隷こそが、このアメリカ合衆国と言う国の発展の真の立役者なのです!」

 声を張り上げながらアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言えば、これで何度目になるのか、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールは彼と彼の言葉を称える万雷の拍手に包まれた。

「勿論、我々黒人がこの国の発展に寄与したのは、奴隷であった時代だけの話ではありません」

 拍手が鳴り止んだタイミングを見計らい、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は再び口を開く。

「エイブラハム・リンカーンの命令に従って『奴隷解放宣言』が発布された後も、我々黒人は事実上奴隷同然に扱われ、苦難の時代を乗り越えねばなりませんでした。戦場で命をして戦っても黒人の社会的地位はまるで向上せず、南北戦争の戦禍を命からがら生き抜いて故郷に帰れたとしても、再び雀の涙ほどの低賃金でもって重労働に勤しむ事を余儀無くされたのです!」

 そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の低くたくましい声がホールの壁や天井に反響するに従って、次第次第に、彼の演説のボルテージは眼に見えて上昇し始めた。

「第一次、そして第二次世界大戦を経て時代が進んでも、我々黒人を取り巻く環境は殆ど改善されませんでした! 相も変わらず雀の涙ほどの低賃金でもって重労働に勤しむ事を余儀無くされ、半ば固定化されてしまった経済格差によって子供達に充分な教育を受けさせる事すらもままならず、黒人は貧しく愚鈍で暴力的な劣った人種だと言う悪意に満ち満ちたレッテルを今尚貼られ続けているのです! 他の人種に比べて肌の色が黒いと言う、只それだけの理由で!」

 拳を振り上げながらそう言って黒色人種ネグロイドの現状を憂うアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達、特に彼と同じ黒色人種ネグロイドの来賓達はこの日一番の拍手でもってこれを称えて止まない。

「では皆さん、果たして我々黒人は、どう在るべきなのでしょうか?」

 鳴り止まぬ拍手の中、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って、来賓達に問い掛けた。

「皆さんもこの国に住む黒人であるならば、これまでの人生で、心無い白人から一度は浴びせ掛けられた事があるでしょう! 朝の地下鉄の雑踏で、昼のファストフード店の行列で、夜の繁華街の路地裏で、すれ違いざまに「アフリカに還れ、この黒んぼめ!」と言う罵倒と嘲笑の言葉を!」

 ホワイトハウスの館内と言う公の場には相応ふさわしくない、俗に『Nワード』とも呼ばれる放送禁止用語を交えながらそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、更に重ねて問い掛ける。

「だとしたら我々黒人は、黒人奴隷の子孫達は、本当にアフリカ大陸へと還るべきなのでしょうか?」

 この問い掛けに対して、彼は聴衆の返答を待たない。

「博識かつ聡明な皆さんは既にご存知の事とは思われますが、この国は、かつて実際に黒人のアフリカ大陸帰還事業に着手した事実があります。その事業を後押ししたのが1816年に設立されたアメリカ植民地協会であり、結果として西アフリカの胡椒海岸沿いに誕生したのが現在は独立してリベリア共和国と名乗っている、かつてのアメリカ合衆国の植民地の一つリベリアに他なりません」

 そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、うんうんと首を縦に振って頷く者の姿も見受けられれば、また同時に「ほう?」と言いながらきょとんと呆ける者の姿もまた見受けられた。どうやらアメリカ合衆国に於ける黒色人種ネグロイドのアフリカ大陸帰還事業とリベリアとの関係を知らない来賓も、この場に少なからず存在していたものと思われる。

「1820年の入植開始から1847年のリベリア共和国独立までの期間に掛けて、先のアメリカ植民地協会の後押しを受けながら、実に数多くの黒人達がこのリベリアの地に入植しました。それではリベリア、つまり故郷である筈のアフリカ大陸へと帰還した黒人達は、果たして幸せになれたのでしょうか?」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って、来賓達に三度みたび問い掛けた。

「勿論、何を以て幸せとするかの定義は曖昧ですし、同じ境遇に置かれた方でも人によって幸せか否かの感覚は異なりますので、リベリアに帰還した全ての黒人達が幸せであったともそうでなかったとも断言する事は出来ません! しかしながら入植者と先住民との間で血生臭い抗争が度々繰り返され、未遂で終わったとは言え軍事クーデターと二度の内戦を経験した結果、国連が定める世界最貧国の一つとなってしまった国の国民を安易に幸せであるなどと言い切れる方は、そう多くはない事でしょう!」

 リベリア共和国の現状についてそう言って問い掛けたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達は、しんと静まり返ったまま固唾を飲む。

「では何故に、アメリカ植民地協会が後押しした黒人奴隷のアフリカ大陸帰還事業は事実上の失敗、もしくは失敗と言う程ではないにしろ残念な結果に終わってしまったのでしょうか? その原因の一つが、先にも述べました通り、入植者達と現地の先住民達との間で血生臭い抗争が繰り返されてしまったと言う事実にあります! アメリカ合衆国からリベリアへの入植者達、つまり奴隷、もしくは元奴隷であった黒人達は、既に生粋のアフリカ人とは全く異なる人種でした! 奴隷として売られて行った先のアメリカ合衆国で文明に触れ、文化に触れ、資本主義を知り、民主主義を知り、神聖な教会でもってイエス・キリストの教えに目覚めた合衆国育ちの黒人達にとってのアフリカ大陸は、単に祖先の出身地でしかない時代に取り残された未開の地だったのです! ですからそんな未開の地で暮らす、価値観を共有出来ない先住民達との間で抗争が絶えなかったのも、至極当然の結果であると言えましょう!」

 実際にアフリカ大陸に住んでいる方々が聞いたら憤死してしまいそうな物言いではあるものの、そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言い分もまた、見方次第によっては一理あると言わざるを得ない。何故なら現代の同じ国の都市部に住む人間と田舎に住む人間とですら価値観の相違によって理解し合えない事がままあると言うのに、それがアメリカ合衆国で最先端の科学文明に触れた入植者達と十九世紀のアフリカ大陸に住む先住民族達ともなれば、もはや意思の疎通が不可能な程の価値観の乖離だったに違いないからである。

「つまり、祖先の出身地がアフリカ大陸であったとしても、アメリカ合衆国で生まれ育った黒人は既にアフリカ人ではないのです! この国では我々黒人を差して『アフリカン・アメリカン』などと呼称する事が永らく状態化しておりますが、むしろ我々こそが、敢えて言うならば『アメリカン・アメリカン』とでも呼称されるべき存在なのではないでしょうか? そう、本当の意味での真のアメリカ人とは、我々の様なアメリカ合衆国で生まれ育った黒人の事なのです!」

 声高らかにそう言って、仕立ての良いタキシードに身を包んだアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、彼ら黒人こそが真のアメリカ人なのだと断言してみせた。すると晩餐会の会場のそこかしこからある程度の拍手が湧き上がりはしたものの、一部の来賓達は首を傾げながら拍手を躊躇ためらい、これまでの万雷の拍手と比較するとそのボルテージが下がってしまっている事は否めない。

「俺達黒人こそが、真のアメリカ人……?」

 僕の背後に立つ黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルもまたそう言って、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の発言の真意が汲み取れぬまま言い淀み、どうにも混乱を隠せない様子である。それにしても真のアメリカ人をして『アメリカン・アメリカン』などと言った造語でもって呼称してみせるとは、まるでニシローランドゴリラの学名である『ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ』か、もしくはトキの学名である『ニッポニア・ニッポン』みたいで、ちょっとだけ面白いと言えなくもない。

「以上の事実を踏まえた上でもって、私、アンブローズ・トマス・ホンダは、今ここに宣言させていただきましょう! この国を、アメリカ合衆国を、黒人の黒人による黒人のための黒人国家とする事を!」

 そしてこれまで以上に、一際声高らかにそう言って断言し、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は黒人国家の樹立を宣言してみせた。

「え?」

「おい、何だって? 今、彼は何と言った?」

「まさか、よりにもよってアメリカ合衆国を黒人国家にするだと?」

 すると当然の事ながら、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の余りにも突飛な宣言を耳にした来賓達は口々にそう言って、晩餐会の会場は困惑の色を隠せない彼ら彼女らの囁き声でもってざわざわとざわめき立つ。

「あらあら? アンブローズさんったら見掛けに依らず、随分と面白い事を仰られる方なのね?」

 困惑の色を隠せぬままざわめき立つ来賓達の姿を尻目に、そう言ったグエン・チ・ホアはさも愉快そうにくすくすとほくそ笑みながらシャンパンを飲み干すと、そのまま二杯目のシャンパングラスをも掠め取った。

「勿論、何の下準備もしないまま今すぐ立ち所に、この国を黒人国家へと変貌させると言う訳ではありません!」

 そして黒人国家の樹立を宣言したアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の演説は、それだけでもって終わりはしない。

「アメリカ合衆国の黒人国家化は、これから新政権が発表する予定の大統領令に則りながら、順次、段階を追って実行されます! まずは黒色人種ネグロイドの社会的地位の向上と、それを下支えするための、主に貧困層の生活レベルの大幅な引き上げと安定化に着手します! 特に社会保障制度と教育制度の拡充は喫緊の課題であり、まずこれを解決しなければ、国際社会に於けるこの国の地位を確保したまま黒人国家を樹立する事は出来ません! そしてその次に着手すべきは、産業の空洞化問題の解決です! 目先の利益ばかりを追求した結果、安価な労働力を求めて海外へと流出してしまった企業の工場などを国内へと呼び戻し、雇用を創出する事によって人々の暮らしを支える地域の経済的地盤を作り上げようではありませんか! 勿論第二次産業である製造業だけでなく、農業や漁業と言った第一次産業にもまた必要充分な予算を投入し、これを活性化させる事によって国力の増強を図る事は言うまでもありません!」

 それらの意図するところが黒人国家の樹立でさえなければ、少なくともここまでのところ、そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言い分は一つの国家を預かる指導者の言葉としては至極真っ当なものであった。

「やがて然るべき準備が整った後に、やはりこれもまた大統領令に則って段階を追いながら、国内に居住するおおよそ全ての白色人種コーカソイドの方々を対象としたヨーロッパ大陸への帰還事業に着手します!」

 しかしながらそう言って、白色人種コーカソイドをヨーロッパ大陸へと帰還させる旨を宣言したアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達の困惑の度合いは勢い頂点に達する。

「横暴だ! 国内の全ての白人をヨーロッパに送り返すだなんて、幾らなんでも横暴に過ぎる!」

 すると晩餐会の会場の一角でテーブルを囲んでいた一人の白色人種コーカソイドの男性が立ち上がり、拳を振り上げながらそう言って、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の宣言に対して異を唱えた。しかしながら新大統領も、これを予期していたのか、速やかに反論する。

「ええ、そうです、確かにあなたの仰る通りです。横暴に過ぎると言われてしまえば、確かに横暴に過ぎるのかもしれません。しかしながら白色人種コーカソイドのヨーロッパ大陸帰還事業が横暴だとするならば、かつて実行された黒色人種ネグロイドのアフリカ大陸帰還事業もまた横暴であり、今現在行われているアジアや南米からの移民の強制送還もまた横暴なのではありませんか? そう考えれば、何故ほんの数百年ほど早く北米大陸に到着したからと言って、ヨーロッパ大陸出身の白色人種コーカソイドだけを特別扱いしなければならないのでしょうか? 彼ら彼女らは、決して北米大陸の先住民族でもないと言うのに!」

「確かにその通りだが……しかし……だとしても……」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の理路整然とした反論に、立ち上がった白色人種コーカソイドの男性はそう言って口篭もりながら、どうにも言葉を詰まらせざるを得ない。そしてその白色人種コーカソイドの男性が再び口を開いて異を唱え直そうとしたところで、彼の隣に座る高齢で白髪の黒人男性の来賓が「いいから、止めておきなさい」と言って忠告し、発言を慎むと同時に腰を下ろすよう促した。

「しかし、だからと言って、我々の様な白人をヨーロッパ大陸へと帰還させる必要は無いだろう! 自由を求めて移住して来た巡礼始祖ピルグリムの子孫である我々には、何の罪も無いと言うのに!」

 すると今度はまた別の白色人種コーカソイドの男性が立ち上がり、そう言って抗議の声を上げたが、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はこれにもまた反論する。

「おや? あなたは今、白人の移住者の子孫には何の罪も無いと仰いましたね? だとしたら、あなた方より先にこの地に住み着いていたネイティブ・アメリカン、俗にインディアンとも呼ばれる方々が受けた迫害の歴史と現在の窮状に関して、あなたはどのように考えておられるのですかな?」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って問い質せば、問い質された白色人種コーカソイドの男性はうっかり藪をつついて蛇を出してしまった事に気付いたものの、時既に遅しと言わざるを得ない。

「この国に住む白人の多くは、まるで北米大陸が最初から自分達の土地であったかのように振る舞いますが、それは大いなる勘違いであると言わざるを得ません! 何故なら彼らの祖先は、本来この地で生活していた善良なネイティブ・アメリカンの方々を虐殺し、嘘と暴力でもって土地や財産を奪い取った卑劣で野蛮な簒奪者なのですから!」

 アメリカ合衆国の開拓の歴史の暗部とも言えるネイティブ・アメリカンとの一件を持ち出されてしまっては、抗議の声を上げた白色人種コーカソイドの男性もまた痛い腹を探られる格好になってしまったのか、まるで口一杯の苦虫を噛み潰したかのような顔のまま口をつぐむばかりである。

「ある種の統計に依るならば、白人が持ち込んだ伝染病が原因で亡くなられた、もしくは戦争や飢餓や虐待で亡くなられたネイティブ・アメリカンの方々の総数は、およそ800万人から1000万人を上回るとも言われております! この数は、あの悪名高きドイツのナチ党が、第二次世界大戦が終結するまでに強制収容所で虐殺したユダヤ人の総数をも上回る数なのです!」

 身振り手振りを交えながらそう言って、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、かつて北米大陸に入植した白色人種コーカソイド達の手によって行われたネイティブ・アメリカンの人々に対する卑劣で野蛮な行いの数々を追及する手を休めない。

「しかも驚くべき事に、ネイティブ・アメリカンの方々に対してこの国の白人が行った蛮行は、これだけに留まりません! 今からおよそ200年前の1830年5月28日、時の大統領であったアンドリュー・ジャクソンは何の良心の呵責も無いままに、ネイティブ・アメリカンの方々を強制的に僻地へと移住させる『インディアン移住法』に調印しました! この法令によって彼ら彼女らは住み慣れた故郷を追われ、多大な犠牲を払いながら殆ど徒歩でもって何千マイルもの距離を移動し、何の価値も無い、碌に草木も生えないような不毛の荒野へと移住させられたのです! ネイティブ・アメリカンの方々がそれまで住んでいた先祖伝来の土地から、偶々たまたま金鉱脈が発見されたと言う、只それだけの理由でもって!」

 そう言って声を張り、アメリカ合衆国の開拓の歴史の暗部を赤裸々に暴露し続けるアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の姿は、さながら裁判所の法廷でもって被告を詰問する検事か弁護士のそれにも似ていた。

「そしてこの『インディアン移住法』に基づく移住の強制による弊害は、重ねて驚くべき事に、二十一世紀を迎えた今尚解消されていないではありませんか! 先祖伝来の土地を追われたネイティブ・アメリカンの方々は、今この瞬間も、狭い居留地から自由に移動する事すらも許されぬまま差別と迫害に苦しめられ続けているのです! 作物も育たぬ痩せた土地しか与えられず、生活苦によるストレスから肥満とアルコール依存症が蔓延し、先祖代々脈々と受け継がれて来た筈の固有の文化も宗教も同化政策によって破壊されつつありながら!」

 そしてアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言うと、とどめの一撃、もしくは駄目押しとも表現すべき一言を言い放つ。

「これら白人の蛮行に比べれば、私が署名するつもりの大統領令に従って穏便にヨーロッパ大陸へと帰還出来るのであれば、むしろ白人達は我々に感謝すべきなのではないでしょうか! 如何ですか、皆さん? 私の言っている事は、何か間違っていますか?」

 遠くアフリカ大陸から拉致されて来た黒人奴隷と、その子孫である黒色人種ネグロイドの人々。更には土地も名誉も自由も奪われたネイティブ・アメリカンの人々に対する差別と迫害の歴史をこうもあけすけに糾弾されてしまっては、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達も言葉を失い、特に白色人種コーカソイドの来賓達は顔と眼を伏せて俯いたままぐうの音も出ない。

「とても有意義で興味深い内容の演説なのは宜しいのですけれども、このままいつまでも聞き役に徹してばかりと言うのも芸がありませんから、そろそろお邪魔させていただきましてよ?」

 するとそう言ったグエン・チ・ホアは空になった二杯目のシャンパングラスをテーブルの天板の上に並べ直し、そのまま都合三杯目となる新たなシャンパングラスを掠め取ってから、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が立つ中央センターホールの最奥の方角へと足を向けた。

「おや? そちらのご婦人も、私の決意表明に対して何かご意見がおありですかな?」

 こちらへと歩み寄って来る彼女の姿に気付いたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って、グエン・チ・ホアに問い掛ければ、問い掛けられた彼女はシャンパングラスの中身をくっと一口だけ飲み下してから問い返す。

「あら? アンブローズさんったら、ほんの数日前にお会いしたばかりだと言うのに、もうあたしの顔と名前をお忘れになられたのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い返したならば、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は眼を細めながら彼女の顔をジッと凝視した後に、はっと息を呑んだ。

「ああ、思い出しました! あなたはシンガポールの空港のラウンジでお会いした、ええと、確かお名前は……」

「グエン・チ・ホアでしてよ?」

「ああ、そうだそうだ、グエンさん、グエンさんですよ! 覚えておりましたとも、あなたの事は! ……しかしながら、グエンさん? 私の記憶が確かならば、遠く海の向こうのフォルモサでアンティーク雑貨の店を経営しておられるとお伺いした筈のあなたが、何故ここに?」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言いながら首を傾げるばかりだが、自分が主催者である筈の晩餐会に招待した覚えの無いベトナム人女性が紛れ込んでいるのだから、彼が困惑せざるを得ないのも至極当然の帰結である。

「ええ、そうね? その件に関してましては、まあ、こちらにも色々と説明し難い事情と言うものがあるのではないかしら? それはそれとしましても、兎にも角にもあたしにはそちらにいらっしゃる、本田サイモン仁さんに是非ともお尋ねしなければならないご用件がありましてよ?」

 グエン・チ・ホアはそう言いながら、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の背後に立つタキシード姿の一人のアジア人の中年男性、つまり新大統領の血の繋がらない従弟である本田サイモン仁を指差した。

「ようやくお会い出来たのではないかしら、本田サイモン仁さん?」

 タキシード姿の本田サイモン仁を指差しながらグエン・チ・ホアはそう言うが、当の本田サイモン仁はアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の背後に立ったまま、首を傾げるばかりである。

「はて? どうやらあんたはわしの名をご存知のようですけんども、果たしてあんたは、どこのどちらさんでしたっけかな?」

 本田サイモン仁は首を傾げながらそう言って、故意にとぼけているのか、もしくは本当にグエン・チ・ホアの顔も名前も記憶に無いらしい様子であった。

「あら? サイモン仁さんったら、あたしの事を、もうお忘れになってしまわれて? あたしはつい先週あなたが空き巣に入られた、フォルモサの骨董街で『Hoa's Library』と言う屋号のお店を経営させていただいております、グエン・チ・ホアと名乗る者でしてよ?」

 純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアがそう言って彼女の素姓と名前を口にすると、本田サイモン仁は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を整えて平静を装う。

「空き巣? フォルモサ? はてさて、一体何の事を仰っているのか分かりかねますな」

 やはりそう言って本田サイモン仁はとぼけるが、グエン・チ・ホアは追及の手を緩めない。

「あらあら? こんなにはっきりと監視カメラにあなたのお顔が映ってらっしゃると言うのに、サイモン仁さんったら、この期に及んでも未だしらを切り通すおつもりなのかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアがどこからともなく取り出した彼女のスマートフォンを掲げてみれば、その液晶画面には頭髪を短く刈って無精髭を生やした冴えない顔立ちの中年男性、つまりノーザンフォルモサ国際空港の出入国審査官の前で撮影された本田サイモン仁の顔がはっきりと映っていた。

「……いや、それは……その……」

 グエン・チ・ホアによる追及の手をかわし切れなくなった本田サイモン仁がそう言って口篭もれば、彼の血の繋がらない従兄であるアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が彼ら二人の間に割って入り、これに助け舟を出す。

「グエンさん、ちょっとよろしいですかな? どうやらあなたは私の従弟であるサイモン仁が盗みを働こうとしたと考えておられるようですが、その主張に、確たる証拠がおありですかな?」

「確たる証拠と仰られましても、空き巣による被害そのものは、未遂に終わっておりますものね? ですから今しがたご覧になられた筈の監視カメラの映像以外の証拠となりますと、何故サイモン仁さんがこれを盗もうとなされたのか、その理由を本人の口から語っていただかなければならないのではないかしら?」

 やはりそう言ったグエン・チ・ホアは、どこからともなく取り出した、硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を掲げてみせた。すると彼女が掲げる原書を眼にしたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領と本田サイモン仁の二人の顔色が、にわかに曇る。

「これはあの有名な絵本である『ちびくろサンボ』の、1899年にイギリスのグラント・リチャーズ社から発刊された、鑑定書付きの正真正銘の初版本でしてよ? そしてそちらにいらっしゃる本田サイモン仁さんと言うお方は、この初版本を盗み出す目的でもって、あたしの大事な大事なお店を荒らし回って行かれたのではなくて?」

 グエン・チ・ホアは『ちびくろサンボ』の原書を掲げながらそう言って、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達に、本田サイモン仁の悪行のあらましをざっと解説してみせた。すると空き巣行為を糾弾された本田サイモン仁の従兄であるアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が、再び助け舟を出す。

「でしたらグエンさん、仮にあなたの仰っている通りこちらに居る私の従弟があなたの店からその本を盗み出そうとしたならば、きっと彼は義憤に駆られて突発的にそのような行為に及んだしまったのではないでしょうか。何せ彼は、かつて私と共に『黒人差別をなくす会』にも所属していた生粋の反人種差別主義者であり、あなたが手にしている『ちびくろサンボ』は黒人差別の象徴的著作物と言っても過言ではないのですからな」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って、本田サイモン仁の行為の正当化を試みたものの、グエン・チ・ホアはこれに異を唱えざるを得ない。

「あら? アンブローズさんったら、この『ちびくろサンボ』が黒人差別の象徴的著作物と仰いますの? そう言えばシンガポールの空港でお会いした際に解説しそびれておりましたけれども、決して『ちびくろサンボ』は黒色人種ネグロイドを差別的に扱った絵本ではありせん事よ? だってそもそも、サンボはアフリカ人、つまり黒色人種ネグロイドではないのですからね?」

「ほう? サンボが黒色人種ネグロイドではないと、あなたは仰るのですね? だとすればその発言の根拠を、是非ともお聞きしてみたいものですな」

 まるで『ちびくろサンボ』の原書を掲げたグエン・チ・ホアが嘘吐きだとでも言いたげな表情と口調でもってそう言って、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、彼女を挑発した。しかしながらグエン・チ・ホアは一切怯む事無く、むしろくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、この挑発に応じる。

「ええ、そうね? でしたらまず手始めに、元々『ちびくろサンボ』はヘレン・バナーマンと言う名のスコットランド人女性が、彼女の四人の子供達のために描いて差し上げた手作りの絵本が原型になっている事はご存知かしら?」

 挑発に応じたグエン・チ・ホアはそう言って、かつて『Hoa's Library』の店内で僕に語って聞かせたのと同様の蘊蓄を傾け始めた。

「ここで注目すべきは、この『ちびくろサンボ』の原型となった手作りの絵本が、果たして世界のどの大陸のどの国でもって描かれたのかと言う点でしてよ? そして勿体ぶらずに結論から言ってしまうとするならば、ヘレン・バナーマンがこの絵本を描かれたのはイギリス陸軍の軍医であった夫と共に赴任した当時の英領インドのタミル・ナードゥ州の州都マドラスであって、決してアフリカ大陸ではないのではないかしら?」

「つまり、あなたは『ちびくろサンボ』の舞台となった国はアフリカ大陸のどこかの国ではなく、当時の英領インドであったと仰りたい訳ですね? しかしながら、あなたが主張されるその説は、そうそうにわかには信じられませんな。何故なら私が子供の頃に読み聞かせられた『ちびくろサンボ』の絵本の挿絵には、しっかりと黒人の男の子の姿が描かれていた筈ですからね」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って疑義を呈するが、グエン・チ・ホアは、その程度の疑義でもって怯むような軟弱な女性ではない。

「ええ、そうね? 確かにあなたの仰る通り、アメリカ合衆国で生まれ育ったあなたが読み聞かせられた絵本に黒人少年としてのサンボが描かれていたとしても、何の不思議も無くってよ? 何故なら合衆国の国内でもって流通してしまった『ちびくろサンボ』の絵本の大半が海賊版、つまり原書とは物語の設定も挿絵も改変された、ある種の劣化コピーですものね?」

「海賊版ですって? だとすると私が知っている『ちびくろサンボ』と、あなたがお持ちの『ちびくろサンボ』の原書とでは、どのような違いがあると言うのですかな?」

「ええ、そうね? でしたら重箱の隅をつつくかのような些細で些末な改変はさておいて、この絵本の舞台がアフリカ大陸ではなくインドである事の決定的な証拠となり得る挿絵の相違点を、指摘させていただこうかしら?」

 アメリカ合衆国の大統領を眼の前にしても少しも怯む事無く、むしろ堂々と胸を張って自信ありげにそう言ったグエン・チ・ホアは、彼女の視線の先に立つアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領に問い掛ける。

「アンブローズさん、あなたが子供の頃にお読みになった『ちびくろサンボ』では、サンボから服や傘などを奪い取った虎は最後にはどうなってしまいまして?」

「虎は溶けて、バターになった。違いますか?」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、さも当然とでも言いたげな表情と口調でもってそう言って返答した。

「ええ、そうね? けれどもね、アンブローズさん? 原書の挿絵ですと、溶けた虎のバターを汲んだ真鍮の壺には『TIGER GHI』、つまり『虎のギー』とはっきりと描かれていましてよ? それにあなたがお読みになった海賊版とは違って、原書の本分では、インドではバターが『ギー』と呼ばれている事に言及するシーンがある点にも注目すべきではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、更に追い打ちを掛ける。

「インドでは澄ましバターが『ギー』と呼ばれている事に敢えて本文でもって言及し、挿絵に眼を向ければバターを汲んだ壺に『虎のギー』と描かれている点を鑑みれば、この絵本の舞台がインドである事は明々白々ではなくて? それに『ちびくろサンボ』の作者であるヘレン・バナーマンがおよそ三十年もの年月を過ごしたインドのタミル・ナードゥ州はその名の通りタミル人が多く住む地方ですし、主人公の名前でもある『サンボ』はタミル人の男子の名前として現地で定着していると言う事実も、この説を裏付ける有力な証拠でしてよ?」

「……」

 まるで立て板に水を流したかのようなグエン・チ・ホアの淀み無い言葉に、彼女とは逆にアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、無言のまま言い淀まざるを得ない。

「更にこの絵本の舞台が黒色人種ネグロイドが住むアフリカ大陸ではなく、アジアのインドであると言う説を裏付ける決定的な証拠が本文から読み取れるのですけれども、それは如何なる点だかお分かりになって?」

「……さて、それは何ですかな?」

「そもそもアフリカ大陸に、虎は生息しておりません事よ? 何と言いましても野生の虎は、アジア固有の動物ですものね?」

 やはり僕の時と同様、この虎の生息地に関する一言が決定打となって、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領もまたグエン・チ・ホアが提唱する説を受け入れざるを得なかった。

「しかもね、アンブローズさん? 仮にサンボがタミル人の子供だとしたら彼は黄色人種モンゴロイドだと言う事にほぼ決定するのですけれども、もし万が一にでもインド全域に広く分布するインド・アーリア人の子供だとしたら、サンボは白色人種コーカソイドだと言う事になってしまうのではないかしら?」

 まるで大人を言い負かす子供の様に悪戯っぽい表情と口調でもってグエン・チ・ホアがそう言えば、彼女の言葉にずっと耳を傾けていたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、遂に白旗を揚げて降参する。

「成程、グエンさん、あなたの言い分は充分過ぎるほど理解出来ました。確かにあなたの仰る通り、今しがた提示された証拠の数々から鑑みれば、実は『ちびくろサンボ』の舞台はかつての英領インドであった事は認めましょう。そしてサンボはアフリカ大陸の黒色人種ネグロイドではなくアジアのインドの黄色人種モンゴロイド、場合によっては白色人種コーカソイドであったかもしれないと言う事もまた、認めるにやぶさかではありません」

 そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は掌をこちらに向けた両手を顔の高さまで挙げながら、まるで降参の意を表するかのような格好でもってかぶりを振った。するとグエン・チ・ホアは硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を手にしたまま、そんな彼を改めて問い質す。

「でしたらアンブローズさん、あなたが先程仰いました、この『ちびくろサンボ』が黒人差別の象徴的著作物だと言う点もまた否定していただけまして? そしてその事実を踏まえた上でもって、義憤に駆られたサイモン仁さんが突発的に空き巣行為に及んだと言うあなたの言い分の真偽の程を、もう一度釈明し直してくださるかしら?」

 やはりグエン・チ・ホアはくすくすとほくそ笑みながらそう言って、さも愉快そうな表情と口調を崩さぬまま、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領を問い質した。それにしても一国の元首、それも世界一の超大国であるアメリカ合衆国の大統領を前にしながらここまで物怖じしないとは、一介の古物商のそれとは思えぬ程の胆力を誇る彼女の女丈夫ぶりには眼を見張るばかりである。

「……分かりました、こうなれば自分の発言に責任を負うべき一人の大人として、潔く認めましょう。私もここに居る私の従弟も、あなたに嘘を吐いていました。つまり『ちびくろサンボ』は黒人差別の象徴的著作物などではありませんし、あなたに解説される迄も無く、私達はこの絵本の舞台が英領インドである事を知っていたのです」

「おい、アンブローズ! お前、何言うてんねん!」

 嘘を吐いていた事を認めたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、彼の背後に立つ本田サイモン仁がそう言って、彼の血の繋がらない従兄の発言を諫めようとした。

「いいんだ、サイモン。この人は、この女性は、下手な嘘や芝居でもって騙し通せるような愚かな人ではない。だとしたら下手な嘘を吐き通そうとするよりも、潔く間違いを認めてしまった方が、我々の傷も浅くて済むと言うものだ。そのくらいの事は、お前も理解している筈だろう?」

「……ああ……それは分かってんねんけど……せやかて……」

 すると諫めようとした従兄から逆に諫め返された本田サイモン仁はそう言って、言葉を濁しつつも、未だ何か言いたげにもごもごと口篭もらざるを得ない。

「グエンさん、誠に申し上げ難い事ですが、我々は全て知っていたのです。あなたが提唱する『サンボ白人説』はさすがに予想外でしたが、少なくとも『ちびくろサンボ』の舞台が英領インドである事も、サンボが黒人の子供ではない事も、そして私の従弟があなたの店で盗みを働こうとした事も、全て承知の上での行いです」

「ええ、そうね? あなたがご自分の間違いをお認めになってくださると言うのであるならば、あたしももうそれ以上、あなた方お二人の罪を咎める気は無くってよ? ……でもね、アンブローズさん? 最後に一つだけ、何故サイモン仁さんがあたしのお店からこの絵本を盗み出す必要があったのか、その本当の理由をお聞かせ願えるかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、既に観念したらしいアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、逃げも隠れもせずにこれに返答する。

「あなたも既にご承知の通り、私とこちらに居るサイモン仁は、かつて日本の大阪府堺市に拠点を置く『黒人差別をなくす会』に揃って所属しておりました。そして『ちびくろサンボ』や『ドリトル先生』などと言った黒人差別を助長しかねない書物を絶版に追い込む活動に従事しておりましたが、やがてその活動内容の是非に対して疑念を抱き始め、最終的にはたもとを分かって脱会したのです」

「ええ、そうね? その脱会に至るまでの経緯につきましては、あたしも存じ上げておりましてよ?」

 彼自身の過去について語り始めたアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、グエン・チ・ホアはそう言って相槌を打った。

「やがて合衆国へと帰国した私は本格的な政治活動の世界に足を踏み入れると、第三者に頼るのではなく私自身が一人の政治家となって、私自身の声でもって黒色人種ネグロイドの社会的地位向上を訴える事を決意しました。そしてご覧の通り、政治家としての地位を得た私は合衆国大統領と言う政界のヒエラルキーの頂点にまで上り詰める事に成功しましたが、そんな私の輝かしくも清廉潔白であるべき経歴には一つの拭い去り難い汚点が付いてしまっていたのです」

「あら、そう? でしたらその拭い去り難い汚点とやらを、あたしが言い当ててご覧に入れてもよろしいかしら? そうね、きっと『ちびくろサンボ』に関連する何らかの過去の行いが、あなたにとってはスキャンダルの種になりかねないのではなくて?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉は、ものの見事に、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の発言の核心を突いていたらしい。

「ええ、そうです、まさにその通りです。私が『黒人差別をなくす会』に所属していた際に『ちびくろサンボ』の絵本を絶版に追い込んだ事こそが、私の経歴の、たった一つの汚点でした。あの絵本の舞台は英領インドであって、サンボは黒人の子供ではないにも拘らず、非合法である海賊版の絵本の挿絵を根拠にしながら出版社を糾弾する活動に従事していたのですからね。これは一歩間違えれば、人の道にもとる行為に手を染めていたと判断されても仕方がありません。ですから私は、何としてもこの事実を闇に葬らねばならなかったのです」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言い終えるのと同時に、彼の背後に立っていた本田サイモン仁が一歩前へと進み出て、口を開く。

「もうええで、アンブローズ。その続きは、実行犯であるこの俺が釈明させてもらうよってに」

 溜息交じりにそう言った本田サイモン仁は、彼の血の繋がらない従兄であるアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領以上に、すっかり観念してしまった様子であった。

「アンブローズと一緒になって合衆国に移住しよった俺は、こいつの政治家としての活動を、陰になり日向になりながら今までずっとずっと支え続けて来よってん。せやからアンブローズの経歴の汚点になりかねへん『黒人差別をなくす会』での活動を無かった事にせなあかんけん、取り敢えず『ちびくろサンボ』の舞台がアフリカやのうてインドやっちゅう事を裏付ける、出版当時の本来の姿の絵本をこの世から一冊残らず消し去る事にしたっちゅう訳やねんな」

「あらあら、この世から『ちびくろサンボ』の原書を一冊残らず消し去ってしまおうだなんて、それはまた随分と壮大な計画ね?」

 やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの表情や口調からは、この状況を心の底から楽しんでいるかのような様子しか見受けられない。

「そしてその壮大な計画を成就させるべく、あたしの大事なお店からこの絵本を盗み出そうとなさった、と?」

 硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を掲げながらグエン・チ・ホアがそう言えば、本田サイモン仁は首を縦に振って頷いた。

「せやねん。俺があんたの店に盗みに入りよったんは、そう言った複雑な事情があったっちゅう訳やから、堪忍したってや」

 そう言って謝罪の言葉を口にした本田サイモン仁に、グエン・チ・ホアは問い掛ける。

「ええ、そうね? こうして事情を説明してくださった上でもって謝罪していただけるのであるならば、あたしももうこれ以上、この件に関してあなた方お二人を問い詰めるつもりは無くってよ? でもどうしてアンブローズさんもサイモン仁さんも、そんな大事な事を、こんな公衆の面前でぺらぺらと白状なさってしまわれるのかしら?」

「それは、この『ちびくろサンボ』の絵本に関する一件が、もはや我々にとって些末な問題に過ぎないからです」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して、今度はアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って返答した。

「些末な問題ですって?」

「ええ、そうです。ご覧の通り私は過去の経歴の汚点を指摘される事も無いまま大統領選に勝利し、こうして今日、滞り無く就任式を終える事が出来ました。そして就任式を終えて正式な合衆国大統領の座に就いたからには、もはや『ちびくろサンボ』の絵本の出版に抗議した程度の些末な問題でもって、そうそう簡単に罷免させられるような事はありません。ですからその汚点についてこうして白状してしまったとしても、私はもう、痛くも痒くもないと言う訳です。むしろ今の私が憂慮すべき直近の問題は、先程宣言させていただきました黒人国家の樹立と国内の白人のヨーロッパ大陸帰還事業を、どのようにしてアメリカ合衆国の全ての国民の方々に納得していただくかと言った一点に集約されるのではないでしょうか」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が余裕綽々とでも言いたげな満面の笑顔と共にそう言えば、グエン・チ・ホアもまた、その整った顔立ちに浮かべた笑みをより一層深めるばかりである。

「あら、そうですの? でしたらアンブローズさん、ここから先は、その黒人国家の樹立と白人のヨーロッパ大陸帰還事業について問い詰めさせていただこうかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは手にしたシャンパングラスの中身をくっと一息に飲み干して、空になったそれを下膳すると同時に、また新たなシャンパングラスを手近なテーブルの天板の上からそっと掠め取った。どうやら彼女は本田サイモン仁だけでなく、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領もまた、その舌戦の力量でもって問い詰めるつもりでいるらしい。

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