第十二幕


 第十二幕



 ジュネーヴ国際空港を発ってからおよそ八時間後、僕ら四人を乗せたユナイテッド航空の旅客機は、やがてアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.から程近いワシントン・ダレス国際空港の滑走路へと着陸した。

「あらあら、こんな真冬の夜中だと言うのに、この街は随分と賑やかではなくて?」

 バージニア州道267号線を空港のタクシー乗り場で拾ったタクシーでもって東進し、市街地の外れで降車するや否や周囲の様子をうかがいながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、ワシントンD.C.の街がお祭り騒ぎとでも表現すべき熱気と喧噪に包まれているのが僕ら四人の眼にも見て取れる。

「ああ、そうだな。何と言っても今日は大晦日、そして明日は新年最初の日であると同時に、新しいアメリカ合衆国大統領の就任式が執り行われる日だからな。浮かれて騒ぎ出すような連中が街中に溢れ返っていたとしても、何の不思議も無い筈さ」

 すると黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがグエン・チ・ホアの疑問に答えるかのような格好でもって、歩道と言わず車道と言わず、街中の至る所で歓呼の声を上げながら浮かれ騒ぐ市民達を眺め渡しながらそう言った。

「あらあら? 確かにそう言われてみましたならば、今日は12月31日、つまり大晦日ですし、明日は元日だったのではないかしら? ここ数日は世界中を飛び回っていましたものですから、すっかり日付と曜日の感覚が損なわれてしまっていましてよ?」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの返答を耳にしたグエン・チ・ホアがそう言って納得している間にも、大通りの一角でタクシーを降りた僕ら四人の周囲を埋め尽くすワシントンD.C.の街の市民達は、花火やクラッカーを鳴らしながら浮かれ騒ぐのを止めようとはしない。

「ホアさん、とにかく今は、予約したホテルまで急ぎましょう! こんな所でいつまでもジッと突っ立ってたら、騒ぎに巻き込まれて怪我でもしかねませんから!」

 そこで周囲の騒音に掻き消されないようにややもすれば声を張り上げながら僕がそう言えば、そんな僕の進言を承諾したグエン・チ・ホアが「ええ、そうね?」と言って、今夜宿泊するホテルが在る街の中心部の方角へと足を向ける。

「まったくもう! 只の大晦日だってのに、この街の連中はどうしてこんな馬鹿騒ぎに興じてるのよ! 邪魔で邪魔で、仕方が無いじゃない!」

「おいおい、淑華ってば、そんなに怒るなよな。彼らにとっての大晦日と元日は、僕らみたいなフォルモサ市民にとっての春節みたいなもんなんだからさ」

 デイパックを背負った僕はそう言って、ぷりぷりと怒りを露にする淑華をなだめると同時に、その沸点の低さをいさめもした。そして市街地を埋め尽くす群衆を掻き分けながら歩き続けること数分後、ようやく僕ら四人は、今夜の宿であるグランドホテル・ワシントンD.C.の正面玄関前へと辿り着く。

「ここね?」

 僕ら四人の先頭を歩くグエン・チ・ホアがそう言って、既にとっぷりと陽が暮れたワシントンD.C.の街の真冬の夜空に向かってそびえ立つ、それなりに立派な造りのホテルの建屋を見上げながら足を止めた。そして正面玄関の回転扉を潜ってホテルの敷地内へと足を踏み入れると、座り心地の良さそうなソファやローテーブルが並べられたロビーを通過し、真っ直ぐフロントへと歩み寄る。

「ツインのお部屋を二つ、総勢四名で予約していた筈のグエン・チ・ホアでしてよ? お部屋はもう、準備出来ているのかしら?」

 フロントに歩み寄ったグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、濃紺色の制服に身を包んだフロント係のホテルマンは「かしこまりました、マダム。ご確認いたしますので、少々お待ちください」と言ってから、手元の端末へと眼を移した。そして間を置かずに「確認出来ました、どうぞ、12階の1203号室と1204号室をご利用ください」と言って、二部屋分のルームキーを彼女に手渡す。

「ええ、どうもご親切に? 荷物は自分達の手で運びますから、ポーターの方を呼ぶ必要は無くってよ?」

 フロント係のホテルマンの手からルームキーを受け取ると同時にそう言って、グエン・チ・ホアはポーターの手配を断った。そしてそんな彼女に先導されながら、エレベーターに揃って乗り込んだ僕ら四人は、やがて客室が在るホテルの12階へと辿り着く。

「でしたら今夜はちょうど男性と女性の比率が一対一ですので、万丈くんとキャンベルさんのお二人が1203号室に、あたしと淑華ちゃんが1204号室にお泊まりすると言う事でよろしくて?」

「ああ、そうだな。俺は別に、それで一向に構わない。と言うか、むしろこの状況だったら、その部屋割りしか選択肢が無いんじゃないのか?」

 グエン・チ・ホアの提案に対して黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言って返答したならば、僕と淑華の二人も無言のまま首を縦に振って、特に異論は挟まない。

「ええ、そうね? 確かに改めて指摘されてみれば、キャンベルさん、あなたの仰る通りなのではないかしら? でしたらキャンベルさんだけでなく万丈くんも淑華ちゃんも、それぞれのお部屋に荷物を置いて準備が整いましたら、皆で一緒にお夕食を食べに出掛けましょうね? よろしくて?」

「はい、勿論です!」

 僕はそう言ってグエン・チ・ホアの提案を快諾し、彼女から1203号室のルームキーを受け取った。そしてその1203号室の扉を開けて客室の室内へと足を踏み入れると、僕に続いて入室した黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが、後ろ手に扉を閉めて施錠する。

「ああ、やっと、キミと二人きりになれたな」

 そこそこ広範でしっかりした造りの客室の室内へと足を踏み入れ、各々の荷物を置いて一息吐くなり黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが意味深長な表情と口調でもってそう言ったので、僕は彼の眼を見据えながら「え?」と言って驚かざるを得ない。

「数井万丈くん、実はキミに、尋ねておきたい事があったんだ」

「尋ねておきたい事?」

 若干ながらの嫌な予感に苛まれつつもそう言った僕と黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、互いに向かい合うような格好でもって、二つ並んだベッドの縁に腰掛けた。まさかとは思うが、実はこのマーカス・キャンベルと言う名の黒色人種ネグロイドの青年がショタコンの同性愛者で、僕の様なアジア人の少年に興味があるとでも言い出すのではないかとちょっとだけ警戒する。

「あのベトナム人の女性、グエン・チ・ホアは、一体全体何者なんだ? 彼女自身は自分の事を、フォルモサに店舗を構える一介の古物商に過ぎないと説明していたが、どれだけ贔屓目に見たところで単にそれだけの人物だとは考えられない。そもそも一介の古物商の女性が、空き巣が自分の店を荒らしたからと言うだけの理由でもって、その空き巣を捕えるために世界中を追い掛け回したりするものだろうか? それも移動のための旅客機に乗る際にはファーストクラスの座席を手配し、それなりに有名なホテルに宿泊するために必要な資金を惜しんでいるような様子も、まるで見受けられないと来ている。これはどう考えても、普通じゃない。そうだろう、万丈くん? ん?」

 ベッドの縁に腰掛けた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは僕の意に反してそう言って、グエン・チ・ホアの素性に関する疑問を僕に投げ掛けた。

「それは……」

 しかしながら僕はと言えば、そんな彼が投げ掛けた疑問に対して明確に返答出来ず、言葉に詰まってしまわざるを得ない。

「……包み隠さずに正直な事を言わせてもらえば、僕にも彼女が、ホアさんが何者なのか説明する事が出来ないんです。彼女は、その、謎多き人ですから」

「謎多き人だって? なあ、万丈くん? だとするとグエン・チ・ホアとキミとは、互いの素性を熟知し合っているような、旧知の仲ではないと言うのかい?」

 そう言って重ねて問い掛ける黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの疑問に答えるかのような格好でもって、僕はグエン・チ・ホアと僕との馴れ初めについて、記憶の糸を手繰りながら解説し始める。

「ホアさんと僕が出会ったのは、今からおよそ一年とちょっと前の、去年の夏の終わり頃の事です」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルと膝と膝を突き合わせながら、僕はそう言って、訥々と語り始めた。そしてそんな僕の意識は、ちょうどその頃、つまり昨年の晩夏のとある日曜日へと時を遡る。

「参ったなあ、よりにもよって傘を忘れた日に限ってこんな土砂降りになるだなんて、天気予報なんかを信じるんじゃなかったよ」

 その日の夕暮れ時、僕はそう言って独り言つと同時に、どこか雨宿り出来る場所が無いものかと周囲を見渡しながらふらふらと夜市を彷徨さまよっていた。常雨都市として知られるフォルモサは一年中朝から晩まで絶え間無く雨が降り続ける事で有名だが、その雨は殆どの場合しとしととそぼ降るような小雨であって、短時間の外出であれば傘を差さずに出歩いたとしてもさほど問題は無い。しかしながら一ヶ月の内に一日か二日くらいの割合で、まるで神様が空の上の巨大なバケツをひっくり返したかのような豪雨に見舞われる事があるのだが、この日がまさにその豪雨の日だったのである。

「ここも駄目か……」

 夜市沿いに軒を連ねる店舗や雑居ビルの前をそう言って素通りしながら、ほんの数分前に小雨から土砂降りへと急変した雨によってすっかりずぶ濡れになってしまった僕は、小走りでもって歩き続けた。何故ならどこの店舗も雑居ビルも、僕と同じく突然の豪雨に見舞われて雨宿りを余儀無くされた地元民達や観光客達によって、足の踏み場も無いほど混雑してしまっていたからである。

「あ!」

 するとその時、不意にそう言った僕の眼が、一棟の古めかしい雑居ビルの軒先に留まった。その雑居ビルは俗に『骨董街』と呼称される夜市と並行して走る裏通りの通り沿いに建っており、こんな土砂降りの最中にも拘らず、誰一人としてそこで雨宿りする者が居なかったのである。

「ラッキー♪」

 そこで僕は予期せぬ僥倖を天に感謝しながらそう言って、これ幸いとばかりに足を速めると、その古めかしい雑居ビルの軒先へと駆け込んだ。

「ふう、助かった」

 そして息急き切って駆け込んだ雑居ビルの軒先でもって雨宿りに興じると同時に、顔や頭髪を濡らす雨粒を拭い取りながらそう言って、暗灰色の雨雲に覆われた夕闇空を見上げつつも安堵の溜息を漏らす。

「そう言えば、これまで骨董街に足を踏み入れた事って殆ど無かった筈だけど、この通りに在るお店って一体どんな商品を売ってるんだろう?」

 豪雨が止むか、止まないにしてもせめて小降りになってくれはしないものかと期待しながら夕闇空を見上げつつ、雨宿りに興じる僕はそう言って再び独り言ちた。そしてその独り言ちた言葉通り、この雑居ビルにテナントとして入居している店舗の品揃えににわかに興味が湧いた僕が上階へと続く階段を駆け上がれば、やがて『Hoa's Library』と言う店名が掲げられた一枚の扉の前へと辿り着く。

「ホアズ……ライブラリー? ……ライブラリー……図書館?」

 決して博学多識とも学業優秀とも言えない僕の拙い英語の知識でも『Library』が『図書館』を意味する事までは理解出来たが、逆に言えばそれ以上の深い意味にまでは理解が及ばなかったので、何故こんな雑居ビルの中に図書館が在るのだろうかと小首を傾げざるを得ない。

「何か珍しい本でも置いてるのかな?」

 そこで僕はそう言って独り言ちながら、木目が鈍い飴色に光るまで人の手によって触れられて来た扉を開けると、その扉の向こうの店内へと足を踏み入れた。レトロな歪みガラスがめ込まれた扉を潜ると同時に、甘く爽やかな白檀の香りが鼻腔粘膜をくすぐって、どこか遠い異国の様なエキゾチックな空気に包まれる。

「あら、いらっしゃいませ?」

 するとどこまでも澄み渡る春先の青空の様に一点の曇りも無い、それでいて少しばかり妖艶な香りが漂う流麗な声でもってそう言って、店内に足を踏み入れた僕を一人の成人女性が出迎えた。

「あらあら? こんな大雨の日だと言うのに、こんな若いお客様があたしのお店まで足を運ばれるだなんて、珍しい事もあるものね?」

 入店した僕の姿を認めるなりそう言って出迎えてくれたのは、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包む美しい女性であり、何故かその左眼には医療用の眼帯が当てられている。

「あ、えっと、その……ここは図書館なんですか?」

 今にして思えば何とも間抜けな第一声ではあるものの、とにかくその時の僕はそう言って、眼の前の美しい女性にここは図書館なのかと問い掛けた。

「図書館? ああ、表の看板に『Library』と書かれているものですから、図書館と勘違いされたのね? いいえ、ここは図書館などではなくて、古い本や家具と言ったアンティーク雑貨を取り扱うあたしのお店でしてよ?」

「お店……」

 そう言った僕が周囲をぐるりと見渡せば、確かに『Hoa's Library』の店内には如何にも古めかしい家具や調度品等の数々が所狭しと陳列されており、ここがアンティーク雑貨を取り扱っている彼女のお店だと言う美しい女性の言葉を裏付ける。

「……それじゃあ、つまり、ここは図書館みたいに本を貸し出しているお店って訳じゃないんですね?」

「ええ、そうね? もし仮に、うちのお店が本を貸し出していない事でもってお客様のご期待に沿えなかったのだとしましたら、その時は謹んでお詫びの言葉を述べさせていただきましてよ?」

 そう言った美しい女性の、語尾が上擦って常に疑問形になってしまう不思議な口調は純白のアオザイや眼帯と相まって、彼女を殊更ミステリアスな雰囲気でもって包み込んでいると言わざるを得ない。

「そうですか、それじゃあ、僕、帰ります」

 少しだけ照れ臭くなってしまった僕がもじもじしながらそう言って、退店しようと踵を返した、その時であった。美しい女性が背後から声を掛け、鈍い飴色に光る扉のドアノブに手を掛けた僕を引き留める。

「あら? ねえ、お客様? 少々お待ちになってくださるかしら? 良く見ればあなたったら、ずぶ濡れじゃないの?」

「え? ああ、はい、ちょっと突然の雨で濡れちゃったもんですから」

「あらあら、そんなずぶ濡れのままですと、お身体が冷えてお風邪を引いてしまわれましてよ? ほらほら、奥にバスルームが在りますから、そこで温まって行かれては如何かしら? それに濡れたお洋服も、洗濯して差し上げますからね?」

「いや、そんな、僕は濡れたままでも大丈夫ですから……」

 ドアノブに手を掛けたまま足を止めた僕はそう言って、純白のアオザイと眼帯に身を包む美しい女性の申し出を固辞しようと試みるものの、彼女はそれを許さない。

「あらあら、あなたの様な若くて可愛いらしい男の子が、こんなおばさんなんかに遠慮するものではなくってよ? ほらほら、シャワーを浴びた後に必要な温かいお飲み物とお着替えをすぐにご用意して差し上げますから、こちらにいらっしゃい? ね?」

「……はあ……それじゃあ……遠慮無く……」

 濡れた髪からぽたぽたと水滴を滴り落としながらそう言って、僕はドアノブから手を放し、こちらに向かって手招きする美しい女性の元へとゆっくりと歩み寄った。

「でしたらバスルームはそこの廊下を渡った先の突き当たりの、左側の扉の向こうに在りますから、どうぞご自由にご利用なさってちょうだいね? ガス給湯器の使い方は、お分かりになるかしら? 濡れたお洋服が乾くまでのお着替えとバスタオルも、シャワーを浴びておられる間に脱衣所にご用意しておいて差し上げましてよ?」

 そう言っててきぱきと事を運ぶ美しい女性にいざなわれるまま、僕は店舗の奥の廊下を渡ってバスルームに足を踏み入れ、濡れた服を脱いでシャワーを浴び始める。

「ちょっと雨宿りしに来ただけの筈なのに、まさか骨董街の見知らぬ店でシャワーを借りる羽目になるだなんて、何だか変な事になっちゃったなあ……」

 一糸纏わぬ全裸になった僕はそう言って、熱いシャワーを浴びながらぶつぶつと独り言ちつつも、すっかり冷え切ってしまっていた身体をほとばしる熱湯でもって温め直した。そして存分に温まったところでバスルームから脱衣所へと移動してみれば、先程彼女が言っていたように着替えとバスタオルが用意されていたので、僕はその用意されていたTシャツとハーフパンツに着替え直す。

「あら? お客様ったら、もう上がられたのかしら? こんなに早くシャワーを浴び終えられるだなんて、やっぱり若い男の子はせっかちさんなのね?」

 シャワーを浴び終えてバスルームから退出し、再び『Hoa's Library』の店舗部分へと帰還した僕を、純白のアオザイ姿の美しい女性はそう言って出迎えた。

「ええ、シャワーを貸していただいて、どうもありがとうございました」

「どうぞ、お気になさらずに? 幸いにもあなたの濡れたお洋服は泥などで汚れてはいなかったものですし、洗わずに乾燥させるだけでしたら、ほんの10分程で乾くと思いましてよ? それにちょうど今しがた熱いお茶を淹れ直したところですから、こちらにお掛けになって、冷めない内に召し上がれ?」

 美しい女性がそう言いながら指し示したカウンターには湯気の立つ白磁の茶碗が用意されていたので、僕はそのカウンターの前に据え置かれたスツールに腰掛け、茶碗に注がれた淹れ立てのお茶を飲み始める。

「如何かしら? あたしの出身地と同じベトナム産の、蓮花茶でしてよ?」

「あ、はい、凄く美味しいです!」

 白磁の茶碗に口を付けながらそう言った僕の言葉に嘘は無く、仄かに甘い香りが漂う淹れ立ての蓮花茶とやらは、只美味しいだけでなく身体の内側から僕を温めてくれた。

「ところでお客様、お客様のお名前は? ちなみにあたしはこの『Hoa's Library』を経営させていただいております、店主のグエン・チ・ホアと名乗る者でしてよ?」

 カウンターを挟んで僕の眼の前に立つ美しい女性がそう言って、グエン・チ・ホアと言う彼女の名を名乗ったので、僕もまた名乗り返すにやぶさかではない。

「あ、僕は数井です。数井万丈。すぐそこの国立南天大学付属高校の、一年生です」

「あら、あなた、未だ学生さんなのね? それに一年生でしたら、15歳か16歳? でしたら万丈くん、あなたは今日はどうしてまた、あたしのお店なんかにわざわざ足を運ばれたのかしら?」

「いえ、その、僕は別に、このお店に来たくて来たと言う訳ではなくて……」

「と、仰いますと?」

「実は今日は、そこの夜市の先に在る本屋まで参考書を買いに行っていたんですが、気付いたら帰るのがこんな遅い時間になっちゃって……それで急いで帰ろうとしていたところを、こうして突然の雨に降られてしまって、咄嗟に駆け込んだこのビルの軒先でもって雨宿りさせてもらっていたと言う訳なんです」

 僕がそう言って事情を説明したならば、グエン・チ・ホアは彼女の分の蓮花茶を上品かつ優雅な仕草でもって飲み下しながら即座に状況を理解し、僕の言わんとしていた言葉を継いでくれる。

「あら、そうですの? でしたらあなたは雨宿りのついでに、そこのちょっとだけ危なっかしい階段を上って、あたしのお店へと足を運ばれたと言う訳ですのね?」

「ええ、まあ、端的に言ってしまえば、そう言う訳です」

 僕もまた蓮花茶を飲み下しながらそう言って、小さく首を縦に振って頷いた。しかしながら僕の予想に反し、グエン・チ・ホアの追及はこれで終わらない。

「ですけれどもね、万丈くん? あなた、あたしに何か嘘を吐いてはいらっしゃらないものかしら?」

 すると不意にグエン・チ・ホアが、くすくすと不敵にほくそ笑みながらそう言って疑義を呈したので、若干の後ろめたさを感じていた僕はぎくりと唾を呑む。

「あ、え? 嘘? いえ、別に僕は、何も嘘なんて吐いてはいませんよ?」

「あら、そうかしら? ねえ、万丈くん? あなたが本屋さんへと足を運ばれたのは、本当に、参考書を買うためだけでして? 本当の目的は、参考書なんかとはまた別のところに在ったのではないかしら?」

 そう言って疑義を呈するグエン・チ・ホアに、こちらの眼と眼をジッと見つめられながら追及されてしまっては、根は正直者で小心者の僕はあっさりと観念せざるを得ない。

「……すいません、ごめんなさい。グエンさん、あなたの仰る通り、僕は嘘を吐いていました。本屋へと足を運んだ本当の目的は参考書ではなく漫画とラノベを立ち読みするためですし、帰るのが遅くなってしまったのは、本屋の隣のゲーセンでだらだらと遊んでいたからです」

 図星を突かれた僕がそう言って率直に謝罪しながら小さくぺこりと頭を下げると、やはりグエン・チ・ホアは、この上無く愉快そうにくすくすとほくそ笑んだ。

「あらあら、そんな謝罪なんてなさらなくても結構でしてよ? ほら、頭を上げてちょうだいな? あたしは只単に、万丈くんの様な若くて健康的で可愛らしい男の子は、きっとお勉強以外の事にも興味津々なのではないかと予想しただけの事ですからね?」

 グエン・チ・ホアはそう言って殊更愉快そうにほくそ笑みながら、カウンターの奥の戸棚の中から小さな紙箱を取り出し、その紙箱を開けてこちらへと差し出す。

「はい、どうぞ? 見得を張ったりせずに自分の非を認められるような素直で可愛らしい男の子には、バレンタインデーのご褒美を差し上げましてよ?」

 そう言ってほくそ笑むグエン・チ・ホアが差し出した小さな紙箱の中には、如何にも高価そうな包装紙に包まれた、これまた小さなチョコレート菓子が礼儀正しく並んで納められていた。

「え? バレンタインデーのご褒美……ですか? ですけどグエンさん、今はもう、夏が終わって秋になろうとしている季節ですよ?」

「あら? バレンタインデーが二月の十四日だけだなんて、一体どこの誰が決めたのかしら? それに同じキリスト教でも東方正教会に残された記録に依りますと、バレンタインデーの由来となった聖ヴァレンティヌス司祭が殉職なされたのは夏であったとも伝えられておりますし、何であれば、愛を語り合うのは一年中いつの季節でもよろしいのではなくて?」

「はあ……」

 何とも無茶苦茶な屁理屈ではあるものの、とにかくそう言ってグエン・チ・ホアの言い分に納得した僕は眼の前に差し出されたチョコレート菓子の一つを摘まみ上げ、口の中へと放り込んで咀嚼する。

「!」

「どう? 如何かしら? びっくりするくらい美味しいでしょう? 何と言いましても当店のお得意様のお一人からいただいた、とある有名洋菓子店のとってもお高いチョコレートですから、コンビニで売っているような庶民感覚のチョコレートとは比べ物にならない上品なお味でしてよ?」

 まるで彼女の掌の上でもてあそばれているみたいでちょっとばかり悔しいが、確かにそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女が僕に差し出したチョコレート菓子はびっくりするくらい美味しかった。

「ええ、美味しいです! こんなに美味しいチョコレートがこの世に存在していただなんて、今まで僕、知りませんでした!」

「あらあら、万丈くんったら大袈裟ね? でもあたし、そんな大袈裟でちょっとばかり子供っぽい物言いをする男の子も、嫌いではなくってよ?」

 そう言ってくすくすとほくそ笑むグエン・チ・ホアと共に、甘く爽やかな白檀の香りが漂う『Hoa's Library』の店内で、スツールに腰掛けた僕は美味しいチョコレート菓子と熱い蓮花茶でもってティーブレイクを満喫する。

「そうだ、ねえ、万丈くん? あなた、ひょっとして占いなんかに興味はおありだったりするのかしら?」

「え?」

 占いに興味はあるのか無いのかと言ったグエン・チ・ホアによる不意の問い掛けに、僕は蓮花茶が注がれた白磁の茶碗を手にしたままそう言って、まるで馬鹿か白痴の様にぽかんと口を開けながら眼をぱちくりさせた。

「……占い……ですか?」

「ええ、そうね? 実はうちのお店では古い家具や古書と言ったアンティーク雑貨の販売以外にも、お茶とお茶菓子を取り扱うカフェテリアの経営と占いも承っているのですけれども、如何かしら、万丈くん? これも何かの縁だと思って、あなたも是非、うちで占って行かれては? 勿論あたしからの提案ですから、お代は結構でしてよ?」

 女子と違って一介の男子高校生でしかない僕は特に占いなんかに興味は無かったが、その興味の無さと同じくらい、美しいベトナム人女性であるグエン・チ・ホアからの折角の申し出を無下にすべき理由もまたありはしない。

「ええ、まあ、別に構いませんけど?」

「でしたら、決まりね? 今すぐ占いの準備をいたしますから、ちょっとだけお待ちいただけて?」

 うきうきと心躍らせながらそう言ったグエン・チ・ホアは、どこからともなく大小一枚ずつの木の板を取り出すと、その二枚の木の板をカウンターの天板の上に並べてから僕に問い掛ける。

「さあ、万丈くん? まず手始めに、あなたの何について占って差し上げましょうか?」

「え? 僕の何について占うかですか? えっと、そう言われても、今は別にこれと言って占ってほしい事とか無いからなあ……」

「でしたら定番の占いの命題テーマとしましては、万丈くん、あなたの恋の運勢について占ってみては如何かしら? ね? 如何にも十代の思春期の男の子に相応ふさわしい、ぴったりの命題テーマでしょう?」

「恋の運勢ねえ……」

 数ある命題テーマの中から恋愛運を占ってみては如何かと提案された僕はそう言って言葉を濁し、正直言って、あまり気乗りしてはいなかった。しかしながらそんな僕とは対照的に提案したグエン・チ・ホアはと言えば、やはりうきうきと心躍らせながら、既に恋の運勢を占う準備に取り掛かってしまっている。

「さあ、でしたら万丈くん? このプランシェットの上に、あなたの指先を乗せてちょうだいな?」

「プランシェット? グエンさん、その、これは一体何なんですか?」

 僕はそう言って、グエン・チ・ホアが『プランシェット』と呼んだ、中央に丸い穴の開いた小さなハート型の木の板を指差した。

「この穴の開いた小さい方の木の板がプランシェット、その下に敷いている大きい方の木の板が、ウィジャ盤と呼ばれておりましてよ? そして何を隠そう、この二つの木の板を使って行う占いこそ一級占星術師の資格を有するあたしが得意とする、降霊術による占いなのではないかしら?」

 ややもすれば得意げな表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に依るならば、プランシェットの下に敷かれているウィジャ盤、つまりアルファベットやアラビア数字が『YES』や『NO』などの記号と共に印字されている大きな木の板でもって、彼女は僕の運勢を占うつもりでいるらしい。

「さあさあ、どうぞ遠慮なさらずに、こちらに指先を乗せてくださって?」

「はあ……それじゃあ……こうですか?」

 僕は今一歩気乗りしないままそう言いながら、プランシェットの上に、恐る恐る自分の右手の指先を乗せてみた。ハート型の木の板であるプランシェットの中央に開けられた丸い穴が、まるで世界の真理を覗き込むための窓の様に、ジッとこちらを睨み返して来る。

「ええ、それで結構でしてよ?」

 するとそう言ったグエン・チ・ホアもまた彼女の右手の指先をそっとプランシェットの上に乗せると、故意かそれとも偶然か、僕ら二人の指先同士が絡み合う恋人同士の指先のように触れ合った。

「あ……」

 絡み合った指先から伝わって来るグエン・チ・ホアの体温とその柔らかな感触に、僕はどきどきと心臓を脈打たせながらそう言って、ちょっとだけ驚かざるを得ない。

「準備はよろしいかしら? よろしいのでしたら、そろそろ占いを始めましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが何やらぶつぶつと聞き慣れない言葉の羅列を呪文の様に唱え始めると、僕ら二人が指先を乗せたプランシェットが、ウィジャ盤の上でぶるぶると小刻みに震え始める。

「天上天下、あまねく世界を満たして止まぬ四大元素の精霊達よ、人々と神々との悠久の契約に基く召喚と要請に従って、我らが求むるべき答えを指し示してくださるかしら?」

 聞き慣れぬ言葉の羅列による呪文に引き続きグエン・チ・ホアがそう言って精霊達にお伺いを立てたかと思えば、僕ら二人が指先を乗せたプランシェットがまるで氷の上のカーリングのストーンの様にすうっと音も無く滑り出し、やがてウィジャ盤の表面に印字された『YES』の記号の上でぴたりと停止した。

「さあさあ、どうやらこれで、ウィジャ盤とプランシェットによる占いの準備は整ったみたいね? それではさっそくですけれども、万丈くん、あなたの恋の運勢を精霊達にお聞きしてみましてよ?」

「え? あ、はい、お願いします!」

 僕が未だ心臓をどきどきと脈打たせ、若干キョドりながらそう言えば、グエン・チ・ホアはさっそく精霊達に問い掛ける。

「でしたら改めて、精霊達にお聞きしましてよ? 今現在、万丈くんには恋人、もしくは想い人はられるのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って精霊達に問い掛けると、彼女と僕が指先を乗せたプランシェットはウィジャ盤の上をふらふらと彷徨さまよった後に、やがて『YES』の記号の上で再び停止した。

「あらあら、どうやら今現在の万丈くんには既に交際中の恋人か、もしくは心に決めた想い人がられるようね? どうかしら、万丈くん? 図星でして?」

「え? いや、そんな筈は無いんですけど……」

 グエン・チ・ホアによるウィジャ盤を使った占いの結果の正誤を問い質された僕はそう言って、小首を傾げながら、どうにも言葉を濁さざるを得ない。何故なら僕には恋人と呼べるような交際している異性も同性も居なければ、心に決めた想い人もまた存在しないからである。

「あら、そうなの? うちのお店に足繁く通われる常連のお客様方の間でも、あたしの占いはとても良く当たると評判だと言うのに、おかしな事もあるものねえ?」

 するとグエン・チ・ホアはそう言って、頭の上に見えない疑問符を浮かべながら、今度は彼女が小首を傾げる番であった。そしてそんなグエン・チ・ホアの端正で清楚な整った顔立ちを眺めている内に、僕の体温はみるみる上昇し、顔面が紅潮し始めると同時に肋骨の内側に収納された心臓が益々をもって早鐘を打ち始める。

「あら、どうされて? 万丈くんったら、何だかお顔が赤くてよ? もしかして雨で濡れてお風邪を引いて、お熱でもあるのかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは僕の体温を測るべく、プランシェットの上に乗せたのとは反対側の手でもって、僕の額に触れた。

「こうして手で触れてみただけですと、ほんのちょっと、お熱があるような気もしますけれども……万丈くん、もうちょっとだけ失礼させていただいてもよろしくて?」

 そしてカウンター越しにずいと身を乗り出したグエン・チ・ホアはそう言いながら、彼女の額と僕の額をくっつけて、額同士の体温を比較する事によって僕の熱を測ろうと試みる。

「!」

 妙齢の美しい女性との、それも互いの鼻息が吹き掛かる程の顔と顔との最接近に驚いた僕はそう言って言葉を失うが、プランシェットの上に乗せた手を離す訳には行かないのでその場から逃げられない。そしてグエン・チ・ホアが僕ら二人の体温を比較しているその間にも、彼女の長く艶やかな黒髪や透き通るかのように白くきめ細かな素肌からぷんとかぐわしい香りが立ち上り、完全に女性の色香にてられてしまった僕は頭がくらくらする。

「あら? どうやらほんのちょっとした微熱ですけれども、お熱があるみたいね? やはり万丈くんったら雨で濡れてお身体を冷やされて、お風邪を引いてしまわれたのではないかしら?」

「え? あ、いや、違います、これは風邪を引いたとか引いてないとかではなくて……何と言うか……その……」

 女性の色香にすっかりてられてしまった僕はそう言ってしどろもどろになりながら、何とかその場を取り繕おうと試みるものの、どうにも上手い言い訳の言葉が見つからない。そしてそうこうしている内に、グエン・チ・ホアは風邪っ引きの嫌疑を掛けられてしまった僕の身を案じながら、占いの即時中断を提案する。

「でしたら万丈くん、今日のところはもうこれで占いを終えられて、急いでご自宅に帰ってゆっくりお休みになられては?」

「あ、はい、そうですね、そうします」

 僕は棚から牡丹餅ぼたもち、もしくは勿怪もっけの幸いとばかりにそう言って即断し、彼女の提案に一も二も無く飛び付いた。

「そうと決まればさっそく精霊達にもお帰り願いますから、そこにお掛けになってプランシェットの上に指先を乗せたまま、もうちょっとだけお待ちいただけて?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは再びぶつぶつと、聞き慣れない言葉の羅列を呪文の様に唱え始める。

「天上天下、あまねく世界を満たして止まぬ四大元素の精霊達よ、我らの召喚と要請に応えてくださった事に心より感謝の意を表しつつも、どうぞ元居た世界へとご帰還願えないものかしら?」

 占いを開始した時と同じくグエン・チ・ホアがそう言って精霊達にお伺いを立てたかと思えば、やはり僕ら二人が指先を乗せたプランシェットがすうっと音も無く滑り出し、やがてウィジャ盤の表面に印字された『YES』の記号の上でぴたりと停止した。

「さあ、これで精霊達にはご帰還いただきましたので、万丈くんも指を離されても結構でしてよ?」

 プランシェットから指を離しながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に従って、僕もまたウィジャ盤の上に置かれたプランシェットから指を離すと、顔面を真っ赤に紅潮させたままの僕に彼女は提案する。

「でしたら万丈くん、そろそろ洗濯していたお洋服も乾いた頃でしょうから、あなたは今すぐそれに着替えてお帰りになられた方がよろしいのではなくて? そしておうちで暖かくしてゆっくりお休みになられて、これ以上お風邪が悪化しないよう努められた方がよろしくってよ?」

「あ、はい、そうします。そうさせていただきます」

 僕はそう言ってグエン・チ・ホアの提案を承諾すると、一旦店舗の奥の居住スペースへと姿を消した彼女が持って来てくれた乾いた服に着替え直し、帰り支度を整えた。そして甘く爽やかな白檀の香りに満たされた『Hoa's Library』の店内を後ろ髪を引かれながら縦断してから、正面玄関の扉の前へと辿り着いたところで振り返って、問い掛ける。

「あの、えっと、グエンさん?」

「ん? 何かしら?」

「えっと、その、もしご迷惑でなかったら……僕、またこの店に来てもいいですか?」

 最後の方は消え入るような声でもって僕がそう言って問い掛ければ、グエン・チ・ホアは、これに返答するにやぶさかでない。

「ええ、そうね? 万丈くんみたいな若くて可愛らしい男の子でしたら、あたし、大歓迎でしてよ? 是非ともまた何度でも、うちのお店まで居らしてちょうだいな?」

「そうですか、ありがとうございます!」

 満面の笑みでもって顔をほころばせながらそう言って、感謝の言葉を口にした僕に、グエン・チ・ホアはもう一つだけ要求する。

「それと、万丈くん?」

「ん?」

「あたしの事は上の名前のグエンではなく、下の名前のホアと呼んでいただけて? あたしもあなたの事を下の名前でお呼びしている事ですし、それにお互い下の名前でもって呼び合われた方が、より一層の親しみを胸に抱きながら関係を築いて行ける筈でしょう?」

「はい! 分かりました、ホアさん! それじゃあ、また来ます! さようなら!」

 最後にそう言った僕はドアノブに手を掛け、木目が鈍い飴色に光るまで人の手によって触れられて来た扉を潜って階段を駆け下り、やがて『Hoa's Library』がテナントとして入居する雑居ビルを後にした。そして雑居ビルの建屋から一歩足を踏み出してみたならば、あれ程の土砂降りだった筈の雨もすっかり小雨へと移り変わり、もう傘を差す必要も無いだろう。

「やった!」

 骨董街の通り沿いを歩きながら背後を振り返り、雑居ビルの二階の『Hoa's Library』の窓を見上げながらそう言って、僕はグエン・チ・ホアの様な美しい女性とお近付きになれた事を喜ぶべく小さなガッツポーズを決めてみた。すると彼女との邂逅の瞬間を回顧していた僕の意識は時を超え、グランドホテル・ワシントンD.C.の客室でベッドの縁に腰掛けながら、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルと対峙している今現在の時間軸へと舞い戻る。

「……と、まあ、これが今からおよそ一年とちょっと前の夏の終わり頃の、僕とホアさんが骨董街の『Hoa's Library』の店内で初めて出会った、とある夕暮れ時の出来事と言う訳です」

「そうか、成程」

 僕が腰掛けているベッドの隣のもう一つのベッドの縁に腰掛け、僕の回顧談を黙って辛抱強く聞いていた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って得心しながら、肩の力を抜くような格好でもって小さな溜息を漏らした。

「なあ、万丈くん。あのグエン・チ・ホアと言う名の風変わりな女性とキミとがどう言った経緯いきさつでもって出会ったのかは理解したし、キミが彼女に淡い恋心を抱いている事もまた理解した。そして俺の予想が正しければ、キミら二人の関係はそれ以降全く進展していないし、今後進展するかどうかも定かではない。違うかい?」

「ええ、まあ、はい、そうです」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの問い掛けに対してそう言って、僕は首を縦に振って頷き、これを肯定せざるを得ない。

「成程、良く分かった。つまりキミの言う通りグエン・チ・ホアは謎多き人であり、実に一年間以上もの付き合いがある筈のキミにも、その謎は全く解明出来ないでいると言う訳だ。しかも相手は正体不明の謎の人物であるにも拘わらず、キミはその人物に、思春期の青少年らしい淡い恋心を抱いてしまっている。全くもって男のさがと言う奴は面倒臭いものだな、万丈くん」

 同性である黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルにこうも図星を突かれてしまっては、僕は只々無言のまま顔を伏せて俯きながら、自らの不甲斐無さに恥じ入るばかりである。そして図星を突かれた僕が恥じ入り、そんな僕の姿に黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが呆れ返っていると、不意に僕らが居る客室の扉がこんこんこんと三回ノックされた。

「万丈くん、キャンベルさん、ちょっとよろしくて?」

 ノックに続いてそう言って聞こえて来たのは、まさに渦中の人物であるグエン・チ・ホアの声だったので、僕は扉越しに返答する。

「あ、はい、どうぞ!」

「これからお夕食を召し上がりにホテルの外へと足を延ばして、そのついでに明日以降のご予定も立ててしまいたいのですけれども、そろそろ外出の準備は整っておられるのかしら?」

「はい、すぐ出ます!」

 そう言った僕と黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそれぞれベッドの縁から腰を上げると、客室内の短い廊下を渡って扉を開け、グエン・チ・ホアと淑華の二人が待つホテルの廊下へと足を踏み入れた。こう言ったすぐに出掛けなければならなかったりする際に、几帳面な女性と違って化粧を直したり髪型を整えたりする手間が掛からない分だけ、僕らの様なずぼらな男は身が軽いと言えるのではなかろうか。

「お待たせしました!」

 客室の扉を後ろ手に閉めながらそう言って、二人の女性陣と合流した僕ら四人は、さっそくホテルの廊下を渡った先のエレベーターホールの方角へと足を向ける。

「でしたらさっそく、まずはお夕食を召し上がりに参りましょうか? やはりアメリカ合衆国の伝統的な名物料理と言ったら、分厚い赤身肉のTボーンステーキか、もしくは頬張り切れないほど大きなハンバーガーと山盛りのフライドポテトの組み合わせではないかしら?」

 意気揚々とそう言ったグエン・チ・ホアに先導されながら、エレベーターに乗った僕ら四人はグランドホテル・ワシントンD.C.の一階へと辿り着き、そのままフロント前を素通りしてホテルの建屋から退出した。そしてワシントンD.C.の街の中心部である繁華街の方角目指して歩くこと数分後、僕らはフォルモサでも見慣れた、世界的にも有名なハンバーガーをかたどった看板の前で足を止める。

「ここでよろしくて?」

 そう言って問い掛けるグエン・チ・ホアが足を止めたのは、ハンバーガーのチェーン店としてはマクドナルドに次いで世界第二位の規模を誇るバーガーキングの、コネチカットアベニュー店の店舗前であった。

「え? バーガーキング……ですか?」

「ええ、そうね? あたしったら一度でよろしいから、本場アメリカ合衆国のバーガーキングの本家本元のハンバーガーを、是非ともいただいてみたかったものでしてね? それにこの機会に、いつも食べ慣れているフォルモサのバーガーキングのハンバーガーとはどこが違ってどこが違わないのか、その点を食べ比べてみるのも一興でしてよ? それとも万丈くんは、ハンバーガーはお嫌いでして?」

「いえ、そんな、別にハンバーガーは嫌いじゃありませんけど……」

 ハンバーガーは嫌いなのかと問い掛けられた僕はそう言って敢えて否定も肯定もしないものの、本音を吐露するならば、正直がっかりしてしまったと言わざるを得ない。何故ならせっかくアメリカ合衆国の首都にまで足を運んだのだから、ここはウルフギャング・ステーキハウスやピーター・ルーガー・ステーキハウスと言った高級ステーキハウスに赴いて、丹念にドライエイジングされた正真正銘本物の熟成肉のステーキとやらを食べてみたかったからである。

「いや、別にいいんじゃないか、バーガーキングで。アメリカ合衆国で生まれ育った俺にとってはどこの何よりも食べ慣れた懐かしい故郷の味だし、手っ取り早く気軽に腹を満たそうと思ったらファストフード、それもハンバーガーとフライドポテトの組み合わせに勝る物はこの世に存在しないからな!」

 しかしながら黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って、優柔不断な僕が言葉を濁しているその間に、バーガーキングで夕食を摂ろうと言うグエン・チ・ホアの提案に対して賛同の意を表明してしまった。

「あたしも別に、夕食はハンバーガーで構わないけど? だって今日はもうスイスからここまで移動するだけで疲れちゃったし、ファーストクラスに座れたおかげで、飛行機の中で美味しいご馳走は食べられたんですもの。だから今はむしろ、あたしも皆も、ちょっとくらい安っぽいファストフードを敢えて食べてみたい気分だったりするんじゃないのかしら?」

 するとよりにもよって僕と同じステーキが食べたくて仕方が無い歳頃である筈の淑華までもがそう言って、バーガーキングで夕食を摂る事に対して難色を示さなかったものだから、残された僕に拒否権は無い。

「……僕も、夕食はハンバーガーでいいです。いや、むしろ率先してハンバーガーが食べたくて仕方がありません。ええ」

 仕方が無しに僕がそう言って事実上の敗北を宣言したならば、発起人であるところのグエン・チ・ホアは「あら、そう? でしたらさっそくお店に入って、まずは全員分のお席を確保しましょうね?」と言いながら自動ドアを潜り抜け、バーガーキングコネチカットアベニュー店の店舗内へと足を踏み入れた。

「さあ、ご注文の品はお揃いかしら? でしたらさっそく、皆さん揃って召し上がる事といたしましょうね?」

 そして店舗内の窓際のテーブル席を確保してからハンバーガーやサイドメニューを注文し、カウンターでの接客を担当するスタッフから受け取ったそれらを手に手に各自の座席へと腰を下ろせば、そう言ったグエン・チ・ホアの言葉を合図にしながら僕ら四人は夕食を摂り始める。

「うん、美味い。いつもと変わらぬバーガーキングの、子供の頃から食べ慣れた、いつもの味だ」

 率先して大口を開けながら、注文したチーズ入りのトリプルワッパーを頬張った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言った。

「ええ、そうね? やはり世界展開するチェーン店だけあって、ボリュームはともかくとしましても、ハンバーガーのお味の方はフォルモサでいただくのと大差無いのではないかしら?」

 するとグエン・チ・ホアもまたそう言って、ワッパーサイズよりも小さなワッパージュニアサイズのハンバーガーを上品な仕草でもって口へと運び、咀嚼している。

「そうですね、結局のところ、世界中のどこの国に行ったってバーガーキングはバーガーキングですからね。むしろ国によって全然味が違ったら、そっちの方が問題なんじゃないですか?」

 しかしながらダブルワッパーを頬張りながら僕がそう言えば、そんな僕の真正面のテーブル席に腰を下ろした淑華はワッパージュニアサイズのハンバーガーを咀嚼しつつも、これに異を唱える。

「だけどフォルモサのバーガーキングにはチョコレート味のハンバーガーや小豆味のハンバーガーが有ったし、確か日本のバーガーキングにも、テリヤキ味のハンバーガーが有った筈でしょ? そう言ったご当地名物のハンバーガーを探して食べ歩くのだって、旅の醍醐味の一つなんじゃないの?」

「あら? さすが淑華ちゃんね、分かってるじゃない? 確かにあなたの仰る通り、ご当地名物のジャンクフードを食べ歩くのも、立派な旅の楽しみ方でしてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言って淑華の意見に賛同したならば、賛同された彼女は嬉しいような悔しいような、何とも言えない複雑な表情をその顔に浮かべざるを得ない。

「さあ、でしたらそろそろ、作戦会議を始める事といたしましょうか?」

 やがて各々が注文したハンバーガーをほぼほぼ食べ終えた頃合いを見計らい、改めてそう言ったグエン・チ・ホアは、どこからともなく取り出した彼女のスマートフォンをテーブルの天板の上にそっと置いた。そしてその液晶画面を数回タップしたならば、ハンズフリーのスピーカー通話モードに設定したスマートフォンのスピーカーから、聞き慣れた若い女性の声が耳に届く。

「やあ、チ・ホア、遅かったじゃないか! なかなか電話を掛けて来てくれないもんだから、僕はもう、すっかり待ち草臥くたびれちゃったよ!」

 妙にテンションの高い口調でもってそう言ったスマートフォンの向こうの声の主は、今更説明するまでも無い事ではあるものの、遠くフランスの地に居る筈のエルメスその人に他ならない。

「あら、そうですの? それはまた、申し訳無い事をしてしまったみたいね? けれどもエルメス、あたし達もスイスから合衆国まで急いで移動したり何だりで何かと忙しかったものですから、どうかご容赦願えないものかしら?」

「まあ、そうだね! 他でもないキミからの頼みとあっては、この僕も赦してやらない事もないから安心しなよ! ……それで、チ・ホア? キミの望み通り、スイスを発ったサイモン仁のその後の足取りは調べ上げてあるけど、今からそれを報告しちゃっても大丈夫かい?」

「ええ、そうね? お願い出来るかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、スマートフォンの向こうのエルメスは一切の前置きをせぬまま衝撃の事実を口にする。

「ずばり単刀直入に言ってしまえば、今現在僕らが足取りを追っている本田サイモン仁はワシントンD.C.のとあるホテルの一室で、次期合衆国大統領のアンブローズ・トマス・ホンダと面会しているのさ!」

「あら、そうですの?」

 しかしながらグエン・チ・ホアは素っ気無い表情と口調でもってそう言って、満を持してのエルメスの第一報を耳にしたにも拘らず、あまり驚いているような様子は見受けられない。

「あれ? チ・ホア、驚かないの? 次期合衆国大統領とサイモン仁が、就任式を明日に控えた今月今夜のこの瞬間、二人っきりでもって面会してるんだよ?」

「そうは仰いましてもサイモン仁さんとアンブローズ・トマス・ホンダさんとは従兄弟同士のご関係なのですから、そんなお二人がご面会なさっていたとしましても、何もおかしくはないのではなくて?」

「ああ、もう、何だよそれ! 彼ら二人が従兄弟同士の関係だって事を、キミらも知ってたのかよ! まったく、知ってたなら知ってたで、先にそう言っておいてよね! そうでないとわざわざ勿体ぶって報告したこの僕が、まるで仲間外れにされた、間抜けな道化師ピエロみたいじゃないか!」

 早合点からうっかり恥を搔いてしまったエルメスはそう言って、スマートフォンの向こうでぷりぷりと怒りを露にしている様子であった。

「あらあら、ごめんなさいね? あたしったらてっきり、とっくの昔にあなたにも説明したものと思い込んでしまっていたみたいでしてよ?」

 これにはさすがのグエン・チ・ホアもそう言って、平謝りせざるを得ない。そして一通り謝罪の言葉を口にした彼女は、改めてエルメスに問い掛ける。

「それで、エルメス? そのとあるホテルの一室とやらにこれから乗り込んだとしたならば、あたし達もまたサイモン仁さんと、ついでにアンブローズ・トマス・ホンダさんへのお眼通りは叶うのかしら?」

「さあ、それはちょっと難しいと思うよ? なにせそのホテルの一室は、次期合衆国大統領が就任式の前夜に宿泊するような高級ホテルの最上階の、まさに文字通りの意味でもってのプレジデンシャルスイートルームだからね! だから迂闊に乗り込めば警察か要人警護官シークレットサービスに逮捕されかねないし、そうなれば如何にキミが裏の世界に顔が利くからと言ったって、身の潔白が証明されるまでは分厚いコンクリートで出来た壁と鉄格子に囲まれた密室での拘留は免れ得ないんじゃないのかな?」

「あら、そう? それは残念ね? でしたら彼がご宿泊されているホテルに直接乗り込む以外の方法で、何かサイモン仁さんと面会する手段はありまして?」

 今すぐ直談判に赴くと言う案を却下されたグエン・チ・ホアはそう言って、エルメスに重ねて問い掛けた。

「ああ、そうだね! だったら必ず成功すると断言出来るだけの確証こそ無いものの、逮捕覚悟でホテルに殴り込みを掛けるのに比べたら、多少はマシなんじゃないかなって思えるだけの方法が無くもないよ!」

 するとスマートフォンの向こうのエルメスはそう言って意気揚々と、彼女なりの代替案を提示し始める。

「サイモン仁の従兄であるアンブローズ・トマス・ホンダは明日、つまり新年を迎えた一月一日の昼前から夕方に掛けて執り行われる、彼自身が新たな合衆国大統領に就任した事を内外に知らしめるための就任式に出席する事は知ってるよね?」

「ええ、そうね? 先程から度々就任式に言及されているあなたの発言を聞き及ぶまでもなく、あたしだって明日がその就任式の当日であるくらいの事は、存じ上げておりましてよ?」

「だったらチ・ホア、その就任式が終わった後、就任したばかりの新しい合衆国大統領が一体何をするのかは知ってるかい?」

「就任式が終わった後ですって? 確か新大統領による宣誓と就任演説、それに昼食会と各種書類への署名を終えた後に、議会議事堂からホワイトハウスまでの祝賀パレードを行う筈ではなかったかしら?」

 エルメスの問い掛けに対してそう言って、スマートフォンのこちら側の、バーガーキングの店舗内のテーブル席に腰を下ろすグエン・チ・ホアは返答した。

「ああ、そうだね、確かにその通りだね! 確かにその通りではあるんだけれど、僕が言いたいのは、更にその後さ! つまりチ・ホア、キミは今キミが言った祝賀パレードを終えたその日の夜、ホワイトハウス内のエグゼクティヴ・レジデンスで新しい大統領の就任を祝う晩餐会と舞踏会が執り行われる事は知ってるかい? そして僕がハッキングによって手に入れたこの晩餐会と舞踏会の出席者名簿には、アンブローズ・トマス・ホンダ新大統領の従弟として、あの本田サイモン仁の名も連ねられていると言う訳さ!」

 エルメスがそう言って晩餐会と舞踏会にサイモン仁が出席するであろう旨を報告したならば、聡明で博識なグエン・チ・ホアは、スマートフォンの向こうの彼女の意図するところを即座に察する。

「つまりあなたは、あたし達がサイモン仁さんに確実に相見あいまみえたいのであれば、その晩餐会と舞踏会が執り行われるエグゼクティヴ・レジデンスとやらにこっそり潜入すべきだ、と、そう仰りたい訳ね?」

「ご明察! まさにその通り! さすがチ・ホア、話が早くて助かるよ!」

 スマートフォンの向こうのエルメスは指をパチンと鳴らしながらそう言って、彼女の意図するところを即座に察したグエン・チ・ホアを手放しで褒め称えた。しかしながらそんなエルメスが提示してみせた代替案に、今度はグエン・チ・ホアが疑問を差し挟む番である。

「ねえ、エルメス? 果たしてあなたの仰る通り明日の就任式の夜にホワイトハウスに潜入するのと、今夜ホテルのプレジデンシャルスイートルームに乗り込むのとでは、どちらがより一層の困難を伴うべき行動なのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って差し挟んだ疑問に対して、スマートフォンの向こうのエルメスは、まるで奥歯に物が挟まったかのような曖昧な返答でもってお茶を濁さざるを得ない。

「うん、まあ、確かにホテルとホワイトハウスのどちらがより一層厳重な警備態勢が敷かれているのかと問われれば……一国の大統領府であるホワイトハウスの方が厳重かもしれない……かな?」

 エルメスは自信無さげにそう言ったかと思えば、まるでその自信の無さを誤魔化そうとするかのように、もしくは自分自身に自己暗示を掛けるかのような口調でもって言葉を重ねる。

「けれどもチ・ホア、考えてみれば、ホテルの警備はアンブローズ・トマス・ホンダやサイモン仁らが宿泊する客室に一極集中している筈だろう? それと比較してホワイトハウスの警備はその広大な敷地全体に及ぶだろうから、おそらくきっと、警備が手薄になっている箇所や時間があるかもしれないよね? だとすれば案外ホワイトハウスの方が、ホテルよりも潜入し易いって事もあり得るんじゃないのかな? ほら、これまでだって数年に一度くらい、不審者がホワイトハウスの敷地内に侵入したって事件が世間を騒がせたりもしたじゃんか? だから意外とホワイトハウスの警備態勢も、僕らが想像している以上に杜撰で、がばがばだったりすると思うよ? うん、きっとそうに違いない! そう! 決定!」

 果たして何の根拠があってか無くてか、エルメスがそう言って彼女なりの持論をややもすれば強引に力説したならば、力説されたグエン・チ・ホアはこれに納得するにやぶさかではない。

「ええ、そうね? エルメス、あなたの仰りたい事は、こちらに居るあたし達も充分に理解出来たのではないかしら? でしたら100%納得した訳ではありませんけれども、あなたの言い分に従って、今回はホテルではなくホワイトハウスに潜入する事にいたしましてよ?」

「そうかい、納得してくれたかい! それじゃあ今夜の内に就任式の式次第やホワイトハウスの警備態勢、それに晩餐会と舞踏会の出席者の顔触れや席順なんかについても調べ上げておくから、また明日になったら連絡を取り合おう!」

「ええ、そうね? でしたらまた明日、就任式の祝賀パレードが終盤へと差し掛かる頃になってから、再度連絡しましてよ?」

「了解! それじゃあ、また明日!」

「ええ、また明日? ところで先程からお聞きしている限りですと、あなたの声ががらがらに枯れてしまっているのですけれども、喉に悪いから大麻とアルコールは程々にしておきなさいね? よろしくて?」

 最後にそう言って大麻とアルコールにふけってばかりのエルメスの悪癖をたしなめると、グエン・チ・ホアは彼女のスマートフォンの液晶画面をタップして、通話を終えた。

「そう言った訳ですので、あたし達は明日の夜、ホワイトハウスのエグゼクティヴ・レジデンスで執り行われる晩餐会と舞踏会の会場に潜入する事となりましてよ?」

 通話を終えたグエン・チ・ホアはまるで近所の公園に散歩にでも出掛けるかのような気安さでもって、事も無げにそう言うものの、はいそうですかと言ってあっさり納得してしまうほど僕らも馬鹿ではない。

「おいおい、ちょっと待ってくれ! ホワイトハウスに潜入するだなんて、あんた、正気か?」

 そして当然の事ながら、ここアメリカ合衆国の国民であるからにはホワイトハウスに対して並々ならぬ感情を抱いている筈の黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って、彼の向かいの席に腰を下ろすグエン・チ・ホアを問い質した。

「ええ、そうね? 確かに一筋縄では行かない作戦ミッションになるかもしれませんけれども、挑戦してみるだけの価値はあるのではなくて?」

「ファック! サノバビッチ! 糞、信じられん! よりにもよって、就任式当日のホワイトハウスに潜入するつもりだなんて! マザファッカ!」

 何彼なにかにつけて大袈裟なアメリカ人らしく大仰な身振り手振りを交えながらそう言って、放送禁止用語でもって悪態を吐いた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは頭を抱えるが、そんな彼の胸の内はこの僕ですらも理解出来なくもない。何故ならワシントンD.C.のホワイトハウスがモスクワのクレムリンや北京の中南海と並ぶ世界有数の政治の中枢である以上、そこに潜入してみましょうなどと言うグエン・チ・ホアの言葉は、まさに正気の沙汰とは思えない程の無謀な提案に他ならないからである。

「ホアさん、その、本当にホワイトハウスに潜入するつもりなんですか?」

「あら? 万丈くんったら、果たしてそれはどう言った意味かしら? こう見えましてもあたしったら昔から、口先だけで出来もしない無茶を仰ったり、やりもしない虚勢を張ったりするような方は嫌いでしてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑んではいるものの、その表情とは裏腹に、ちょっとだけはらわたが煮え繰り返っているような怒気を孕んだ雰囲気を如実に醸し出していた。

「いえ、別にホアさんが適当な嘘を吐いているとかいないとか、そんな事を言うつもりは毛頭ありませんから! ただちょっと、さすがにホワイトハウスに忍び込むのは難易度が高過ぎると言うか、にわかには信じがたい発言だったんで……」

「あら、そうかしら? 先程もエルメスが仰ってた通り数年に一度くらいの頻度でもって不審者が侵入出来てしまう事もあるのですから、ホワイトハウスの警備態勢も、あなたが思っているほど厳重ではないのではなくて? ん?」

 僕の釈明に対してそう言って反論したグエン・チ・ホアの表情や口調から察するに、もはや幾ら反論してみたところで、彼女の決意を挫かせる事が不可能である事は火を見るよりも明らかである。

「でしたら淑華ちゃんもキャンベルさんも、他に何かご意見が無いのでしたら、これで決まりね? さあさあ、折角ですので明日は朝早く起きて午前中から就任式を見物する事にいたしますから、今すぐホテルへと帰って今夜は早めに床に就きましょうね? お三方とも、それでよろしくて?」

 そう言ったグエン・チ・ホアがテーブル席から腰を上げれば、僕と淑華、それに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは彼女に倣って席を立つ以外に残された道が無い。そしてハンバーガーの包装紙やドリンク類の紙コップなどを分別しながらゴミ箱へと放り捨て、プラスチック製のトレーを片付けると、僕ら四人はバーガーキングコネチカットアベニュー店の店舗を後にする。

「さあ、皆さん? 明日は朝から、忙しくなりましてよ?」

 バーガーキングを後にしたグエン・チ・ホアが今夜の宿であるグランドホテル・ワシントンD.C.へと帰還する道すがら、やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言って、まるで明日と言う日の到来が楽しみ楽しみで仕方が無いとでも言いたげに鼻歌を歌い始めた。

「ああ、何だか俺が想像していた以上に、大変な事になって来ちまったな」

 そして愉快そうに鼻歌を歌うグエン・チ・ホアとは対照的に、僕の隣をとぼとぼと歩く黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは溜息交じりにそう言って、冬の星座が垣間見えるワシントンD.C.の街の夜空を仰ぎ見る。

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