第十一幕


 第十一幕



 気付けば僕は、あまり馴染みの無い色と柄の壁紙が張られた天井を見上げていた。

「……ん……」

 そして一拍の間を置いてから、やはり馴染みのない部屋のベッドの上に自分が寝かされている事に気付くと、そう言って伸びをしながら半身を起こす。

「……ここは?」

 半身を起こした僕はそう言って、改めて周囲を見渡した。すると今自分が居るこの部屋がリッチモンドホテル・ジュネーヴの自分の客室である事に気付くと同時に、ベッドの脇に置かれた椅子に座っていたらしい淑華が、こっくりこっくりと舟を漕ぎながらうたた寝してしまっている事にも気付く。

「……」

 僕はうたた寝している淑華を起こしてしまわないように細心の注意を払いながら、そっとベッドから抜け出して、安物のフェルト地の絨毯カーペットが敷かれた床へと降り立った。そしてゆっくりと忍び足でもって客室内を縦断し、内側から施錠されていた扉を音を立てないようにこれまた細心の注意を払いながら開けると、その扉を潜って客室からホテルの廊下へと退出する。

「……ふう」

 ホテルの廊下へと退出した僕はそう言って一息吐くと、果たして客室のベッドの上に寝かされる以前の自分の身に何が起きたのか、改めて記憶の糸を手繰ってみる事にした。

「確か、レストランで晩ご飯を食べ終わってから、何だか色んな組織の人達が口論を繰り広げた末に殴り合いの喧嘩を始めたんだったよな?」

 そう言って独り言ちながら脳内の図書館の記憶の本棚を整理している内に、僕はようやく、自分の記憶が飛んでいる理由に思い当たる。

「ああ、そうか、思い出した。それであの黒色人種ネグロイドの人にホアさんが殴られそうになったから、それを身を挺して守った僕が、代わりに殴られて気を失ったんだっけ」

 気を失っていた理由に思い当たってみたならば、確かにグエン・チ・ホアの身代わりになって黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに殴られた筈の顔面、特に左の顎の付近がずきずきと激しく痛むような気がしなくもない。

「そうだ、ホアさんは? 結局、ホアさんは無事だったのか?」

 再びそう言って独り言ちながら、焦燥感に駆られた僕は小走りでもってホテルの廊下を渡り切り、グエン・チ・ホアと淑華の二人が今夜宿泊する予定のツインの客室の扉の前へと移動した。そして扉をこんこんと二回ノックしてから「ホアさん、居ますか? ホアさん?」と呼び掛ければ、扉の向こうから聞こえて来た「ええ、りましてよ? 鍵は掛かっておりませんから、どうぞ、お入りになって?」と言う艶やかな声が耳に届く。

「ホアさん、無事ですか?」

 そこで僕はそう言って彼女の身を案じながら、施錠されていない扉を開け、ツインの客室の室内へと駆け込んだ。するとそこにはホテルの備品であるロッキングチェアに腰掛けたグエン・チ・ホアと、何故だか分からないがもう一脚のロッキングチェアに腰掛けたままうつむいている、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの姿が見て取れる。

「あら? 万丈くんったら、ようやく眼を覚まされたのね? それで、もうお身体の具合はよろしくて? どこか痛かったり、ご気分が優れなかったりしないのかしら?」

 グエン・チ・ホアはモダンなデザインのロッキングチェアに腰掛けたまま、その如何にもアジア人らしい端正で整った顔立ちから妖艶な笑みを絶やす事無くそう言って、僕自身の心身の容態に関して僕に問い掛けた。

「え? あ、はい、未だちょっと殴られた顎の辺りがずきずき痛みますけど、もう大丈夫です。たぶん、きっと。おそらく」

 彼女の問い掛けに対して曖昧な言い回しでもってそう言って返答した僕は、僕自身の傷の程度の事よりも、何故ここに黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが居座っているのかと言った点が気になってしまって仕方が無い。

「ああ、そうだホアさん、そんな事よりもホアさんこそ無事なんですか? 僕が気を失う前にレストランはしっちゃかめっちゃかな事になってましたけど、あれからあのお店はどうなったんですか? ホアさんは殴られたりしなかったんですか?」

「ええ、そうね? あたしは無事ですので、どうぞご心配なさらずに? それにあの場に居合わせた他の方々も、万丈くんの様な子供が殴られて気を失われた事によってはっと我に返り、その後は急速に場の空気が白けてしまわれましてよ?」

「そうですか……」

「ええ、そうね? ですからすっかり白け切ってしまわれた『新ブラックパンサー党』の方々も『KKK《クー・クラックス・クラン》』の方々も、それに『ヤハウェの忠僕達』の方々も『マイン・カンプ』の方々も、それぞれがそれぞれの今宵の宿へと散り散りになってご帰還されたのではないかしら?」

 レストランでの大乱闘の顛末に関する僕の問い掛けに対して、グエン・チ・ホアはそう言って返答した。

「えっと、それじゃあ……」

 しかしながら僕はそう言って、彼女が腰掛けているのとはまた別のロッキングチェアに腰掛けた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルを横眼でもってちらりと一瞥してから、重ねて問い掛ける。

「……そちらの方は……どうしてここに居るんですか?」

 僕がそう言って問い掛ければ、ロッキングチェアに腰掛けたままうつむいていた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはついと顔を上げ、こちらに眼を向けながらジッと僕を睨み据えた。

「こちらのキャンベルさんは、どうしても万丈くんに一言謝りたいと仰って、あたし達と一緒に気を失ったあなたをこの部屋まで背負って運んで来てくださったのよ? ほら、万丈くん? あなたからも、一言お礼を仰いなさい?」

「え? あ、えっと、その……どうも」

 殴られた僕がお礼を言うのも何だかおかしな話だが、とにかくグエン・チ・ホアに促された僕がそう言って感謝の言葉を口にすると、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルもまた口を開く。

「……その、なんだ。えっと、万丈くん……だったかな? とにかくキミには、一言だけでも謝っておかなければならないと思ってね。俺達みたいな大人の喧嘩に、本来であれば無関係の、それも未だ子供であるキミを巻き込んでしまった事は、本当に申し訳無かったと思っている。許してくれ! この通りだ!」

 そう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、僕に向かって深々と頭を下げながら、謝罪と反省の意を示した。どうやら赤の他人に対して素直に頭が下げられる事から鑑みるに、この人は思想信条の面に於いてはいささか問題があるのかもしれないが、決して悪い人間と言う訳ではないものと思われる。

「如何かしら、万丈くん? キャンベルさんもこのように謝罪しておられる事ですし、あなたの寛大な心でもって、彼を赦して差し上げては如何かしら?」

 しかしながらグエン・チ・ホアはそう言って、被害者である僕に寛大な措置を講じるよう促すが、そんな僕もまた頭を下げている黒色人種ネグロイドの男を安易に赦す訳には行かない。

「……あなたが僕を殴った事に関しては、ある程度は不可抗力でもあった事ですし、特に赦すとか赦さないとか言った点に言及するつもりはありません。頭を上げてください。ですが、結果としては僕が殴られる格好になったとは言え、か弱い女性であるホアさんに殴り掛かった事だけは赦せません。ですから、謝るなら僕でなく、ホアさんに謝ってください。お願いします」

 僕がそう言って謝罪の相手を変更するよう要求したならば、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはようやく自分の間違いに気付いたのか、はっと息を呑んだ。そして改めてグエン・チ・ホアに向き直ると、ばつが悪そうに何度か眼線を逸らしながらもごもごと口篭もった末に、ようやく頭を下げる。

「ああ、そうだな。言われてみれば、確かにキミの言う通りだ。万丈くんの様な年端も行かぬ子供を殴ってしまった事で気が動転していたが、それ以前に、そもそもグエンさんの様な女性に殴り掛かった事も深く反省し、謝罪すべきだな。……まあ、その、何だ。そう言った訳で、グエンさん、申し訳無い。どうかこの通り頭を下げるから、許してはくれないものだろうか」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って、再びの謝罪の言葉と共に、今度は彼の隣のロッキングチェアに腰掛けたグエン・チ・ホアに向かって深々と頭を下げてみせた。やはりこの人はあまり悪い人とは思えないとでも言うべきか、レストランでは『新ブラックパンサー党』の民族主義的な主張を吹聴してはばからなかったりはしたものの、きっと根は良い人なのではないかと思われて仕方が無い。

「あら、そうですの? そんなに謝ったりされなくても結構でしてよ? あたしも殴られて当然の事をしたまでと思っておりますし、それに、人と言う下等で下劣で低俗な動物が間違いを犯すのは、世の常ですものね? 違って?」

 深々と頭を下げながら謝罪する黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルに、やはりグエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言って疑義を呈した、その時であった。不意にホテルの廊下の方角からばたばたと言う慌てふためくかのような足音が近付いて来たかと思えば、その廊下と客室とを隔てる扉が勢いよく開け放たれ、血相を変えた淑華が駆け込んで来るなり問い掛ける。

「万丈? ねえ、万丈は? 万丈はどこ? 万丈が部屋から居なくなっちゃったの!」

 客室へと駆け込んで来るなりそう言って慌てふためくばかりの淑華に対して、僕が「淑華、僕ならここに居るよ」と言って手を振れば、彼女は心臓が早鐘を打っていたであろう胸に手を当てながらホッと安堵して止まない。

「ああ、良かった……そこに居たんだ……」

 そう言って胸を撫で下ろす淑華だったが、次の瞬間にはその眼鏡の奥の瞳にやにわに怒りの色を浮かばせる。

「もう、万丈ったら! 眼が覚めたらベッドがもぬけの殻で、あんたがどこにも居ないもんだから、心配したじゃないの! 折角付き添ってあげてたんだから、部屋から出て行くなら出て行くで、あたしに一声掛けてから行きなさいよね! まったく!」

 淑華はそう言ってぷりぷりと怒りを露にしながら、彼女に黙って客室を抜け出した僕を責め立てた。

「ああ、ごめんごめん、そんなにムキになって怒るなってば。だってお前が気持ち良さそうにうたた寝してたもんだから、起こしちゃ悪いかなって思ってさ。だから悪気は無かったんだし、それに、そもそもお前はどうして僕の部屋で、僕に付き添ってたりなんかしたんだ? 別に僕は気を失って寝てただけなんだから、部屋まで運んでくれたんなら、そのまま一人で寝かせておけば良かった筈だろ? ん?」

 そう言った僕の疑問に、何故か淑華ではなくグエン・チ・ホアが答えてくれる。

「ええ、それはね、万丈くん? 淑華ちゃんったらあなたがキャンベルさんに殴られて気を失った際に、大きな声でもってあなたの名前を叫びながら取り乱されて、それはそれはあなたの身を案じてらしたのよ? それであなたがこのホテルまで運び込まれてベッドに寝かされた際にも、自分が万丈くんの様子を付きっ切りで診るんだって仰って、頑として聞かなかったものですからね? ですからそんなに、淑華ちゃんの事を問い詰めないで差し上げて?」

 ロッキングチェアに腰掛けたグエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言えば、話題の当事者である淑華は、まるで熱湯でもって茹で上げられた蟹か海老の殻の様に顔面を真っ赤に紅潮させた。そしてそのまま恥辱と羞恥と僅かな怒り、それにどうしようも無い程の照れ臭さが入り混じったかのような複雑な表情をその顔に浮かべつつも、自らの行いの真意を釈明する。

「……だって、だって仕方が無いじゃない! レストランで万丈が殴られて倒れた時、あたし、てっきり万丈が死んじゃったんじゃないかと思ったんだからね! それに実際問題として、倒れた直後は平気でも、その後に容態が急変して死んじゃう事だって無い訳じゃないでしょ? だからあたしが付きっ切りで看病してあげなきゃいけないって、そう思ったの! つまり、その、とにかく心配だったんだから!」

「あらあら、淑華ちゃんったら、そんなに万丈くんの事が心配でらしたのね? きっとあなたにとっての万丈くんは、どこの誰よりも大切な、掛け替えの無い特別な存在なのではないかしら? どう? 違って?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、只でさえ真っ赤に紅潮していた淑華の顔面は、人の顔はここまで赤くなるのかと驚かざるを得ない程にまでその赤味を増すばかりであった。

「と、とと、ととととにかく! 万丈はあたしに謝りなさい! 今すぐ、この場で土下座して!」

「だから、こうしてさっきから謝ってるじゃないか! それに、いくらなんでも土下座を要求するのはやり過ぎだろ?」

「いいから、さっさと土下座しなさい! 土下座! さあ! 早く! 急いで!」

 そう言ってやれ謝れだの謝っただので僕と淑華の二人が無意味な押し問答を繰り返していると、不意に黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが、グエン・チ・ホアに改めて問い掛ける。

「ところで、今更こんな事を聞くのも何だが、あんたら三人は何の用があってフォルモサからここスイス連邦までやって来たグループなんだ? 見たところ俺らみたいに『人種差別撤廃条約』の再検討と再批准に物申しに来たようには見受けられないし、観光で来たにしては、ガイドの一人も連れていない。それに、あんたみたいな若い女と、それよりも更に若い男女の子供と言う組み合わせも妙だ。なあ、一体あんたらは何者なんだ?」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルのそう言った問い掛けに対して、彼から「若い女」と呼ばれた事がちょっとだけ嬉しかったらしいグエン・チ・ホアは、その疑問に答えるにやぶさかではない。

「ええ、そうね? 実を言いますとあたし達三人は、とある男性の足取りを追っていましてね?」

 グエン・チ・ホアはそう言って話を切り出すと、彼女が経営する『Hoa's Library』の店頭から『ちびくろサンボ』の絵本の原書を盗み出そうとしたサイモン仁の存在、それに彼の足跡を追って僕ら三人がフォルモサを発ってからこっちの出来事を、一通り解説してみせた。そして解説を聞き終えた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、ロッキングチェアに腰掛けたまま首を縦に振って得心する。

「成程、そう言う訳か。つまりあんたら三人はそのサイモン仁とか言う男を追って日本の大阪、エチオピアのアディスアベバ、それにここスイスのジュネーヴと渡り歩いたが、結局未だに彼を捉える事は出来ていないと言う事なんだな?」

「ええ、そうね? 甚だ残念な事ではありますけれども、まさにキャンベルさんの仰る通りでしてよ?」

 グエン・チ・ホアがさも残念そうに肩を竦めながら溜息交じりにそう言って、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの疑問に答えれば、彼は重ねて問い掛けざるを得ない。

「だとすると、あんたら三人は、次はどこの国のどの街に向かうつもりなんだい? あんたらが足取りを追っているサイモン仁とやらは今どこに居るのか、その目星は付いているのかい?」

「それをこれから、突き止めましてよ?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは、彼女が腰掛けたロッキングチェアの傍らに置かれていたラタンの旅行鞄へと手を伸ばし、その中から彼女自身のスマートフォンを取り出した。そしてそのスマートフォンの液晶画面を慣れた手付きでもって数回タップすると、やがて数分の間を置いてから、聞き慣れた女性の声が受話口越しに耳に届く。

「やあ、もしもし、チ・ホアかい?」

 スマートフォンの受話口越しに耳に届いたその声の主こそは、今更言うまでも無い事ではあるものの、ここスイス連邦と国境を接するフランスの地に居る筈のエルメスその人に他ならない。

「こんばんは、エルメス? あなたに近況をご報告するのが遅れている内に、もうすっかり夜になってしまいましたけれども、お元気でして?」

「ああ、そうだね! 敢えて聞かれるまでもない事だけど、僕なら元気溌剌とでも言ったところさ! と言うよりも、むしろこうして夜になってからこそが、昼夜逆転の不健康な生活が許された僕ら自由人のための時間だからね! ……それで、チ・ホア? 今夜は一体、何の用だい? キミら三人がジュネーヴに無事到着したって事まではこちらでも把握してるけど、その後の追跡の進捗は?」

「ええ、それがね? エルメスったら、ちょっと聞いてくださる? エチオピアを発ってからジュネーヴに到着したところまではよろしかったのですけれども、ほんの30分ばかりの僅差でもって、またしてもサイモン仁さんを取り逃がしてしまいましてね? まったくもう、どうしていつもいつも、最後の一歩が間に合わないのかしら? まるで掴もうとすればする程ぬるぬると滑って掴めない、鰻か泥鰌か蛸みたいな方でしてよ?」

 グエン・チ・ホアは溜息交じりにそう言って、ぷりぷりと怒りを露にしながら、サイモン仁を取り逃がしてしまった事に対する不平不満の言葉を魚介類の捕らえ辛さに例えてみせた。そしてそんな彼女の様子に、スマートフォンの向こうのエルメスは思わず失笑を禁じ得ない。

「そうかいそうかい、それはまた残念だったね! それでもってこうして僕に電話を掛けて来たって事は、また僕に、サイモン仁の居所を突き止めてほしいって事だろ? 違うかい? ん?」

「ええ、そうね? エルメス、あなたが既にそこまで察してくださっていると言うのであれば、随分と話が早いのではないかしら? でしたらリッチモンドホテル・ジュネーヴをチェックアウトされたサイモン仁さんが果たしてどこに向かわれたのか、あなたのハッキングの腕前でもって、今すぐにでも調べてくださって?」

「ああ、勿論さ! 任せとけって! この歳にしてIQ250オーバーの知能指数を誇る若き天才ハッカーであるこの僕が、サイモン仁の居所を、たちどころに突き止めてあげるからさ!」

 エルメスが如何にも自信ありげに胸を張りながらそう言って、スマートフォンの向こうからカタカタと言う小気味良い打鍵音が聞こえて来たかと思えば、やがて彼女は一つの結論へと到達する。

「どうやらホテルをチェックアウトしたサイモン仁は、そのまま真っ直ぐ、来た道を引き返すかのような格好でもって再びジュネーヴ国際空港へと向かったみたいだね!」

「あら、そうですの? でしたらサイモン仁さんは、そのジュネーヴ国際空港から、どちらの国なり地域なりへと旅立たれたのかしら?」

「サイモン仁が購入した旅客機の航空券の記録に依ると、ジュネーヴ国際空港から旅立った彼の行き先は北米大陸、つまりアメリカ合衆国さ! それも首都であるワシントンD.C.から程近い、ワシントン・ダレス国際空港に降り立った事が確認されてるよ!」

「あら、そうですの? ありがとうエルメス、感謝しててよ? でしたらあたし達三人は明日の早朝にでもアメリカ合衆国に向けて旅立ちますから、あなたは引き続きサイモン仁さんの動向を監視しつつも、今夜はもう夜更かしなどしないでゆっくり休んでちょうだいね? よろしくて?」

「ああ、うん、まあ、絶対に夜更かしはしないって約束は出来ないけど……出来るだけ努力はしてみるよ! じゃあね、チ・ホア! また明日!」

「ええ、でしたらエルメス、また明日? それと、もし何かありましたら、すぐにでも連絡してちょうだいな? じゃあね?」

 最後にそう言ったグエン・チ・ホアは、手にしたスマートフォンの液晶画面をとんとんと軽くタップし、通話を終えた。

「如何でして、キャンベルさん? 今のあたしとエルメスとの会話を、お聞きになりまして?」

 スマートフォンをラタンの旅行鞄の中へと仕舞い直したグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、問い掛けられた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは首を縦に振る。

「ああ、聞いていた。残念ながらそのエルメスと言う人物がどこの誰なのかは俺のあずかり知らぬところだが、とにかく明日の朝、あんたら三人はアメリカ合衆国のワシントンD.C.に向かって旅立つと言う訳だな?」

「ええ、そうね? あたし達が行方を追っているサイモン仁さんがそこにいらっしゃると言うのであれば、是非も無くてよ?」

「そうか、是非も無しか。だとしたらあんたらがワシントンD.C.に無事到着し、そのサイモン仁とやらをかの地で捕らえられる事を、俺もここスイスから祈念するとしよう」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言うと、腰掛けていたロッキングチェアからおもむろに腰を上げた。

「あらあら? キャンベルさんったら、もうお帰りになられるのかしら?」

「ああ、俺もさっさと自分のホテルに帰って、今夜中に『新ブラックパンサー党』の仲間達と一緒に明日以降の抗議活動のタイムスケジュールについて話し合わなければならないんでね。だからこれで、おいとまさせてもらうよ」

 そう言い終えると同時にくるりと踵を返し、客室と廊下とを隔てる扉の方角へと足を向けた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの背中に、グエン・チ・ホアは問い掛ける。

「それにしてもキャンベルさん、あなたったら、なかなかユニークで興味深い方ね? レストランでは「暴力革命もいとわない」だなんて大見得を切っておきながら、いざ暴力を振るってしまわれたらわざわざこうして万丈くんに謝罪されるのですから、言行不一致、つまり言ってる事とやってる事とが矛盾しておられるのではないかしら?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの問い掛けに、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、扉の方角へと向けていた足を止めた。

「暴力革命もいとわないと言うのは、党の方針だからな。だからあの場では、あの場に居合わせた党員の代表として、それを声高に主張させてもらった。しかしながら、たとえ党の方針に逆らうのかとただされたとしても、俺個人は決して暴力を肯定しない」

「あら、そうなの? それは何故かしら?」

「俺達は、俺達貧しい黒人は、安易に暴力を振るってはならないんだ。すぐに怒って怒鳴り散らして暴力を振るうと言った、ステレオタイプとも言える貧しい黒人に対する固定観念を払拭しなければ、幾ら自由と権利を求めて国際社会に訴えたところで俺達に賛同してくれる仲間は増えはしない。だからこそ、俺は俺が所属する『新ブラックパンサー党』の方針としての暴力革命を肯定しつつも、決して俺個人の暴力は肯定しないのさ。だからグエンさん、そんな俺の考え方が矛盾していると言うのなら、そう言って笑ってくれて構わない。とにかく、貧しい黒人は暴力を振るってはならないんだ」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが全てを達観したかのような表情と口調でもってそう言えば、グエン・チ・ホアはぱちぱちと軽く手を叩きながら、これを褒め称える。

「あらあら、それはそれは、随分と殊勝な心掛けでいらっしゃるのね? ねえ、キャンベルさん? 確かにあなたの仰る通り、安易に暴力を振るう黒色人種ネグロイドの方々を捉えた動画が、インターネット上にも溢れてますものね? そう言ったステレオタイプとも言える黒色人種ネグロイドの方々を反面教師としながら、党の方針に反してでも非暴力を訴えるだなんて、なかなか出来る事ではなくてよ?」

「見え透いたお世辞はしてくれよ、俺は只、黒人の地位向上を訴えたいだけなんだからさ」

 グエン・チ・ホアに褒め称えられた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って、少しだけ照れ臭そうに含羞はにかんだ。そして最後に「じゃあな」とだけ言い残すと、ホテルの廊下へと続く扉を潜った彼は客室から姿を消す。

「……結局あの人は危険な思想の持ち主の悪い人だったのか、それとも暴力が嫌いな良い人だったのか、どっちだったんでしょうかね?」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが客室から立ち去ったのを確認してから、僕は誰に言うでもなくそう言って、虚空に向かって問い掛けた。

「さあ、どうかしらね? 複雑な感情や価値観を持ち合わせる一人の人間が、果たして良い人か悪い人かだなんて事は、そうそう簡単に判別出来るような簡単な問題ではなくってよ? まあそれでも、万丈くんをうっかり殴ってしまった事を謝罪するだけの良心の呵責や罪の意識を持ち合わせているのですから、彼を一概に悪人と断ずる事は出来ないのではないかしら?」

 僕の問い掛けに対してグエン・チ・ホアはそう言って、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルを暗に擁護するものの、僕の隣に立つ淑華はこれに同意しない。

「ちょっと二人とも、さっきから何言ってんのよ! よりにもよって万丈を殴って失神させたりしたような人が、悪人でない筈が無いじゃない!」

 淑華が眉を吊り上げて唇を尖らせながらそう言って、再びぷりぷりと怒りを露にしたならば、逆にグエン・チ・ホアはそんな彼女に同意する。

「ええ、そうね? 何と言っても淑華ちゃん、あなたの大事な大事な万丈くんを殴ってしまわれたのですから、そう言った意味ではキャンベルさんもまた悪人と言えなくもないのではないかしら?」

 くすくすとさも愉快そうにほくそ笑みながら、まるで小さな子供を揶揄からかうかのような口調でもってグエン・チ・ホアがそう言えば、揶揄からかわれた淑華はまたしても顔面を真っ赤に紅潮させざるを得ない。

「ちょ、ちょちょ、ちょ、ちょっとあんた、馬鹿も休み休み言いなさいよね! 別にあたしにとって、万丈は大事な人なんかじゃないんだから!」

 どうやら虚を突かれる格好になってしまったらしい淑華はあわあわと泡を喰いながらそう言って、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような様子でもって取り乱し、彼女にとって僕が大事な人だと言うグエン・チ・ホアの言葉を必死になって否定した。

「あら、そうですの? まあ、そうね? 今夜ばかりは、そう言う事にしておいて差し上げてもよろしくてよ?」

「だから、そう言う事にしておいて差し上げてもよろしいとかよろしくないとか、そんなんじゃないって言ってんの! もう、この馬鹿! 馬鹿! 胡散臭い年増の馬鹿女! あんたなんか、とっととベトナムの奥地のジャングルにでも里帰りして、ベトコンが仕掛けた対人地雷を踏んで木っ端微塵に爆死しなさい!」

 言うに事欠いてグエン・チ・ホアを年増呼ばわりしたばかりか、ベトナム戦争終結から半世紀が経過しようと言うのにベトコンの対人地雷を踏んで爆死しなさいと言ってみたりと、どうにもこうにも淑華の罵倒の語彙は独特であると言わざるを得ない。

「あらあら、淑華ちゃんったら、随分と面白い事を仰るのね? ですけど今はそんな事よりも、あたしからあなた方お二人に、是非とも提案しておきたい事がありましてよ?」

「ん? ホアさん、その提案しておきたい事って何ですか?」

 何らかの提案を持ち掛けんと欲するグエン・チ・ホアに、僕がそう言って鸚鵡返しに問い掛ければ、彼女はくすくすと悪戯っぽくほくそ笑みながら口を開く。

「ええ、そうね? 率直に申し上げれば今夜の客室の部屋割りに関する事なんですけれども、当初の予定を変更しまして、万丈くんと淑華ちゃんのお二人がこのツインのお部屋に宿泊されると言うのは如何かしら? と言いますのも、万丈くんはキャンベルさんに殴られた際の傷が未だ完全には癒えておりませんから、夜中に容態が急変されるかもしれないでしょう? ですからもしそうなった場合には誰か他の人が近くに居て差し上げた方がよろしいでしょうし、その重責を担うのは、淑華ちゃんが適任なのではないかと考える次第でしてよ? ね? どうかしら? このあたしの提案に、あなた方お二人は賛同していただけて?」

「は? どうしてあたしが、万丈なんかと同室にならなきゃいけない訳?」

 グエン・チ・ホアの提案を耳にした淑華が、間髪を容れずにそう言って、この提案に疑義を呈した。

「だって淑華ちゃんは、あなたの大事な大事な万丈くんの事が、心配で心配で堪らないんでしょう? それにあなたがこの提案に賛同なさってくださらないと、あたしが万丈くんと一緒のお部屋で二人きりで寝泊まりする事になってしまいますけれども、それでもよろしくて?」

 やはりくすくすと悪戯っぽくほくそ笑みながらそう言ってグエン・チ・ホアが問い掛ければ、問い掛けられた淑華は「うっ……」と言って言葉に詰まったままその場に立ち尽くし、二の句が継げない。

「あらあら、淑華ちゃんったら急に固まってしまわれて、一体どうされたのかしら? それにあたしの提案に賛同すべきか否か、今すぐこの場で決断していただかないと、このまま一睡もしない内に夜が明けてしまいましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに半ば脅迫かそれとも恫喝、もしくは強要されるような格好でもって即断即決を迫られた淑華は唇を噛みながら、暫し「ううううぅぅぅぅ……」と口惜しそうに唸り声を上げた末に決断する。

「ええ、分かった、分かりましたから! 今夜はあたしが万丈と一緒にこの部屋に泊まって、容態が急変しないかどうか万丈の様子を監視してればいいんでしょ? だからあんたは荷物を纏めて、とっととこの部屋から出て行きなさいよ!」

「おお、怖い怖い? でしたらあたしはシングルのお部屋へと移動させていただきますから、後は万丈くんと淑華ちゃんの若いお二人だけで、朝までゆっくりしっぽりとお楽しみくださいな?」

 さも愉快そうにおどけた様子でもってそう言ったグエン・チ・ホアは、ロッキングチェアから腰を上げると、彼女の唯一の荷物であるラタンの旅行鞄と共にツインの客室から足早に出て行ってしまった。そしてそんなグエン・チ・ホアが客室から出て行く際に潜った扉に向かって、怒り心頭の淑華は顔面を真っ赤に紅潮させたまま「もう二度と顔を出すな、この胡散臭いベトコンの馬鹿女!」と言いながら、ホテルの備品である枕を力任せに投げつける。

「おいおい、淑華、少しは落ち着けよ。何をそんなに怒っているのか知らないが、僕とお前が、同じ部屋で寝泊まりするだけの話じゃないか」

 僕はベッドの縁に腰掛けながら事も無げにそう言うが、そんな僕に、淑華は怒りに燃えた眼差しを向けざるを得ない。

「だから、それが問題だって言ってんの! 何で万丈は、そんな簡単な事も理解出来ないのよ!」

「それが問題だって言われたって……だから、僕とお前は幼稚園の頃からいつも一緒に過ごした幼馴染なんだから、今更同じ部屋で寝泊まりする事の何が問題なんだ? ん?」

「うるさい! 死ね、この馬鹿! 万丈なんか知らない! この鈍感! あたしはもう寝るから、あんたもとっとと寝なさいよ!」

 すっかりへそを曲げたままそう言った淑華は彼女の着替えが入っているであろうキャスター付きのキャリーケースを引っ掴むと、そのままずかずかと大股でもって客室を縦断し、バスルームの扉の向こうへと姿を消した。どうやら淑華は僕に先んじてシャワーを浴びて、とっとと寝てしまうつもりらしい。

「何だよ淑華の奴、さっきから怒ってばっかりでさ。変なの」

 ベッドの縁に腰掛けた僕が溜息交じりに肩を竦めながらそう言ってすっかり呆れ果ててしまっていると、やがてバスルームの方角から淑華がシャワーを浴びる水音が聞こえて来ると同時に、不意にホテルの廊下へと続く扉がこんこんとノックされた。

「はい、どうぞ」

 ノックの音を聞き付けた僕がそう言って立ち上がれば、ゆっくりと開いた扉の隙間からグエン・チ・ホアが姿を現したので、僕は「どうしたんですか、ホアさん?」と言って問い掛けながら彼女を出迎える。

「あら、万丈くん? 向こうのお部屋にあなたのお荷物が置いてありましたから、それを持って来て差し上げてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女はシングルの部屋に置きっ放しになっていた僕の荷物であるデイパックを手にしていたので、僕はそれを受け取った。

「ありがとうございます、ホアさん」

「どういたしまして? それで、淑華ちゃんはどうなさっておられるのかしら?」

「淑華なら、今ちょうど、バスルームでシャワーを浴びているところです。あいつったら何だかずっと怒ってばかりで、いつにも増して変なんですよ」

 僕がそう言って不思議そうに小首を傾げれば、やはりグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、この場に居ない淑華と僕に忠告する。

「あらあら、万丈くんったら、随分と鈍感な方なのね? あなたの様な鈍感な方に振り回されっ放しだとしたら、これまでもこれからも、淑華ちゃんは随分とご苦労なさるのではないかしら?」

「淑華の奴が苦労する? ホアさん、それは一体、どう言った意味ですか?」

「ええ、そうね? それはきっと、万丈くん、決して遠くない未来にあなたが思い知る事となるのではないかしら?」

 最後にそう言ったグエン・チ・ホアは扉を閉めると、そのままホテルの廊下の向こうのシングルの客室の方角へとその姿を消した。そしてツインの客室に取り残された僕はと言えば、彼女の発言の真意が理解出来ず、どうにも小首を傾げるばかりである。

「ねえ、万丈? 今何か、話し声が聞こえたような気がするんだけど、誰か来てたの?」

 するとバスルームからシャワーを浴びて寝間着に着替え終えた淑華が顔を出し、濡れた髪をバスタオルでもって拭いて乾かしながらそう言って、僕に問い掛けた。

「ああ、ホアさんがね、向こうの部屋に在った僕の荷物を届けてくれたんだ」

「ふうん、そう。それじゃあ万丈も、シャワーを浴びてさっさと寝ちゃったら? 顎、未だ痛いんでしょ?」

 どうやら熱いシャワーを浴びた事によって頭に上っていた血が下りたのか、ややもすれば冷静さを取り戻したらしい淑華にそう言って即座の入浴と就寝を提案されたので、僕は「ああ、うん」と言って彼女に同意すると同時に自分の荷物を持ってバスルームへと移動する。

「僕が鈍感ねえ……ホアさんは何を言ってるのか分かんないし、淑華は淑華で勝手に怒ってるし、女の人って、本当に変なの!」

 僕はそう言いながら手早くシャワーを浴び終えると、濡れた身体と頭髪を乾かしながら寝間着である着古したTシャツと短パンに着替え、ついでに歯も磨いてからバスルームを後にした。

「お待たせ」

 そう言いながらバスルームから退出し、客室のリビング兼寝室へと移動してみれば、既に淑華は二つ並んだベッドの内の彼女のベッドに横になっている。

「いいこと、万丈? ここからこっちの、この隙間を乗り越えてこっちに来ちゃ駄目だからね? 夜中にトイレに行く時も、ベッドのそっち側からぐるっと迂回して、絶対に、何があっても、あたしのベッドには近寄らないこと! いい? 分かった?」

「ああ、分かったよ」

 ベッドとベッドとの隙間を指差しながら、ホテルの廊下へと続く扉に近い方のベッドの上で横になった淑華が言い放った警告に対して、寝間着姿の僕はそう言って同意せざるを得ない。

「それじゃあ、お休み」

「お休み! もう一度言っとくけど、絶対に、こっちに近寄らないでよね!」

 最後にそう言って再度警告の言葉を発した淑華と共に就寝の挨拶を交わし終えると、僕らは客室の照明を落とし、そのまま各自のベッドの上で布団の中に潜り込んで眠りに就いた。そして深い深い眠りの果てに、一度も途中覚醒する事無く、僕らは朝を迎える。

「おはよう、淑華」

「おはよう! 一応確認しとくけど、万丈、あんた、その隙間よりこっちに近寄らなかったでしょうね!」

 眼を覚ますなりそう言って、警戒心と猜疑心を隠そうともしない淑華と共に起床の挨拶を交わし終えると、若干うんざりしながら「近寄らなかったから、安心しろよ」と言った僕と彼女は朝食を食べるための準備に着手した。

「ホアさん、起きてますか?」

 そして外出着に着替え終えた僕ら二人が自分達の客室を出てホテルの廊下を渡り、グエン・チ・ホアが宿泊している筈のシングルの客室の扉をこんこんとノックしながらそう言えば、室内からの「ええ、起きてましてよ?」と言う返答と共に扉が開かれる。

「ホアさん、おはようございます!」

「ええ、おはようございます? お二人とも、昨夜は良く眠れて? それではさっそくですけれども万丈くんも淑華ちゃんも、下のレストランまで、朝ご飯を食べに行きましょうね?」

 そう言ってシングルの客室から退出したグエン・チ・ホアの先導されながら、僕ら三人はぞろぞろと連れ立ってエレベーターに乗り込むと、そのままホテル内のレストランの在る階層まで移動した。そしてレストランの店内へと足を踏み入れから窓辺のテーブル席に腰を下ろし、何と言う事も無いビュッフェ形式の朝食をむしゃむしゃと食みながら、僕は彼女に問い掛ける。

「ところでホアさん、僕らは今日はこれから、どうする予定なんですか? やっぱり昨夜言ってた通り、すぐにでも北米に向かうつもりなんですか?」

「ええ、そうね? 実を言いますと昨夜の内に、ワシントン・ダレス国際空港へと向かう旅客機の航空券を三人分ばかり購入しておきましたから、この朝食を食べ終えましたらすぐにでもジュネーヴ国際空港へと移動しましてよ? 搭乗する旅客機の離陸予定時刻は午前10時30分ですので、それまでに余裕を持って、出国の準備を整えておかなければなりませんものね?」

「成程」

 朝食を食べ終えたらすぐにでも空港へと移動しなければならないと言うグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言って、首を縦に振りながら得心した。どうやら今朝はゆっくり食事を摂っているだけの暇も余裕も無い程にまで、僕らの今後の予定は立て込んでしまっているらしい。

「ところで話はがらりと変わりますけれども、万丈くん、それに淑華ちゃん?」

「ん? 何ですか?」

「何よ?」

 朝食のスクランブルエッグとクロワッサンを食みながらそう言って問い返した僕と淑華に、不意に話題を変えると言い出したグエン・チ・ホアが、改めて問い掛ける。

「昨夜のお二人は、やっぱりお楽しみだったのかしら?」

「?」

 グエン・チ・ホアの問い掛けの意味と意図が理解出来なかった僕は頭の上に見えない疑問符を浮かべるが、そんな僕の隣に座る淑華は飲んでいたカフェ・オ・レをぶっと噴き出してせ返り、ごほごほと激しく咳き込んだ。

「お楽しみ? 僕と淑華がお楽しみって、一体、何を楽しむんですか?」

 やはり僕が頭の上に見えない疑問符を浮かべながら、彼女の問い掛けの意味と意図が理解出来ないままそう言えって問い返せば、グエン・チ・ホアはがっくりと肩を落とす。

「あらあら、万丈くんのその口振りですと、あたしが期待しておりましたような出来事は何も起こらなかったみたいね? あなた方お二人の関係の、より一層の進展を期待していました身としては、この上無く残念でしてよ?」

 すっかり落胆した様子でもってそう言ったグエン・チ・ホアに、頭の上の見えない疑問符が一向に解消されないまま、僕は重ねて問い掛けるざるを得ない。

「僕と淑華の関係の、より一層の進展? それって、例えば?」

「ええ、そうね? 例えば雰囲気に流されるままのキスであるとか、もっと言ってしまえば、旅先での初めてのセックスであるとか?」

 日頃から清楚で上品な彼女にしては珍しく、グエン・チ・ホアはちょっとだけ下世話な単語を交えながらそう言うが、僕はそんな彼女のあけすけな言葉を笑い飛ばす。

「ちょっとちょっと、ホアさんってば、いきなり何言ってんですか? そんなキスだとかセックスだとか言った恋人同士がするようなエッチな事を、只の幼馴染の同級生でしかない僕と淑華が、こんな旅先なんかでする筈が無いじゃないですか! なあ、そうだろ、淑華? お前もいつもみたいに、破廉恥がどうだとか何だとか言っておけよな! 破廉恥博士の名に懸けてさ!」

「……」

「あれ? 淑華? おい、淑華、どうした?」

 その破廉恥博士ぶりを発揮する絶好の機会だと言うのに、いつもならば隙あらば破廉恥破廉恥連呼する筈の淑華が何故か俯いたまま押し黙ってしまっているので、不思議に思った僕はそう言って彼女の名を口にしながら問い掛けた。

「……え? あ、えっと、その、そ、そそ、そそそそうよそうよ! 破廉恥、破廉恥じゃないの、この胡散臭いベトコンの馬鹿女! 言うに事欠いてキスとか、セ、セセ、セ、セセセセックスとか、あたし達は、あたしと万丈は、只の幼馴染の同級生に過ぎないんですからね!」

 はっと我に返った淑華はそう言って、やはり顔面を真っ赤に紅潮させながら苦言を呈するが、その顔に浮かぶ表情には怒りと恥辱、それに僅かばかりの悔恨や悲哀と言った複雑な感情が入り混じっているように思えてならない。

「あらあら、淑華ちゃんったらそんな事言って強がっちゃって、本当はちょっとくらい万丈くんに期待していたのではなくて?」

「は? 期待? 期待ですって? ちょっとあんた、あたしが一体全体、万丈に何を期待するって言うのよ!」

「ええ、そうね? 例えば夜這いであるとか、凌辱であるとかかしら? だってあたしの見立てですと、淑華ちゃんったらむっつりスケベですから、大事な人からちょっと強引に迫られて関係を築くようなシチュエーションが好きそうなタイプですものね?」

「な、なな、ななな何言ってんのよ! 昨日から何度も言ってるけどあたしにとって万丈は大事な人でも何でもないし、それに言うに事欠いてこのあたしをむっつりスケベ呼ばわりするだなんて、絶対に赦さないんだからね!」

 声を荒らげながらそう言った淑華の顔からは、ついさっきまでの複雑な表情はすっかり消え失せ、只純粋な怒りそのものが見て取れるだけであった。そしてそんな淑華の様子を揶揄からかうかのような格好でもって、グエン・チ・ホアがくすくすと愉快そうにほくそ笑めば、やがて僕ら三人はビュッフェ形式の朝食を食べ終える。

「ふう、ごちそうさま」

 グエン・チ・ホアや淑華と共にそう言って食事を終えた僕は、すっかり膨らんだ腹を撫で擦りながら、箸ならぬフォークを置いて一息吐いた。

「でしたらお二人とも、すぐにでもチェックアウトして空港へと向かいますので、出発の準備が整ったら1階のロビーで待ち合わせましょうね? よろしくて?」

「ええ、分かりました」

 そう言った僕と淑華、それにグエン・チ・ホアの三人は窓辺のテーブル席から腰を上げてホテルのレストランから退出すると、そのままエレベーターに乗り込んで客室が在る階層へと移動する。

「でしたらまた後で、ロビーで会いましょうね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアと廊下で離別した僕と淑華はツインの客室へと帰還し、手早く荷物を纏めると、それらの荷物を手に手にホテルの1階のロビーへと移動した。そしてロビーで待ち続けること数分後、周囲を行き交う宿泊客やホテルマン達の同行を観察するともなしに観察していれば、やがてラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアが姿を現す。

「あら、あたしが最後ですの? お待たせしてしまったかしら?」

「そんな事ありませんよ、ホアさん。さあ、出発しましょう!」

 デイパックを背負った僕がそう言って謙遜しながら発破を掛ければ、ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアは「ええ、そうね?」と言ってからフロントで二部屋分の宿泊費を支払い、フロント係のホテルマンに求められるままチェックアウトの書類にサインした。そして彼女と僕と淑華の三人が次の目的地であるジュネーヴ国際空港へと向かうため、ドアマンが開けてくれた正面玄関の扉を潜ってリッチモンドホテル・ジュネーヴの敷地内から退出すると、不意に見知った顔が眼に留まる。

「あらあら? どなたかと思ったら、そちらにいらっしゃるのはキャンベルさんではないかしら? 今日もまた『人種差別撤廃条約』の再検討と再批准に物申しておられる筈のあなたが、こんな所で何をなさっておいででして?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、ホテルの前を走る大通り沿いに植えられた街路樹にもたれ掛かりながら立っていたのは、昨夜離別した筈の黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルであった。

「ああ、やっと来たか。あんたらを待ってたんだ」

 そう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは街路樹にもたれ掛かった体勢から背筋を伸ばし、大きなボストンバッグを手にしながら、こちらへと歩み寄る。

「実はあんたらに、折り入って頼みがある。俺もあんたらと一緒に、アメリカ合衆国まで同行させてはもらえないだろうか?」

 こちらへと歩み寄った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、僕らの先頭に立つグエン・チ・ホアの眼を真正面から見据えながらそう言って、少なくとも僕にとっては予想外の要求を突き付けた。

「あらあら? あたし達に同行したいだなんて、キャンベルさんったら、一体どう言った風の吹き回しなのかしら?」

「あんたらの旅の行く末に果たしてどんな結末が待っているのか、俺はそれに、興味が湧いた。あんたらが足取りを追っていると言うサイモン仁と言う名の男が、何故『ちびくろサンボ』の原書をあんたの店から持ち去ろうとしたのか、何故彼はエチオピアで皇帝の末裔に謁見しようとしたのか、そしてエチオピア国立博物館からルーシーとアルディの化石人骨が消え失せたのは何故なのか、俺はその全ての答えを知りたい。いや、一人の黒色人種ネグロイドとして、俺にはそれを知る権利と義務がある。違うか?」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言えば、やはりグエン・チ・ホアは、さも愉快そうにくすくすと不敵にほくそ笑む。

「ええ、そうね? キャンベルさん、確かに『ちびくろサンボ』とも縁深い黒色人種ネグロイドであるあなたには、あたし達の旅の結末を見届ける権利と義務がおありでしてよ?」

 するとグエン・チ・ホアはくすくすとほくそ笑みながらそう言って、事実上、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが僕らに同行する事を許諾した。

「でしたらキャンベルさん、あなたったら、ご自分が所属する組織の活動を途中で投げ出して来てしまったと言う事でしょう? そちらの方は、何も問題は無いのかしら?」

「ああ、その点なら問題無い。ちゃんと『新ブラックパンサー党』の仲間達には事のあらましを伝えて、ここジュネーヴでの抗議活動から一時的に離脱する許可を得ている。心配するな」

 どうやら着替えや洗面用具と言った彼の身の回りの品々が詰め込まれているものと思われる、大きなボストンバッグを手にしながらそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは、改めてグエン・チ・ホアに問い掛ける。

「それじゃあもう一度尋ねるが、アメリカ合衆国まで、俺が同行しても構わないか? それとも、俺みたいな黒人の活動家なんかと一緒に旅に出るのは御免こうむるか?」

「ええ、そうね? 勿論あたし個人としましては、あたし達の旅路にあなたが同行しようがしまいが、どちらでも構わなくてよ? もっとも、こちらにいらっしゃる万丈くんと淑華ちゃんがそれを認めないのであれば、話は別ですけれどもね?」

 グエン・チ・ホアはそう言って返答し、僕と淑華の二人に、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが再度突き付けた要求の決定権を委ねた。すると黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは何かを訴え掛ける、もしくは懇願するかのような視線を僕に向かって投げ掛け、隣に立つ淑華もまた何か言いたげな視線でもってこちらをジッと見つめている。

「……ええ、そうですね? 僕は別に、キャンベルさんが僕らに同行したって構いませんよ? 今更三人旅が四人旅になったところで、大した違いはありませんからね」

 僕はそう言って黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの要求を呑みはしたものの、それは決して、僕の本心などではない。本来であれば僕はグエン・チ・ホアと二人きりでもって諸国漫遊の旅に出たかったにも拘らず、それをまず始めに淑華が、若い男女の二人旅は許さないと言って妨害したのだ。その上更に、この黒色人種ネグロイドの男が事態を益々深刻化させようと言うのだから、全くもって失意のどん底に放り落とされたと言うものである。

「そうか、だったら話は決まりだな! 俺もあんたら三人の追跡行に、同行させてもらうぜ!」

 しかしながらそんな僕の胸の内を知ってか知らずか、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはその顔に浮かべた満面の笑みをこちらに向けながらそう言って、至極喜んでいる様子であった。

「ええ、そうね? でしたら時間も無い事ですし、こんな所で立ち話も何ですから、すぐにでもタクシーを拾って空港へと急いだ方がよろしいのではないかしら? キャンベルさん、今後のあなたの処遇についても、タクシーの中でもって相談しましょうね?」

 グエン・チ・ホアがホテルの前を走る大通りでもってタクシーを拾おうと片手を上げながらそう言って、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルと淑華の二人が各自の荷物を手に手に彼女の背中を追う傍ら、最後尾を歩く僕は隠れてこっそりと溜息を吐かざるを得ない。

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