第十幕


 第十幕



 端的かつ率直に結論から言ってしまえば、デモ隊との衝突を避けるべく大通りを迂回した僕ら三人がようやく辿り着いたリッチモンドホテル・ジュネーヴに、既にサイモン仁の姿は無かった。

「あらあら、まったくサイモン仁さんったら、決して一つ所に留まっていてはくれない本当にお忙しい方なんですのね? 失礼しちゃうじゃない?」

 ホテルのフロントでフロント係のホテルマンに問い合わせ、サイモン仁がつい30分前にチェックアウトしてしまった事を確認したグエン・チ・ホアはそう言って溜息を吐くものの、その眼の奥で炎々と燃え上がる追求と追跡の焔は今尚輝きを失わない。

「それでホアさん、これから僕ら、どうしますか?」

 広壮にして豪奢な造りのホテルのロビーの一角で、僕がそう言って問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアはやはり溜息交じりに肩を竦めながら返答する。

「ええ、そうね? 取り敢えず今夜ばかりはこちらのホテルに宿泊させていただいて、また明日以降、エルメスからの情報を頼りにしながらサイモン仁さんの足取りを追う事にいたしましてよ?」

 肩を竦めながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉にると、どうやら彼女と僕と淑華の三人は今日これから、このリッチモンドホテル・ジュネーヴに一泊する事が決定してしまっているらしい。そしてこの決定に対して僕と淑華の二人が特にこれと言って反論しなければ、彼女は再びホテルのフロントへと歩み寄り、折り目正しい濃紺色の制服に身を包むフロント係のホテルマンに要請する。

「そう言った訳ですので、ツインのお部屋とシングルのお部屋をそれぞれ一つずつ、今すぐにでもご用意していただけて?」

かしこまりました、マダム。すぐにお部屋をご用意いたしますので、少々お待ちください」

 うやうやしいお辞儀と共にかしこまりながらそう言って、グエン・チ・ホアの要請を快諾したホテルマンは手元の端末を慣れた手付きでもって素早く操作し、空室の有無を確認し終えるや否や二部屋分の客室のルームキーを用意してみせた。

「それではお客様、どうぞごゆっくり、心行くまでおくつろぎください」

 やはりうやうやしいお辞儀と共にそう言ったフロント係のホテルマンに見送られながら、ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホア、それにデイパックを背負った僕とキャリケースを転がした淑華の三人はロビーの奥のエレベーターホールの方角へと足を向ける。

「このホテルはエチオピアで泊まったホテルと違って、ポーターの人が荷物を運んではくれないのね」

 エレベーターの籠がロビーとフロントの在る階層へと到着するのを待ちながら、僕の隣に立つ淑華が、ちょっとだけ不服そうな表情と口調でもってそう言った。

「ええ、そうね? ですけど今日のところはこちらのホテルも大変混雑されているようですし、ほんのちょっとくらいサービスが疎かになってしまったとしても、それは仕方の無い事でしてよ?」

 そう言ってそれとなく淑華をたしなめたグエン・チ・ホアの言葉通り、僕らが足を踏み入れた今夜のリッチモンドホテル・ジュネーヴは、どうやら殊の外繁盛しているらしい。その証拠と言っては何だが、ざっとロビーの内部を見渡してみただけでも、お揃いの制服に身を包んだホテルマン達の忙しなく行き来する姿が方々ほうぼうに見て取れる。

「どうして今日は、こんなに混雑してるんでしょうね?」

 誰に言うでもなくそう言って、僕はさぼど深く考える事も無いまま独り言ちた。

「それは勿論、今この瞬間は屋外でデモ行進に励んでおられる方々も、夜になればどこかに宿泊しなければならないからではないかしら?」

「ああ、そうか」

 僕の独り言に対するグエン・チ・ホアの返答を耳にした僕はそう言って、心の中で膝を打って得心しつつ、デモ隊の人々が宿泊客にもなり得る事に思い至らなかった自分の思慮の浅さに恥じ入るばかりである。

「でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、今夜もまたあたし達女二人がツインのお部屋で、シングルのお部屋には男性である万丈くんがお泊まりになられると言う事でよろしくて?」

「そうですね、僕はそれで構いません」

「まあ、あんたみたいな胡散臭い女なんかと同室になるのは本当は不本意なんだけど、仕方無いんじゃない?」

 やがて到着したエレベーターの籠に乗って客室が在る階へと移動した後に、僕と淑華がそう言って温度差こそあれど彼女の提案に賛同したならば、グエン・チ・ホアはホテルの廊下を歩きながら「でしたら、はい、どうぞ?」と言ってシングルの客室のルームキーを僕に手渡した。勿論ルームキーとは言っても、ここスイス連邦はそれなりに発展した中央ヨーロッパの先進国の一つなのだから、古式ゆかしい金属のブレードが付いた鍵ではなく今風の電子的なカードキーである。

「それではよろしいかしら、万丈くん? 荷物を置いて一休みしたらあなたのお部屋へとお呼びに参りますから、それまでに、一緒にお食事に出掛けられるよう外出の準備を整えておいてちょうだいな?」

「ええ、分かりました」

 そう言ってグエン・チ・ホアの要請に応えると、ホテルの廊下で彼女らと離別した僕は手渡されたルームキーでもって扉を解錠し、今夜自分が宿泊すべき客室の内部へと足を踏み入れた。足を踏み入れた客室はリビング兼ベッドルームとバスルームだけの簡素な造りで、日本の大阪やエチオピアのアディスアベバで宿泊したホテルと異なり、バスルームには便器と洗面台とシャワーの設備だけでバスタブが無い。

「ふうん、ちょっと狭いしバスタブが無いのは残念だけど、まあまあ綺麗で良い部屋じゃないか」

 背負っていたデイパックをホテルの備品であるロッキングチェアの座面の上へと放り出し、ニットの上から羽織っていたフェイクムートンのジャンパーをそのロッキングチェアの背凭せもたれに掛けた僕はそう言って、客室の部屋割りや設備を一通り見て回りながら独り言ちた。そして観るともなしにテレビを観たり、ベッドに寝転がったままスマートフォンを取り出してSNSの自分のTLを眺めるともなしに眺めていれば、やがて室内と廊下とを隔てる扉がこんこんとノックされる。

「万丈くん、そろそろ準備はよろしくて?」

 扉の向こうからそう言って聞こえて来たのは、僕を呼びに来た筈のグエン・チ・ホアの声であった。

「ええ、今行きます」

 そう言った僕が急いでフェイクムートンのジャンパーを羽織り直し、デイパックはロッキングチェアの座面の上に置きっ放しにしたまま客室の扉を開けば、そこには純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアと羊毛ウールのダッフルコートを羽織った淑華の姿が見て取れる。

「お待たせしました」

「あら? 万丈くんったら、こんなに早く外出の準備を整え終えられたのかしら? こう言った時に男の子は手間が掛からなくて、本当に羨ましい限りでしてよ?」

「男子は女子と違って、お化粧したり、どんな服を着たらいいか悩んだりする必要無いもんね! ホント、男ってズルいんだから!」

 何故だか分からないが羨ましげなグエン・チ・ホアと、こちらも何故だか分からないがぷりぷりと怒っている淑華がそう言って、ホテルの廊下に姿を現した僕を出迎えた。

「何だよ淑華、お前、何をそんなに怒ってんだよ?」

「あたしが何に対して怒ってようと、それはあたしの勝手じゃないの! 口出ししないでよね! もう!」

 唇を尖らせながらそう言ってぷいと顔を背けた淑華と言う名の一介の女子高校生は、僕とはもう随分と永い付き合いであるにも拘わらず、全くもって何を考えているのか良く分からない幼馴染であると言わざるを得ない。

「あらあら、万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも痴話喧嘩でしたらまた今度にしていただけて? それとも、ちょっと気が早い夫婦喧嘩だったりするのかしら?」

「痴話喧嘩じゃありません! ましてや絶対に、夫婦喧嘩なんかじゃありませんから!」

 僕との口喧嘩の様子を揶揄からかわれた淑華はそう言って、額に青筋を立てると同時に顔面を真っ赤に紅潮させながら抗議するものの、抗議された当のグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑むばかりである。

「でしたらお二人とも、そろそろお食事に出掛けてもよろしくて? あたしったら、もうお腹がぺこぺこで、空腹のあまりお腹と背中がくっつきそうでしてよ?」

「ええ、そうしましょう」

 そう言って僕が彼女の問い掛けに返答したならば、その返答を耳にしたグエン・チ・ホアはその場でくるりと踵を返し、廊下を渡った先のエレベーターホールの方角へと足を向けた。そして僕ら三人は客室が在る階層へと到着したエレベーターの籠に揃って乗り込んで、フロントとロビーが在る階層へと移動すると、そのまま正面玄関の扉を潜ってホテルから退出する。

「うわ、寒っ!」

 開口一番、ホテルの建屋から一歩退出するなりそう言って、僕の隣に立つ淑華がぶるぶると身体を震わせた。それもその筈、とっぷりと陽が暮れた年の瀬のスイス連邦の戸外の空気は日中よりもずっと冷たく、厚い雪雲に覆われた夜空には小雪ではない本格的な雪粒が舞っているのだから、南国育ちである彼女が寒さに耐えかねたのも無理は無い。

「それでホアさん、これからどこに、何を食べに行くんですか?」

 淑華同様、僕もまたぶるぶると身体を震わせて寒さに耐えかねながらそう言って、前を歩くグエン・チ・ホアに問い掛けた。

「ええ、そうね? 取り敢えずどこか暖かくて大きなお店に足を運んで、地元の特産のスイス料理を堪能してみたくてよ? やはりスイスと言えば、チーズとチョコレートとスイスワインかしら?」

 はらはらと大粒の雪片が舞い落ちる夜空の下、くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは肌着の上から純白のアオザイ一枚しか羽織っていないにも拘らず、まるで寒さを感じているようには見受けられない。それに彼女はこの旅が始まってからと言うもの、旅客機での移動中はずっとシャンパンを飲み下し続けていると言うのに、その上これからスイスワインをも堪能する気なのだろうか。とにかくグエン・チ・ホアと言う名の女性の意外な一面ばかりを見せつけられて、常雨都市フォルモサの骨董街のアンティーク雑貨店の経営者としての彼女の姿しか知らなかった僕は困惑し、どうにも面食らうばかりである。

「とにかく、早くどこかの店に入りましょう! このままだとホアさんは平気でも、僕と淑華が凍え死にます!」

「あら、そうですの? でしたらちょうど良いタイミングでもありますし、あちらのお店にお邪魔させていただく事にいたしましょうね?」

 前を歩くグエン・チ・ホアがそう言って、うっすらと雪が降り積もった通りの向こうを指差せば、そこには『Restaurant Heidi』と書かれた看板を店先に掲げる一軒のレストランが雪化粧を施されながら佇んでいるのが見て取れた。

「いらっしゃいませ! 空いてるお席にどうぞ!」

 レストランの正面玄関の扉を潜ってがんがんに暖房が効かされた店内へと足を踏み入れれば、まるで養豚場の豚の様に丸々と太った中年のウエイトレスがそう言って威勢良く歓迎の声を上げたので、歓迎された僕ら三人は言われた通り空いているテーブル席の一つに腰を下ろす。

「ようこそ『Restaurant Heidi』へ! それで、ご注文は何になさいますか? おっと、お客さんは外国の方ですね? でしたら当店のお薦めはフォンデュのセットとレシュティですけど、どうなさいますか?」

「でしたらそのフォンデュのセットとレシュティ、それにラードンとホウレンソウのキッシュを人数分いただけて? それと飲み物は、そうね? 銘柄はそちらにお任せいたしますから、酸味の少ない地元の白ワインと、この子達には林檎のシードルを用意していただけるかしら?」

かしこまりました! 人数分のフォンデュのセットとレシュティ、ラードンとホウレンソウのキッシュ、それに白ワインと林檎のシードルでございますね? ご注文、ありがとうございます! それでは料理が出来上がるまで、少々お待ちください!」

 テーブル席に腰を下ろしたグエン・チ・ホアの注文を復唱した太った中年のウエイトレスは、やはり威勢良くそう言うとくるりと踵を返し、その注文を厨房で待つ料理人シェフ達に伝えるべくその場から立ち去った。そしてそのまま待つことおよそ十五分からニ十分後、再び姿を現したウエイトレスの手によって、僕らの眼の前のテーブルの天板の上に色とりどりの料理の皿の数々が所狭しと並べられる。

「さあさあ、どうぞ外国からお越しのお客様、当店自慢の出来立てのスイス料理を温かい内に召し上がれ!」

 最後の皿を並べ終えると同時にそう言って発破を掛けると、丸々と太った中年のウエイトレスは次の客が注文した料理を配膳すべく、その場から足早に立ち去った。そこで僕ら三人は小声でもって「いただきます」と言ってから、濛々と湯気の立つ熱々の料理にさっそく手を伸ばし、食事に取り掛かる。

「まさか正真正銘本場スイスのフォンデュ・オ・フロマージュ、つまりチーズフォンデュを堪能出来るだなんて、わざわざアルプス山脈を越えてスイス連邦まで足を運んだ甲斐があったと言うものではないかしら?」

 うきうきと心躍らせながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、今夜の料理の主役は何と言っても、テーブルの中央に置かれたカクロンと呼ばれる陶器の鍋の中でとろとろにとろけるチーズフォンデュのためのチーズであった。

「あら、本物のチーズフォンデュはこう言ったお味なのね? とても美味しくてよ?」

 一口大のサイコロ状に切り分けられた硬いパンを細長いフォークに刺し、そのパンに溶けたチーズを絡めて口に運んだグエン・チ・ホアがそう言えば、僕や淑華もまた彼女に同意せざるを得ない。

「うん、美味い!」

「そうね、美味しいんじゃない? でもこれって塩分と乳脂肪分の塊のチーズを山の様に食べる事になるんだから、あっと言う間にぶくぶくに太っちゃうくらい、もの凄い高カロリーの料理なんじゃないの?」

 硬いパンだけでなく、フォークに刺したセルベラと呼ばれるソーセージの一種でもってチーズを絡め取りつつも、丸々と太ったウエイトレスの肉感溢れる後ろ姿を横眼でチラ見しながら淑華がそう言った。こんな美味しい料理に舌鼓を打っている最中にも拘らず、摂取カロリーの高い低いに一喜一憂するその胸の内こそ若さの証明であると同時に、彼女もまた一人の歳頃の女の子である事の証左に他ならない。

「あらあら、淑華ちゃんったらそんな学生の内から肥満を危惧なさるだなんて、随分と可愛らしくていらっしゃるのね? でも大丈夫、若い内は心身の成長に必要な基礎代謝の高さが摂取したカロリーの殆どを消費してくださいますから、そうそう簡単に太ってしまわれるような事は無くってよ?」

「そうは言っても……ねえ……」

 生理学的な屁理屈でもって説得され掛けた淑華がそう言って口篭もり、フォークを弄びながら眼の前のチーズフォンデュを食べるべきか否か躊躇していると、そんな彼女をグエン・チ・ホアは重ねて問い質す。

「ん? そうは言っても、何? 淑華ちゃんったら未だ何か、踏ん切りがつかない理由でもあるのかしら?」

「……だって、あたし、昔っから気を抜くと太っちゃう体質なんだもん! そりゃあんたみたいな背が高くて痩せててスタイルも顔の造作も良い女なんかには分かんないでしょうけど、あたしみたいなチビで胴長短足で口の悪い眼鏡のブスが太ったら、それこそ眼も当てられないじゃない!」

 問い質された淑華はそう言って、若干声を荒らげながら自己卑下の言葉を並べるが、そんな彼女の言葉の数々にグエン・チ・ホアは納得しない。

「あらあら、そんな些細な事を気になさっておられるだなんて、淑華ちゃんもお馬鹿さんね? 背が高いだとか痩せているだとかスタイルやお顔の造作が良いだとか、そう言った眼に見える表面的な特徴だけでもって、その人の本質を見極めるなんて事は不可能でしてよ?」

「だから、あんたみたいな非の打ちどころの無い美人があたしみたいなブスに向かってそんな事言ったって、説得力がまるで無いんだって言ってんの! その程度の事くらい、言われなくたって直感で理解しなさいよ! この胡散臭い鈍感女!」

 しかしながら淑華もまたそう言って、グエン・チ・ホアの言い分に対して納得しなかった。

「あら、そう? 淑華ちゃんったら、あたしが思っていたよりもずっと面倒臭い子ですのね? でもね、淑華ちゃん? 美人だとかブスだとか、女の子の魅力をそんな貧相な価値基準でもって判断するような男は、腐った生ゴミと一緒にゴミ箱にでも放り込んじゃっておけば良いのではないかしら? それに少なくとも、ご飯を美味しそうに食べる女の子を嫌うような輩は、男女の別無く最低の糞虫でしてよ?」

 とは言えグエン・チ・ホアもちょっとだけ汚い言葉でもってそう言って彼女の言い分を貫き通し、一歩も引き下がらない。

「それにしても、こちらのレシュティとキッシュも、素朴なお料理ながらもなかなかのお味ね? 特にこのキッシュ・ロレーヌは生地に練り込まれたハーブとラードンが、卵本来の風味を引き立てる、とても良い仕事をしているのではないかしら? こんな美味しいお料理を前にしながら、それを堪能しないだなんて、人生損していると言っても過言ではなくてよ?」

 するとグエン・チ・ホアはこれ見よがしにそう言って、ワイングラスに注がれた白ワインをすいすいと飲み下しながら、チーズフォンデュ以外の皿に盛られた料理もまた上品な仕草でもって口に運ぶ。ちなみにレシュティと言うのは粗くスライスしたジャガイモを塩胡椒などの調味料で味付けしてからバターで焼いただけの簡単な料理であり、キッシュは具材を混ぜ込んだ卵と生クリームをタルト生地を敷いた器に盛って焼き上げた、ケーキとオムレツを足して二で割ったような料理である。

「ほらほら、あたしや万丈くんだけでなく淑華ちゃんも、どうぞ遠慮無くお召し上がりなさい? ね?」

「……じゃあ……」

 度重なるグエン・チ・ホアの説得に遂に折れたのか、そう言った淑華は手にしたフォークでもって一口大のサイコロ状に切り分けられた硬いパンを刺し、陶器の鍋の中のとろとろにとろけたチーズをそれでもって絡め取った。しかしながらそのパンを口へと運ぶ途中で、最後の一歩がどうしても踏み出せないらしく、再び彼女の手が止まる。

「おいおい、どうしたんだよ淑華、ここまで来たのならもういっそ思い切って食べちゃえよ。それにホアさんが言ってた通り、ご飯を美味しそうに食べる女の子を嫌うような男なんて、この世に居やしないんだからさ」

 そう言った僕の一言が最後の一押しになったのか、とうとう意を決した淑華はゆっくりと、フォークの先端のチーズを絡め取った硬いパンを彼女の口の中へと放り込んだ。そしてそのパンをもぐもぐと数回ばかり咀嚼した後に、更にごくりと喉を鳴らしながら嚥下してから、思わず感嘆の声を漏らす。

「美味しい……」

 淑華がそう言って感嘆の声を漏らしたならば、そんな彼女の様子をつぶさに観察していたグエン・チ・ホアも、これを喜ばざるを得ない。

「あら、そう? でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、折角の機会なのですから、是非とも他の料理も召し上がってみてちょうだいな? そしてあなた方お二人が歓喜に打ち震える姿をこのあたしに見せてくださったなら、わざわざスイスにまで足を運んで、ご馳走した甲斐があったと言うものでしてよ?」

 果たしてそれが彼女の真意か否かはさて置いて、くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に従い、淑華はレシュティやキッシュなどと言ったチーズフォンデュ以外の料理にも手を伸ばし始めた。そして追加注文したスモークサーモンと玉葱のマリネや、海老とブロッコリーのタルタルサラダなどの全ての皿が空になった頃を見計らい、ようやく人心地付いた僕ら三人はフォークやスプーンを持つ手を止める。

「ふう、ごちそうさま」

 気付けばすっかり満腹になってしまった僕は僕自身の行儀の悪さを自覚しながらも、小さなげっぷと共にそう言って、服の上からでも判別出来る程ぽっこりと膨らんだ胃袋を優しく撫で擦った。

「お二人とも、もうお代わりはよろしくて?」

「ええ、もうお腹一杯です」

「あたしも」

 僕と淑華が至って満足げにそう言えば、テーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろすグエン・チ・ホアもまたそんな僕らの様子や態度に満足したらしく、くすくすと殊更愉快そうにほくそ笑む。

「でしたら最後に、何か甘いデザートと、お茶かコーヒーでも注文しましょうね? 万丈くんも淑華ちゃんもお若いんですから、未だそのくらいでしたらお腹に入るでしょう?」

「どうでしょう、まあ、ちょっとくらいなら……」

「……食べられなくは……ない……かな?」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して僕ら二人がそう言って曖昧な返事を口にしたならば、それを承諾と解釈したらしい彼女は太った中年のウエイトレスを呼び止め、相変わらず威勢の良い彼女に追加の注文を伝えると同時にチップを手渡した。そして待つこと数分後、空になった料理の皿が片付けられたテーブルの天板の上に、今度は人数分のデザートの皿とコーヒーカップが並べられる。

「あらあら? 先程いただいたラードンとホウレンソウのキッシュもとても美味しかったけれども、こちらのタルトも負けないくらい美味しそうじゃない?」

 果たしてそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、僕ら三人の眼の前に並べられた本日のデザートは、苺や林檎やキウイフルーツと言った果物が惜し気も無く盛り付けられた季節のフルーツタルトであった。

「いただきます」

 そして改めてそう言ってから各自の眼の前の皿へと手を伸ばせば、やはりその見た目の美しさや甘く芳醇な香りを裏切らず、美味しそうなフルーツタルトはしっかりと紛れも無く美味しいのである。

「ああ、今度と言う今度こそ、本当にごちそうさま」

 やがて甘い物は別腹とでも言わんばかりに季節のフルーツタルトをぺろりと平らげ、砂糖とミルクたっぷりの熱いコーヒーを飲み干した僕はそう言って、今度こそ間違い無く夕食を食べ終えた。本場ジュネーヴのスイス料理に舌鼓を打ち尽くし、胃袋が今にもはち切れそうになるほど食欲を満たし切った僕ら三人は、無言のままレストランの天井を見上げながら人心地付く。

「ん?」

 しかしながら次の瞬間、腹が膨れた事によって周囲に気を配るだけの余裕が生まれたからなのか、フルーツタルトの甘味とコーヒーの苦味の余韻にふけっていた僕は不意に気付いてしまった。僕ら三人が腰を下ろすテーブル、つまり店内のほぼ中央に位置するテーブルから見て四隅の方角のそれぞれに陣取った四つの客のグループが、妙に殺気立った空気を醸し出しながら互いに睨み合っているのである。

「ねえねえ、万丈、あんた気付いてる? さっきからあたし達以外のお客さんが妙にぴりぴりしてるって言うか、お店の中の空気が澱んでるって言うか、とにかく何だか変な雰囲気じゃない?」

 どうやら僕と同じく異常な気配を察知したらしい淑華はこちらに顔を寄せると、その気配の発生源である他の客達に気取られぬよう小声でもってそう言って、僕にそっと耳打ちした。

「ああ、お前も気付いたか? 確かこう言う雰囲気って、一触即発って言うんだっけ?」

 僕もまた淑華に耳打ちしながら小声でもってそう言えば、そんな僕と淑華との秘密の会話に、テーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろすグエン・チ・ホアまでもが割って入る。

「あらあら、お二人とも仲良く顔を寄せ合って密談に興じておられるだなんて、一体どんな話題でもって盛り上がってらして?」

「あ、ホアさん、ホアさんは気付いてました? 何だかさっきから他のお客さん達が睨み合っちゃって、店の雰囲気がおかしいんですよ!」

「あら? もしかしてもしかすると、万丈くんも淑華ちゃんも、今頃になってようやく気付かれたのかしら? あたし達がこちらのお店に足を踏み入れる以前から、彼らは互いに眼と眼で火花を散らし合いながら、激しくいがみ合っておいででしてよ?」

「今頃になってようやくって、ホアさん、気付いていたんならどうしてもっと早く教えてくれなかったんですか?」

「だっててっきり、あなた方お二人もとっくの昔に気付かれた上でもって、あたしと同じくこの状況を楽しんでいらっしゃるのだとばかり思っていたものですからね?」

 さも愉快そうにくすくすとほくそ笑みながら、やはり小声でもってそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に、僕はがっくりと肩を落としたまま呆れ果てざるを得なかった。一体このベトナム人女性の危機感の無さと言うか大胆さと言うか、とにかくおそれ知らずもここまで来ると国宝級で、彼女に振り回されっ放しの僕らは開いた口が塞がらない。

「それでホアさん、これから僕ら、どうします? 何か揉め事が起こる前に、さっさとここから出て行きますか?」

「あらあら、そんなに急いで出て行ったりなさらないで、このままこの場で事の成り行きを見守られては如何かしら? 運が良ろしければ、何か面白い事件に巻き込まれる機会に恵まれるかもしれなくてよ?」

 事件に巻き込まれるのが運の良い事だと考えている辺り、やはりこの人の感覚は、どこか少しばかり俗世のそれからズレてしまっているのではなかろうか。

「あら?」

 すると次の瞬間、レストランの四隅に陣取った四つのグループの内の一つである、頭髪をお揃いのマッシュルームカットに刈り上げた白色人種コーカソイドの一団の内の一人が不意に立ち上がった。そしてそのマッシュルームカットの男がまた別の四隅の一つに陣取った、これまたお揃いの黒い革のジャンパーとベレー帽に身を包む黒色人種ネグロイドの一団の元へと歩み寄れば、その一団の内の一人が迎え撃つかのような格好でもって立ち上がる。

「ちょっといいかな、そこの黒んぼ達」

 マッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男は臆する事無くそう言って、立ち上がった黒色人種ネグロイドの男を真正面から睨め付けながら、彼とその仲間達を黒んぼ呼ばわりした。

「ここはスイス連邦だ。中央ヨーロッパだ。そしてヨーロッパは私達白人の土地だ。だからキミ達の様な薄汚れた黒んぼは、さっさと穢れたアフリカ大陸の自分達の土地へと引っ込んで、二度とそこから出て来ないでくれないか?」

 そう言ったマッシュルームカットの男の言い分に対して、黒い革のジャンパーを着てベレー帽を被った黒色人種ネグロイドの男も黙ってはいない。

「今からおよそ300年前、俺の祖先は奴隷としてアメリカ大陸に連れて来られたが、その子孫である今現在の俺は奴隷ではない。移動の自由が保障された、アメリカ合衆国の市民権を有する一人の立派な自由民だ。それにスイス連邦に合法的に入国するためのパスポートもビザも取得している。だから俺はこの国から出て行くようあんたに命じられるいわれも無ければ、アフリカ大陸に戻るつもりも無い」

 黒い革のジャンパーとベレー帽の黒色人種ネグロイドの男は威風堂々とした表情と口調でもってそう言い放つと、マッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男と真っ向から睨み合う。そして彼らが暫し無言のまま睨み合っていたかと思えば、今度はまた別の四隅の一つに陣取っていた一団の男が一人、おもむろに立ち上がった。

「おい、そこで睨み合っている異教徒、いや、邪教徒ども」

 立ち上がるなりそう言ってマッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男とベレー帽の黒色人種ネグロイドの男を邪教徒呼ばわりしたのは、頭にキッパ帽を被った一人の成人男性であり、その側頭部から顎に掛けて立派なもみあげと顎鬚が貯えられている。

「さっきから黙って聞いていれば白人の土地がどうだとか奴隷がどうだとか、そんなつまらん事でいがみ合っているお前らの姿は、はっきり言って眼障りだ。そもそも正当なる神のしもべであるこの俺に言わせれば、所詮はまがい物の神の信奉者でしかないお前らの肌の色が白かろうと黒かろうと大差は無いのだから、とっとと俺達の視界から消え失せろ」

 キッパ帽ともみあげと顎鬚の男は横柄かつ居丈高に、ややもすれば上から目線でもってそう言って、尚もマッシュルームカットの男とベレー帽の男を邪教徒呼ばわりしてはばからない。

「おいおい、いきなり何だね、キミは? 藪から棒に私達を邪教徒呼ばわりしただけでなく、私が信奉する神までをもまがい物呼ばわりするとは、失礼にも程があるぞ」

「ああ、まったくもってその通りだ。一体どこの誰だか知らんが、いきなり割って入って来たあんたに、俺の信仰を批判される筋合いは無い」

 マッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男とベレー帽の黒色人種ネグロイドの男は努めて平静を装いながらそう言うが、そんな彼らに向かって、キッパ帽ともみあげと顎鬚の男は尚も言い放つ。

「まがい物の神をまがい物と言って、何が悪い。それに、そんなまがい物に対する信仰なんてものは、信仰と称するだけの価値も無いに決まっているだろう。そんな簡単な事も理解出来ないのか、邪教徒は?」

「何だと!」

「言わせておけば!」

 キッパ帽の男の無礼で不躾な口の利き方に対してさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、つい今しがたまで平静を装っていたマッシュルームカットの男とベレー帽の男もそう言って声を荒らげながら、ぎゅっと固く拳を握り締めた。

「どうした、邪教徒ども? 図星を突かれたか? それにまさかとは思うが、まがい物の神の信奉者らしく、こんな公衆の面前で暴力にでも訴えるつもりか? ん?」

 するとキッパ帽ともみあげと顎鬚の男は殴り易いように敢えて無防備な頬を差し出しながらそう言って、眼の前の二人の男達を重ねて挑発するものの、そんな彼の正体をベレー帽の黒色人種ネグロイドの男が看破する。

「ん? その頭に被っている帽子だか何だか良く分からん妙ちきりんな布切れから察するに、さてはあんた、ユダヤ教徒だな? そしてユダヤ教徒と言う事は、あんた、ユダヤ人だな?」

 ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男がそう言えば、正体を看破されたキッパ帽ともみあげと顎鬚の男は、はっと息を呑みながら顔をしかめた。どうやら彼もまた、図星を突かれる格好になってしまったらしい。

「ああ、その通り。俺はイスラエルから地中海を越えてこの国へとやって来たユダヤ教徒で、生粋のユダヤ人だ。それが何か?」

 キッパ帽ともみあげと顎鬚の男が胸を張りながらそう言えば、今度はベレー帽の黒色人種ネグロイドの男が無礼で不躾な口を利く番である。

「それが何か、だと? だったらこの場で、はっきり言ってやろう。俺はこの世に存在するありとあらゆる人種の中で、ユダヤ人が一番嫌いだ。特に白人でユダヤ教徒のユダヤ人は、一刻も早く根絶やしにしなければならない唾棄すべき最低最悪の人種であり、人類の敵と言っても過言ではない。だからあんたもユダヤ人、それも白人のユダヤ教徒のユダヤ人だったら、人類の未来の為にとっとと首をくくって死んでくれ」

「あ? 何だと?」

 一切オブラートに包む事無く、直球ど真ん中の罵詈雑言でもって明け透けに侮辱されたキッパ帽の男はそう言って、ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男に詰め寄った。

「おいお前、白人の、ユダヤ人の、ユダヤ教徒の一体何が問題だと言うんだ? 言ってみろ!」

「決まっている。ユダヤ人は世界各地にフリーメイソンやイルミナティと言った秘密結社を設立して政界と金融業界を支配したばかりか、ユダヤ教を信仰する同胞だけでもって公金の甘い汁を吸い尽くし、結果として俺達黒人の貧富の差を拡大させた張本人だ。それにロスチャイルド家やロックフェラー財団を中心としたユダヤ系財閥が、戦争経済に加担しているのも気に喰わん。つまり、お前らユダヤ人は俺達黒人の敵であると同時に、善良な市民の生き血を吸う吸血鬼も同然の存在だ。違うか?」

 ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男はそう言うが、その言い分はいささかながら突飛とでも言うべきか、とにかく陰謀論的であると言わざるを得ない。

「は? お前は一体全体、さっきから何を言ってるんだ? 俺達ユダヤ人はフリーメイソンもイルミナティも設立してないし、黒人の貧富の差を拡大させた覚えも無い! お前の言ってる事は、何の根拠も無いデマゴーグだ! たちの悪い言い掛かりだ! 恥を知れ!」

「ふん! たとえあんたが何と言おうと、ユダヤ人が俺達黒人の敵である事は動かざる事実だ! 恥を知るのは、あんたの方だ!」

 しかしながら幾らキッパ帽の男がユダヤ人の身の潔白を証明しようとしたところで、ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男はそう言って、取り付く島も無いとはまさにこの事である。

「何? ユダヤ人だと?」

 すると今度はそう言って、レストランの店内の四隅の内の最後の一つに陣取っていた一団、つまり頭髪をつるつるになるまで剃り上げたスキンヘッドの男達の内の一人が勢い良く立ち上がった。

「薄汚い劣等人種であるユダヤの豚が、こんな所で何をしている! ここは俺達の土地だぞ!」

 勢い良く立ち上がったスキンヘッドの男は、こちらへと駆け寄って来るなりそう言ってキッパ帽の男に詰め寄るが、勿論キッパ帽の男も黙ってはいない。

「いきなり何だ、お前は! お前もここに居る黒んぼどもと同じで、我々ユダヤ人を、ユダヤ教徒を侮辱するつもりか!」

 キッパ帽の男がそう言って声を荒らげれば、スキンヘッドの男は彼と彼が所属する組織の素性を明かす。

「俺は、俺達『マイン・カンプ』は、偉大なる総統閣下のご遺志を継ぐ正当なるナチズムの継承者だ! だからこそ俺達はアーリア人の手による第三帝国を、可及的速やかに、ここヨーロッパに建国しなければならない! その為にはお前らの様な薄汚い劣等人種であるユダヤの豚や、穢れた黒人は、俺達の土地であるヨーロッパからさっさと出て行くべきなのだ! そして痩せ衰えたイスラエルや荒廃したアフリカ大陸に、未来永劫引き篭もっているがいい!」

 スキンヘッドの男はやけに芝居掛かった、まるで自分自身の言葉に酔い痴れてしまっているかのような、恍惚とした表情と口調でもってそう言った。

「ナチズムの継承者だと? それも『マイン・カンプ』だなんて、よりにもよってどこぞのボヘミアの伍長とのいわくありげな名を敢えて名乗るとは、さてはお前らネオナチだな?」

 キッパ帽の男がそう言って彼らの正体を看破したならば、看破されたスキンヘッドの男はこれを認め、開き直る。

「ああ、そうだ、俺達『マイン・カンプ』は所謂いわゆるネオナチだ! 志半ばで命を断たれた偉大なるアドルフ・ヒトラー総統閣下のご遺志を継ぐ、正当なるナチズムの継承者だ! それの何が悪い! そんな事よりも薄汚い劣等人種であるお前らユダヤの豚こそ、卑怯にもこそこそと正体を隠さずに、俺達の様に正々堂々と自らの名を名乗ってみるがいい! 出来るものならな!」

 ネオナチを、そしてナチズムの継承者を標榜して止まない男からこうも煽り立てられてしまっては、キッパ帽の男も勢い名乗らざるを得ない。

「ああ、そうか! だったらお前の望み通り、この俺も名乗ってやろうじゃないか! 俺の名はイクサック・コーヘン! この地で執り行われている『人種差別撤廃条約』の再検討と再批准のための国際会議に一言物申すべく、遠くイスラエルから地中海を越えてやって来た、カハネ主義を唱える政治結社『ヤハウェの忠僕達』の副総裁を務める者だ! さあ、どうだ、このネオナチめ! 腰抜けのお前と違って、組織名だけでなく、俺個人の名前も名乗ってやったぞ! これで満足か!」

 キッパ帽の男、つまりユダヤ人でカハネ主義者のイクサック・コーヘンがそう言って名を名乗れば、今度はネオナチの男が名乗り返す番である。

「だったら俺も、俺個人の名前を名乗ってやるまでだ! 俺の名は、エトガー・ヴァイスミュラー! 先に述べた通り、正当なるナチズムを継承する『マイン・カンプ』の、スイス連邦支部の支部長補佐を務めている! 俺達の事をネオナチと呼びたければ、幾らでも呼ぶがいい! だがしかし、たとえ何と呼ばれようとも、俺達は逃げも隠れもせん! どうだ、これで満足か! この大噓吐きの、薄汚い劣等人種のユダヤの豚どもめ!」

「何? 大嘘吐きだと? 俺達ユダヤ人が、いつ嘘を吐いたと言うんだ!」

「決まっている! お前らユダヤ人はホロコーストだとかアウシュヴィッツだとか言った在りもしない非現実的な妄想を、まるで歴史的事実であるかのように恥ずかしげもなく吹聴し、俺達ナチ党員やドイツ国民の地位を貶めたではないか! それが嘘でなくて、何だと言うんだ! 恥を知れ、恥を!」

「はぁ? おい、ちょっと待て! お前は今、ホロコーストが、アウシュヴィッツが非現実的な妄想だと言ったのか? まさかとは思うが、もしかしてお前ら『マイン・カンプ』とやらは、ナチスによるユダヤ人大量虐殺は無かったとか言う馬鹿げた陰謀論を信じている訳じゃあるまいな?」

「ふん! 俺達とお前ら、陰謀論を信じているのは果たしてどちらだろうな!」

 スキンヘッドの男、つまり彼自らが正当なるナチズムの継承者を標榜して止まないエトガー・ヴァイスミュラーはそう言って、ふんと鼻を鳴らしながら自信に満ち満ちた様子でもって胸を張った。どうやら彼は、ネオナチである自分達ではなく、カハネ主義者のイクサック・コーヘンらの方が陰謀論を信じてしまっていると言う彼自身の考えを微塵も疑ってはいないらしい。

「ふざけるな! この歴史修正主義の陰謀論者どもめ! 只の極右民族主義思想にかぶれたネオナチならともかく、ナチスによるユダヤ人大量虐殺を、ホロコーストを否定するとは、反吐が出るにも程がある!」

 ホロコーストの存在そのものが陰謀論だとするネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーの主張に対して、カハネ主義者のイクサック・コーヘンが怒髪天を突く勢いでもってそう言えば、そんな彼ら二人の遣り取りを傍観していたベレー帽の黒色人種ネグロイドの男が口を挟む。

「おい、ちょっと待て。さっきから黙って聞いてれば、あんたはまるでホロコーストは事実であるかのような事を言ってるが、あれは作り話だろう?」

 ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男がさも当然とでも言いたげな表情と口調でもってそう言えば、カハネ主義者のイクサック・コーヘンの怒りと驚きは、勢い頂点に達さざるを得ない。

「ふ、ふふふ、ふ、ふふふふざけてるのか、お前は! ホ、ホホ、ホホホホロコーストが作り話だなんて、ば、ばば、ば、ばばば馬鹿も休み休み言え! お前も、お前も、ここここの陰謀論者どもめ!」

 カハネ主義者のイクサック・コーヘンは激しく唇を震わせながらそう言って、怒りと驚きの余り、もはや正気を保ってはいられない様子であった。しかしながらネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーはと言えば、そんなユダヤ人が醸し出す不穏な空気を読む気も無いらしく、ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男に対して的外れな要求を口にする。

「おい、そこの黒んぼのお前! お前もホロコーストが陰謀論か否かについて語り合いたいと言うのなら、俺達を見習って、自らの名を名乗ったらどうだ? それともお前ら劣等人種は、公衆の面前で堂々と名も名乗れない程、自分の出自に自信が無いとでも言いたいのか? ん?」

 こうなってしまっては、ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男もまた名乗らざるを得ない。

「馬鹿にするな! 俺の名はマーカス・キャンベル! 遠くアメリカ合衆国から大西洋を越えてこの地へとやって来た、誉れ高き『新ブラックパンサー党』のワシントンDC支部長代理補佐だ! どうだ、ファシズムかぶれのネオナチめ! 俺も堂々と名乗ってやったぞ! だから出自に自身が無いのかと言って俺を侮辱したさっきのあんたの発言を、今すぐこの場で撤回し、謝罪しろ!」

 ベレー帽の黒色人種ネグロイドの男、つまり『新ブラックパンサー党』のワシントンDC支部長代理補佐を務めるマーカス・キャンベルはそう言って胸を張り、ネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーに謝罪を要求した。

「ふん! どうだかな! たった今お前が名乗ったその名前が偽名ではないと、一体どこの誰が証明してくれるんだ?」

 するとネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーがそう言って、またしてもふんと鼻を鳴らしながら黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの要求を突っ撥ねれば、突っ撥ねられた彼の怒りは頂点に達さざるを得ない。

「何だと、このファシストめ! この俺を黒んぼ呼ばわりしただけでは飽き足らず、よりにもよって、この俺の名前までをも偽名呼ばわりするつもりか!」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルがそう言って声を荒らげ、今にもネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーに殴り掛からんとしたところで、蚊帳の外に置かれていたマッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男もまた彼らの遣り取りに参戦する。

「おいおい、マーカス・キャンベルとか言う名を名乗った黒んぼよ、キミはまた随分と嫌われたものじゃないか。やはり『新ブラックパンサー党』だか何だか知らないが、キミ達の様な薄汚れた黒んぼは、さっさと穢れたアフリカ大陸の自分達の土地へと引っ込んでいるのがお似合いなのさ」

「何だと! 言わせておけば!」

 そう言って黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが怒りでぶるぶると肩を震わせながら再び声を荒らげたところで、不意にレストランの店内中央付近のテーブル席に腰を下ろしたまま高みの見物を決め込んでいたグエン・チ・ホアが、いがみ合う彼ら四人に問い掛ける。

「あら? ねえねえ、あなた方? ちょっとお尋ねしてもよろしくて? そちらにいらっしゃるビートルズのメンバーにも似た髪型の方は、ご自分のお名前を名乗られないのかしら?」

「は?」

 するとグエン・チ・ホアがビートルズのメンバーにも似た髪型の方と呼んだ人物、つまりマッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男はそう言って、こちらを振り向くと同時に彼女をぎろりと睨み付けた。

「唐突に何だね、キミは? どこの誰だか知らないが、キミみたいな若いアジア人の女性ごときが、私達の話の腰を折らないでもらえないかな?」

 凄みながらそう言った、髪型以外はビートルズのメンバーに似ても似つかないマッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男に睨み付けられたにも拘らず、怖いもの知らずのグエン・チ・ホアはまるで動じない。

「あらあら、そんなつれない事をおっしゃらないで、あなたもまたご自分の所属先を明らかにした上でもって名乗りを上げられたら如何でして? それとも他の方々は正々堂々と自らの名を名乗られたと言うのに、あなたお一人だけ素姓をひた隠しにするような、そんな無責任な卑怯者のそしりを甘んじて受け入れるおつもりなのかしら?」

 彼自らが「ごとき」呼ばわりした若いアジア人の女性に、こうも直接的な表現でもって煽り立てられてしまっては、マッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男も面目丸潰れである。

「……ふ、ふふ、ふふふふざけるな! 誰が素姓をひた隠しにするような無責任な卑怯者だ! ああ、そうか、だったら私も、私自身の名を名乗ってやろうじゃないか! 私の名は、ジェイク・コナー! 偉大なる神によって創られしアダムの子孫たる、我ら北方白色人種の地位の確立と向上を目指す『KKK《クー・クラックス・クラン》』欧州支部の、支部長を務めている! さあ、どうだ、これで満足か! このチビで釣り眼のアジア人の女狐め!」

 マッシュルームカットの白色人種コーカソイドの男、つまり『KKK《クー・クラックス・クラン》』欧州支部の支部長であるジェイク・コナーは鼻息も荒くそう言って、事もあろうにグエン・チ・ホアを侮辱した。しかしながら今にも立ち上がって抗議の声を上げようかどうしようかと逡巡した僕とは対照的に、チビで釣り眼のアジア人の女狐呼ばわりされてしまった当のグエン・チ・ホア本人は、至って涼しい顔を崩さぬままくすくすとほくそ笑むばかりである。

「あら、そうですの? でしたらこれで、あなた方四人全員のお名前と、各々が所属する組織や団体の正体が判明いたしましたのね?」

 グエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言えば、レストランの店内中央付近で睨み合っていた白色人種コーカソイドのジェイク・コナー、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベル、それにカハネ主義者のイクサック・コーヘンとネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーの四人は無言のまま頷いた。

「さあ、そうとなれば、準備は整いましてよ? お互い遠慮せずに心置きなく、誰憚だれはばかる事無くお互いの気に入らないところを、好きなだけ罵り合えばよろしいのではないかしら?」

 そう言って彼ら四人を焚き付けるグエン・チ・ホアの言葉に、その場に居合わせた四人の男達は気不味い雰囲気の中で互いに眼を合わせる事も無くもごもごと口篭もり、それ以上罵り合う事を躊躇した。どうやら彼ら四人は、自分達が公衆の面前で恥ずかしげもなく罵り合っていた事を改めて指摘された事によって、結果的にグエン・チ・ホアから自省を促される格好になってしまっているらしい。

「あら? つい先程まで饒舌かつ活発に意見を交換されていたと言うのに、急に黙り込んでしまわれるだなんて、一体どうされて? でしたら不肖ながらこのあたし、ベトナム出身で今はフォルモサの古物商であるグエン・チ・ホアが、議事進行の重責を担って差し上げてもよろしくてよ?」

 レストランの店内中央付近のテーブル席に腰を下ろしたままそう言って、議事進行の大役を自ら買って出たグエン・チ・ホアは、まず手始めに白色人種コーカソイドのジェイク・コナーに問い掛ける。

「ねえ、コナーさん? あなたはこちらにられる他の三人の方々と、彼らが所属する組織や団体に、一体何を望まれておられるのかしら?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの問い掛けに対して、問い掛けられた白色人種コーカソイドのジェイク・コナーは、返答するにやぶさかではない。

「決まっている! 我々は薄汚れた黒んぼやユダヤ教徒やカトリック教徒、それに偉大なる神のご意志に背く同性愛者やフェミニストと言った異常者に、我々北方白色人種の土地から出て行ってほしいだけの事だ!」

 白色人種コーカソイドのジェイク・コナーはそう言って、何か文句でもあるのかと言わんばかりに胸を張った。

「あら、そうですの? それはまた、如何にも生粋のクランズマンらしいご要望なのではないかしら? でしたら次に、今しがたのコナーさんのご要望を踏まえた上でもって、そちらにられるキャンベルさんは何を望まれておいででして?」

「俺達が望むのは、そのものずばり、自由だ! それも、俺達貧しい黒人の自由だ! 何の落ち度が無いにも拘らず奴隷としてアフリカ大陸から拉致され、奴隷解放宣言のその後も故郷を遠く離れた北米大陸で永きに渡って迫害されて来た俺達貧困層の黒人に、白人と同等かそれ以上の権利と自由を保障してもらいたい! その為ならば、俺達『新ブラックパンサー党』の党員一同は、民族主義に則った暴力革命もいとわない事をここに宣言する!」

 ややもすればインテリゲンチャぶった言い回しでもってそう言い放った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルもまた胸を張り、彼に先立って一席をち上げた白色人種コーカソイドのジェイク・コナーに負けず劣らず、やけに誇らしげである。

「あらあら、暴力革命もいとわないだなんて、キャンベルさんったら随分と物騒な事を仰るのね?」

「物騒で、何が悪い。俺達黒人はずっと差別され続けて来たのだから、現状を打破する為に、暴力に訴える権利が認められてもいい筈だ。違うか? ん?」

「ええ、そうね? 確かにそう言ったある種の正当防衛、もしくは因果応報とでも表現すべき考え方も、一理あるのではないかしら?」

 人種差別に対しては暴力革命もいとわないと言う黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの言い分を、やはりグエン・チ・ホアはそう言って、くすくすと愉快そうにほくそ笑みながら品隲ひんしつして止まない。

「さあ、でしたらお次はコーヘンさん、あなたの番でしてよ? 果たしてカハネ主義者のユダヤ人であるあなたは、何を望まれて?」

「俺達カハネ主義者は預言者アブラハムの子孫である全てのユダヤ人が、そして唯一神ヤハウェによって約束された地であるイスラエルが、もうこれ以上何者にも侵されない事を切に望む! 何故なら俺達は正当なる神のしもべであり、神の教えに従う敬虔なユダヤ教徒とその国家は、まがい物の神の信奉者でしかない邪教徒どもと違って神聖な存在なのだからな!」

「あら、そうですの? ねえ、コーヘンさん? でしたらあなた方の様なイスラエルのユダヤ人が自分達の国が侵されない事を切望しながらも、その一方でパレスチナ自治区に入植地を広げている点を、世間一般的には自家撞着じかどうちゃくと言うのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、カハネ主義者のイクサック・コーヘンの言い分は自家撞着じかどうちゃく、つまり矛盾しているのではないかと指摘した。

「ふん、馬鹿も休み休み言え! そもそも今現在パレスチナ自治区と呼ばれているあの土地もまた、元々は我々ユダヤ人の土地だったのだ! それをパレスチナ人どもは、我々の祖先がローマ帝国の手によって世界中に離散させられた後に勝手に住み着いて不法に占拠していたのだから、これを取り戻して何が悪い! ああ、あんな邪教徒どもの名を口にしただけで虫唾が走る! おぞましい!」

「あらあら、コーヘンさんったら、また随分とパレスチナ人を嫌ってらっしゃるのね?」

「当然だ! パレスチナ人は、アラブ人は、忌々しくもおぞましいイスラムの邪教徒どもは、かつてのナチス・ドイツと肩を並べる我々ユダヤ人の天敵だからな! だからナチズムを継承するなどとうそぶいて止まないネオナチもアラブのイスラム教徒どもも、どちらもとっとと滅亡し、未来永劫この世から消え去るがいい!」

 カハネ主義者のイクサック・コーヘンが声を荒らげながらそう言えば、今度はネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーがこれに食って掛かる。

「は? 何だと? おい、お前、今何と言った? 俺達ネオナチに滅亡してこの世から消え去れだなんて、お前らみたいな薄汚い劣等人種であるユダヤの豚が、よくもまあそんな事を言えたもんだな!」

 ネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーもまた激しく声を荒らげながらそう言って、今にもカハネ主義者のイクサック・コーヘンに掴み掛からんばかりの勢いでもって疑義を呈した。しかしながらそんな血気盛んなネオナチの青年を、議事進行の大役を買って出たグエン・チ・ホアはいさめ、たしなめる。

「あらあら、ヴァイスミュラーさんったら、そんなに興奮なさらないでいただけて? それに焦って先走ったりしなくとも、お次はあなたの番でしてよ? さあ、あなたは何をお望みなのか、その点をつまびらかにしていただけないかしら?」

「ああ、いいとも! 先に述べた通り、俺達『マイン・カンプ』は偉大なるアドルフ・ヒトラー総統閣下のご遺志を継ぐ正当なるナチズムの継承者として、アーリア人の手による第三帝国をここヨーロッパに建国しなければならない! その為には薄汚い劣等人種であるユダヤの豚や、穢れた黒人はヨーロッパからさっさと出て行くべきであり、場合によってはこれらを根絶やしにする事もいとわないのである! ハイル・ヒトラー!」

 やはり血気盛んなネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーはブーツの踵と踵を打ち鳴らし、指先を揃えた右手を上斜め前方へと掲げ、所謂いわゆるナチス式敬礼と共にそう言った。

「あらあら、根絶やしだなんて、キャンベルさんに続いてヴァイスミュラーさんもまた物騒な事を仰るのね?」

「当然だ! たとえ根絶やしにまではせずとも、奴らの様な劣等人種は我々優秀なるアーリア人の手によって管理運営されてこそ、その真価を発揮するのだからな! 勿論、真価を発揮すると言っても、それは単純労働に従事する奴隷としてである事は論をつまい!」

 そう言ったネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーの言葉に、今度は黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが喰って掛からざるを得ない。

「何? 奴隷だと? おい、ヴァイスミュラーとやら! あんたは今、黒人を奴隷にすると言ったのか?」

「ああ、言ったさ! 言ったとも! 言ったが、それがどうした?」

「それがどうしただと? ふざけるな、このファシストめ! かつて奴隷として強制労働に従事させられていた過去を持つ黒人を再び奴隷にするなどと言う事は、たとえ口が裂けたとしても、決して発言してはならない事だ! その程度の事も分からないのか!」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが怒りも露に、口角泡を飛ばしながらそう言えば、これにカハネ主義者のイクサック・コーヘンが口を挟む。

「おいおい、お前ら、そんなに目角めくじらを立てて興奮するんじゃない。どうせお前らは、揃いも揃ってまがい物の神の信奉者でしかない邪教徒なのだから、邪教徒は邪教徒同士で少しは仲良くしたらどうだ? ん?」

「うるさい! ユダヤ人は黙ってろ!」

 カハネ主義者のイクサック・コーヘンによる根拠の無い上から目線の提案を、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルとネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーの二人はそう言って、声を揃えながら鰾膠にべも無く拒絶した。

「何だか皆さん随分と興奮なさっていらっしゃるようですけれども、どうやらこれであなた方四人と、その四人各々が所属する組織なり団体なりの主義主張が出揃ったのではないかしら? 北方白色人種の土地から異人種や異教徒は出て行ってほしいコナーさんと、貧しい黒色人種ネグロイドの自由と権利を保障してほしいキャンベルさん。それからイスラエルとそこに住むユダヤ人が何者にも侵されない事を望むコーヘンさんに、ヨーロッパに第三帝国を建国したいヴァイスミュラーさん。以上があなた方の要望と言う事で、よろしくて?」

 そう言って要点をまとめたグエン・チ・ホアの言葉に四人の男達が頷けば、彼女はそこに、また新たな火種を放り込む。

「でしたらあなた方四名の内のどなたの主義主張が最も正しいのか、これからこちらにられる皆さんで、男らしく殴り合いでもって決着していただくと言うのは如何かしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って殴り合いによる決着を提案したならば、その場に居合わせた四人の男達はぎょっと息を吞んで驚き、互いの眼と眼を見合わせながらおろおろと狼狽している様子であった。

「あらあら、皆さんどうされて? あたしの提案は、そんなに驚くような内容だったかしら? まさか暴力革命がどうだとか根絶やしがどうだとか言った勇ましい事を吹聴されておきながら、いざ暴力そのものに訴える機会が訪れた途端に、腰が引けてしまわれただなんて事は無い筈でしてよ?」

 するとグエン・チ・ホアはレストランの店内のほぼ中央に位置するテーブル席に腰を下ろしたままそう言って、くすくすとさも愉快そうにほくそ笑みながら、おろおろと狼狽するばかりの四人の男達を尚も煽り立てる。

「ふ、ふふ、ふふふふざけるな! おい、横からしゃしゃり出て来てさっきから勝手にこの場を仕切っている、そこのアジア人の女! いいか、俺達はそんな挑発に乗って殴り合いで物事を解決するような、野蛮で原始的な人間ではないからな! いくらあんたがか弱いアジア人の女だからと言ったって、人を小馬鹿にするにも程がある! 何が男らしく殴り合いで決着だ! 馬鹿馬鹿しい!」

 しかしながら黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが声をわなわなと震わせながらそう言って、グエン・チ・ホアの提案に対して疑義を呈した次の瞬間、ネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーがカハネ主義者のイクサック・コーヘンに不意に殴り掛かった。

「ハイル・ヒトラー!」

 そう言って国家社会主義ドイツ労働者党の党首であった故アドルフ・ヒトラー総統を称えながら、ネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーが繰り出した右の拳がカハネ主義者のイクサック・コーヘンの左の頬に直撃し、不意討ちを喰らう格好になってしまった彼は一瞬意識が飛んで蹈鞴たたらを踏む。

「どうだ、ユダヤの豚め! 思い知ったか! お前らの様な薄汚い劣等人種は、とっととこのスイスから、いや、ヨーロッパから出て行くがいい!」

 見事な不意討ちを決めたネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーはそう言って勝ち誇るが、勿論彼に殴られたカハネ主義者のイクサック・コーヘンも黙ってはいない。

「いきなり何をしやがる、この差別主義レイシズムにかぶれたファシストが!」

 かぶりを振って意識をはっきりさせたカハネ主義者のイクサック・コーヘンはそう言いながら、ネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーの顔面を渾身の力でもって殴り返した。

「ぷおっ!」

 顔面をしたたかに殴り返されてしまったネオナチのエトガー・ヴァイスミュラーはそう言って鼻血を噴出しながら膝を突き、そんな彼に更なる追い打ちを掛けようとしたカハネ主義者のイクサック・コーヘンを、白色人種コーカソイドのジェイク・コナーが背後から羽交い絞めにして制止する。

「おい、めろ、めるんだ! 二人とも、こんなチビで釣り眼のアジア人の女狐なんかの口車に乗るんじゃない! 冷静になれ!」

 白色人種コーカソイドのジェイク・コナーはそう言って自制を促すが、彼に羽交い絞めにされたカハネ主義者のイクサック・コーヘンは、これに応じない。

「うるさい! 放せ! お前は黙って引っ込んでろ、この邪教徒め!」

 興奮冷めやらぬ様子でもってそう言ったカハネ主義者のイクサック・コーヘンは、自由を求めて必死に身をよじるついでに、彼を背後から羽交い絞めにしている白色人種コーカソイドのジェイク・コナーの無防備な脇腹に数発の強烈な肘鉄を喰らわせた。

「痛ぇっ!」

 肘鉄をまともに喰らってしまった白色人種コーカソイドのジェイク・コナーはそう言って身体を『く』の字に曲げながら身悶えし、余りの痛みに、思わずカハネ主義者のイクサック・コーヘンを羽交い絞めにしていた手を放す。

「……おいコラ! いきなり何してくれてんだ、この裏切り者のユダ公め! さっきから人が下手に出てたら好き勝手な御託を並べ立てて調子に乗りやがって、もう許さねえからな! 覚悟しろ!」

 すると肘鉄を喰らった脇腹の痛みによって怒りが沸点に達したのか、つい今しがたまで怒れるユダヤ人に自制を促していた筈の白色人種コーカソイドのジェイク・コナーはそう言って、マッシュルームカットに刈り上げられた頭髪の下の顔面を真っ赤に紅潮させながら激昂した。そして怒れる彼がカハネ主義者のイクサック・コーヘンに殴り掛かったのを合図に、同じレストランに偶々たまたま居合わせた四つの組織なり団体なりの構成員達は一斉に立ち上がり、まるでジョン・ウェインやゲイリー・クーパーが活躍していた頃のハリウッドの西部劇ばりの大乱闘を開始する。

「おい、あんたら、めろ! 落ち着け! 皆、冷静になれ! こんな無意味で無益で馬鹿げた喧嘩は、今すぐめるんだ!」

 各々が黒い革のジャンパーとベレー帽、マッシュルームカット、キッパ帽、それにスキンヘッドと言った四者四様の意匠でもって所属を誇示する者達が大乱闘を繰り広げているその最中、一人の成人男性だけがそう言って声を張り上げながら、乱闘を仲裁しようと試みた。しかしながらその成人男性、つまり黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの声は興奮の坩堝るつぼと化した店内の喧騒に掻き消され、誰の耳にも届かない。

「糞っ! めろ! めてくれ! 頼むから、今すぐ喧嘩をめてくれ!」

 喧噪のほぼ中央に立つ黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが幾らそう言って声を張り上げたところで、そこそこ広壮なレストランの店内を埋め尽くす数十人の男達はわあわあぎゃあぎゃあと叫びながら暴れ回り、互いに互いを殴ったり蹴ったり放り投げたりの大乱闘を繰り返すばかりである。

「ああ、糞っ! どうして、どうしてこんな事になってしまったんだ! 俺は、俺は只単に、腹を割って話し合いたかっただけなのに!」

 黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは頭を抱えながらそう言って悲嘆に暮れるばかりだが、彼が悲嘆に暮れるべき状況を生み出してしまった張本人と言っても過言ではないグエン・チ・ホアは、その限りではない。

「あらあら、ほんのつい今しがたまで雄弁に弁舌を振るってらした皆さんがこんなにも必死になって殴り合われるだなんて、随分と面白い状況になってしまわれたものではないかしら? やはり人間ホモ・サピエンスなどと言う下賤な生き物は、どれだけ御大層な御託を並べていらしても、一皮剝いてしまえば野生の獣と大差無くてよ?」

 上を下への大乱闘を繰り広げるばかりの男達の無様で滑稽な姿を肴にしながら、デキャンタ一杯の白ワインをすいすいと飲み下しつつそう言って、グエン・チ・ホアはこの上無く満足げにほくそ笑む。

「おい、あんた! そこのアジア人の眼帯の女! そう、あんただ! 立て!」

 すると頭を抱えながら悲嘆に暮れていた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルが、不意にそう言ってこちらを振り返り、ワイングラスを手にしたままほくそ笑むばかりのグエン・チ・ホアにいきなり掴み掛かった。そして彼女の身を包む純白のアオザイの襟首を掴み上げると、腰を下ろしていたテーブル席から強引に立ち上がらせ、そのまま居丈高になって命令する。

「女! あんた、今すぐこの状況をどうにかしろ! 殴り合いでもって決着しろだなんて言うあんたのたった一言が原因で、ここまでの大混乱に陥ったんだから、あんたにはこの混乱を治めるだけの責任がある筈だ! 違うか!」

 怒り心頭の黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルはそう言って混乱の鎮圧を命じるが、命じられたグエン・チ・ホアは顔色一つ変えぬままくすくすとほくそ笑み、彼の命令に応じる様子はまるで見受けられない。

「あらあら? キャンベルさんったら、何か思い違いをなさっておられるのではないかしら? あたしが言い放った一言は、こちらにいらっしゃる皆さんの理性の裏側で爆発寸前にまで膨れ上がった闘争本能の最後のたがを外す為の、ほんのちょっとした切っ掛けの一つに過ぎなくてよ? ですから今現在繰り広げられているこの大混乱も、決して不測の事態などではなく、むしろ当然の帰結とでも言うべき結果なのではなくて?」

 グエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言えば、彼女の襟首を掴み上げた黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは言い返すべき言葉が見付からず、只々歯噛みを繰り返すばかりである。

「ええい、うるさい! 黙れ! 最後のたがだか何だか知らないが、この際、そんな些細な事は関係無い! とにかくこの現状をどうにかしろと言ってるんだ、このアジアから来た魔女ウィッチ売女ビッチめ!」

 声を荒らげながらそう言った黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルは左手でもってグエン・チ・ホアの襟首を掴み上げたまま、右手の拳をぐっと固く握り締め、その拳でもって彼女の左の頬目掛けて殴り掛かった。

「ホアさん、危ない!」

 そこで僕は自分のテーブル席から素早く立ち上がり、そう言って警告しながら、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの右の拳とグエン・チ・ホアの左の頬との間に強引に割って入る。

「!」

 すると次の瞬間、グエン・チ・ホアを庇い立てするかのような格好になった僕の無防備な顔面に、黒色人種ネグロイドのマーカス・キャンベルの固く握り締められた右の拳が直撃した。

「万丈! ちょっと、万丈ったら!」

 健康な成人男子の拳による一撃をまともに喰らってしまった僕はあっと言う間に意識が混濁し、どこか遠くからそう言って僕の名を呼ぶ声が聞こえて来たような気がしなくもないが、その真偽の程は定かではない。そしてふわふわと雲の上を歩いているかのように全身の感覚と言う感覚が麻痺し始めたかと思えば、僕は痛みを微塵も感じぬままレストランの冷たい床に突っ伏し、そのまま視界が真っ暗にブラックアウトして意識を失う。

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