第七幕


 第七幕



 やがて僕ら三人を乗せたエチオピア航空の旅客機は、エチオピア連邦民主共和国の首都アディスアベバの南東に位置するボレの街に在る、ボレ国際空港の滑走路に着陸した。そしておよそ9時間にも及ぶ空の旅から解放されたのも束の間、ボレ国際空港の第二ターミナルビルの正面玄関の扉を潜って戸外の空気へとその身を晒せば、アフリカ大陸東部の乾燥した東風が僕の頬を撫でつける。

「ふう、どうやらようやく、目的地へと辿り着いたのではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアと僕と淑華の三人は、空港の内外各所に設置された案内板に従いながら、取り敢えずタクシー乗り場の方角へと足を向けた。

「それにしてもホアさん、エチオピアって、意外と寒いんですね。地理的には僕らが住んでるフォルモサよりも赤道に近いアフリカ大陸の国なんだから、もっとこう、一年中灼熱の暑さが続いてるもんだと思ってました」

 タクシー乗り場を目指す道すがら、吹く風の涼しさに驚きながら僕がそう言って素朴な疑問を口にすると、純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアがその理由を説明してくれる。

「ええ、そうね? ここエチオピア連邦民主共和国は国土の大半がエチオピア高原を中心とする標高2000m前後の高地に広がっていますから、アフリカ大陸の他の国家のそれに比べると平均気温が低く気候も穏やかで、降水量が多いために水資源も豊富でしてよ?」

「ああ、成程」

 グエン・チ・ホアが傾けた蘊蓄うんちくのそつの無さに感服すると同時に、僕はそう言って、首を縦に振りながら深く得心した。そしてボレ国際空港のタクシー乗り場へと辿り着いた僕ら三人がさっそく一台のタクシーに乗り込んで、助手席に腰を下ろしたグエン・チ・ホアが行き先を告げれば、如何にも地元民らしい褐色の肌の運転手はアクセルペダルを踏み込んで彼の愛車を発進させる。

「それで、これからどうするんですか?」

「今日はもうこんな遅い時間になってしまった事ですし、取り敢えずアディスアベバまで移動してホテルに泊まって休息を取って、本格的にサイモン仁さんの足取りを追うのは明日からにしようと思っててよ? 万丈くんも淑華ちゃんも、異論はあって?」

「いえ、僕はそれで構いません」

「あたしも、別に」

 後部座席に腰を下ろす僕と淑華の二人がそう言うと、助手席のグエン・チ・ホアはにこにこと微笑みながら首を縦に振り、隣に座る運転手に向けて「でしたら運転手さん、事故を起こさない程度に、急いでいただけて?」と言った。そして彼女の要請を了承したらしい運転手が更に深々とアクセルペダルを踏み込めば、やがて僕らを乗せたタクシーは、一棟のホテルの正面玄関前で停車する。

「えっと、ここは?」

 停車したタクシーから降りた僕は、眼の前にそびえ立つ、周囲の他のビルディングと比較しても一際立派と言わざるを得ない造りのホテルの建屋を見上げながらそう言った。

「ここはアディスアベバの街でも有数の高級ホテルとして知られる、ホテルハイエロファント・アディスアベバでしてよ? 実を言いますと、あたしったらハイエロファント・グループのお偉いさん方に顔が利くものですから、世界中のハイエロファント・グループ系列のホテルに無料でもって宿泊出来るのではないかしら? もっとも、大阪には件の会社のホテルが無かったものですから、ビジネスホテルに宿泊する事を余儀無くされましたけれどもね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアがすたすたと軽やかな足取りでもって、ドアマンが開けた正面玄関の扉の向こうへとその姿を消したので、僕と淑華の二人もまた急いで彼女の後を追う。

「こちらの支配人の方に予約をお願いしておりましたグエン・チ・ホアですけれども、お部屋は準備出来ていて?」

かしこまりました、只今確認いたしますので、少々お待ちください。……確かに当ホテルの支配人より、グエン・チ・ホア様とそのお連れの二名様のお部屋をご準備するよう、うけたまわっております。それでは担当の者がすぐに客室までご案内いたしますので、もう少々お待ちください」

 ホテルのフロントで客室の予約の有無を問い質したグエン・チ・ホアに、折り目正しい臙脂えんじ色の制服を着こなしたフロント係のホテルマンは、うやうやしいお辞儀と共にそう言った。そして暫しの間を置いてから、やはり臙脂えんじ色の制服を着こなしたポーターがバードケイジカートでもって僕ら三人の荷物を運びながら、客室が在る階層へと続くエレベーターの方角へと案内してくれる。

「ツインのお部屋はこちら、シングルのお部屋は、廊下を挟んだこちらとなります。どうぞごゆっくり、当ホテルのサービスを心行くまでご堪能ください」

 やがて到着したエレベーターに乗ってホテルの建屋の上層階へと移動し、やはりうやうやしいお辞儀と共にそう言って僕らを客室まで案内し終えると、グエン・チ・ホアに二部屋分のルームキーを手渡したポーターは空になったバードケイジカートと共にその場から立ち去った。

「でしたら大阪のホテルでの部屋割りと同じく、男性である万丈くんはシングルのお部屋で、女性であるあたしと淑華ちゃんはツインのお部屋を利用させていただくって事でよろしいかしら?」

「ええ、僕はそれで構いません」

「あんたみたいな胡散臭い女なんかと一緒に寝泊まりするのは癪に障るけど、まあ、仕方無いんじゃない?」

 昨日の部屋割りを継続しようと言うグエン・チ・ホアの提案に対してそう言って、僕は快諾、淑華もまた渋々ながらも承諾すれば、僕ら三人はたった今取り決めたばかりの部屋割りに従って各自の客室へと足を踏み入れる。

「ああ、もう、すっかり草臥くたびれちゃったよ。どうして自分の足で歩いてる訳でもないのに、移動してるってだけで、こんなに疲れるのかな」

 シングルの客室へと足を踏み入れた僕はそう言って独り言ち、室内に設置された液晶テレビやエアコンやシャワーと言った備品や調度品などの類を一通り検分し終えると、ダブルサイズのベッドの上にごろりと大の字になりながら寝転んだ。

「まさか本当に、こんなエチオピアくんだりまで来る事になるだなんて、一昨日までは想像もしてなかったな……」

 ベッドの上に寝転んだ僕はそう言って尚も独り言ちながら、そっと眼を閉じ、ほんの十数時間前に関西国際空港を飛び立ってから今この瞬間までの出来事を回想し始める。そして瞼の裏に浮かんでは消える旅客機の機内での出来事やチャンギ国際空港のファーストクラスラウンジでの出来事、それにこのホテルに到着するまでのタクシーの車窓から眺めた遠い異国の風景などに想いを馳せている内に、いつしか僕の意識は深い深い眠りの海の底へと沈んで行くのだった。

「はっ!」

 そして次の瞬間、体感時間的にはほんの数分後、夢も見ないような深い深い眠りから目覚めた僕は、さっきまで薄暗かった筈の窓の外がすっかり明るくなってしまっている事に気付いて愕然とする。

「えっ! 嘘っ! 寝てた? 今何時?」

 そう言った僕が上着のポケットから取り出したスマートフォンでもって現在の時刻を確認してみれば、そこには無情にもアディスアベバに到着した日の翌日の午前七時ちょっと過ぎと言う日時が表示されていたので、僕は尚更愕然とせざるを得ない。

「マジかよ……もう朝じゃん……」

 衝撃の事実を前にした僕がそう言ってベッドの上で頭を抱えていると、不意にこんこんと、客室と廊下とを隔てる扉がノックされた。

「万丈くん、もう起きてらして?」

 扉越しにそう言って問い掛けるグエン・チ・ホアの声が耳に届いたので、僕はベッドの上から絨毯敷きの床へと降り立つと、鍵を掛け忘れていた扉を開けて彼女を出迎える。

「何ですか、ホアさん?」

「あら? やはりもう起きてらしたのね? 昨夜はぐっすり眠れたのかしら?」

「それが、その……どうやら僕、気付かない内にご飯も食べずシャワーも浴びないまま寝ちゃってたみたいで……」

「ええ、そうね? 昨夜晩ご飯を食べに誘いに来た際に、あまりに気持ち良さそうにお休みになっていらしたものですから、そのままそっとしておいて差し上げましてよ?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉から察するに、どうやら彼女は、こちらがすっかり寝こけてしまっていた事を重々承知の上で僕を放置していたと言う事らしい。

「ええ? 知ってて放置したんですか? どうして? 起こしてくれればいいのに!」

「何言ってんのよ! 万丈ったら、幾ら声を掛けたって全然起きやしないくらい、ぐうぐういびきを掻きながら爆睡してたんですからね!」

 するとグエン・チ・ホアのすぐ隣に立っていた淑華が一歩前へと進み出るなりそう言って、彼女曰く、起こそうとしても起きなかったと言う僕を悪し様に罵った。

「なんだよ淑華、お前も起こしてくれなかったのかよ!」

 罵られた僕はそう言って落胆し、そもそもの原因はうっかり寝てしまった自分自身の迂闊さに依るとは言え、眼の前の二人の女性に対して若干ながらの怒りの念を抱かざるを得ない。そしてそんな僕が怒りの矛先をどこに向けて良いやら考えあぐねていると、不意に僕の腹の虫が、ぐうと鳴いた。

「あらあら、万丈くんったら、そんなに盛大にお腹が鳴ってしまわれるほど空腹なのかしら? 昨夜は何も召し上がらないまま朝までお休みになられた事ですし、無理も無いのではなくて?」

 やはりくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらグエン・チ・ホアがそう言えば、彼女の眼の前で醜態を晒す結果となってしまった僕はどうにもばつが悪く、自分の腹の虫の正直さ加減に只々恥じ入るばかりである。

「でしたら万丈くん、さっそく今から朝食をいただきに、あたし達と一緒にホテルのレストランまで足を運ばれては如何かしら? それとも朝食の前に、先にシャワーを浴びられて?」

「あ、それじゃあ先に、シャワーを浴びさせてもらえますか? 昨日は服を着たまま、それもジャンパーを着たまま寝ちゃったんで、寝汗でもって身体中がべたべたしてるもんですから」

「あら、そう? でしたらシャワーを浴び終えて準備が整いましたら、あたし達のお部屋までお声掛けに来てくだされば幸いでしてよ?」

「ええ、分かりました」

 そう言った僕はグエン・チ・ホアと淑華の二人をホテルの廊下に残したまま、自分の客室の扉を閉めると、着ている服をおもむろに脱ぎ始めた。そして一糸纏わぬすっぽんぽんの全裸になってからトイレと洗面台が併設されたバスルームへと移動し、熱いシャワーを浴びて、全身にじっとりと纏わり付いた汗と埃と皮脂とを手早く洗い流す。ちなみにバスルームにはお湯を溜められるバスタブもまた存在したものの、今は人を待たせているのだから、悠長に湯浴みを楽しんでいるような暇は無い。

「ふう」

 やがてシャワーを浴び終えた僕は脱ぎ捨ててあった服に急いで着替え直すと、自分の客室を出てからホテルの廊下を渡り、女性陣が宿泊している筈のツインの客室の扉をこんこんとノックした。

「えっと、ホアさん、淑華、お待たせしました」

「あらあら、万丈くんったら、もう準備を整え終えられたのかしら? やはりあたしや淑華ちゃんみたいな女の子と違って、長い髪を乾かす必要の無い男の子は、シャワーを浴びるのも一瞬なのね? でしたらさっそく、階下のレストランまで朝食をいただきに参りましてよ?」

 扉を開けるなりそう言って僕を出迎えたグエン・チ・ホアに先導されながら、客室を後にした彼女と僕と淑華の三人は廊下を渡ってエレベーターに乗り込み、やがてホテルの二階に在る宿泊客専用のレストランへと足を踏み入れる。

「あら? どうやらこのホテルの朝食は、昨夜こちらで夕食をいただいた時とは打って変わって、ビュッフェスタイルを採用しているようね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、僕らが足を踏み入れたレストランの朝食は客が自分の好きな料理を自分で取り分けるビュッフェスタイルを採用しているらしく、店内中央のテーブルの上には既に調理済みの料理や食材が盛られた皿の数々が所狭しと並べられていた。

「でしたらあたしが全員分のお席を確保しておきますから、万丈くんと淑華ちゃんは食べたいお料理を先に選んで、あたしの分も運んで来てもらえるかしら?」

「ええ、分かりました」

 そう言った僕らはそれぞれ作業を分担しながら、僕と淑華は料理や食材の皿が並べられた店内中央のテーブルへと移動し、グエン・チ・ホアは眺めの良い窓辺のテーブル席を確保すべく移動を開始する。

「あら? ねえ万丈、あんた、これって何だか分かる?」

「ん? 何が?」

 淑華に呼び止められた僕はそう言って、彼女が指差すテーブルの上へと関心の眼を向けた。料理や食材の皿が並べられた店内中央のテーブルは大きく二つのセクションに分けられており、片方はフランスパンやソーセージやオムレツやパスタと言ったヨーロッパ風の料理の皿が並び、もう片方のセクションには地元エチオピアの郷土料理らしき料理の皿が並んでいる。そして淑華が指差しているのはその郷土料理の皿の内の一つで、表面にぷつぷつと小さな気泡の様な穴が沢山開いた、まるでクレープにも似た薄く焼かれた小麦か何かの生地が何枚も重ねられていた。

「何だろう? クレープ?」

「でもクレープにしては色が灰色で小麦粉のそれっぽくないし、何だかちょっと、ぶよぶよしてない?」

 確かに怪訝そうな表情と口調でもってそう言った淑華の言葉通り、そのクレープ状の何だか良く分からない物体はまるで使い古した雑巾の様なくすんだ色をしていて、僕が知っているクレープよりも水分の含有率が高くぶよぶよしているようにも見受けられる。

「とにかくここに並べられてるって事は、きっと食べ物には違いないんだろうさ。だから一期一会、もしくは郷に入っては郷に従えって事で、取り敢えず食べるだけ食べてみようよ」

 そう言った僕はすぐ隣で料理を取り分けていたエチオピア人らしき宿泊客の作法に倣って、丸く大きい平皿にそのクレープ状の生地を広げると、その生地の上に、他の皿に盛られていた数種類の野菜や肉のペーストらしき物を盛り付けた。そしてこの何だか良く分からない郷土料理の数々が口に合わなかった際の保険として、食べ慣れたヨーロッパ風のパンやオムレツやパスタなども淑華に取り分けてもらってから、グエン・チ・ホアが待つ窓辺のテーブル席へと移動する。

「お待たせしました」

 僕は僕らの到着を待っていたグエン・チ・ホアに向けてそう言いながら、広壮な宿泊客専用のレストランの店内でも特に眺めの良い窓辺のテーブル席に、淑華と並んで腰を下ろした。

「あら? 万丈くんったら、インジェラとワットにも挑戦してみるつもりなのかしら?」

「え? いんじぇら? わっと? 何ですか、それは?」

 僕がそう言って問い掛ければ、聡明で博識なグエン・チ・ホアは解説してくれる。

「あらあら、万丈くんったら、何も知らないまま召し上がるつもりだったのね? あなたが運んで来てくださったお皿に乗せられている、その薄いクレープの様なパンケーキの一種がインジェラで、そのインジェラの上のペースト状のシチューがワットでしてよ? どちらもここエチオピアの国民食であると同時に、特にインジェラは、あたし達東アジア人にとってのお米にも等しいこの国に住む人々の主食なのではないかしら?」

「へえ、これが主食ねえ」

 僕はそう言って感心しながら、丸い平皿の上に広げられたインジェラの端っこを、指先でもって少しだけ摘まみ上げた。

「それで、これ、どうやって食べるんですか?」

「ええ、そうね? 万丈くんも、インド料理屋さんでお食事を召し上がった事くらいあるでしょう? その時のナンやチャパティとカレーの様に、インジェラを食べ易い大きさに千切ってから、お好きなワットを乗せたり具材を挟んだりしながらお口に運べばよろしいのではなくて?」

「成程、つまり、こうですね?」

 そう言った僕はグエン・チ・ホアの助言に従い、羊か何かの肉のワットを挟んだ一口大のインジェラを口の中へと放り込んでからゆっくり咀嚼すれば、たちまち強烈な味と香りが口腔内に充満する。

「ぶほっ! けほっ! けほっ! けほっ!」

 得も言われぬ強烈な味と香り、特に鼻につんと来るような独特の酸味に耐えかね、僕は思わずせてしまった。

「あらあら、万丈くんったら、大丈夫かしら?」

「ちょっと万丈、大丈夫?」

「何ですかこれ、凄く、酸っぱいです!」

 僕がせ返りながらそう言えば、再びグエン・チ・ホアが解説してくれる。

「そのインジェラはね、テフと言う名のイネ科の穀物を挽いて粉にして、それを水と混ぜて発酵させてから焼き上げたものですのよ? ですからとても酸味が効いていて、アフリカでもここエチオピア以外の国では殆ど食べられていないのですから、万丈くんが食べ慣れていなくても何の不思議も無いのではないかしら?」

 言われてみれば、確かにこの鼻につんと来る独特の酸味は発酵食品特有の、若干の腐敗臭が伴う不快な酸味であると言わざるを得ない。

「ですからさっきあたしが「インジェラとワットにも挑戦してみるつもりなのかしら?」と申し上げました通り、インジェラは、食べ慣れていない方にとってはなかなかの難問でしてよ? もしどうしてもお口に合わないのでしたら、無理せずに、残してしまっても構わないのではないかしら?」

「いえ、残したら勿体無いですから、少なくとも自分で取って来た分は全部食べます!」

 そう言った僕は半ばヤケクソになりながら、ワットを挟んだインジェラを、碌に咀嚼もしないまま無理矢理口へと運んでは飲み込んだ。すると最初は吐き出しそうな程であった腐敗臭にも慣れて来たのか、咀嚼と嚥下を繰り返す度に、インジェラの酸味もそれほど気にならなくなってくる。

「ふう」

 やがて僕は、丸い平皿に盛られていた全てのインジェラとワットを食べ終えると、そう言って一息吐いた。最初はとても人間の食べ物とは思えなかったインジェラも、ニンニクや唐辛子などの辛味の効いたワットと共に食べれば、その独特の酸味もそれほど気にならない。

「あらあら、あのインジェラをたった一人で全て食べ切ってしまわれるだなんて、凄い食欲ね? やっぱり若い男の子はちょっと腕白が過ぎるくらいの方が、元気があってよろしいんじゃないかしら?」

「ちょっと、万丈ったら、大丈夫? 口直しに、何か飲む?」

 グエン・チ・ホアに続いてそう言った淑華が何か飲み物を取って来ようと席を立ちかけたところで、不意に一人の男性が、僕らが腰掛けるテーブル席へと歩み寄る。

「お客様、よろしければ、淹れ立てのコーヒーをお持ちいたしましょうか?」

 僕らが腰掛けるテーブル席へと歩み寄り、立派な造りのサービスワゴンを押しながらそう言った男性は、どうやらこのレストランのコーヒーソムリエ、もしくはバリスタを務めているらしい。

「ええ、お願いしましてよ?」

 そしてグエン・チ・ホアがそう言えば、コーヒーソムリエはうやうやしいお辞儀と共に「かしこまりました」と言って、サービスワゴンの上に乗せられたポットからカップへと淹れ立て熱々のコーヒーを慣れた手付きでもって注ぎ始めた。

「お待たせいたしました。どうぞごゆっくり、お食事をお楽しみください」

 やがてコーヒーが注がれた三つのコーヒーカップが、コーヒーソムリエの手によって僕ら三人の前へと差し出されると、再び聡明で博識なグエン・チ・ホアが蘊蓄を傾ける。

「万丈くんも淑華ちゃんも、お二人ともご存知でして? ここエチオピアは、世界でも有名なアラビカ・コーヒー豆発祥の地でしてよ?」

「発祥の地? つまり、エチオピアが世界で最初にコーヒー豆が生まれた土地って事ですか?」

「ええ、そうね? もっとも現在の様に飲料としてのコーヒーが普及したのは十五世紀前後以降の事ですので、それ以前は豆をそのままかじったり煮込んでスープにしたりと、主に食用として普及していたのですけれどもね?」

「へえ、そうなんですか」

「ふうん」

 そう言って得心した僕と淑華は眼の前に差し出されたコーヒーカップを手に取ると、グエン・チ・ホアと共に、正真正銘本場エチオピアのコーヒーをゆっくり味わいながら飲み下した。苦味は控えめで酸味が強く、たっぷりの砂糖でもって甘味が加味されたコーヒーの爽やかな風味が、慣れぬエチオピア料理にびっくりしている胃と舌に心地良い。

「ふう」

 やがてコーヒーを飲み干して胃と舌をリフレッシュし終えると、僕は腹の底に溜まった澱んだ空気を吐き出しながらそう言って、再び一息吐いた。そして血糖値が上昇した事によって脳細胞にエネルギーが供給されたのか、ふと抱いた疑問について、向かいの席に腰を下ろすグエン・チ・ホアに問い掛ける。

「ところでホアさん、今日は一体、これからどこで何をするつもりなんですか?」

「あら? そう言えば万丈くんは昨夜あの場にいらっしゃらなかったから、ご存知ないのね? 実は昨日、夕食を摂り終えてから再びエルメスと連絡を取り合って、サイモン仁さんのその後の足取りを監視カメラが捉えた映像やホテルや公共交通機関の記録などから洗い出してもらいましたのよ? そしてその結果、彼は現地のガイドの方を雇ってエチオピア国内を移動していた事が判明いたしましたので、今日はこれからそのガイドの方とお会いする予定なのではなくて?」

「成程、そうだったんですね」

 昨夜の成り行きを解説してくれたグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言って再び得心した。

「でしたら万丈くん、それに淑華ちゃんも、朝食を摂り終えましたら九時ちょうどにこのホテルの一階のロビーで件のガイドの方と待ち合わせる予定ですから、それまでにチェックアウトの準備を整えておいてくださるかしら? よろしくて?」

「ええ、分かりました」

 そう言った僕ら三人は残りの朝食、つまりインジェラとワットではなく淑華が運んで来てくれたヨーロッパ風のパンやオムレツやパスタなどを一通り食べ終えると、席を立ってレストランを後にする。

「それでは万丈くん、準備が整いましたら、九時五分前にまたこの廊下でお会いしましょうね?」

 やがてエレベーターに乗って客室が在る階層まで移動すると、ホテルの廊下を歩きながらそう言ったグエン・チ・ホアや淑華と別れた僕は、自分の客室へと足を踏み入れた。そしてチェックアウトの準備、と言っても昨夜は一度も荷物を広げないまま寝てしまったので特に準備する必要も無いのだが、とにかく荷物の有無を一旦点検してから集合時間まで暇を潰す。

「さて、そろそろ行くか」

 そうこうしている内に壁掛け時計の針が九時六分前を指し示したので、そう言って独り言ちた僕は、自分の荷物であるデイパックを背負いながら客室を後にした。すると既に廊下には、ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアとキャスター付きのキャリーケースを転がした淑華が待機しており、僕と合流した彼女らはエレベーターの方角へと足を向ける。

「万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも忘れ物は無いかしら? それでは準備がよろしければ、さっそく出発しましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに先導されながら、僕ら三人は揃ってエレベーターに乗り込み、ホテルの一階へと移動した。そして一階のロビーで待ち続けること十数分後、一人の男性が正面玄関の扉を潜ってホテルの建屋内へと足を踏み入れると、こちらへと歩み寄るなり僕らに声を掛ける。

「ドーモドーモ! あなた様が昨夜、我が社にお仕事を依頼されタ、グエン・チ・ホアさんですネ? お初にお眼に掛かりまス、私、ゲタ・アベベ・セラムと言う者でス! どうゾ、私の事はお気軽にゲタとお呼びくださいまセ! 今日は一日、あなた様のガイド兼通訳としてご奉仕させていただきまス!」

 如何にも現地人らしい褐色の肌に縮れた頭髪の男性は、遅刻した事を謝る間も無いままに、やけに陽気な表情と口調でもってそう言って微笑んだ。そしてゲタ・アベベ・セラムと言う自らの名を名乗ったこの現地人の男性こそが、どうやらグエン・チ・ホアが雇ったガイドらしい。

「初めまして、ゲタさん? お察しの通り、あたしが昨夜あなたの会社にガイドをお願いしました、グエン・チ・ホアでしてよ?」

「ワオ! やはりあなた様がグエンさんでしたカ! 私の眼に狂いはなかったネ! それではグエンさン、本日は誠心誠意ご奉仕させていただきますのデ、どうぞよろしくお願いしまス!」

 ガイドのゲタはそう言いながらグエン・チ・ホアの眼と鼻の先まで歩み寄ると、まるで恋人の手を取るプレイボーイさながらの慣れた手付きでもって、やにわに彼女の手を握り締めた。彼にとっては単なる顧客とのスキンシップのつもりなのかもしれないが、この僕でさえグエン・チ・ホアの柔肌に直接手を触れた事が無いのだから、思わずムッとしてしまうのも致し方無い事である。

「でしたらゲタさん、さっそくで申し訳ありませんけれども、昨日あなたにガイドを依頼された筈のサイモン仁さんの所在について教えていただけて?」

 しかしながらそんな僕の心の内を知ってか知らずか、グエン・チ・ホアはガイドのゲタによってその手を握り締められたまま、泰然自若とした涼しい顔でもってそう言って彼に問い掛けた。

「サイモン仁さんの所在ですカ? えエ、確かに昨日、私は彼のガイド兼通訳を務めましタ! そして昨夜の内ニ、彼は空港から飛行機に乗っテ、次の目的地へと旅立ってしまいましたヨ! だからもしあなた様がサイモン仁さんとお会いしたかったのなラ、もっと早くエチオピアに来るべきだったネ! 残念!」

 あまり残念がっているようには見受けられない表情と口調でもってそう言ったガイドのゲタの言葉が事実だとするならば、どうやらサイモン仁は、既にここエチオピア連邦民主共和国には居ないらしい。

「あら、そうですの? それは確かに、残念ね? それでサイモン仁さんは空港から飛行機に乗って、果たしてどこの国へと旅立たれたのかしら?」

「やはり残念ながラ、それは私モ、存じ上げておりませン! サイモン仁さんが乗ったのがエチオピア航空の飛行機だと言う事は分かっているのですガ、何と言ってもエチオピア航空は世界中に航路を拡大していますかラ、利用した航空会社の社名だけから目的地を推測する事は不可能でス!」

「あらあら、それはやっぱり、返す返すも残念ね? でしたらゲタさん、昨日のサイモン仁さんの足跡を辿るかのような格好でもって、あたし達にも同じルートを案内していただけて? そうすればもしかしたら、彼が一体どこに旅立ったのか、そのヒントに巡り会う事が出来るかもしれなくてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言って具体的な仕事を依頼すれば、この依頼を、ガイドのゲタは快く引き受ける。

かしこまりましタ! それではさっそク、昨日サイモン仁さんを案内した施設の関係者に再訪の許可を得るための電話を掛けますのデ、少々お待ちくださイ!」

 そう言ってグエン・チ・ホアの依頼を快諾したガイドのゲタは一旦僕らから距離を取ると、ダウンジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、どこかの誰かとの通話に勤しみ始めた。そして暫しの間、僕には理解出来ない現地の言葉でもって押し問答を繰り返した後に、やがて通話を終えた彼は再びこちらへと歩み寄る。

「お待たせしましタ! それでは再訪の許可が得られましたのデ、さっそく最初の目的地へと案内させていただきまス!」

「最初の目的地? サイモン仁さんは、昨日、まずどこを訪れられたのかしら?」

「彼は昨日、私と一緒ニ、この国の皇帝陛下に謁見されましタ!」

 やはりガイドのゲタはにこやかに微笑みながらそう言って、やけに陽気な表情と口調でもってグエン・チ・ホアの問い掛けに答えたが、彼の口から飛び出した『皇帝陛下』だとか『謁見』だとか言った仰々しい単語の数々に僕らは尻込みせざるを得ない。

「皇帝陛下に謁見ですって? でもそれって、ちょっと変じゃない? 確かこの国は大統領が統治する連邦共和制国家であって、皇帝が統治する君主制は、とっくの昔に廃止された筈じゃありませんこと?」

 しかしながら彼の返答を訝しんだグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、問い掛けられたガイドのゲタは彼女を称賛する。

「ワーオ! グエンさン、そんな事までご存知だなんテ、あなた様はとても博識な人ですネ! 確かにあなた様の仰る通リ、現在のエチオピアは君主制ではありませン! ですがその一方デ、かつてのソロモン朝エチオピア帝国の皇帝の血筋ハ、今尚絶えてはいないのでス! ですから公式にはエチオピア帝国の最後の皇帝であったハイレ・セラシエ一世の孫であル、ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下が、非公式ながらも現皇帝を名乗っている事もまた事実なのでス!」

「ああ、そう言う事なのね? つまりサイモン仁さんは、その非公式の皇帝であらせられる、ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ陛下なる方に謁見されたと言う事でよろしいのかしら?」

「はイ、その通りでス! ですからこれかラ、あなた様方も皇帝陛下に謁見出来るよう取り計らいましタ!」

 ガイドのゲタはそう言ってグエン・チ・ホアの疑問に答えると、その場でくるりと踵を返し、ホテルの正面玄関の方角へと足を向けた。

「さア、準備が整いましたラ、そろそろ出発しましょウ! ホテルの外ニ、私の車が停めてありまス!」

 手招きしながらそう言ったガイドのゲタの言葉通り、彼に先導されるような格好でもって正面玄関の扉を潜ってみれば、確かにホテルの前を走る大通りに停められた一台のトヨタ社製の乗用車が見て取れる。

「どうぞどうゾ、遠慮無く乗ってくださイ!」

 そう言って乗車を促す彼の言葉に従って、グエン・チ・ホアは乗用車の助手席に、僕と淑華は後部座席に腰を下ろした。そして僕ら三人がシートベルトを締め終えるのを確認すると、運転席に腰を下ろすガイドのゲタは慎重にハンドルを切りながらアクセルペダルを踏み込んで、乗用車をゆっくりと発進させる。

「それでは目的地に到着するまデ、音楽をお楽しみくださイ!」

 ハンドルを握って乗用車を運転しつつ、大通りを南下しながらそう言ったガイドのゲタは、慣れた手付きでもってカーオーディオのスイッチを入れた。すると車載スピーカーから聞き慣れぬアフリカンミュージックが大音量でもって流れ出し、勢い車内はディスコかクラブハウスの様な陽気な音楽が支配する空間へと変貌せざるを得ない。

「♪」

 陽気でありながら力強く、また同時に軽快なビートを刻んで止まないアフリカンミュージックを奏でながら、僕ら四人を乗せたトヨタ社製の乗用車はアディスアベバの街の大通りを南下し続ける。

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