第十三幕


 第十三幕



 やがて夜が明け、僕ら四人は新たなる年の一月一日、つまり第■■代アメリカ合衆国大統領就任式が執り行われる日の朝を迎えた。

「あらあら、それにしましても、想像していた以上に物凄い人出ではなくて?」

 周囲をぐるりと見渡しながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、午後から祝賀パレードが執り行われるペンシルベニア通りの沿道は新たな合衆国大統領を一眼見ようと集まった数多の観衆でもって埋め尽くされ、まさに文字通りの意味でもって足の踏み場も無い。

「ああ、そりゃそうさ。なにせ合衆国大統領の就任式と言ったら最低でも四年に一度の一大イベントと来たもんだから、ここに集まっている連中の中でも一番前の方に陣取っているような熱心な愛国者達に至っては、一週間も前から泊まり込みで場所取りをしているって噂だからな」

「あら、そうですの? だとしたら、その泊まり込んでいる愛国者の方々を24時間に渡って警備されたり監視されたりする地元のお巡りさん達も、愛国心の有無にかかわらず大変なお仕事ね?」

 やはりそう言ったグエン・チ・ホアと黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの遣り取りの言葉通り、残念ながら僕ら四人は観衆の最前列には並べず、ずっと後方からパレードを垣間見る事しか出来ないようなポジションを確保するのがやっとと言った有様である。

「それにしても、未だパレードどころか就任式そのものも始まってないって言うのに、もう既にお祭り騒ぎになっちゃってるんじゃないの?」

 僕の隣に立つ淑華は沿道を埋め尽くす観衆に取り囲まれながら如何にも鬱陶しげにそう言うと、彼女の身を包む羊毛ウールのダッフルコートのポケットからスマートフォンを取り出し、ネット上でライブ配信されている就任式の進行状況を確認した。するとちょうど動画配信サイトのアプリを立ち上げたところで、合衆国では有名らしい黒人の女性歌手が議会議事堂のバルコニーに姿を現し、上院議長による開式宣言に続いて国歌の独唱を開始する。

「♪」

 すると議会議事堂の就任式場に招待された来賓達だけでなく、ペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くす観衆もまた老若男女を問わず一斉に姿勢を正しながら、アメリカ合衆国の国歌である『星条旗』を斉唱し始めた。


 ♪おおキミは見えるだろうか夜明けの薄明かりの中♪

 ♪黄昏の煌めきに我々が何を誇らしげに称えているのかを♪

 ♪その太い縞模様と輝く星は危険に満ちた戦いの中でも♪

 ♪城壁の上で勇ましく翻っているのを見た♪

 ♪砲弾の赤い光を纏い空中で破裂する中♪

 ♪我々の旗が一晩中戦い続けて来た証だ♪

 ♪おおあの星条旗はまだたなびいているだろうか♪

 ♪自由の大地と勇者の故郷の上で♪


 国歌『星条旗』を声高らかに斉唱し終えた観衆は拍手喝采し、口笛を吹き鳴らしながら愛する祖国とそこに住む人々を称え合う彼ら彼女らの表情は晴れやかで、まさに愛国者の矜持とでも表現すべき威厳と尊厳に満ち満ちている。

「ハリウッドの映画などでもこう言った愛国心溢れるシーンを時折お見掛けしますけれども、合衆国の方々ったら、本当にご自分の国の国旗とか国歌とかがお好きなのね?」

「まあ、昔っからアメリカ人って、フィクションノンフィクションを問わずそう言うもんですから」

 僕とグエン・チ・ホアがそう言って合衆国の国民の気質について論じ合っているその間にも、国歌を独唱し終えた女性歌手は議会議事堂のバルコニーから立ち去り、代わってアンブローズ・トマス・ホンダ政権で副大統領を務めるらしき黒人男性が姿を現した。そして演壇に立った彼は右手を挙げながら、厳かに宣誓する。

「私、アーネスト・フィッツジェラルド・オブライアンは、厳粛に誓います。合衆国憲法を支持し、守ります。国外と国内の、全ての敵からです。真の信義と忠誠を憲法に対して抱き、この義務を自由な意志の下に引き受けます。一切の疑念や見えざる意図は無く、また良好に、かつ信義を以て実行します。私が就こうとする職権に於いてです。神よ、ご加護を」

 右手を挙げながらそう言って次期副大統領であるオブライアン氏が厳かに宣誓を終えると、議会議事堂とペンシルベニア通りの沿道に、割れんばかりの盛大な拍手と口笛とが再び鳴り響いた。そして四度のファンファーレに続いて副大統領に捧げられる曲である旧国歌『コロンビア万歳』が演奏されたならば、遂に次こそは、満を持して新大統領が宣誓する番である。

「私、アンブローズ・トマス・ホンダは、厳粛に誓います」

 演壇に立った仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包む一人の黒人男性、つまり今日この日を以てアメリカ合衆国大統領に就任すべきアンブローズ・トマス・ホンダが右手を挙げながら、合衆国最高裁判所長官の面前でそう言って宣誓を開始した。

「合衆国大統領の職務を、忠実に遂行します。そして、全力を尽くす所存です。合衆国憲法を保護、維持、遵守します。神のご加護を」

 そう言って壇上のアンブローズ・トマス・ホンダが宣誓を終えれば、彼の面前に立つ合衆国最高裁判所長官及び議会議事堂のバルコニーに招待された来賓達は、万雷の拍手と口笛と賛辞でもって彼を称える。

「おめでとうございます、大統領!」

「就任おめでとうございます!」

 そして副大統領の時と同じく四度のファンファーレに続いて、今度は大統領に捧げられる曲である『大統領万歳』が演奏されたかと思えば、アメリカ陸軍第三歩兵連隊の手による二十一発の礼砲の音がこれを締め括った。

「あらあら? 畏れ多くも世界随一の超大国と謳われて止まないアメリカ合衆国の大統領のそれにしましては、随分と手短で、やけに素っ気無い宣誓なのではないかしら? まさか副大統領の宣誓の言葉よりも大統領のそれの方が簡素だなんて、あたしったら肩透かしを喰らってしまったとでも申し上げましょうか、とにかくほんのちょっとばかり驚いてしまいましてよ?」

 小首を傾げながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、確かにアンブローズ・トマス・ホンダによる宣誓は驚くほど手短で素っ気無く、ついうっかり余所見をしていたら聞き逃してしまいかねないほどの寸言すんげんであったと言わざるを得ない。そしてそんな寸言すんげんの余韻にひたる暇も無いまま、再び演壇に立った大統領はアメリカ合衆国の全国民、いてはこの地球上の全人類が傾聴すべき就任演説に取り掛かる。

「……今この瞬間、老若男女を問わず私の声が届く範囲の内側に居るであろう全ての人々に、アンブローズ・トマス・ホンダと言う名の合衆国大統領の誕生をお伝え出来る事を神に感謝いたします」

 そう言った神への感謝の言葉こそが、アンブローズ・トマス・ホンダの就任演説の第一声であった。

「私がジョージ・ワシントンが初代合衆国大統領に就任した1789年の春以来、実に二百数十年余りの紆余曲折を経た後に、全米史上初の直接選挙によって選ばれた最初の大統領である事は、今更言うまでもない事でしょう。そしてこの事実はひとえに、アメリカ合衆国が誇る民主主義とその精神が新たな段階へと昇華されたと言う事を、如実に物語って止みません」

 壇上のアンブローズ・トマス・ホンダはそう言うと、彼の右手の三本の指でもって、自らの頬を撫でる。

「また同時に、どうか皆さん、少しでも近くに寄ってご覧ください。私のこの身体を覆っている瑞々しい皮膚の色は、果たして何色でしょうか? そう、ご覧の通り、私は黒人です。それも他人種との混血などではない、純粋な、かつてアフリカ大陸から強制的に連れて来られた黒人奴隷の直系の子孫です。そんな黒人奴隷の子孫が大統領、つまり合衆国の政治の頂点の地位を合法的に得たと言う事実もまた、この国の民主主義とその精神のより一層の進歩と発展を物語って止まないでしょう」

 胸を張りながらそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダの言葉に呼応するかのような格好でもって、僕のすぐ背後に立つ黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは興奮し、ともすれば鼻息も荒いまま矢鱈と乱暴な拍手を送っていた。

「しかしながら、そして甚だ残念な事ながら、私達はそうそう楽観的になってもいられません」

 すると壇上のアンブローズ・トマス・ホンダはそう言って、不意に神妙な面持ちになりながら、声色を変える。

「惜しむらくも今現在のアメリカ合衆国は、世界人類は、実に数多くの深刻な問題を抱えているのが偽らざる現状です。貧困と経済格差、戦争と紛争、自然災害と環境破壊、疫病と薬物汚染、暴力と銃の蔓延等々、枚挙にいとまが無い程の無理難題を前にしながら、我々はそれらの問題を解決するための糸口さえ掴めていないのです」

 議会議事堂のバルコニーに用意された演壇の上からそう言って、三つ揃えのスーツに身を包むアンブローズ・トマス・ホンダがアメリカ合衆国が直面している社会問題の数々を列挙したならば、彼の言葉に熱心に耳を傾けていた観衆は一瞬しんと静まり返らざるを得ない。

「ですが皆さん、決して悲嘆に暮れる事はありません。希望は常に、皆さんの眼の前で燦然と輝いております。何故なら先程も申し上げました通り、黒人奴隷の直系の子孫であるこの私が全米史上初の直接選挙によって合衆国大統領に選ばれたと言う事実こそ、この国の喫緊の課題の一つである人種差別問題を解決したいと言う国民の決意と総意の表れに他ならないからです」

 そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダの言葉に、しんと静まり返っていた観衆は色めき立った。

「歴史を紐解けば1492年10月12日、クリストファー・コロンブスが北米大陸を再発見したその瞬間から、世界に冠たるアメリカ合衆国の歴史は始まりました。そして1619年8月20日、一隻のオランダ船がジェームズタウンに於いて最初の20人の黒人奴隷を陸揚げした事によって、忌まわしき黒人奴隷の歴史もまた始まったのです」

 すると議会議事堂に招待された来賓達とペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆は、虚空を見上げながらそう言った壇上のアンブローズ・トマス・ホンダの言葉に、再び熱心に耳を傾ける。

「その後のこの国に於ける黒人奴隷とその子孫達の歴史は、この場にお集まりくださった皆様も、重々ご承知の事でしょう。1770年3月5日に発生した『ボストン虐殺事件』で怒れる群衆の先頭に立ち、最初の三人の犠牲者の内の一人としてイギリス駐屯軍の凶弾に倒れた黒人青年クリスパス・アタックスは、混血の元奴隷でした。また1804年1月1日にはカリブ海に浮かぶハイチ共和国が独立を宣言し、皇帝ジャン=ジャック・デサリーヌと彼が率いる黒人奴隷達の手によって、史上初にして唯一の奴隷革命による独立国家が生み出されました。勿論1831年1月1日には奴隷解放論者だったウィリアム・ロイド・ガリソンが『解放者リベレーター』を発刊し、1847年12月3日には同じく奴隷解放論者であったフレデリック・ダグラスが『北極星ノース・スター』を発刊するなど、ジャーナリスト達の手による草の根活動も忘れてはなりません。そして1860年の大統領選に於いてエイブラハム・リンカーンが当選すると、翌1861年4月12日、遂にあの南北戦争が勃発します」

 南北戦争、それはおよそ四百年余りのアメリカ合衆国の歴史に於いて、今尚最大の犠牲者を出した内戦である事は論をたない。

「黒人奴隷であろうと自由黒人であろうと、実に数多くの有名無名を問わない黒人兵士達が南軍北軍の別無く戦い、その若く高潔な命を戦火に散らしました。きっと彼らの内の多くの者達が、心から信じていた事でしょう。この戦いが終われば、自由になれると。戦って自軍の勝利に貢献すれば、黒人の社会的地位が向上するに違いないと。そして開戦から一年と五か月余りが経過した1862年9月22日と翌1863年1月1日、先のエイブラハム・リンカーンの命令に従い、あの有名な『奴隷解放宣言』が二部に分割されながら発布されたのです」

 演壇の上からそう言って南北戦争と奴隷解放宣言について言及したアンブローズ・トマス・ホンダは、一旦口を閉じて演説を中断し、押し黙った。そして暫しの沈黙の時間を経た後に、ペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆が静寂に耐え切れなくなった頃合いを見計らって、再び口を開く。

「とは言え、奴隷解放宣言とそれに伴う諸法規が発布、及び施行されたからと言って、黒人奴隷に関する全ての問題が立ち所に解決したと言う訳ではありません。公然と奴隷を所有する事こそ法律の上でもって禁じられはしたものの、それだけではこの国の社会構造の中に深く深く根付いてしまった人種差別は払拭されず、有形無形、合法非合法を問わずくすぶり続けたのです」

 壇上のアンブローズ・トマス・ホンダがそう言えば、ペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆の中から「そうだそうだ!」と言って、彼に賛同する声が上がった。

「相も変わらず市営バスに乗った黒人は後方の座席に座る事を強要され、メジャーリーグのどの球団に眼を向けても黒人の選手は一人もらず、トイレもシャワーも水飲み場すらも、白人とは別の施設を利用しなければ凄惨な私刑リンチの憂き目に遭いました。勿論この間、所謂いわゆる人頭税ポール・タックス』や『筆記試験リテラシー・テスト』などの違法とも言える手段によって、何の落ち度も無い筈の黒人達から選挙権が剥奪されていた事も忘れてはなりません。そしてこの状況は、やはり数多くの有名無名を問わない黒人兵士達が従軍した第二次世界大戦が終結しても、一向に改善されませんでした」

 そう言った壇上のアンブローズ・トマス・ホンダは一瞬言葉を区切って沈黙したかと思えば、やがて一拍の間を置いた後に、声を張り上げる。

「しかしながら第二次世界大戦の終結から数年の時を経て、遂にとでも言うべきか、それともようやくとでも言うべきか、とうとう黒人奴隷の子孫達を取り巻く環境は大きな転換点を迎える事となります。そうです、かの有名なマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の登場と、バス・ボイコット運動に端を発する、かつて無い程の公民権運動の活発化です!」

 声高らかにそう言った壇上のアンブローズ・トマス・ホンダと、そんな彼の姿に呼応するかのような格好でもって拳を振り上げる観衆のボルテージは、勢い最高潮に達さざるを得ない。

「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の活躍の詳細に関しては、今この場にお集まりの聡明で博識なアメリカ合衆国の国民の皆さんであるならば、今更説明されるまでもなくご存知の事でしょう。彼は非暴力主義を徹底しつつも公民権運動に尽力し、黒人奴隷の子孫達が白人と同じ権利と地位とを獲得する事を夢見ながら、惜しむらくもジェームズ・アール・レイと言う名の一人の白人男性の手によって道半ばで暗殺されてしまいました。しかしながらキング牧師の運動が実を結び、結果として公民権法を早期に制定させたと言う揺るぎない事実こそ、彼が永遠に語り継がれるべき殉教者である事を証明しているのです!」

 壇上からそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダの言葉に、彼の一挙手一投足に視線を注ぐ観衆は固唾を飲む。

「生前のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、1963年8月28日に行われた奴隷解放宣言百周年を記念するワシントン大行進の際に、リンカーン記念堂の前で行った演説でもって「私には夢がある《I Have a Dream》」と言いました。そして勿論、この私、アンブローズ・トマス・ホンダにも夢があります。その私の夢の詳細に関しては追々語らせてもらう事として、夢と言えば、かつてこの国には『アメリカン・ドリーム』と呼ばれる言葉がありました。それは個人の出自や階級に関係無く、自らの努力でもって成功を掴み取る事が出来ると言う意味の、自由、平等、民主主義と言ったこの国の理念に立脚した言葉です。しかしながら、今現在のアメリカ合衆国に、果たして本来の意味での『アメリカン・ドリーム』が存在するのでしょうか? 巷を見渡せば人種や性別に基づく差別や偏見が蔓延し、貧困の世代間連鎖によって貧富の格差が固定され、どれだけ努力したところで一向に報われない若者がそこかしこで怨嗟と絶望の悲鳴を上げているのが実情です。このままでは、いずれ『アメリカン・ドリーム』と言う言葉は、悪夢を意味する言葉へと変貌してしまう事でしょう」

 沈痛な面持ちのままそう言った壇上のアンブローズ・トマス・ホンダは、観衆の眼と耳とが自分に向けられているのを確認するかのような格好でもって言葉を区切り、再び沈黙した。そしてやはり一拍の間を置いた後に、またしても拳を振り上げながら、声を張り上げる。

「ですから皆さん、私はこの国を、アメリカ合衆国を再び夢が叶う国に、若者が夢を追い求める事が出来る国へと蘇らせたいのです! その『アメリカン・ドリーム』の再建こそが私の切なる願いであり、この国が目指すべき未来の、そして本来の在るべき姿なのではないでしょうか!」

 そう言ったアンブローズ・トマス・ホンダの言葉に、ペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆は、かつて無い程色めき立った。

「甚だ僭越ながら、以上の決意表明を以ちまして、私、アンブローズ・トマス・ホンダの就任演説に代えさせていただきます。この場にお集まりの来賓の皆さん、それに、テレビやラジオの前にお集まりの国民の皆さん。最後までご清聴いただき、誠にありがとうございました」

 最後にそう言って壇上のアンブローズ・トマス・ホンダが就任演説を締め括れば、議会議事堂に招待された来賓達とペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆は、まさに万雷の拍手と大地が揺れんばかりの大歓声でもってこれを称えて止まない。そしてそれらの観衆の中でも、特に黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは僕の耳の鼓膜が破れてしまうのではないかと思う程の、文字通りの意味でもって割れんばかりの拍手を送っている。

「ブラボー! ブラーボー! 素晴らしい! ああ、なんて、なんて素晴らしい就任演説なんだ!」

 割れんばかりの拍手と共にそう言って喝采の声を上げた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、余りの感動に打ち震え、その両の眼の奥にうっすらと大粒の涙さえ浮かび上がらせていた。しかしながらそんな短絡的な黒色人種ネグロイドの青年とは対照的に、彼の隣に立つグエン・チ・ホアは至って冷静で、むしろすっかり白けてしまっているかのような様子である。

「あらあら? 何だか随分と抽象的で、やけにぼんやりとした内容の就任演説だったのではないかしら? 貧困の世代間連鎖や貧富の格差に言及されてはおりますけれども、それらの諸問題を解決するための具体的な手段や方法については触れておりませんし、その点は夢が叶う国の再建とやらに関しましても同様でしてよ? それに貴重な筈の演説時間の大半を、アメリカ合衆国に於ける黒人奴隷とその子孫達の歴史と現状の再確認にばかり割いてしまっていては、その当事者以外の方々にとっては不満が残る結果となりかねないのではなくて?」

 グエン・チ・ホアは小首を傾げながらそう言って、アンブローズ・トマス・ホンダの就任演説の内容の無さに疑義を呈するが、新大統領にすっかり心酔してしまっているらしい黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはこれに同意しない。

「おい、グエン・チ・ホア! あんた、さっきから黙って聞いてやってれば、一体何て事を言うんだ! 大統領は俺達黒人が受け入れざるを得なかったこの国の差別の歴史について、同じ黒人奴隷の子孫としての立場から、敢えて言及してくれたんだぞ! それを、よりにもよって「やけにぼんやりとした内容の就任演説だった」と評するだなんて、あんたの耳は笊耳ざるみみか!」

 その両の眼にうっすらと涙を滲ませながらそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、どうにも怒り心頭の様子である。

「あら、そう? あたしの言い方がまずくてご気分を害されたのでしたら、ごめんなさいね? けれどもあたしが耳にした限りですと、やはりアンブローズさんの就任演説の内容からは、彼が如何なる政策を前面に押し出そうとしているのかを汲み取る事が出来なくてよ?」

「だから、それこそ夢が叶う国を、若者が夢を追い求める事が出来る国を蘇らせる事だと言ってるじゃないか!」

「それって、果たして具体的な政策と言えるのかしら? むしろそのような国を蘇らせるために何をすべきかと言った点に言及されなければ、一国の政策としましては、甚だ片手落ちなのではないかと言わざるを得ないでしょう? それに演説の途中途中で登場する歴史的人物の名前をわざわざフルネームでもって呼ばれたり、歴史的な出来事が勃発した日の日付をいちいち西暦から羅列しようとなさるのは、それ以外に具体的な事実を述べる事が出来ないと言う自信の無さのあらわれではなくて?」

「! ……いや、そんな筈は無い! 大統領は今は未だ言及すべきタイミングを見計らっているだけで、具体的な政策を、ちゃんと準備している筈だ! そうだ、そうに決まってる!」

「ええ、そうね? それが事実でしたら、何の問題もありませんものね?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、これ以上この話題について論じ合う事を、それとなく拒否した。しかしながら彼女の手によって体良くあしらわれてしまった感のある黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、暫しの間、未だ何か言いたげな様子でもってもごもごと言葉になりきらない言葉を口の中で反芻し続けるばかりである。

「さて、と? 確か就任演説の後は祝賀パレードが始まる時間までの間、アンブローズさんと来賓の方々は、議会議事堂での祝賀昼食会に出席なさるんでしたっけ? でしたらあたし達も、この空いた時間を利用して、昼食を摂る事にしましょうね?」

 就任演説を聞き終えて一段落した様子の観衆にぐるりと周囲を取り囲まれながら、改めてそう言ったグエン・チ・ホアは、彼女が両手に抱えていた大きな紙袋をおもむろに持ち上げた。持ち上げられた紙袋にはバーガーキングのロゴがでかでかと印刷されており、その中には今朝このペンシルベニア通りの沿道に並ぶ前にバーガーキングコネチカットアベニュー店で購入して来た、僕ら四人分のハンバーガーやフライドポテトやドリンク類などがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

「あらあら? やはりこうも気温が低いようですと、残念ですけれども折角の温かかったお料理もお飲み物も、すっかり冷め切ってしまっているのではないかしら?」

 バーガーキングの紙袋を開けながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、調理し立てだった筈のハンバーガーも揚げ立てだった筈のフライドポテトも、それに淹れ立て熱々だった筈のホットコーヒーもすっかり冷めて冷たくなってしまっていた。ここワシントンD.C.の元日の平均気温はおおよそ0℃前後と寒冷なのだから、数時間に渡って戸外で持ち歩かれた料理が冷めてしまった事を嘆いても、それは詮無い事であると言わざるを得ない。

「そうは言っても、調理し終わってから時間が経ったハンバーガーが冷めちまうのは、どうしたって仕方が無い事さ。だからこれはこれで、アメリカ合衆国が誇る持ち運べるジャンクフードの醍醐味だと思って諦めて、むしろその味を楽しもうぜ」

 しかしながらそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、ワッパーサイズの冷め切ったハンバーガーをグエン・チ・ホアの手から受け取ると、それをさも美味しそうにむしゃむしゃと食み始めた。

「まあ、そうだね。ハイキングかピクニックにでも来たと思えば、晴れ渡る冬空の下で食べる冷めたハンバーガーってのも、たまには悪くないんじゃないかな」

そこで僕もまたそう言って黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの意見に賛同し、やはり彼と同じくグエン・チ・ホアの手から受け取った冷め切ったハンバーガーをむしゃむしゃと美味しそうに頬張りはしたものの、僕の隣に立つ淑華ばかりはどうにも納得していない様子である。

「だけどフライドポテトはやっぱり、冷めたら酸化した揚げ油でもってべちゃべちゃしてるししなびちゃってるしで、どれだけ贔屓目に見たって不味いに決まってるじゃない。あたし、別に大統領のパレードとか全然興味無いから、暖かい部屋の中で温かい食べ物が食べたかったな」

「あらあら? 淑華ちゃんったら一生に一度だって生で拝見出来るかどうかも分からない合衆国大統領の祝賀パレードなんかよりも、揚げ立てのフライドポテトを暖かい部屋の中で食べられるか否かと言った点の方に、興味がおありなのね? これこそまさに『花より団子』と言う古典的なことわざが、食べ盛りのZ世代の若者の真の姿を如実に言い表している事の、証左となるべき発言なのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアがくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言えば、彼女の態度が気に喰わない淑華は「はぁ? ねえ、何よそれ? あたしみたいなZ世代の若者には、花を見る眼が無いって言いたい訳?」と言って、ぷりぷりと怒りを露にした。とは言えそんな淑華もまた空腹には敵わないらしく、他に食べる物が無い彼女は、すっかり冷め切ったハンバーガーとフライドポテトを渋々ながらも口に運ばざるを得ない。

「ん?」

 そして不意にペンシルベニア通りの沿道の様子の変化に気付いた僕がそう言って周囲を見渡してみたならば、僕ら四人を取り囲む観衆もまたホットドッグやサンドイッチやタコスやテイクアウトの中華料理などの持ち歩けるファストフードでもって各々の空腹を満たしつつ、議会議事堂内で執り行われている筈の祝賀昼食会が終わるのを今か今かと待ち構えているのが見て取れる。

「ああ、そうか、ここに居る皆もパレードが始まるまでの空いた時間を有効活用するために、ちゃんと事前に昼食を用意して持ち込んでおいたって訳ね」

 指に付いたケチャップを舐め取りながらそう言った僕が淑華とグエン・チ・ホア、それに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルを含めた計四人で雑談しながら昼食を摂り続ければ、やがて大統領と来賓達による祝賀昼食会が閉会した事がスマートフォン越しに告げられた。そして就任したばかりのアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領が最初の公務であるところの各種行政文書への署名を終えると、いよいよ次こそは、ペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くす観衆が待ちに待った議会議事堂からホワイトハウスまでの祝賀パレードの時間の到来である。

「!」

 楽団が奏でる音楽に合わせて行進する合衆国陸軍の兵士達、それも手に手にサーベルや小銃を携えた正装の兵士達が先陣切って姿を表すと、色めき立った観衆による歓呼の声がペンシルベニア通りとその沿道に響き渡った。そして満を持してアメリカ合衆国大統領専用車『キャデラック・ワン』、通称『ザ・ビースト』が星条旗と大統領旗を寒風になびかせながら議会議事堂の正門を潜ったその瞬間、観衆の興奮のボルテージは勢い頂点に達する。

「大統領万歳! 合衆国万歳!」

「合衆国とその大統領に、神の祝福あれ!」

「USA! USA! USA! USA!」

 各々が手にした星条旗や州旗やプラカードを前後左右に激しく振りながら、ペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆はそう言って声を張り上げ、彼ら彼女らの眼の前を通過する『ザ・ビースト』に乗っている筈の大統領を称えて止まない。そしてそんな祝賀パレードの車列が僕ら四人の眼の前のブラジル料理店の店先に差し掛かったところで、不意に『ザ・ビースト』が徐々に速度を落とし始めたかと思えば、やがて通りのど真ん中で完全に停車した。

「あら? 一体どうされたのかしら?」

 するとそう言って訝しむグエン・チ・ホアの視線の先で、停車した『ザ・ビースト』の後部座席の分厚い扉が開いたかと思えば、車内から姿を現したアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領がペンシルベニア通りの路面へと降り立ったのである。

「大統領万歳! 合衆国万歳!」

 途中から徒歩で移動するのは就任式の祝賀パレードに於ける恒例行事とは言え、この嬉しいサプライズには沿道を埋め尽くした観衆も、先程頂点に達したかと思われたボルテージから更に上のボルテージへと色めき立たざるを得ない。

「あらあら、車から降りて直接国民と触れ合っている姿をお見せするだなんて、なかなか粋な演出なのではないかしら? それとも、敢えて穿うがった見方をするとしたならば、新大統領の寛大さを殊更わざとらしく誇張しようとする姑息な演出でしてよ?」

 そう言ってグエン・チ・ホアが皮肉の言葉を口にしたならば、そんな彼女に反論しようと黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルもまた口を開き掛けはしたものの、もごもごと言葉になり切らない言葉を発しただけで口をつぐんでしまった。どうやら彼はこの数日間で、口論や口喧嘩ではグエン・チ・ホアに勝てない事を、すっかり学習してしまったらしい。

「ありがとう! 私と私の政策を支持してくださった全国の有権者の皆さん、どうもありがとう!」

 そして黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが口篭もっているその間も、仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包んだアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領はそう言って観衆に向かって手を振り、時には観衆の最前列に並ぶ人々の元へと駆け寄って彼ら彼女らと固い握手を交わし合いながら、ホワイトハウス目指してペンシルベニア通りを歩き続ける。

「本日は遠路遥々、ここワシントンD.C.までお集まりくださった国民の皆さん、本当にお疲れ様でした! 皆さんのご期待に応えられますよう、私も私の側近達も誠心誠意尽力いたしますので、今後とも暖かい眼で見守っていてください! どうもありがとうございました! 偉大なる合衆国とそこに住む全ての人々に、神の祝福を! ハレルヤ!」

 最後に手を振りながらそう言ったアンブローズ・トマス・ホンダ新大統領は、要人警護官シークレットサービスの大柄な男達に身辺を警護されたまま、やがて辿り着いたホワイトハウスの正面玄関の扉の向こうへとその姿を消した。するとペンシルベニア通りの沿道を埋め尽くした観衆は一際大きな拍手を打ち鳴らし、それが祝賀パレードの終焉を告げる花火か喇叭らっぱ代わりになって、目的を果たした観衆もまた各々の帰宅の途に就き始める。

「どうやらこれで、正午前から続いたアンブローズ・トマス・ホンダさんの就任式も、恙無つつがなく幕が下ろされたみたいね?」

 ここまで来るのに利用した公共交通機関の駅や空港、もしくは自家用車マイカーを停めた駐車場などを目指して散り散りになる観衆の只中で、グエン・チ・ホアが感慨深げにそう言った。

「でしたら今夜あたし達が潜入する予定の晩餐会と舞踏会が開宴される迄の暫しの間、一旦ホテルへと戻って、ゆっくりと熱いお茶でも飲みながら時間を潰す事といたしましょうね?」

 そしてそう言った彼女に先導されながら、僕と淑華、それに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルを含めた計四人は踵を返し、誰かが放り捨てた星条旗がそこかしこに転がるワシントンD.C.のペンシルベニア通りを後にする。

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