第八幕


 第八幕



 アディスアベバの市内をおよそ三十分ばかりも南下し続けた後に、やがて僕ら四人を乗せたトヨタ社製の乗用車は、一軒の邸宅の門前で停車した。

「さあさア、最初の目的地ニ、無事到着しましたヨ! どうぞ皆さン、お降りくださいまセ!」

 そう言ったガイドのゲタに促されながら降車してみれば、そこは立派な造りの邸宅が軒を連ねる高級住宅街の一角で、眼の前の邸宅もまた豪邸と呼ぶに相応ふさわしい一際立派な造りである。

「こちらのお屋敷ガ、皇帝陛下がお住まいのお屋敷でス! どうでス? 立派なお屋敷でしょウ?」

 ガイドのゲタはそう言って眼の前の邸宅を指差すものの、その邸宅の規模と造りに、グエン・チ・ホアは若干納得が行かないらしい。

「確かに立派なお屋敷ですけれども、一国の皇帝陛下のお住まいにしては、少々地味なのではないかしら?」

「えエ、確かにあなた様の仰る通り地味なお住まいではありますガ、それは仕方が無い事と言わざるを得ませン! ご存知の通りゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下はエチオピア連邦民主共和国政府が認めた公式な国家元首ではありませんのデ、その生活全般や政治活動に対シ、政府からの公的な援助は一切期待出来ないのが実情なのでス! ですから陛下を支持する民間の個人や団体からの寄付や資金提供だけでハ、この規模のお屋敷を借り上げるのが限界なのですヨ! 残念!」

 やはりガイドのゲタはにこにこと微笑みながら、あまり残念がっているようには見受けられない表情と口調でもってそう言うと、皇帝が住んでいると言う邸宅と公道とを隔てる背の高い門扉に歩み寄った。

「それではさっそク、皇帝陛下に謁見しましょウ!」

 そう言ったガイドのゲタが邸宅の門扉の脇に設置されていたインターホンのボタンを押してから、そのインターホンの向こうに居るべき何者かと現地の言葉でもって遣り取りを繰り返した後に、外部からの侵入者を頑なに拒んでいた門扉がゆっくりと音も無く開かれる。

「さあ皆さン、入って入っテ!」

 手招きしながらそう言ったガイドのゲタの案内でもって、グエン・チ・ホア、それに僕と淑華の計四人は邸宅の敷地内へと足を踏み入れた。そして門扉から続く石畳のアプローチを渡り切り、邸宅の正面玄関前へと辿り着いてみたならば、その玄関扉の前に一人の背の高い成人男性が立っているのが見て取れる。

遠路遥々えんろはるばる、ようこそおいでくださいました。皆様のご到着を、首を長くしてお待ちしておりました」

 軽い会釈と共に丁寧かつ流暢な言葉遣いでもってそう言って僕らを出迎えた背の高い男性は、やはりここエチオピア連邦民主共和国の地元民らしく褐色の肌をしており、民族衣装らしきカラフルな縁取りが施された白いワンピース風の服を着て頭に白い布を巻いていた。

「初めまして、あたしが皇帝陛下に謁見させていただきたいと希望しましたグエン・チ・ホアと名乗る者ですけれども、あなたがゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下でして?」

 一歩前へと進み出たグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、頭に白い布を巻いた背の高い男性は首を横に振って、これを否定する。

「いえ、違います。わたくしは陛下の身の回りのお世話を任されております、アベバオ・デスタ・サムエルと言う者でございます。残念ながら陛下は火急の用件でもって留守にされておられるため、本日はわたくしが陛下の代理人として、皆様のお話をお伺いするよう仰せつかりました。誠に勝手ながら、どうぞ、ご容赦くだされば幸いでございます」

「あら、そうですの? 皇帝陛下だなんて高貴な血筋のお方にお会い出来る千載一遇の機会とあって、あたしったら年甲斐も無くわくわくと胸を躍らせておりましたのに、それは残念ね?」

 皇帝の代理人を名乗ったアベバオ・デスタ・サムエルなる男性の言葉に落胆し、すっかり出鼻を挫かれる格好になってしまったグエン・チ・ホアは溜息交じりにそう言って、こちらは心底残念そうに肩を竦めた。

「左様でございますか。わたくし共といたしましても、グエン様の様な見目麗しい方のご期待に沿う事能わず、何とも心苦しい限りでございます。ですが不肖ながらわたくしも、畏れ多くも陛下の代理人を名乗らせていただくからには、その名に恥じぬよう誠心誠意尽力させていただきますのでご安心ください」

「仕方無いヨ! 皇帝陛下はとっても忙しいお方だからネ!」

 再びの会釈と共にうやうやしく謝辞を述べた代理人のアベバオとは対照的に、ガイドのゲタが陽気に微笑みながらそう言えば、僕らとしてももうこれ以上文句を言うのは無粋と言うものである。

「それでは皆様、このような玄関先で立ち話も何ですので、どうぞ邸内へとお入りください」

 そう言って玄関扉を開けた代理人のアベバオに促されながら、彼とグエン・チ・ホアと僕と淑華、それにガイドのゲタの計五人は邸宅の内部へと足を踏み入れた。そして玄関から続く廊下を渡って応接室へと移動し、その応接室の中央に設置されたローテーブルを囲む革張りのソファに揃って腰を下ろせば、やはり地元民らしき褐色の肌のメイドが運んで来た人数分のコーヒーカップがローテーブルの天板の上に並べられる。

「ちょうど今朝、南西のジマ地方の農園から新しい豆を仕入れたばかりですので、どうぞ冷めない内にお召し上がりください」

 メイドが立ち去るのとほぼ同時にそう言った代理人のアベバオの勧めに従って、僕らは各々の眼の前に並べられたコーヒーカップを手に取り、そのコーヒーカップに注がれた淹れ立てのコーヒーをちびちびと味わいながら飲み下した。そしてこの場に居合わせた全員が各自の手元のコーヒーカップの中身をすっかり飲み干した頃を見計らい、代理人のアベバオは、彼の向かいの席に腰を下ろすグエン・チ・ホアに問い掛ける。

「それではグエン・チ・ホア様、そろそろ本題に入らせていただきます。さっそくですが本日は遠くフォルモサより、果たしてどのようなご用件でもって陛下に謁見されたいと願われたのか、その詳細をお聞かせ願えますか?」

 皇帝の代理人を務めるアベバオがそう言って問い掛ければ、空になったコーヒーカップをソーサーの上に置いたグエン・チ・ホアは、この問い掛けに対して返答するにやぶさかではない。

「ええ、そうね? 実を言いますと、あたし達は数日前にフォルモサを発って以降、本田サイモン仁と言う方の足取りを追っている最中なのではないかしら? そしてそのサイモン仁さんがつい昨日、ここアディスアベバでソロモン朝エチオピア帝国の皇帝陛下に謁見されたとお聞きしたものですから、こちらに伺えば彼の謁見後の行方や謁見の理由について何かしらの情報が得られるのではないかと推測した次第でしてよ?」

「ああ、成程、そう言った事情でしたか。確かにグエン様の仰る通り、つい昨日、日本から参られた本田サイモン仁と名乗る方が陛下に謁見されたのは、揺るがざる事実でございます」

 代理人のアベバオはそう言って、僕らが足取りを追っているサイモン仁がこの邸宅を訪れた事を、いともあっさりと認めたのだった。

「でしたらアベバオさん、果たしてサイモン仁さんは、謁見された皇帝陛下と一体どのようなお話をされていたのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い返せば、代理人のアベバオは昨日の記憶を蘇らせるかのように暫し考えあぐねてから、慎重に言葉を選びながら返答する。

「彼が、サイモン仁様が謁見の際に口にされたのは、とても奇妙なお話でした。何でも彼は新たな黒人国家の樹立の日は近いと熱く語られたその上で、我らがゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下に、是非ともその黒人国家の初代皇帝の座に就いてほしいと要望されたのです」

「新たな黒人国家ですって? 未開の地が有り余っていた大航海時代ならともかくとしましても、今の時代にそんな国家を、サイモン仁さんはどこにどのような方法でもって樹立されるおつもりなのかしら?」

「残念ながら、その詳細についてはわたくし共も存じ上げておりません。今しがた申し上げました彼の要望に対し、陛下が明言こそ避けられたものの難色を示されると、サイモン仁様はそれ以上多くを語らぬままご退席されました」

「あら、そうですの? それはまた、確かにあなたの仰る通り、何とも奇妙なお話じゃない?」

 新たな黒人国家を樹立すると言うサイモン仁の発言と、それに対して皇帝が如何なる反応を示したかに関する代理人のアベバオの返答に、グエン・チ・ホアはそう言ってさも不思議そうに小首を傾げた。

「サイモン仁さんは、他にも何か皇帝陛下に要望されていたのかしら?」

「いえ、先程も申し上げました通り、彼は総じて、あまり多くを語られるお方ではありませんでした。しかし当のサイモン仁様自身は純血の日本人でありながら、自分は幼少のみぎりより終始一貫して黒色人種ネグロイドの味方なのだと言う事をしきりに強調されていた事を、覚えております」

黒色人種ネグロイドの味方ねえ……そんな方がわざわざあたしのお店から『ちびくろサンボ』の原書を盗み出そうとするだなんて、果たしてサイモン仁さんの最終的な目的は何なのか、あたしにはさっぱり理解出来なくてよ?」

 代理人のアベバオの返答を耳にしたグエン・チ・ホアは溜息交じりにそう言って、益々をもって小首を傾げるばかりである。

「でしたらアベバオさん、退席されたサイモン仁さんはこちらからどちらへと向かわれたのか、その移動先はご存知でして?」

「はイ! それハ、私が知ってるネ!」

 そう言って勢い良く手を挙げたのは、空になったコーヒーカップを掌の中で弄びながら事の成り行きを見守っていた、ガイドのゲタであった。

「昨日、サイモン仁さんはこのお屋敷で皇帝陛下に謁見された後ニ、ガイド兼通訳である私と一緒にアディスアベバ大学のすぐ近くに在るエチオピア国立博物館まで収蔵品を見学しに行きましタ!」

「エチオピア国立博物館ですって? ねえ、ゲタさん? その博物館は、ここから遠いのかしら?」

「そうですネ、博物館が在るのはあなた様が泊まっていたホテルを挟んだ街の反対側だかラ、ちょっと遠いネ! だけど同じアディスアベバの街の中に在る施設だかラ、いくら遠いと言ってモ、そんなに気にするほど遠くないヨ!」

 果たして遠いのか遠くないのかはっきりしない口振りではあるものの、とにかくガイドのゲタの言葉によれば、皇帝との謁見が不発に終わったサイモン仁と彼とはエチオピア国立博物館へと向かったらしい。

「そう言った事情なのでしたら、あたし達もまたサイモン仁さんの足取りを追って、これからそのエチオピア国立博物館へと足を向けるのが常套手段ではなくて?」

 更なる追跡を決意したらしいグエン・チ・ホアがくすくすと不敵にほくそ笑みながらそう言えば、ガイドのゲタは待ってましたとばかりに身を乗り出し、自らの先見の明の確かさをアピールする。

「グエンさン、きっとあなた様がそう仰るだろうと思っテ、ここに来る前に既に博物館の学芸員に館内の案内を依頼しておきましタ! この学芸員の案内に従えバ、昨日サイモン仁さんがどのようなルートでもって如何なる収蔵品を見学したのかガ、手に取るように分かる筈でス!」

「あらあら、ゲタさんったら、随分と準備がよろしいのね? さすがはプロのガイド兼通訳だけあるとでも言いましょうか、とにかく素晴らしい手腕でしてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言って褒め称えれば、褒め称えられたガイドのゲタは満更でもない様子でもって悦に入り、只でさえにこやかな相貌を殊更に崩しながら微笑んだ。そして一頻り褒め称え終えた彼女は、再び代理人のアベバオに向き直る。

「でしたらアベバオさん、あたし達はこれから国立博物館へと向かいますので、そろそろおいとまさせていただいてもよろしくて?」

「勿論、わたくし共は一向に構いません。本日は遠路遥々えんろはるばるフォルモサよりお越しいただき、誠にありがとうございました」

「ええ、そうね? サイモン仁さんに関する貴重な情報を惜しみなくご提供いただけた事に対して、あたし達もまた、あなたには感謝しているのではないかしら? それではまたいつの日か、あなたとの再会、そして今度こそ皇帝陛下に謁見させていただく機会の到来を楽しみにしていましてよ?」

 最後にそう言ったグエン・チ・ホアが革張りのソファから腰を上げれば、僕と淑華、それにガイドのゲタもまた彼女に倣って腰を上げた。そして代理人のアベバオに見送られながら応接室を後にすると、来た道を引き返すかのような格好でもって廊下を渡って玄関へと移動し、そのまま玄関扉と門扉を潜って邸宅の敷地の外へと歩み去る。

「でしたらゲタさん、そのエチオピア国立博物館とやらまで、あたし達を送り届けていただけて?」

「喜んデ! さあ皆さン、乗って乗っテ!」

 やはり陽気に微笑みながらそう言ったガイドのゲタの言葉に従い、グエン・チ・ホアと僕と淑華の三人は、彼が運転するトヨタ社製の乗用車に揃って乗り込んだ。そして活気に溢れるアディスアベバの街の中心部を、街路を行き交う数多の人々や車輛の間を縫うようにして走りながら縦断すれば、やがて僕らを乗せた乗用車は一棟の大きな建造物の隣の駐車場でもって停車する。

「到着しましタ! ここがエチオピア国立博物館でス!」

 乗用車から降りるなりそう言ったガイドのゲタが指差したのは、地上三階建ての、やけに頑丈そうなコンクリート造りの建造物であった。そしてその建造物は確かにそこそこ立派ではありながら、一国の国立博物館を名乗るにしてはやや小規模で、いささか拍子抜けしてしまったと言うのが僕個人の偽らざる胸の内である。

「それでハ、さっそく中に入りましょウ!」

 そう言ったガイドのゲタに促されながら、彼も含む僕ら四人はエントランス前の階段を駆け上がると、エチオピア国立博物館の館内へと足を踏み入れた。するとそこには一人の成人男性が待ち構えており、小太りで禿げ頭の彼は、軽い会釈と共に僕らを出迎える。

「初めまして、グエン・チ・ホア様と、そのお連れの方々でございますね? お待ちしておりました、私は当館の主任学芸員を務めさせていただいております、ハブタム・サムエル・タスファイでございます」

「どうも初めまして、ハブタムさん? ご察しの通り、あたしがグエン・チ・ホアでしてよ? 本日はお忙しいところ、案内役を買って出ていただきまして、本当に感謝の言葉に尽きるのではないかしら?」

「いえいえ、こちらこそ遠くフォルモサからお越しいただき、感謝の言葉もありません」

 主任学芸員のハブタムはそう言って、グエン・チ・ホアに挨拶しつつ、また同時に互いに感謝の言葉を交わし合った。

「それではさっそく、館内を案内させていただきます。どうぞ、こちらへ」

 そう言った学芸員のハブタムの案内で、僕らがエチオピア国立博物館の収蔵品を見学していると、やがて彼は僕らに問い掛ける。

「ところで皆様、皆様はエチオピアの歴史に関して、どの程度ご存知ですか?」

 収蔵品の概要を説明しながらそう言った学芸員のハブタムの問い掛けに対して、無知蒙昧な一介の男子高校生に過ぎない僕は返答に窮するものの、聡明で博識なグエン・チ・ホアはその限りではない。

「あたしの記憶が確かならば、エチオピアは、世界最古の独立国家の内の一つだと聞き及んでおりましてよ? そして1415年のセウタ攻略に端を発する大航海時代の到来以降、アフリカ大陸の諸国家が次々に欧米列強の植民地へとその身をやつす中に於きましても、最後まで独立を維持し続けた唯一の国家であった筈ではないかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って蘊蓄を傾ければ、学芸員のハブタムは、そんな彼女を褒め称える。

「ええ、まさしくその通りでございます。さすがはグエン様、わざわざ当館を見学したいと申し出られただけの事あって、広い知見をお持ちでいらっしゃる。しかしながらもう一言だけ付け足させていただきますと、ここエチオピアは、人類発祥の地として知られている事もまたお忘れになってはいけません」

「人類発祥の地?」

 僕は思わずそう言って、突然話が大きくなった事に対する驚きの声を上げてしまった。

「ええ、ええ、まさしくその通りでございます」

 相槌を打ちながらそう言った学芸員のハブタムは、その禿げ頭の下の人の良さそうな顔に、満面の笑みを浮かべている。

「驚かれましたか、お坊ちゃん? 一説に依りますと、類人猿から分派した現生人類の祖先は今からおよそ700万年から1000万年ほど以前の新生代新第三紀に、ここエチオピアのアワッシュ川下流域で発生したものと言われております。もっともこれは一つの説であり、人類発祥の地が東アフリカなのか南アフリカなのかと言った点に関する論争は絶えませんが、私個人はエチオピア人類起源説を支持しております」

 学芸員のハブタムはそう言いながら、誇らしげに胸を張った。それにしてもこの僕をして『お坊ちゃん』などと呼ばれると、まるで全身がむずむずとむず痒くなるような、何とも言えない居心地の悪さである。

「ご高説ありがとうございます、ハブタムさん? ところで昨日こちらに足を運ばれた筈のサイモン仁さんは、果たしてどのような展示に興味を示されておられたのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、問い掛けられた学芸員のハブタムは博物館の正面玄関とは反対の方角を指差した。

「まさに今からそれを、ご説明しようと思っていたところでございます。どうぞ皆様、順路に従って、あちらの方角へとお進みください」

 そう言った学芸員のハブタムに先導されながら、館内を縦断した僕らは、やがて博物館の最奥の部屋へと足を踏み入れたところで足を止める。

「こちらが当博物館一押しの収蔵品であると同時に、ここエチオピアが人類発祥の地である事を裏付ける、ルーシーとアルディを展示した部屋でございます」

 学芸員のハブタムがそう言って、妙に誇らしげな表情と口調でもって案内した博物館の最奥の部屋には、幾つかの大きなガラスのショーケースが並んで設置されていた。そしてそのショーケースの中を覗いてみると、そこには人間の子供ぐらいの背格好の、ヒトともサルともつかない生物の不完全な骨格標本が展示されているのが見て取れる。

「万丈くんも淑華ちゃんも、良くご覧なってちょうだいな? これが世紀の大発見として世を騒がせた、あのルーシーとアルディの化石でしてよ? 素晴らしいじゃない?」

「ホアさん、これが何なのか知ってるんですか?」

 ややもすれば興奮を隠し切れぬ様子のグエン・チ・ホアから「あのルーシーとアルディの化石でしてよ?」と言われても、やはり無知蒙昧な一介の男子高校生に過ぎない僕はそう言って問い返すばかりで、眼の前に展示された骨格標本の正体に関してまるで心当たりが無い。

「あらあら、万丈くんったら、あの有名なルーシーとアルディをご存知なくて? ……とは言え、考えてみれば、それもそうかしら? これらの化石が発見されたのは、あなたや淑華ちゃんが生まれる以前の出来事ですものね?」

 得心しながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉によって、僕や淑華がこの骨格標本の正体を知らないのも無理は無いと結論付けられれば、学芸員のハブタムがわざとらしい咳払いと共に一歩前へと進み出る。

「それでは皆様、お話を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 そう言って前置きした上で、学芸員のハブタムは、眼の前の骨格標本について解説し始めるにやぶさかではない。

「先程申し上げました通り、類人猿から分派した現生人類の祖先は今からおよそ700万年から1000万年ほど以前の新生代新第三紀に、ここエチオピアのアワッシュ川下流域で発生したものと言われております。そしてその証拠として、1974年にアファール盆地のハダール村で発見されたアファール猿人の化石人骨がルーシー、1994年にアワッシュ渓谷中流域のアラミスで発見されたラミダス猿人の化石人骨がアルディと名付けられました。また年代測定の結果、ルーシーは約318万年前、アルディは約440万年前に、この地で生きていた事が証明されております」

 学芸員のハブタムはそう言って、誇らしげに胸を張った。しかしながら次の瞬間、そんな彼の誇らしげな顔に、やにわに落胆の色が浮かぶ。

「とは言え、今現在はより古い時代の猿人とされるオロリン・トゥゲネンシスやサヘラントロプスが発見されたため、残念ながらルーシーやアルデイの学術的な価値は著しく下落してしまいました。だがしかし、それでも私はこれらの化石人骨が、我が祖国エチオピアの至宝である事を微塵も疑ってはおりません」

 落胆から心機一転、そう言った学芸員のハブタムは、再び誇らしげに胸を張った。それにしてもこのハブタムと言う男は胸を張ったり落胆したり、また胸を張ったりと、何とも忙しい男である。

「ふうん、つまりこれが、あたし達人類の祖先の化石って訳ね?」

 学芸員のハブタムの解説を聞いていた淑華がちょっとだけ興味深げにそう言って、身を乗り出しながら、アルディの骨格標本が納められたショーケースを覗き込んだ。するとつい今しがたまで胸を張っていた筈の学芸員のハブタムが、今度は申し訳無さそうに肩を竦める。

「まあ、その、確かにその通りなのですが……しかしながら厳密にはその通りではないとでも申し上げましょうか……」

 申し訳無さそうに肩を竦めた学芸員のハブタムは、まるで奥歯に物が挟まったかのようにもごもごと口篭もりながらそう言って、どうにも歯切れが悪い事この上無い。

「あらあら? ハブタムさんったら急に言葉を濁されてしまわれて、何か仰り難い事でもあるのかしら?」

「ええ、つまり、それがですね? 実を言いますと、今ここに展示されているのは精巧に出来たレプリカでして、申し上げ難い事に、本物のルーシーとアルディの化石人骨ではないのですよ」

「え?」

 予想もしていなかった学芸員のハブタムの言葉に、僕はそう言って、思わず頓狂な声を上げてしまった。

「レプリカですって? でしたらハブタムさん、本物の化石は一体どちらに?」

 頓狂な声を上げてしまった僕と違って、グエン・チ・ホアがさほど驚いている様子も無いままそう言って問い掛ければ、問い掛けられた学芸員のハブタムはエレベーターの方角を指し示す。

「本物のルーシーとアルディの化石人骨は、盗難や破損や汚損と言った不測の事態を回避するために、この建物の地下倉庫に安置してあります。もし皆様さえよろしければ、特別にそちらもご案内させていただきますが、如何なされますか?」

「ええ、そうね? せっかくここまで足を運んだ事ですし、毒を喰らわば皿までの故事成語にちなむ訳ではありませんけれども、是非とも案内していただければ幸いでしてよ?」

かしこまりました。それでは、どうぞこちらへ」

 そう言った学芸員のハブタムに先導されながら、僕ら五人はぞろぞろと、エチオピア国立博物館の建屋のエレベーターの方角へと足を向けた。そしてエレベーターの籠に乗り込んで地下倉庫へと向かう途中で、グエン・チ・ホアは彼に問い掛ける。

「ところで、ハブタムさん? 改めて確認させていただきますけれども、昨日こちらに足を運ばれた筈のサイモン仁さんも、ルーシーとアルディに興味を示されておられたのかしら?」

「ええ、ええ、まさにその通りでございます。サイモン仁さんは非常に熱心かつ真剣な眼差しでもってルーシーとアルディの化石人骨を見学し、彼もまた、今現在我々が向かっている途中の地下倉庫へと案内させていただきました。そしてそこでもまた本物の化石人骨に、こちらが感心してしまう程この上無い興味を示されておられた事を、私もよく覚えております」

「あら、そうですの? でしたらサイモン仁さんは、如何なる理由があってルーシーとアルディにそこまで熱心に興味を示されておられたのか、その点が甚だ疑問でしてよ? まさか、純粋な学術的探究心からだったりするのかしら? それとも、もっと何か、別の思惑があって?」

 グエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言って疑義を呈しているその間にも、僕ら五人を乗せたエレベーターは、地下倉庫が在る階層へと到着した。

「こちらでございます」

 そしてそう言った学芸員のハブタムの案内でもって、エレベーターを降りた僕らは大小様々な収蔵品が納められた地下倉庫をぞろぞろと連れ立って縦断し、やがて重々しくも厳めしい一枚の鉄扉の前へと辿り着く。

「この扉の向こう側に、本物のルーシーとアルディの化石が安置されてるのね?」

「左様でございます。それではどうぞ、ごゆっくりご覧ください」

 三度みたび誇らしげに胸を張りながら、そう言った学芸員のハブタムは眼の前の鉄扉を勢い良く引き開けた。すると僕らの視界に、がらんとした何も無いうつろな空間が飛び込んで来る。

「あらあら? ねえ、ハブタムさん? お伺いしていた本物のルーシーとアルディの化石は、一体どこに在るのかしら?」

 僕らの視界に飛び込んで来たがらんとした何も無いうつろな空間、つまり鉄扉の向こうに広がる空き部屋を前にしたグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、問い掛けられた学芸員のハブタムは「え?」と言って驚きながらきょとんと呆けた。

「いやいや、何を仰いますか、グエン様。ルーシーとアルディの化石人骨でしたら、ちゃんとこちらに……」

 そして学芸員のハブタムがそう言った次の瞬間、はっと我に返った彼が慌てふためきながら空き部屋の中へと足を踏み入れれば、その禿げ頭の下の顔から見る見る内に血の気が引いて行く。

「無い! いや、そんな馬鹿な! 昨日までは確かに、確かにここに在ったんだ! それが、どこに、どこに消えた? どこに消えたんだ? どこに消えたって言うんだ?」

 あわあわと泡を喰いながらそう言って、顔面蒼白の学芸員のハブタムはおろおろと慌てふためきつつも、何かを探し求めるかのようにその場で右往左往するばかりであった。そしてそんな彼の言葉から推測するに、どうやらつい昨日までは、今はもぬけの殻となった地下倉庫のこの部屋にルーシーとアルディの化石人骨が安置されていたらしい。

「無い! 無い! 無い! 私の、私の命より大事なルーシーとアルディが、どこにも無い!」

 ルーシーとアルディの化石人骨が忽然と姿を消した事を嘆き哀しみ、すっかり取り乱した様子の学芸員のハブタムは、まるで膝から崩れ落ちるかのような格好でもってその場にへなへなとへたり込んでしまった。

「あらあら、これはまた、随分と面白い事になって来たのではないかしら?」

 もぬけの殻となった地下倉庫の空き部屋の中央で、呆然自失としたままへたり込んでしまった学芸員のハブタムとは対照的に、そう言ったグエン・チ・ホアはくすくすと不敵にほくそ笑む。

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