第九幕


 第九幕



 エチオピア連邦民主共和国の首都アディスアベバで皇帝の代理人であるアベバオと歓談し、その足でもってエチオピア国立博物館を訪れた翌日、ボレ国際空港を発った僕らは三度みたび機上の人となった。

「それにしても、エチオピアに到着された翌日にはもうスイスへと旅立ってしまわれるだなんて、サイモン仁さんも随分とお忙しい方ですのね? 一体彼は、何をそんなに焦っていらっしゃるのかしら?」

 ファーストクラスの座席にゆったりと腰を下ろしたままそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女と僕と淑華の三人もまたサイモン仁の足取りを追いながら、今度はスイス連邦のジュネーヴ目指して空の旅を満喫している最中である。

「ところでホアさん、改めて確認させてもらいますけど、本当にサイモン仁はスイスに居るんですか?」

 高度10000mの大空を飛行するエチオピア航空の旅客機の機内で、僕はそう言って、改めてグエン・チ・ホアに問い掛けた。

「ええ、その筈でしてよ? そうなんでしょう、エルメス?」

 グエン・チ・ホアがそう言って僕の問い掛けに答えれば、彼女が手にしたスマートフォンの向こうのエルメスがそれを補足する。

「ああ、まず間違い無いね! 僕がハッキングした空港とホテルの監視カメラの映像から判断するに、サイモン仁は今現在、スイスのジュネーヴに居る筈さ!」

 やはり乾燥大麻とアルコールでもって若干頭がラリっているのか、やけにハイテンションなままそう言ったエルメスの言葉によれば、サイモン仁がスイスのジュネーヴに居るのはほぼ確定的な事実らしい。

「でしたらエルメス、あたし達はそろそろジュネーヴに到着いたしますから、また新たな情報を得ましたら連絡をくれまして?」

「ああ、勿論さ! それじゃあチ・ホア、また後で! Au revoir !」

 最後に母国フランスの言語でもって別れの言葉を口にしながら、スマートフォンの向こうのエルメスはそう言って、通話を終えた。そしてグエン・チ・ホアがラタンの旅行鞄の中へと彼女のスマートフォンを仕舞い直せば、大空を飛翔する旅客機の機内に、客室乗務員キャビン・アテンダントによる機内アナウンスの声が響き渡る。

「当機はおよそ20分後、ジュネーヴ国際空港に着陸する予定でございます。現在の時刻は午後3時ちょうど、天気は曇り、気温は3℃でございます。着陸に備えまして、皆様のお手荷物は離陸の際と同様、頭上の棚等のしっかり固定される場所にお仕舞いください。それではおよそ15分後にシートベルト着用のランプが点灯いたしますので、その後の化粧室のご利用はお控えになられますよう、よろしくお願いいたします。また只今の時刻をもちまして、機内販売を終了させていただきます。お買い上げありがとうございました」

「さあ、でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、そろそろあたし達も着陸に備えましてよ?」

 機内アナウンスに続いてそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に従い、僕も淑華も、自分の座席に腰を下ろすと同時にシートベルトを締め直した。すると当初の予定通り僕らを乗せた旅客機は高度を下げ始め、やがてジュネーヴ国際空港の滑走路へと着陸すると、その動きを止める。

「寒っ!」

「何これ、寒い!」

 入国と滞在に関する諸々の手続きを終えてから、ジュネーヴ国際空港の第一ターミナルビルから戸外の空気へとその身を晒した僕と淑華はそう言って、あまりの寒さに自分の肩を抱きながらがたがたと身体を震わせた。関西国際空港やボレ国際空港でも戸外の寒さにその身を震わせはしたものの、さすがスイス連邦は中央ヨーロッパに位置するアルプス山脈のお膝元だけあって、その寒さは格別である。

「あらあら、万丈くんも淑華ちゃんも、そんなに震えてしまうほど寒かったのかしら?」

 しかしながら僕らの前を歩くグエン・チ・ホアは事も無げにそう言って、下着と純白のアオザイ以外の衣服は身に纏っていないにも拘らず、暑さ寒さに対してまるで動じる気配が無い。

「当然ですよ! ほら、あっちにもこっちにも雪が積もってますし、良く見たら、今も雪が降っている真っ最中じゃないですか!」

 がたがたと身体を震わせながらそう言った僕の言葉通り、多くの旅行客が行き交うターミナルビルの周囲のそこかしこにうっすらと雪が積もっている箇所が散見されるだけでなく、気付けば分厚い雪雲に覆われた空からはらはらと小雪が舞い落ちて来る様子もまた見て取れた。

「ちょっとあんた、あんたは本当に寒くないの? まさか、本当は寒いのに、あたし達を揶揄からかいたくって強がってるだけなんじゃないでしょうね?」

 僕だけでなく淑華もまたがたがたと身体を震わせながらそう言って、純白のアオザイ姿の彼女を問い質すが、やはり問い質されたグエン・チ・ホアは文字通りの意味でもって涼しい顔である。

「そんなに邪推されましても、あたしったら昔から、本当に暑さ寒さの類には一瞬で順応出来てしまう性質たちでしてよ? ですから別に無理して強がって、あなた方お二人を揶揄からかっている訳でなく、この程度の気温の変化でしたら気にも留めないで居られるのではないかしら?」

「まったく、只でさえ胡散臭い女だとは思っていたけれど、こうなって来るとちょっとした化け物ね」

 すっかり呆れ果てた淑華は真っ白に凍る息を吐きながらそう言って、この寒空の下でも平然とした様子のグエン・チ・ホアを、ある種の化け物と評してはばからない。しかしながら化け物と評されてしまったグエン・チ・ホアもまた、まるでその事実を楽しむかのような格好でもって、くすくすと不敵にほくそ笑むばかりである。

「あらあら、言うに事欠いてこのあたしを化け物呼ばわりされるだなんて、淑華ちゃんもなかなかの怖いもの知らずなのではなくて? とは言え今日のところは、ここに来るまでに飲み干したシャンパンのお味に免じて、そんなあなたの不躾な発言も誉め言葉の一つと解釈しておいて差し上げてもよろしくてよ?」

 はらはらと小雪が舞う空の下、そう言って不敵にほくそ笑むグエン・チ・ホアの姿は美しく、思わず背筋にぞっと悪寒を走らせてしまう程の底知れぬ恐ろしさをもまた秘めていた。

「さあ、でしたらこんな所でいつまでもぐずぐずしてないで、サイモン仁さんが宿泊しておられる筈のホテルへと急行すべきではないかしら? 万丈くんも淑華ちゃんも、準備はよろしくて?」

「ええ、勿論ですよ、ホアさん!」

「準備はよろしいかどうかなんて、そんな事一々確認しなくたって構わないんだから、早くもっとどこか暖かい場所に避難させてよね! いつまでもこんな寒い屋外でジッとしてたら、凍えて風邪ひいちゃうじゃない!」

 寒さのあまり若干苛立ちながらそう言った淑華と僕とを背後に従えながら、颯爽とした足取りでもって移動を開始したグエン・チ・ホアはジュネーヴ国際空港のタクシー乗り場で一台のタクシーを拾うと、それに三人揃って乗り込んでから運転手に行き先を告げる。

「リッチモンドホテル・ジュネーヴへと向かっていただけて?」

 助手席に乗り込んだグエン・チ・ホアがそう言って行き先を告げると、運転手はハンドルを切りながらアクセルペダルを踏み込み、無言のままタクシーを発進させた。そして空港が在る郊外から脱出してジュネーヴの街の中心部が近付けば、単にこの街がスイス連邦第二の都市だからと言うだけでは説明がつかない程の規模でもって、街路を行き交う人々の数がにわかに増え始めた事に僕らは気付く。

「何だか、随分と賑やかね」

 後部座席に腰を下ろした淑華が、タクシーの窓越しに車外の様子をうかがいながらそう言った。

「うん、何かのお祭りかな?」

 彼女の隣に座る僕がそう言って淑華の意見に同意したならば、ややもすれば無愛想な性質たちらしいタクシーの運転手が端的に、その理由を説明してくれる。

「今日はこの先の国連の事務局で国際会議が開催されてるもんだから、それに対して意見を表明しようってデモ隊の奴らが世界中から集結して、こうして街に溢れてるのさ」

「国際会議ですって? それは一体、どのような趣旨の会議なのかしら?」

「さあね、俺も詳しくは知らないが、確か人種差別がどうとかこうとか言った会議だったかな」

 タクシーの運転手がそう言ってグエン・チ・ホアの疑問に返答しているその間にも、周囲のデモ隊の数は加速度的に増え続け、遂には車道にまで人が溢れ出して前へと進めなくなってしまった。

「あらあら、こんなに混雑してしまっているようですと、ホテルへと辿り着けないのではなくて?」

 溜息交じりにそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、手に手にプラカードや横断幕を掲げながら練り歩くデモ隊にこうも取り囲まれてしまっては、とてもじゃないが目的地であるホテルへと辿り着く事が出来ない。

「ええい、糞! こりゃ駄目だ、お客さん、済まないがここから先は自分の足でもって歩いて行ってくれないか?」

 やがて完全に動きを止めてしまったタクシーの運転手が肩を竦めながらそう言って、職務と職責の放棄を宣言したならば、さすがのグエン・チ・ホアも「ええ、そうね? もうこれ以上、タクシーでは先へと進めそうにありませんものね?」と言って彼の提案に同意せざるを得なかった。

「それじゃあお客さん、興奮したデモ隊の奴らの暴動に巻き込まれないよう、充分に気を付けてくれよな。じゃあな」

 最後にそう言って別れを告げた運転手にここまでの運賃を支払い終えると、タクシーから降りた僕ら三人は、ジュネーヴの街の中心部から程近い路上でもって途方に暮れる。

「で、これからあたし達、一体どうすんの?」

 文字通りの意味でもって二進にっち三進さっちも行かなくなったタクシーの傍らで、老若男女様々な人種や国籍から成るデモ隊に四方八方を取り囲まれたまま、淑華がそう言って彼女の荷物であるキャリーケースを転がしながら問い掛けた。

「取り敢えず、さっきタクシーの運転手が言ってた通り、僕らに出来る事と言ったらホテルまで歩いて行く事しか無いんじゃないか?」

 そこで僕もまた自分の荷物であるデイパックを背負い直し、声高にスローガンを叫び続けるデモ隊の声に負けないように大声を張り上げながらそう言えば、ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアはこれに同意する。

「ええ、そうね? サイモン仁さんが宿泊しておられる筈のホテルまでは未だちょっと距離がありますけれども、こうなってしまっては、歩いて行くより他に手段が無いのではないかしら?」

 すっかり困り果ててしまったかのような表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアと僕と淑華の三人は、歩道だけでなく車道までをも埋め尽くしたデモ隊の人波を掻き分けながら、どうにかこうにか目的地であるリッチモンドホテル・ジュネーヴ目指して歩き始めた。そして周囲よりほんのちょっとだけ地面が盛り上がった、丘と言う程の規模ではないが車道脇の小高い傾斜地に差し掛かったところで、そこに立っていた地元の警察官の一人に彼女は問い掛ける。

「ねえねえ、そこのお巡りさん? ちょっとお尋ねしてもよろしくて?」

「ん? 何か?」

 問い掛けられた制服姿の警察官は、ややもすれば面倒臭そうにそう言いながら、こちらを振り向いた。

「実を言いますとあたし達、ついさっきフォルモサからこの街に来たばかりなんですけれども、今日は一体どのような理由でもってこんなに人が溢れ返っておられるのかしら?」

「何だあんたら、デモとは関係無い観光客なのか? だったらよりにもよって只の観光客が、こんな日にこのジュネーヴの街を訪れるだなんて、ついてないね」

 まるで僕ら三人を憐れむかのような視線をこちらへと投げ掛けながら、そう言った警察官は事の詳細を説明してくれる。

「ここジュネーヴに、国連、つまり国際連合の事務局が在るのは知ってるだろう?」

「ええ、存じておりましてよ?」

「ちょうど今その事務局で、正式名称は『あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約』と言う名の、俗に『人種差別撤廃条約』と呼ばれる多国間条約の再検討と再批准のための国際会議が開かれていてね。それでその条約に反対したり賛同したりする世界中の個人や団体が、こうしてこの街に集まって、それぞれの主義主張を連呼しながらデモ行進を繰り広げてるって訳さ」

「あらあら、この混雑ぶりは、そう言った理由でしたのね? どうもご丁寧に解説してくださって、心より感謝させていただきましてよ? それにしても『人種差別撤廃条約』などと言った大層ご立派な条約に対して、そんなにも異を唱える個人や団体が存在するものなのかしら?」

「ああ、そうだな。確かに『人種差別撤廃条約』は、大層ご立派な条約だ。しかしながら甚だ残念な事に、どんなにご立派な条約であったとしても、それが気に喰わない連中ってのはどこにでも居るもんさ」

 溜息交じりに肩を竦めながらそう言った制服姿の警察官は、小高い傾斜地の上から、歩道と車道の別無く通りと言う通りを埋め尽くしたデモ隊の最前列の方角を指差した。

「ほら、あそこに陣取っている一団が、わざわざアメリカ合衆国から海を越えてやって来た『新ブラックパンサー党』の連中だ」

 そう言った警察官が指差す方角へと眼を向けてみたならば、そこにはお揃いの黒い革のジャンパーに身を包んで黒いベレー帽を被った、全身黒尽くめの格好の黒色人種ネグロイドの一団がスローガンをおめき叫んでいるのが見て取れる。

「まあ、あの方々が噂に聞く『新ブラックパンサー党』の、今現在の党員の方々なんですの?」

「ホアさん、あの人達が何者か知ってるんですか?」

 僕がそう言って問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアは、その詳細を解説するにやぶさかではない。

「あちらの『新ブラックパンサー党』の方々は、かつて共産主義と黒人民族主義を党是に掲げた『ブラックパンサー党』の、正当なる後継組織の党員を標榜する方々でしてよ?」

「もしかして、それって危険な人達なんですか?」

「ええ、そうね? かつての『ブラックパンサー党』は貧しい黒人の居住区を自衛する自警団的な存在として結成されましたけれども、武力闘争や武装蜂起も辞さない急進的な組織でもありましたから、危険と言えば危険な方々であるのは論をたないのではないかしら? もっとも今の『新ブラックパンサー党』は前身である『ブラックパンサー党』と違って、暴力革命もいとわぬマルクス主義的な共産主義からは、一定の距離を置いていると聞き及んでいましてよ?」

「ふうん、そうなんですか」

 正直な事を言わせてもらえば黒人民族主義だとかマルクス主義的な共産主義だとか言った単語の意味は良く分からなかったが、とにかく僕はそう言って首を縦に振り、うんうんと相槌を打ちながら得心せざるを得なかった。

「あら? でしたらあちらの反対側にいらっしゃる風変わりな白装束の方々は、あたしの見立てが間違ってさえいなければ、ひょっとしてひょっとすると『KKK《クー・クラックス・クラン》』の方々でして?」

 興味深げにそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、デモを管理する警官隊を間に挟みつつも『新ブラックパンサー党』の一団と睨み合うかのような格好でもって、やはり声を張り上げながらスローガンをおめき叫ぶ白色人種コーカソイドの一団の姿もまた見て取れる。そしてその一団の先頭に立つ数名の男性達は頭頂部が尖がった純白の頭巾とローブに身を包み、これは無知蒙昧な一介の男子高校生に過ぎないこの僕ですらご存知の、白人至上主義の秘密結社として悪名高い『KKK《クー・クラックス・クラン》』の象徴的な装束に他ならない。

「あれが本物の『KKK《クー・クラックス・クラン》』なんだ! 初めて見た!」

 僕がそう言ってちょっとだけ感動しながら驚きの声を上げると、その声を耳聡みみざとく聞き付けた制服姿の警察官が、そんな僕の様子に興味を示す。

「どうした坊や、そんなに驚くほど『KKK《クー・クラックス・クラン》』の連中が珍しいかい?」

「え? あ、ええ、まあ、本物は初めて見ましたから……」

 尻窄しりすぼみになりながらそう言って言葉を濁した僕は、きっとスイス人である彼から見たアジア人の僕が実年齢以上に若く見えたからに違いないとは言え、高校生にもなって『坊や』呼ばわりされてしまった事が何となく気恥ずかしかった。そしてそんな警察官は、要らぬサービス精神が芽生えたのか、ついでとばかりに更に別の団体に関する情報をも提供してくれる。

「だったら坊や、あっちを見てごらん」

「ん? あっち?」

 小高い傾斜地の上に立つ僕はそう言って、より遠くを見ようと背伸びしながら、サービス精神旺盛な警察官が新たに指差した方角へと眼を向けた。するとそこには世界中の誰もが知っている、あのナチス、つまり国家社会主義ドイツ労働者党のシンボルとして有名な鉤十字ハーケンクロイツを掲げた一団の姿が見て取れる。

「あれが『KKK《クー・クラックス・クラン》』以上に悪名高い、かつて第二次世界大戦を勃発させたナチス・ドイツの後継組織を自認する、ネオナチの連中だ」

「ネオナチ!」

 こんなジュネーヴの街の片隅で、よりにもよって正真正銘本物のネオナチの一団の姿を白昼堂々目撃する事になってしまった僕はそう言って、思わず頓狂な声を上げながら驚かざるを得ない。

「あらあら、まさかネオナチの方々まで姿を現すだなんて、さながら今現在のこの街は政治的イデオロギーの博覧会場の様相を呈しているのではないかしら?」

 そして僕だけでなくグエン・チ・ホアもまたうきうきと心躍らせながらそう言って、ナチス式敬礼と「ジーク・ハイル!」の掛け声でもってアドルフ・ヒトラー総統を称えて止まぬネオナチの登場に、まるで新しい玩具を与えられた幼児さながらに興奮を隠せぬ様子であった。

「おやおや、坊やだけが楽しんでいるのかと思ったら、奥さんもまた随分と楽しそうじゃないか。それじゃあ奥さん、あっちでネオナチの連中と真っ向から睨み合っているあいつらは、どこのどんな組織の連中か知ってるかい?」

 そう言った警察官が今度はネオナチの一団がたむろしているのとは逆方向の路上を指差せば、そこには彼らとはまた別の、六芒星ヘキサグラムかたどった国旗を掲げた一団の姿が見て取れる。

「あら? あのダビデの星が描かれているのは、イスラエルの国旗ね? でしたらあちらにいらっしゃる方々はユダヤ人、それもキッパ帽を被られた、敬虔なユダヤ教徒の方々なのではないかしら?」

「ああ、正解だ。さすがだな、奥さん。確かにあんたの見立て通りあいつらはイスラエルからやって来たユダヤ人、それも過激なユダヤ民族至上主義や排他的なシオニズムと言った選民思想を唱えてはばからない、カハネ主義者の連中だ」

 この僕を『坊や』呼ばわりするだけならまだしも、言うに事欠いてグエン・チ・ホアを『奥さん』呼ばわりしながらそう言って、制服姿の警察官はイスラエルの国旗を掲げているのがユダヤ人であろうと言う彼女の推測を肯定した。

「それで、その色んな団体の人達がこの場に集まって、皆で口を揃えて『人種差別撤廃条約』とか言う条約の成立に反対してるって訳?」

 僕の隣に立つ淑華がそう言って、誰に言うでもなく問い掛ければ、サービス精神旺盛な警察官はこの問い掛けにもまた返答してくれる。

「いや、違うんだよお嬢ちゃん、必ずしもそう言う訳じゃない。勿論条約の内容がはなから気に喰わなくて、それを再検討や再批准しようって事自体に抗議している奴も居るには居るが、ここに集まった連中の大半は人種差別の撤廃そのものにはそれなりに賛成しているに違いないんだ。だがそれでも立場の違いから条約に全面的には賛同出来なかったり、場合によっては抗議している他の組織の言い分に対して抗議しなくちゃならないって使命感に駆られて、こうしてこの街に集まって来たって訳なのさ」

「ふうん、面倒臭いのね。そんなに他人の言い分が気に喰わないのなら、わざわざ文句を言いに来なけりゃいいのに」

 警察官の解説を耳にした淑華は溜息交じりにそう言って、すっかり呆れ果ててしまっている様子であった。しかしながら彼女をして『お嬢ちゃん』と呼んだ警察官は、必ずしもそれに同意しない。

「それがそうでもないんだよな、眼鏡のお嬢ちゃん。確かに一見すると、いい歳した大の大人がわざわざ集まって、不毛な言い争いを繰り広げているだけにしか見えないのかもしれない。だがしかし、こうして面と向かって意見の異なる個人や団体と腹を割って言い争える事こそが、世界が未だ未だ平和で安全だって事の確たる証拠の内の一つに違いないのさ。まあ、お嬢ちゃんみたいな可愛らしいお子様には、何だか良く分からない理屈なのかもしれないがね」

「ふうん、変なの。やっぱり大人って、面倒臭いのね」

 警察官の言い分に納得しかねるかのような表情と口調でもって、淑華は素っ気無くそう言うが、そんな彼女よりもグエン・チ・ホアは辛辣である。

「あらあら、何ですの? このようなデモの警備の真っ最中だと言うのに、世界の平和と安全について説かれるだなんて、さすがはスイスのお巡りさんね? やはり永世中立を謳いながら傭兵業でもって身を立てられた方々の末裔が仰ると、言葉の重みが違うのではないかしら?」

「おっと、それは皮肉かい? よしてくれよ奥さん、俺達生粋のスイス人だって、自国の血塗られた歴史やEUに加盟する事が出来ない現状について、思うところくらいあるんだからさ」

 制服姿の警察官は肩を竦めながらそう言って、グエン・チ・ホアが口にした辛辣な皮肉をていよくあしらいつつも、どこな物憂げな空笑いを制帽の下のその顔に浮かべていた。

「それで奥さんも坊やもお嬢ちゃんも、あんたら三人が只の観光客でデモに参加するつもりも無いって言うのなら、一体ここで何をやってるんだい? いつまでもこんな所をうろうろしていると、興奮したデモ隊と警官隊との衝突に巻き込まれて、最悪の場合には怪我しちまいかねないぞ?」

 皮肉をあしらいつつもそう言って、僕ら三人の身の安全を案じてくれた警察官に、グエン・チ・ホアは改めて問い掛ける。

「ええ、そうね? 実を言いますとあたし達、これらのデモが原因と思われる交通渋滞に巻き込まれた結果として、乗っていたタクシーが立ち往生してしまいましてね? ですから今夜宿泊する予定のホテルまで徒歩で赴かなければならないのですけれども、リッチモンドホテル・ジュネーヴまでは、どのようなルートを選んで歩けば安全に辿り着けるのかしら?」

「何だ、そうか、あんたらはリッチモンドホテル・ジュネーヴに行きたかったのか。だったらそこのマクドナルドの脇の細い路地を道なりに真っ直ぐ進んで、およそ100mほど歩いてから国立銀行の角を右に曲がってぐるりと迂回すれば、デモが行われている大通りを避けながらホテルへと辿り着ける筈だ」

 グエン・チ・ホアに問い掛けられた警察官は親切にもそう言って、大通り沿いに建つマクドナルドの方角を指差しながら、僕らが目指すべきホテルへと続く具体的な道順を教えてくれた。どうやら彼の案内に従えば、この二進にっち三進さっちも行かないような交通渋滞とデモ隊の抗議活動による混乱を回避しつつ、目的地へと到着出来るらしい。

「あら、そうですの? それはどうもご親切に教えてくださって痛み入りますとでも申し上げましょうか、それとも大変ありがとうございますとでも申し上げましょうか、とにかく心から感謝の言葉を述べさせていただきましてよ?」

「ああ、こちらこそありがとう。お役に立てたのなら光栄さ。それじゃあ三人とも、治安の悪い地域には近付かないよう心掛けながら、良い旅を。スイスの自然と文化を存分に楽しんで行ってくれよな」

 最後にそう言って別れを告げた警察官に見送られながら、小高い傾斜地を後にしたグエン・チ・ホアと僕と淑華の三人は、マクドナルドの脇の細い路地へと足を踏み入れた。そしてそのまま道なりに真っ直ぐ進み、およそ100mほど歩いてから国立銀行の角を右に曲がってぐるりと迂回すれば、やがて今夜の宿であるリッチモンドホテル・ジュネーヴの正面玄関前へと辿り着く。

「ふう、どうやらやっと、目的地へと到着したみたいね?_それにしてもデモによる渋滞に巻き込まれてしまうだなんて、いくらジュネーヴに国連の事務局が在るからと言ったところで、思わぬ寄り道になってしまった事に変わりはないのではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの背中を追いながら、彼女と僕と淑華の三人は安堵の溜息と共に、ようやく辿り着いたリッチモンドホテル・ジュネーヴの敷地内へと足を踏み入れた。ホテルの正面玄関の扉を潜る際にふと背後の方角へと意識を向けると、大通りを埋め尽くすデモ隊の面々がスローガンをおめき叫ぶ声が小雪が舞う北風に乗って、ここまで届いているのが耳だけでなく肌でも感じ取れる。

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