第十四幕


 第十四幕



 やがて第■■代アメリカ合衆国大統領就任式の幕が盛況を博したまま下ろされてから数時間後、昨夜から宿泊しているグランドホテル・ワシントンD.C.へと一旦帰還した僕ら四人は、二つの客室の内の一つのリビングルームに集合しつつ備え付けのテレビの液晶画面をじっと注視していた。液晶画面の向こうではどこかのテレビ局の若い男性レポーターがマイクを握りながら、ホワイトハウス内のエグゼクティヴ・レジデンスでの晩餐会の開宴を告げると同時に、その晩餐会に招待された来賓の顔触れや提供される料理の内容を興奮気味に報告している。

「晩餐会、始まりましたね」

 ツインの客室の二つ並んだベッドの内の一つの縁に腰掛けたまま、テレビの液晶画面を注視しながらそう言って、僕は誰に言うでもなくぼそりと呟いた。

「やっぱりホワイトハウスでの晩餐会で出されるお料理って、アメリカ料理なの? それとも、フランス料理? もしくはアメリカでもフランスでもない、もっと別の国のお料理だったりするのかしら?」

 僕の隣に腰掛けた淑華もまたそう言ってぼそりと呟き、誰に問い掛けるでもなく問い掛けながら、彼女は彼女なりに興味深げにテレビの液晶画面を注視している。

「ええ、そうね? でしたら今しがた万丈くんが仰った通り晩餐会の幕も上がられた事ですし、もうそろそろ、あたし達が行動を開始するのにもちょうど良い頃合いなのではないかしら?」

 するともう一つのベッドの縁に腰掛けていたグエン・チ・ホアがくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言って、白く清潔なシーツが敷かれたマットレスからおもむろに腰を上げはしたものの、そんな彼女の誘い文句を耳にした黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはどうにも尻込みせざるを得ない。

「なあ、グエンさん、ちょっといいかい? 済まないが、もう一度だけ確認させてくれないか? あんた、本当にこれからこのテレビに映っている厳戒態勢のホワイトハウスに乗り込んで、招待されてもいない晩餐会と舞踏会に潜入するつもりだって言うのかい?」

「ええ、勿論、そのつもりでしてよ? 女に二言はありませんものね? あら? それとももしかしてもしかすると、キャンベルさんったら、この期に及んで怖気付いてしまわれて?」

 再度の確認を求める彼の問い掛けに対してグエン・チ・ホアがそう言って問い返したならば、半ば嘲笑される格好になってしまった黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはかちんと来たのか、反射的にこれに食って掛かる。

「おい、何だと? グエン・チ・ホア、あんた、この俺を馬鹿にするつもりか? あんたが女に二言は無いと言うのなら、男である俺にだって、二言はあるものか! だから怖気付いたりするまでも無く、あんたと一緒にホワイトハウスに乗り込んでやるよ!」

「あら、そう? でしたらキャンベルさん、あたしもあなたを頼りにしてましてよ?」

 やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの口車に乗せられてしまっては、どうやら短慮で直情的な性分らしい黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルなどあっと言う間に手玉に取られてしまって、まるで女郎蜘蛛の巣に掛かった羽虫の様な有様であった。

「さあさあ、でしたらキャンベルさんだけでなく万丈くんも淑華ちゃんも、そろそろ出発する事にいたしましょうね? 準備はよろしくて? 夜の戸外はお昼間よりもずっと寒いでしょうから、ちゃんと上着を羽織って、出来得る限り暖かい格好でもって出掛ける事をお忘れなく?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに忠告されるまでもなく、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包むのみの彼女と違って、僕や淑華や黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそれぞれの上着を羽織って寒さに備える事に余念が無い。

「さあ、でしたら出発なさいましてよ?」

 するとそう言って発破を掛けたグエン・チ・ホアに先導されながら、僕ら四人はグランドホテル・ワシントンD.C.の1204号室を後にすると、そのまま短い廊下を渡った先のエレベーターホールでもって揃ってエレベーターに乗り込んだ。そしてホテルの一階へと移動してからフロントを素通りし、座り心地の良さそうなソファやローテーブルが並べられたロビーを通過すると、やがて正面玄関の回転扉を潜ってホテルの敷地からも退出する。

「寒っ!」

 ホテルの建屋から一歩外に出た淑華がそう言って、羊毛ウールのダッフルコートを羽織った自らの身体をぎゅっと固く抱き締めながら、ぶるぶるっと寒さに肩を震わせた。

「ああ、そうだな、淑華。陽が出てた昼間でも充分寒かったけど、夜になったら、まるで今にも雪でも降って来そうな程の寒さだ」

 彼女の隣に立つ僕もまた吐く息を真っ白に凍り付かせながらそう言って、ビルとビルとの隙間から垣間見える真冬の夜空を見上げつつ、フェイクムートンのジャンパーの襟を立てて首元を温める。

「なあ、グエンさん? あんたはそんな格好で、本当に寒くないのか?」

 しかしながら黒い革のジャンパーと黒いベレー帽と言う『新ブラックパンサー党』の制服に身を包んだ黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに、純白のアオザイ一枚を纏っただけと言う軽装をそう言って指摘されたグエン・チ・ホアばかりは、まるで寒さに動じた様子が無い。

「ええ、そうね? 以前もお伝えした筈の万丈くんと淑華ちゃんはご存知でしょうけれども、こう見えましてもあたしったら、昔から寒さや暑さと言った自然環境の変化には一瞬で順応出来てしまう体質でしてよ?」

 グエン・チ・ホアはくすくすと不敵にほくそ笑みながらそう言うが、只単に寒さが平気なだけでなく吐く息も白くならない程にまで環境に順応していると言うのは、最早人間の常識の範疇を凌駕してしまっていると言っても過言ではないだろう。

「さあさあ、あたしの体質の事なんかについて論じ合っている暇があるのでしたら、今は一刻も早くホワイトハウスへと馳せ参じる事といたしましょうね? こんな所でいつまでももたもたしてしまっていては、絶賛開宴中の晩餐会だけでなく、その後の舞踏会までもが閉宴してしまいかねないのではないかしら?」

 そう言って先を歩くグエン・チ・ホアに急かされながら、僕ら四人はぞろぞろと肩を並べて連れ立って、ホワイトハウスが在るペンシルベニア通り1600番地の方角へと足を向けた。そしてどんよりと灰色に曇った夜空の下を、寒さを堪えながら歩き続ければ、やがて僕らはホワイトハウスの敷地を西に臨むパーシング公園の前へと辿り着く。

「やっぱりと言うか当然と言うか、就任式の当日だけあって、こんな時間でも人がいっぱい居ますね」

 そう言った僕の言葉通り、パーシング公園から15thストリート越しに臨むホワイトハウスの正面玄関前は夜になっても数多の警備員セキュリティ達によって守られているばかりか、新たな大統領の就任を祝う人々やそれに抗議する人々でもって大賑わいの様相を呈していた。

「大統領万歳! アンブローズ・トマス・ホンダと合衆国に栄光あれ!」

「アンブローズ・トマス・ホンダは不正選挙で選ばれた、偽物の大統領だ! 直接選挙ではなく従来の間接選挙でもって、選挙を一からやり直せ! 世界人類を背後から操る闇の政府に、正義の鉄槌を!」

 互いのスローガンが殴り書きされた横断幕やプラカードを掲げながらそう言って、新大統領を支持する陣営とそうでない陣営との二つの群衆が真っ向から睨み合い、ホワイトハウスの正面玄関前で一触即発の雰囲気を醸し出しているのが遠眼にも見て取れる。

「あらあら、このままですと、正門からホワイトハウスの敷地内へと侵入させていただくのは難しそうね?」

 溜息交じりに小首を傾げながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に依るならば、どうやら彼女は互いに睨み合う二つの派閥の群衆さえ居なければ、警備員セキュリティ達によって守られた正面玄関から堂々とホワイトハウスに乗り込むつもりだったらしい。

「それじゃあホアさん、僕ら、これから一体どうします? 一旦ホテルまで引き返して作戦を練り直し、それから出直しますか?」

 そこで僕がそう言って問い掛けると、問い掛けられたグエン・チ・ホアはこちらを振り返り、まるで幼い子供の様に悪戯いたずらっぽく微笑んだ。

「あら? 万丈くんったら、そんなに心配なさる必要性は無いのではないかしら? 何故ならもうすぐあそこで一悶着起きますので、その混乱に乗じて、裏口の方から侵入すればよろしいのですものね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはホワイトハウスの正面玄関前で睨み合う二つの陣営から成る群衆を指差すが、僕は彼女が何を言わんとしているのかが理解出来ず、今度は僕が小首を傾げながら頭の上に見えない疑問符を浮かべるばかりである。

「闇の政府に操られたアンブローズ・トマス・ホンダを、今すぐにでも大統領の座から引き摺り下ろせ! 神聖なる合衆国大統領の座は、不正が蔓延はびこる直接選挙によって選ばれた穢れた黒人などではなく、従来通りの間接選挙によって選ばれた白人にこそ相応ふさわしい!」

 すると睨み合う二つの陣営の内の新大統領を支持しない側に属する一人、つまり襟と袖に二本の黄色いストライプが入った黒いポロシャツ姿の白人男性が人種差別的な罵声交じりにそう言いながら、持っていたペットボトルをもう一方の陣営に向かって投げ付けた。

「この野郎、何しやがる!」

 勿論ペットボトルを投げ付けられた側の陣営に属する人々もそう言って怒りを露にすると、彼らもまたやられっ放しのまま指を咥えて見ている程馬鹿ではないので、拾い上げたペットボトルを先の白人男性目掛けて投げ返さざるを得ない。そしてこの行為が引き金となりながら、二つの陣営によるホワイトハウスの正面玄関前での平和的な睨み合いは、やがて激しい暴力を伴う武力衝突へと発展するのであった。

「やりやがったな、この穢れた黒んぼどもめ! もう許さねえから、覚悟しろ!」

「覚悟するのはお前らの方だ、このQアノンの陰謀論者どもが! お前らみたいな小児性愛者ペドフィリアの変態集団はとっととテキサスのおうちに帰って、ママが焼いたピーカンパイでも食いながら、大好きな4chanに陰謀論を書き込んでやがれ!」

「何だと、この野郎! 誰が小児性愛者ペドフィリアの変態だ! 身の程を思い知らせてやるから、そこから一歩も動くんじゃねえぞ!」

「ああ、掛かって来いよ、この腰抜けのチキン野郎どもめ! 返り討ちにしてやる!」

 そう言って激しく互いを罵り合いながら、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領を支持する側とそうでない側の二つの陣営を構成する人々が物理的な取っ組み合いを始めたならば、当然の事ながらホワイトハウスの正面玄関を守る警備員セキュリティ達も黙ってこれを見過ごす訳には行かない。

「おい、止めろ! そこで殴り合っている一般市民は直ちに暴力行為を止めて、今すぐ解散しなさい! さもなければ、全員この場で拘束し、然るべき施設へと連行します!」

 揃いの制服と制帽姿の警備員セキュリティ達は拡声器を使いながらそう言って、衝突する二つの陣営の両方に向けて努めて冷静を装いつつも、暴力行為を今すぐ止めて解散するよう警告した。しかしながら怒りと興奮のボルテージが頂点に達した群衆が、一介の公務員に過ぎない警備員セキュリティ達からちょっとやそっと警告されたくらいの事でもって、はいそうですかと言って素直に解散する筈も無い。

「この小児性愛者ペドフィリア人種差別主義者レイシストどもめ!」

「何だと、この穢れた黒んぼどもが! 恥を知れ!」

 群衆の両陣営を構成する人々がそう言って罵り合いながら殴り合い、大人しく解散するような素振りを微塵も見せなければ、やがて事態を静観していた警備員セキュリティ達もまた実力行使に訴える。

「確保! 確保! 全員、逮捕する!」

 すると警備員セキュリティ達の内の指揮官らしき一人が拡声器越しにそう言ったのを合図にしながら、他の警備員セキュリティ達が警棒やテーザーガンを手に手に前進を開始し、衝突する群衆を逮捕すべく一斉に襲い掛かった。

「全員、大人しくその場から動くな! 抵抗すれば、暴力も辞さない!」

 警棒やテーザーガンを手にした警備員セキュリティ達はそう言いながら、罵り合いと殴り合いを止めようとしない群衆を一人ずつ取り押さえようとするものの、色めき立った群衆もまたそう簡単に逮捕されてくれたりはしない。

「うるさい、黙れ、この権力の犬どもめ! 我々には不当逮捕を免れる権利がある!」

「邪魔だ、とっとと失せろ! お前ら警察こそ、この場から立ち去れ! 合衆国の国民である俺達には、不正選挙に対して抗議する権利がある事を忘れたか!」

 口々にそう言って権利の有無を主張しながら抵抗する新大統領支持派と不支持派の二つの陣営、それに治安の維持を任された警備員セキュリティ達の三つの勢力がてんやわんやに入り乱れ、ホワイトハウスの正面玄関前はこれまで以上の大混乱の様相を呈し始めた。そしてその様子をパーシング公園から15thストリート越しに臨む僕ら四人に、この大混乱を利用してはならない理由は無い。

「あらあら、やはりあたしの見立て通り、あちらで一悶着起きたみたいね? でしたら皆さん、この絶好の機会でもある混乱に乗じるべく、急いで裏口へと移動する事といたしましょうか?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが15thストリート沿いの歩道をすたすたと歩いて北上し始めたので、僕と淑華、それに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの三人もまたそんな彼女の背中を追って歩き始めた。そして連邦政府庁舎の前を素通りしてから尚も歩き続ければ、やがて僕らはホワイトハウスの裏手に位置するラファイエット広場の脇の小さな出入り口の前へと辿り着いたので、足を止める。

「ほら、ね? やはりこちらもまたあたしの見立て通り、正面玄関前での騒動の鎮圧に人手を割かれて、それ以外の出入り口の警備が手薄になってしまっているでしょう?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、確かにラファイエット広場の脇の出入り口の警備は正面玄関前のそれと比べて随分と手薄で、ほんの数人の警備員セキュリティ達が道行く車輛や通行人に対して事務的に眼を光らせているだけに過ぎなかった。

「だけどホアさん、それでも警察だか民間の警備員だかの人達があそこに何人か居ますから、そう簡単に、あのゲートの内側に忍び込むって訳には行かないんじゃないですか?」

 僕は頑丈な鋼鉄製のゲートによって外と内とが区切られた出入り口を指差しながらそう言って疑義を呈するが、調子に乗ったグエン・チ・ホアは、そんな僕の疑義など一向に意に介さない。

「あら、果たして本当にそうかしら? 万丈くんったら、そんなに気を揉まれたりなさらずとも大丈夫でしてよ? まあ、そうね? 百聞は一見に如かずとも言いますし、ちょっとそこで、あたしの手腕を見てらっしゃい?」

 事も無げにそう言ったグエン・チ・ホアがラファイエット広場の脇の出入り口の傍まで歩み寄ると、その出入り口を警備している警備員セキュリティ達の内の一人が彼女の行く手を遮り、警告する。

「そこのあなた、何か用ですか? 用が無いのでしたら、ここで立ち止まらず、先に進んでください」

 制服姿の警備員セキュリティはそう言って彼女の行く手を遮り、速やかにこの場から立ち去るよう警告するが、警告されたグエン・チ・ホアもまたそうそう簡単には引き下がらない。

「ええ、そうね? 実を言いますとあたしったら、そちらの建物の中にお集まりの方々の内のお一人に、是非ともお尋ねしなければならない事がありましてね? ですからどうかこのゲートを開けて、あたし達を中に入れてはもらえないものかしら?」

 やはりグエン・チ・ホアがホワイトハウスを指差しながら事も無げにそう言えば、今度はそんな彼女を、制服姿の警備員セキュリティが問い質す番である。

「は? 何だと? おいあんた、今、何て言った?」

 グエン・チ・ホアに対する二人称を丁寧な言葉遣いである「あなた」から不躾なそれである「あんた」へと言い換えながら、制服姿の警備員セキュリティは如何にも訝しげにそう言って、彼女に詰め寄った。

「ですから、そのゲートを開けて、あたし達を中に入れてはくれないものかとお願いしていましてよ? 駄目かしら?」

「おいおい、アジアからの観光客さん? あんたが一体どこの誰だか知らないが、馬鹿も休み休み言ってくれないか? まさに今この瞬間、この広場の向こうのホワイトハウスのエグゼクティヴ・レジデンスでは、新しい大統領の就任を祝う晩餐会が執り行われている真っ最中なんだぞ? だからそんな国家的な一大イベントの会場に、招待状も持ってないあんたなんかが、まるで大統領自らが招待した来賓の様に勝手に立ち入る事が出来る訳が無いだろう? ん?」

 どうやらグエン・チ・ホアをホワイトハウスを見物しに来た観光客だと思っているらしき警備員セキュリティが、まるで彼女を諭すかのような表情と口調でもってそう言ったので、僕は諭されてしまったグエン・チ・ホアの手を引いて退却を促す。

「やっぱり無理ですよ、ホアさん! ここからは入れませんって! だから潔く諦めて何か別の、他の方法を探しましょうよ!」

 僕は背後から彼女の手を引きながら小声でもってそう言って退却を促すが、やはりグエン・チ・ホアは、そうそう簡単には引き下がらない。

「あら? 晩餐会への招待状でしたら、あたし、持っていましてよ?」

「何だと?」

 招待状を所持していると言う突然のグエン・チ・ホアの言い分に、制服姿の警備員セキュリティは眉根を寄せながらそう言って、益々を以て訝しげに彼女に詰め寄った。

「ほら、警備員さん? こちらがあたし宛てに届いた招待状ですけれども、確認していただけて?」

 グエン・チ・ホアはそう言いながら、彼女の身を包む純白のアオザイの懐から取り出した一枚の紙片を警備員セキュリティに手渡したものの、それはどう見てもバーガーキングのロゴが印刷された只の紙ナプキンである。

「おい、あんた、さっきからふざけてるのか? こんな紙ナプキンなんかが……」

 しかしながら只の紙ナプキンを手渡されてしまった制服姿の警備員セキュリティがそう言って、彼女を再び問い質そうとしたところで、不意にグエン・チ・ホアは彼女の左眼を覆う医療用の眼帯をそっとまくり上げた。

「あら? 警備員さんったら、どうかされたのかしら? ひょっとして、あたしの招待状に、何か不備でもありまして?」

 僕が立っている位置からでは陰に隠れてしまっていてよく見えないが、まくり上げられた眼帯の奥のグエン・チ・ホアの左の眼窩を覗き込んだ警備員セキュリティは言葉を失い、まるで酔っ払ってしまったかのようなとろんとした表情を浮かべながら眼の焦点が合わなくなる。

「……はい……何の不備もございません……確かに招待状を確認いたしました……どうぞこちらへ……」

 すると制服姿の警備員セキュリティは眼の焦点が合っていないとろんとした表情のままそう言って、只の紙ナプキンをグエン・チ・ホアに返却すると、ふらふらとした覚束無い足取りでもってラファイエット広場の脇の小さな出入り口のゲートの傍らへと移動した。そしてそこに設置されていたボタンを押してゲートを開けてから、グエン・チ・ホア、及び彼女の背後に控える僕らを手招きする。

「……どうぞ皆様……お入りください……」

 やはり眼の焦点が合わないままそう言って手招きする警備員セキュリティの言葉に従い、グエン・チ・ホアと僕と淑華、それに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの計四人はゲートを潜ってホワイトハウスの敷地内へと侵入した。

「ちょっとホアさん、今、一体何をしたんですか? どうしてあんな紙ナプキンなんかが招待状だなんて出鱈目が、あの警備の人に通じたんですか?」

 ゲートの向こうのラファイエット広場の敷地内を歩きながら僕がそう言って問い掛ければ、先頭を歩くグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、これに返答する。

「ええ、そうね? 実はこう見えましてもあたしったら、一級占星術師の資格を有していたりウィジャ盤とプランシェットを用いた占いなどに精通していたりするだけでなく、世間一般的には催眠術とも称されるような人の心を惑わすすべもまた心得ていましてよ?」

「催眠術?」

 グエン・チ・ホアによる突然で予想外の告白に、僕はそう言って頓狂な声を上げ、思わず鸚鵡おうむ返しになりながら驚かざるを得なかった。何故なら彼女の店に足繁く通うこの僕にとっても、まさかアンティーク雑貨店の女店主である筈のグエン・チ・ホアが催眠術などと言う浮世離れした技能を会得しているなどと言う話は、全くの初耳だったからである。

「はぁ? 催眠術ですって? ちょっとあんた、あんたの事は前々からどうにも胡散臭い女だとは思ってたけど、もうこうなったらあんたの胡散臭さも天井知らずね! きっとその内、実は占いや催眠術だけじゃなくって、ベトコンに代々伝わる秘密の魔法が使えますとでも言い出すんじゃないの?」

 僕の隣を歩く淑華もまたそう言って、驚きつつもすっかり呆れ果ててしまっている胸の内を隠そうともしない。

「とにかく、その催眠術とやらのおかげでホワイトハウスを囲む鉄柵の内側には侵入出来た訳だが、これからどうする? まさか、またその紙ナプキンを使って、晩餐会の会場にも正面から堂々と侵入するって訳じゃないよな?」

 僕ら四人の最後尾を歩く黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言って問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアは背後を振り返りも立ち止まりもしないまま、すたすたと軽快な足取りでもって歩きながらこれに返答する。

「ええ、そうね? さすがに人の数が多過ぎますと、それら全ての方々の心をあたしの心得たすべでもって惑わすと言うのも、想像するだに面倒な事ですものね? ですからこう言った時は建物の裏口から侵入し、晩餐会であれば、多くの料理人達が出入りする割には警備が手薄な厨房を経由するのが常套手段ではなくて?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女はすっかり宵闇に包まれたラファイエット広場をすたすたと軽快な足取りでもって縦断すると、そのままホワイトハウスの本丸であるエグゼクティヴ・レジデンスの裏口の方角へと足を向けた。すると程無くして目指すべき裏口、それもどうやら厨房へと続くらしい裏口と、その裏口から出入りする者の素姓をチェックする二人の警備員セキュリティ達の姿が眼に留まる。

「ほら、ね? やはりあたしが予想しました通り、厨房の裏手は警備が手薄でしてよ?」

 如何にも得意げな表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアは真っ直ぐ裏口に歩み寄るものの、そんな彼女の背中を追っていた後続の僕ら三人は、二人の警備員セキュリティ達の視界に入る寸前で足を止めざるを得ない。

「ちょっとホアさん、止まって止まって! 早く身を隠さないと、そこに居る警備の人達に見付かっちゃいますってば!」

「あら、そう? そんなに心配なさらずとも、ほんの二人くらいでしたら、どうとでもなるのではなくて?」

 まるで警戒する素振りも見せぬままそう言ったグエン・チ・ホアがエグゼクティヴ・レジデンスの裏口に歩み寄れば、当然の事ながら、その裏口を左右から挟み込むかのような格好でもって立っていた二人の警備員セキュリティ達もまた彼女の姿を見咎める。

「そこに居るのは誰だ! おい、女、両手を挙げたままその場から一歩も動くな! ここはホワイトハウスの関係者と来賓以外、今夜は立入禁止の筈だぞ! 一体どこから忍び込んだ!」

 こちらへと歩み寄るグエン・チ・ホアの姿を見咎めた二人の警備員セキュリティ達はそう言って、彼女にその場で立ち止まるよう警告しながら、腰のホルスターに納められた自動拳銃オートピストルに反射的に手を伸ばした。

「あらあら、そんなに警戒なさらないでくださるかしら? あたし、別に怪しい者ではなくってよ?」

 グエン・チ・ホアは武器などを所持していない事を証明するために両手の掌を見せながらそう言って、尚も二人の警備員セキュリティ達の元へと歩み寄るが、歩み寄られた警備員セキュリティ達もまた決して警戒態勢を解こうとはしない。

「実を言いますと、あたしったら、今宵の晩餐会に招待された者の内の一人なのですけれどもね? 開宴前にホワイトハウスのお庭を拝見させていただいている内に、うっかり迷子になってしまって、難儀しておりましてよ?」

「何だと? 迷子だって? だったら全ての来賓の名簿を管理している中央本部ヘッドクォーターズに連絡して身元を照会するから、こちらに来て、何かしらのあなたの身分を証明出来るものを提示しなさい」

「ええ、そうね? そうさせていただこうかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが二人の警備員セキュリティ達の眼の前まで歩み寄ると、不意に彼女は、医療用の眼帯に覆われた左眼を押さえながら彼ら二人に要請する。

「ところで先程から怪我をした左の眼がずきずきと痛むのですけれども、傷口が開いてしまっていないかどうか、ちょっと見てくださらない?」

「ん? どれどれ?」

 二人の警備員セキュリティ達はそう言うと、よく見えるように腰を軽く屈めて顔を突き出しながら、眼帯をまくり上げたグエン・チ・ホアの左の眼窩を揃って覗き込んだ。勿論怪我をした左眼が痛むと言う彼女の言葉は、彼らを騙すための、真っ赤な嘘である事は言うまでもない。すると次の瞬間、やはり僕が立っている位置からでは陰に隠れてしまっていてよく見えないが、まくり上げられた眼帯の奥の彼女の眼窩を覗き込んだ警備員セキュリティ達は白眼を剥いてふっと意識を失ってしまった。

「お二人とも、ごめんなさいね? 晩餐会と舞踏会が閉宴するまでのほんのちょっとの間だけで結構ですから、ここでゆっくりとお眠りになられて、何か幸せな夢でもご覧になっていてくださるかしら?」

 白眼を剥いたまま完全に意識を失い、まるでぷっつりと糸の切れた操り人形の様に彼女の足元に崩れ落ちた警備員セキュリティ達を見下ろしながら、グエン・チ・ホアはそう言ってラファイエット広場の薄暗がりに身を隠していた僕ら三人を手招きする。

「ほらほら、お三方ともいつまでもそんな所に隠れておられないで、今の内に裏口から厨房へと侵入しましてよ?」

「は、はい!」

 グエン・チ・ホアの余りにも鮮やかな手口を目の当たりにした僕はそう言って、若干噛みながらも、身を隠していたラファイエット広場の薄暗がりから飛び出した。そして僕に続いて飛び出した黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルと淑華と共に、白眼を剥いたまま地面に横たわって眠り続ける二人の警備員セキュリティ達をちらりと一瞥しつつ、グエン・チ・ホアが待つエグゼクティヴ・レジデンスの裏口の方角へと足を向ける。

「準備はよろしいかしら? でしたら、いよいよホワイトハウスの内部へとお邪魔させていただきましてよ?」

 僕ら三人の到着を確認したグエン・チ・ホアはそう言いながらドアノブに手を掛け、そのまま躊躇ためらう事無く、エグゼクティヴ・レジデンスの裏口の扉をそっと押し開けた。すると扉の向こうには業務用の冷蔵庫やオーブン、それにコンロやフライヤーなどと言った調理器具が立ち並ぶ厨房の様子が垣間見え、純白のコック服とコック帽に身を包んだ料理人達の忙しなく働く姿もまた見て取れる。

「ほら、ね? 如何かしら? 先程も同じような事を申し上げましたけれども、やはりあたしが予想しました通り、この裏口こそがエグゼクティヴ・レジデンスの厨房へと続く出入り口で間違い無かったでしょう?」

 まるで勝ち誇ったかのような表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアは、如何にも自慢げに鼻を高くしながら、一昔前の漫画かアニメさながらに「えっへん!」との咳払いと共に胸を張った。

「それでホアさん、ホアさんの思惑通り厨房へと侵入する事は出来ましたが、これから僕ら、どうします?」

 するとそう言った僕の問い掛けに対して、グエン・チ・ホアは周囲の様子をきょろきょろと確認しつつも、これから僕や彼女らがどうすべきか暫し考えあぐねる。とは言え厨房の其処彼処そこかしこで忙しなく働く幾人もの料理人達に、僕ら四人はこれまた如何にも訝しげな視線でもってじろじろと睨め回されているのだから、一刻も早く今後の指針を決定してくれなければこちらの正体がバレてしまうと思うと気が気ではない。

「ええ、そうね? でしたらいつまでもこんな所でこそこそしてないで、本物の来賓にでもなったつもりでもって、晩餐会の会場に堂々と足を踏み入れてみると言うのは如何かしら? こう言った不特定多数の大勢の方々が集まっているような空間では、むしろ何が悪いのかとでも言わんばかりに堂々とされていた方が、却って怪しまれないと言うものでしてよ?」

 暫し考えあぐねていたグエン・チ・ホアはそう言って顔を上げ、そのまますたすたと軽快な足取りでもって厨房を縦断したかと思えば、その厨房から続くエグゼクティヴ・レジデンスの廊下へと躍り出た。そして彼女は僕ら三人を背後に従えながら、廊下を渡った先の、晩餐会の会場である中央センターホールの方角へと足を向ける。

「ご機嫌よう、マダム? 今宵は楽しまれておいででして?」

 エグゼクティヴ・レジデンスの廊下を堂々と胸を張りながら歩くグエン・チ・ホアはそう言って、偶々たまたますれ違った本物の来賓の高齢女性とも気さくに挨拶を交わし合い、まさかそんな彼女がこの場に無断で潜り込んだ闖入者の一人だなどとは露ほども疑われない。そして大理石敷きの廊下を渡り切ったグエン・チ・ホアと僕と淑華、それに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの計四人は、やがてエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールへと足を踏み入れた。

「あらあら、随分と盛況なご様子じゃない?」

 周囲の様子をぐるりと確認しながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、僕ら四人が足を踏み入れた中央センターホールは正礼装に身を包む数多の来賓達でもって賑わい、彼ら彼女らが腰を下ろすテーブルとテーブルとの間を行き交う給仕達の姿もまた見て取れる。

「さて、と? でしたらあたし達が問い詰めねばならない筈の、あたしのお店から『ちびくろサンボ』の原書を盗み出そうとされた本田サイモン仁さんは、果たして今、この会場のどちらにいらっしゃるのかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが再び周囲の様子を確認し直してみたならば、彼女を含む僕ら四人が立っている扉の傍とは反対側の中央センターホールの最奥の方角に、仕立ての良いタキシードに身を包む一人のアジア人の中年男性の姿が見て取れた。そしてそのアジア人の中年男性こそ『Hoa's Library』に忍び込んだ空き巣でありながら、また同時にアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の血の繋がらない従弟でもある、本田サイモン仁その人に他ならない。

「あらあら、本田サイモン仁さんったら、そちらにいらっしゃいましたのね? とうとう追い詰めさせていただきましてよ?」

 不敵にほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアが、晩餐会が執り行われている最中のエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを縦断すべく一歩を踏み出した、まさにその時だった。ホールの最奥の席の内の一つに腰を下ろしていた一人の中年男性が不意に立ち上がったかと思えば、ぱんぱんと両手を打ち鳴らし、晩餐会の会場を埋め尽くす来賓達に訴える。

「紳士淑女の皆さん! 晩餐会への招待を快諾してくださった皆さん! どうぞ、こちらにご注目ください!」

 両手を打ち鳴らしながらそう言って来賓達の耳目を引いたのは、これまた仕立ての良いタキシードに身を包んだ一人の黒人の中年男性、つまり本日の主役であり主賓でもあるアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領その人に他ならなかった。そしてどうやら彼は、晩餐会の会場であるエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達に向かって、一席打とうと言うつもりらしい。

「皆さん、本日はお忙しい中こうしてお集まりいただきまして、誠にありがとうございます! 就任式の関係者と責任者、そしてつい数時間前に発足したばかりの新政府を代表しまして、私、アンブローズ・トマス・ホンダが厚く御礼申し上げます!」

 アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がそう言って感謝の言葉を口にしたならば、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールは一旦カトラリーを持つ手を止めた来賓達による万雷の拍手に包まれ、その拍手が止むのを待ってから彼は再び口を開く。

「今宵、私は一般の国民の方々に先んじて、この場にお集まりくださった皆さんにお伝えしておきたい事がございます! それは何を隠そう、合衆国史上初の直接選挙によって選ばれた大統領であるこの私が見据える、この国の未来の在り方に関する決意表明に他なりません!」

 如何にも政治家らしく姿勢を正して胸を張り、堂々とした表情と口調でもってそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に、エグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールは再びの万雷の拍手に包まれざるを得ない。

「あらあら? 決意表明ですって? アンブローズさんったら、一体どのようなお話をお聞かせしてくださるのかしら?」

 中央センターホールを縦断しようとしていた足を一旦止めると同時に、くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは、手近なテーブルの天板の上に並べられていた手付かずのシャンパングラスの内の一つをそっと掠め取った。そしてそのシャンパングラスの中身をすいすいと飲み下しつつ、彼女の視線の先の、テーブルを挟んだ中央センターホールの最奥に立つアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の言葉に耳を傾ける。

「これから私が皆さんにお伝えすべき決意表明の内容に、この場にお集まりくださった皆さんは、きっと口から心臓が飛び出るほど驚かれるに違いありません。しかしながら、それは決して昨日今日になってから閃いたかのような安易な思い付きなどではなく、この私が確固たる自我に目覚めた多感な時期からずっとずっと想い描いていた夢である事を、どうかご理解ください。そう、夢です。リンカーン記念堂の前での演説で「私には夢がある《I Have a Dream》」と語った、かのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師と同様に、私にも夢があるのです!」

 声高らかにそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の、まるでマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の魂が乗り移ったかのような威風堂々とした姿に、その場に居合わせた多くの者達はこれから始まる決意表明の内容におのずと期待せざるを得なかった。そして彼はエグゼクティヴ・レジデンスの中央センターホールを埋め尽くす来賓達と、僕ら四人の闖入者達にもまた見守られながら、尚も語り続ける。

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