第六幕


 第六幕



 翌朝、必要充分な時間と質の睡眠から目覚めた僕ら三人はビュッフェ形式の朝食を摂り終えると、やがて各自の荷物を手に手にビジネスホテルを後にした。

「でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも準備と覚悟はよろしくて? このまま予定通りに事が推移いたしますと、今日もまた、何かと忙しない一日となるのではないかしら?」

 僕と淑華は彼女が駅前で拾った一台のタクシーの後部座席に肩を並べて乗り込むと、そう言って発破を掛けたグエン・チ・ホアと共に、本日最初の目的地である関西国際空港目指して移動を開始する。

「ホアさん、今更こんな事を聞くのもアレですけど、本当にサイモン仁を追ってエチオピアまで行くつもりなんですか?」

 関西国際空港へと向かう道中、僕はタクシーの車内でそう言って、助手席に腰を下ろすグエン・チ・ホアに改めて問い掛けた。

「ええ、そうね? 昨夜の内に三人分の航空券もネット経由でもって購入済みですし、ここまで来てしまったら、もう後には引けなくてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはくすくすとほくそ笑み、まるで遠足の日の朝を迎えた子供の様にうきうきと心躍らせているとでも言うべきか、とにかくなんだかやけに楽しそうである。

「ところでお二人とも、ちゃんとフォルモサのご両親に旅程の無期限延長をご報告した上で、更なる渡航の許可は得ているのでしょうね?」

「ええ、ちゃんと報告済みですし、許可も得ていますから安心してください! ……とは言え、父と母は呆れ返って、妹の千糸はこれまで以上に怒ってましたけどね」

「あたしも、許可は得ています」

 僕と淑華がグエン・チ・ホアの問い掛けに対して声を揃えてそう言って返答すれば、彼女は「そう、それならよろしくてよ?」と言って小さくうなずいた。そしてそのまま車中で雑談を交わし合いながら移動し続け、やがて小一時間ばかりも経過した後に、僕らを乗せたタクシーは関西国際空港の第一ターミナルビルの正面玄関前へと到着する。

「さあ、急ぎましょ?」

 やはりそう言ってきびきびすたすたと軽快な足取りでもって歩くグエン・チ・ホアに先導されながら、諸々の出国手続きを終えると、僕ら三人は既に到着していたシンガポール航空の旅客機に搭乗した。

「あたし達の座席は、こちらかしら?」

 航空券の記載内容を再確認しながらそう言ったグエン・チ・ホアが、旅客機に搭乗するなり左折し、前後に長い機体の機首の方角へと歩き始めたので僕は驚く。

「え? ちょっと待ってくださいホアさん、もしかしてこの座席って……まさか……」

「ええ、ファーストクラスでしてよ?」

 事も無げにそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、一席毎にゆったりとした充分な空間を確保しながら並べられたその座席は、言わずもがな最も高価で快適なファーストクラスの座席であった。

「あら? もしかして万丈くんったら、ファーストクラスでの移動はこれが初めての経験だったりするのかしら?」

「当然ですよ! 僕らみたいな庶民にとってはファーストクラスどころかビジネスクラスだって高嶺の花ですし、つい半年前に修学旅行でシンガポールに行った時だって、一番安い団体割引きのエコノミークラスだったんですから!」

「あらあら、でしたらせっかく他人様のお金でもって海外旅行が楽しめる絶好の機会なのですから、ここぞとばかりに、ファーストクラスの快適さを心行くまで満喫なさればよろしいんじゃなくて?」

 くすくすとさも愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは、脚を伸ばせるどころか横になって就寝する事も出来るファーストクラスの座席の一つに腰を下ろすと、未だちょっと戸惑っている僕と淑華にも着席を促す。

「さあ、万丈くんも淑華ちゃんも、遠慮なさらずにお掛けになってくださいな? ここ大阪から乗り継ぎのための経由地である、シンガポールのチャンギ国際空港までのおよそ六時間半の空の旅を、一緒に楽しみましょ?」

「はあ……それじゃあ遠慮無く……」

 やはり未だちょっと戸惑いながらも、僕と淑華の二人もまたそう言って、それぞれの座席に恐る恐る腰を下ろした。腰を下ろしたファーストクラスの座席は驚くほど柔らかくふかふかで、その座り心地の良さに心から感嘆し、ついつい自分はセレブの仲間入りを果たしたかのような錯覚に陥らざるを得ない。

「このまま離陸して高度が安定すれば、シャンパンもキャビアも食べ放題でしてよ? 勿論万丈くんと淑華ちゃんは未だ未成年ですからシャンパンは飲めませんけれども、お昼になれば美味しい機内食が提供されますし、それまでは各座席に備え付けられたスクリーンでもって最新の映画でも楽しまれたら如何かしら?」

 まるで機内サービスの詳細を説明する客室乗務員キャビン・アテンダントさながらに、僕と淑華を相手にしながらそう言ったグエン・チ・ホアは、やはり遠足の日の朝を迎えた子供の様にうきうきと心躍らせているかのようにも見受けられた。しかしながら僕らはこれから、遠くアフリカ大陸のエチオピア連邦民主共和国の地まで空き巣であるサイモン仁を問い詰めに行かねばならないのだから、無料で海外旅行を楽しめる絶好の機会だからと言って気を抜く訳にはいかない。

「万丈、ちょっといい?」

 するとその時不意に、こちらへと歩み寄った淑華が蚊の鳴くかのような小さな声でもって耳打ちし、僕に問い掛ける。

「詳しく知らないままこんな所までついて来ちゃったあたしが言うのもアレだけどさ、あのホアって女、一体何者なの? 前々から胡散臭い女だとは思ってたけど、こんなファーストクラスの座席を昨日の今日でタダで用意出来るだなんて、どう考えたって普通の骨董品屋の店主な訳がないじゃない?」

 淑華はそう言って僕に耳打ちしつつ、ちらりと横眼でもって、通路を挟んだ彼女の背後の座席に腰を下ろすグエン・チ・ホアの様子をうかがった。すると渦中の人である筈のグエン・チ・ホアは僕らの密談には気付かぬまま、さっそく靴を脱いで脚を伸ばしながら、革表紙の献立表メニューをぱらぱらとめくって機内サービスのシャンパンの銘柄を吟味する事に余念が無い。

「ねえ、万丈? もしかしてあたし達ったら、ひょっとして、とんでもなくヤバい事件か何かに片足を突っ込んじゃってたりしないよね? このままあの胡散臭い女と一緒に行動し続けて、ホントに大丈夫なの? もうここら辺で、あたし達だけでも手を引いた方が良かったりするんじゃない?」

 用心深くも慎重な性分であるらしい淑華は小声での耳打ちを繰り返し、若干不安げな表情と口調でもってそう言って、グエン・チ・ホアの正体を問い質すべく僕に警告の言葉を発した。

「何言ってんだよ淑華! ホアさんが、そんな、ヤバい事件なんかに関わってる筈が無いだろ!」

 僕もまたそう言って、通路の向こうのグエン・チ・ホアや周囲の他の乗客達には聞こえないような小さな声でもって反論するものの、淑華はそんな僕を重ねて問い詰める。

「ホントにそうかしら? 万丈、あんた、あの胡散臭い女の素性をどこまで詳しく知ってんの? 出身地は本当にベトナム? いつからフォルモサに住んでんの? 年齢は? 家族構成は? なんで航空業界やホテル業界のお偉いさん方に顔が利く筈なのに、あんな裏通りで骨董品屋なんてやってんの?」

「……」

 重ねて問い詰める淑華の言葉に圧倒されながら、僕は唇をキッと真一文字に結んだまま口をつぐみ、一言も言い返す事が出来なかった。そしてまた同時に、この僕ですらもグエン・チ・ホアなる一人の女性の素姓を何一つとして知らないと言う事実に対し、愕然とするばかりである。

「ねえ、どうなの? 万丈、もしかしてあんたも何も知らないの?」

 やはりそう言って問い詰め続ける淑華の言葉に、僕は彼女から眼を逸らしながら、何も言い返す事が出来ない。

「皆様、本日もシンガポール航空623便、シンガポール共和国チャンギ国際空港行きをご利用くださいまして、誠にありがとうございます。当機の機長はジョナサン・リン、客室は私、スーザン・ウォンが担当させていただきます。それでは間も無く滑走路へと移動いたしますので、お席にお掛けになったまま、シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。チャンギ国際空港までの飛行時間は、およそ6時間35分を予定しております。何かご不明の点がございましたら、お気軽に、お近くの乗務員までお声掛けくださると幸いです」

 するとそうこうしている内に、ようやく全ての乗客が搭乗し終えた旅客機の離陸の準備が整ったらしく、そう言った機内アナウンスの女性の声が僕らの耳に届いた。そこで一旦僕を問い詰めるのを止めた淑華は通路を渡り、取って返した彼女の座席にどっかと腰を下ろすと、機内アナウンスに従ってシートベルトを締め直す。

「それでは皆様、快適な空の旅をお楽しみください」

 最後に機内アナウンスを担当するスーザン・ウォンなる客室乗務員キャビン・アテンダントの女性がそう言えば、僕らを乗せたシンガポール航空623便は関西国際空港の滑走路へと移動し、やがてごうごうとジェットエンジンを唸らせながら大地を蹴って離陸した。そして大空へと羽搏はばたいた旅客機の機体が高度10000mに達してから水平飛行へと移行すると、さっそくグエン・チ・ホアは、機内サービスのシャンパンのグラスをここぞとばかりに傾け始める。

「あら? 万丈くんったら、どうかされたのかしら? あたしのお顔に、ゴミか何かでも付いてて?」

 シャンパングラスをすいすいと傾けるグエン・チ・ホアの横顔を、通路越しにちらちらと横眼でもって観察していると、そんな僕の様子に気付いた彼女にそう言って見咎められてしまった。

「あ、いえ、別に何でもないです! 気にしないでください!」

「あら、そう? でしたら万丈くんも遠慮なさらずに、目的地へと到着するまで未だ未だ時間は在るのですから、何かノンアルコールのお飲み物とお菓子でも頼まれたら如何かしら?」

「はい、そうさせてもらいます!」

 グエン・チ・ホアに見咎められてしまった僕は若干挙動不審気味になりつつもそう言って、彼女の追及をかわすと、手に取った機内サービスの献立表メニューに眼を通すフリをしながらその場をやり過ごす。

「考えてみれば、僕はホアさんのプライベートに関する事なんて、何一つ知らないんだよな……」

 まるで自分自身に言い聞かせるかのような口振りでもってそう言って、周囲の乗客達や客室乗務員キャビン・アテンダント達には聞こえないように独り言ちながら、僕は己の無知蒙昧ぶりに呆れ返らざるを得なかった。そしてすっかり意気消沈したまま機内サービスのソフトドリンクを飲むともなしに飲み、眼の前のスクリーンに映し出される映画を観るともなしに観ていれば、やがて僕らを乗せたシンガポール航空の旅客機はチャンギ国際空港へと辿り着く。

「まったくもう、いくら日本からエチオピアまでの直行便が就航されていないからと言ったって、こんな中途半端な待ち時間の乗り継ぎって無いんじゃなくて?」

 滑走路に着陸した旅客機からチャンギ国際空港の第三ターミナルビルの敷地内へと降り立つと、ラタンの旅行鞄を手にしたグエン・チ・ホアは開口一番そう言って、ぷりぷりと遣り場の無い怒りを露にしている様子であった。ちなみに何故彼女が怒っているのかと言えば、これからエチオピア航空の旅客機へと乗り継ぐために、シンガポール共和国最大のハブ空港であるこの地でもって実に三時間も足止めされなければならないからである。

「さて、と。それじゃあホアさん、その乗り継ぎまでの三時間、どうやって暇を潰しますか?」

 グエン・チ・ホアの怒りがある程度鎮静化するのを待ってから、彼女と一緒にここシンガポール共和国の地へと降り立った僕はそう言って、降って湧いた三時間もの閑暇を如何にして過ごすべきか問い掛けた。

「ええ、そうね? もしこれが半日以上も待たされると言うのでしたら、一旦空港の外に出て、ホテルかどこかでもって仮眠を取るのも一計ではないかしら? けれども今のあたし達に与えられたのはほんの三時間ぽっちの中途半端な待ち時間なのですから、うっかり寝過ごして乗り継ぎに遅れてしまわないように、やはり空港の外に出るべきではなくってよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは暫し逡巡した後に、正面玄関の方角ではなく、むしろ空港の最奥の方角へと足を向ける。

「万丈くんと淑華ちゃんさえよろしければ、せっかくファーストクラスの座席を確保出来たのですから、取り敢えずシンガポール航空のファーストクラスラウンジを利用させていただくと言うのは如何かしら? あそこでしたら、一般のお客様が利用されるラウンジと違って、美味しいお酒とお料理も無料で楽しめましてよ? 勿論、あなた方はお酒は飲めませんけれどもね?」

 只飯が食べられると言うのであれば、僕や淑華に、そう言ったグエン・チ・ホアの提案を拒否する理由は無い。

「ええ、そうしましょう!」

「あたしも、まあ、それで構わないけど?」

 僕と淑華がそう言って、彼女の提案に賛同の意を示せば、グエン・チ・ホアは「でしたら、決まりね?」と言うなり軽快な足取りでもって空港内を歩き始めた。そして彼女の背中を追いながら歩き続けること数分後、やがて僕ら三人は、チャンギ国際空港の第三ターミナルビル内に併設されたシンガポール航空のファーストクラスラウンジへと足を踏み入れる。

「どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください」

 うやうやしい会釈と共にそう言ったコンシェルジュに案内されながら、ファーストクラスラウンジへと続く扉を潜った僕と淑華、それにグエン・チ・ホアの三人は、滑走路が見渡せる窓際に整然と並べられたサイドテーブルとオットマン付きのソファに揃って腰を下ろした。腰を下ろすと同時に周囲を見渡すと、広壮なラウンジ内には如何にも裕福そうな十数名ばかりの老若男女が上品な仕草でもって歓談に興じており、本来であればこんなセレブのための空間なんかに足を踏み入れる資格も無い筈の僕なんかはどうにも肩身が狭くて仕方が無い。

「銘柄はお任せいたしますから、シャンパン、もしくは何かさっぱりとした風味の白ワインをいただけて? それからちょっとばかり小腹が空いたものですし、こちらのラウンジで提供なさっているお料理の献立表メニューも、一緒に持って来ていただければ助かりましてよ?」

かしこまりました。少々お待ちください」

 やはりグエン・チ・ホアの要請を承諾したコンシェルジュは恭しい会釈と共にそう言うと、一旦ラウンジの奥のバーカウンターの方角へと姿を消してから、やがてシャンパングラスと献立表メニューを手にしながら再び姿を現した。

「お待たせいたしました」

「ええ、ありがとうございまして?」

 そう言ってコンシェルジュからシャンパンが注がれたシャンパングラスと革表紙の献立表メニューを受け取ったグエン・チ・ホアは、やはりそのシャンパングラスをすいすいと傾けながら、献立表メニューをぱらぱらとめくって何を注文すべきかじっくりと吟味し始める。そう言えば彼女はここまでの道中乗って来た旅客機の機内でもずっとシャンパンを飲んでいた事から逆算するに、一体今日一日だけでもってどれだけの量のアルコールを摂取したのか、考えるだに恐ろしい。

「でしたら万丈くんも淑華ちゃんも遠慮なさらずに、お好きなお飲み物とお料理を召し上がりながら、乗り継ぎの飛行機が到着するまでここで暇を潰しましょ?」

「あ、は、はい!」

 僕はそう言って、僕の右隣のソファに腰を下ろすグエン・チ・ホアから、このファーストクラスラウンジで提供される料理や飲み物の献立表メニューを受け取った。そして彼女に倣って献立表メニューをぱらぱらとめくりながら、何を注文すべきか吟味していると、不意にラウンジの出入り口の方角が騒がしくなる。

「あら、何かしら?」

 訝しみながらそう言ったグエン・チ・ホアや僕が出入り口の方角へと眼を向ければ、その出入り口の扉を潜って、数人の大柄な男達に警護された一人の黒人男性が今まさにラウンジに足を踏み入れる瞬間が見て取れた。

「ん? あれ? あの人って……確か……」

 そう言った僕の記憶が確かならば、その黒人男性は、次期アメリカ合衆国大統領に内定している筈のアンブローズ・トマス・ホンダその人である。

「あらあら、これはまた奇遇とでも申しましょうか、こんな辺鄙な場所に随分と珍しいお客様がお見えになったのではなくて?」

 如何にも興味津々と言った表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアの視線の先で、おそらく要人警護官シークレットサービスであろうと思われる大柄な男達に警護されたアンブローズ次期大統領は、僕らと同じサイドテーブルとオットマン付きのソファの一つに腰を下ろした。そしてソファに浅く腰掛けて背凭せもたれに全体重を預けると、高価そうな革靴に包まれた足をオットマンに乗せたまま、眼前に広がるチャンギ国際空港の滑走路を眺めながらくつろぎ始める。

「ねえ、ちょっと万丈、あれ、次のアメリカの大統領になる人でしょ? なんでそんな超有名人が、こんなシンガポールの空港なんかに居る訳?」

 グエン・チ・ホアが腰を下ろしているのとは反対側の僕の左隣のソファに腰掛けた淑華がそう言って、こちらに顔を寄せながら耳打ちし、そっと小さな声でもって僕に問い掛けた。

「そんな事、僕に聞かれたって知らないよ。とにかくあの人が大統領の偽物やそっくりさんじゃない限り、何らかの理由でもって、ここに居るんだろうさ」

 僕は淑華の問い掛けに対してそう言って返答しながら、彼女と共にアンブローズ次期大統領の様子をちらちらと横眼でもって覗き見るものの、そんな僕らと違って肝の座ったグエン・チ・ホアは大胆な行動に打って出る。

「図らずも次期合衆国大統領とお会い出来るだなんて、折角の機会ですし、ちょっとご挨拶の言葉を交わしに参らせていただきましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはソファから腰を上げると、まるで物怖じする事も無いままに、アンブローズ次期大統領の元へと歩み寄ろうと試みた。しかしながら後ちょっとで彼に語り掛けようとしたところで、すっと音も無く彼女の進路上に立ちはだかった要人警護官シークレットサービスの男達が、その身をもってグエン・チ・ホアの行く手を阻む。

「あら? ねえ、あなた方? お仕事中にこんな事をお願い申し上げるのも心苦しい限りですけれども、ちょっとそこを退いてくださらないものかしら? 実はあたしったら、是非ともそちらのアンブローズさんに、二言三言お話させていただきたい事情と事柄がありましてよ?」

 グエン・チ・ホアはちょっとばかり意味深な表情と口調でもってそう言うが、彼女の眼前に立ちはだかった要人警護官シークレットサービスの男達は無言のまま首を横に振り、暗にグエン・チ・ホアの要求を突っねた。

「あらあら、困ったものね? そこを何とか、ご挨拶だけでもさせてもらえないものかしら?」

 要求を突っねられたグエン・チ・ホアが溜息交じりにそう言って、すっかり困り果ててしまっていると、僕も含めた大方の予想に反して警護される身である筈のアンブローズ次期大統領が彼女に助け舟を出す。

「ああ、キミ達。私なら構わないから、そちらのご婦人をお通ししなさい」

 要人警護官シークレットサービスの男達に警護されながらサイドテーブルとオットマン付きのソファに腰掛けたアンブローズ次期大統領が、低く落ち着いた、それでいて威圧感の全く無い優しく穏やかな声でもってそう言った。

「は? いや、しかしながら次期大統領閣下、それでは保安上の問題が発生する恐れがありまして……」

 すると要人警護官シークレットサービスの男達の内の一人がそう言って警鐘を鳴らすものの、警鐘を鳴らされた当のアンブローズ次期大統領本人は、一向に意に介さない。

「こんな合衆国から遠く離れた友好国の、それもわざわざ空港のファーストクラスラウンジで暗殺を企てるようなテロリストが、どこの世界に存在すると言うのかね? むしろ次期大統領ともあろう者が友好国の国民をないがしろにしたとあっては、誇り高き合衆国の名折れと言うものだ。いいからキミ達、今すぐに、そちらのご婦人をお通ししなさい」

「……分かりました、閣下」

 渋々ながらそう言って命令を了承すると、彼女の行く手を阻んでいた要人警護官シークレットサービスの男達はその場から一歩退き、グエン・チ・ホアに道を空けた。そして彼らの脇をすり抜けてアンブローズ次期大統領が腰を下ろすソファの傍らへと歩み寄った彼女は、初対面である事を意味する挨拶の言葉と共に、自らの名を名乗る。

「初めまして、アンブローズさん? あたしはグエン・チ・ホアと言う名の、アンティーク雑貨を取り扱う一介の古物商でしてね? まずはお近付きの印として、先の大統領選に於けるあなたとあなた方の陣営の勝利を祝福し、お慶び申し上げさせていただいてもよろしいかしら?」

「ありがとうございます、グエンさん。願ってもない事です。ところであなたのお名前とその身を包むアオザイの美しさから推測するに、やはりあなたは、ベトナム出身の方なのですか?」

 サイドテーブルとオットマン付きのソファからおもむろに脚と腰を上げたアンブローズ次期大統領は、やはり優しく穏やかな声でもってそう言って、グエン・チ・ホアと握手を交わし合いながら彼女に問い掛けた。

「ええ、そうね? まさにご明察とでも申し上げましょうか、聡明であらせられるあなたの仰る通り、確かにあたしはアオザイを民族衣装とするベトナムで生まれ育った身でしてよ? けれども今はフォルモサへと移住して幾年月、彼の地で小さなアンティーク雑貨のお店を経営しておりますので、ベトナムは家族と祖先の霊が眠る心の故郷ふるさととでも言ったところかしら?」

「ああ、成程。つまりグエンさん、あなたは出身地こそベトナムではあるものの、今現在は常雨都市として知られるフォルモサにお住まいなのですね? でしたらフォルモサと合衆国との友好の懸け橋として、私個人とあなたとの間にも、是非とも友好的な関係を築き上げたいものですな」

 仕立ての良い三つ揃えのダークスーツと真新しいワイシャツに身を包んだアンブローズ次期大統領が、如何にも人の良さそうな朗らかな笑顔と共にそう言えば、そんな彼にグエン・チ・ホアは問い掛ける。

「ところでアンブローズさん、あなた、本田サイモン仁さんと言う方のお名前に聞き覚えはありまして?」

 不意にグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、問い掛けられたアンブローズ次期大統領の表情が一瞬曇った事を、僕も彼女も見逃さない。

「……本田サイモン仁、ですか……これはまた、随分と懐かしい名前ですな」

「すると、やはり彼の事をご存知で?」

「ええ、ご存知も何も、本田サイモン仁は私の父方の従弟です。勿論従弟とは言いましても私の母の再婚相手の弟の末の息子、つまり私と彼とは血は繋がっていませんので、少なくとも外見上は全く似通ってはおりませんが」

 アンブローズ次期大統領は再びの笑顔と共にそう言って、サイモン仁が彼の血の繋がらない従弟である事をあっさりと認めた上で、今度は返す刀でもってグエン・チ・ホアに問い返す。

「それで、そのサイモン仁がどうかされましたか? グエンさん、あなたは彼と、どのようなご関係で?」

「ええ、実はつい先日、フォルモサのあたしのお店が空き巣の被害に遭ってしまいましてね? それでその空き巣の正体が、どうやらあなたの従弟であるサイモン仁さんらしいのですけれども、あなたは何か彼の今現在の所在についてご存知でして?」

「ほう? するとあなたは私の従弟であるサイモン仁が、あなたの店で空き巣を働いたと仰るのですね? しかしながらそれが事実だったとしても、先程も随分と懐かしい名前だと申し上げました通り、彼と私とはもう何年も顔を合わせてはおりません。ですので如何に従兄弟同士の関係とは言え、サイモン仁の所在については存じ上げかねます。お力になれなくて、誠に申し訳無い」

 彼の発言が嘘かまことかはさて置いて、とにかくアンブローズ次期大統領はそう言って謝罪の言葉を口にしつつも、彼とサイモン仁との直近の関係についてはお茶を濁した。

「あら、そうですの? かつて従兄弟同士であるサイモン仁さんとあなたは、共に『黒人差別をなくす会』の会員として活動されていた仲だとお聞きしたものですから、てっきり今現在も親しくされているものと予想しておりましたのですけれどもね? これってあたしの早とちり、もしくは勘違いかしら?」

「確かにあなたの仰る通り、私はかつて従弟であるサイモン仁と共に『黒人差別をなくす会』に所属しておりましたが、今現在は脱会して関係を断っております。ですから重ね重ね申し訳ありませんが、彼の所在について尋ねられても、お答え出来る事は何もありません」

 そう言って肩を竦めながらかぶりを振ったアンブローズ次期大統領は、溜息交じりに「そう、それは残念ね?」と言って口惜しがるばかりのグエン・チ・ホアに、改めて問い掛ける。

「それにしても、あのサイモン仁が空き巣を働くとは……彼は一体、あなたの店から何を盗んだのですか?」

「ええ、彼があたしのお店から盗もうと試みたのは、これでしてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言いながら、彼女のラタンの旅行鞄の中から硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を取り出せば、アンブローズ次期大統領はその顔に浮かぶ表情を再び曇らせた。

「私の記憶と知識が確かならば、それは『ちびくろサンボ』の絵本ですね? しかも判型と装丁から判断するに、どうやら十九世紀末にイギリスで発刊された原書かそのレプリカだと思われますが、違いますか?」

 アンブローズ次期大統領がそう言って、眼の前に差し出された『ちびくろサンボ』の原書の正体を易々と看破してみせれば、グエン・チ・ホアはそんな彼を褒め称える。

「ええ、そうね? さすがは次期合衆国大統領に選ばれた方だけあって、またしてもご明察とでも申し上げるべき博識ぶりではないかしら? 確かにこれは『ちびくろサンボ』の絵本の、1899年にイギリスのグラント・リチャーズ社から発刊された、鑑定書付きの正真正銘の初版本でしてよ?」

「ああ、やはりそうでしたか。かつて私が所属していた『黒人差別をなくす会』も、そして私の様なアフリカ系アメリカ人も、一時世間を騒がせた『ちびくろサンボ』とは切っても切れない因縁の間柄ですからね」

 曇らせた表情を一瞬でもって掻き消し、如何にも人気商売である政治家らしい朗らかな笑みをその顔に浮かべながら、アンブローズ次期大統領はそう言った。

「切っても切れない因縁の間柄? ねえ、アンブローズさん? それは一体、具体的にはどのような間柄でして?」

 するとグエン・チ・ホアは敢えて無知を装いながらそう言って重ねて問い掛け、ある種の追及の手を緩めない。

「そんな事、今更言うまでもありません。グエンさん、あなたが手にしている『ちびくろサンボ』の絵本には、私達アフリカ系アメリカ人、いてはこの地球上に存在する全ての黒色人種ネグロイドに対する差別的感情を助長しかねない内容が書き連ねられております。ですから歴史的、もしくは文化的な価値を除外するならば、これらの差別的な書物はこの世から抹消されなければなりません。違いますか?」

「あら、果たして本当にそうかしら? だってこの絵本の主人公であるサンボは、あなたが仰るような、アフリカ系の生粋の黒色人種ネグロイドではない筈でしてよ? 違って?」

 アンブローズ次期大統領から同意を求められたグエン・チ・ホアがそう言って、ややもすれば鸚鵡返オウムがえし気味になりながら同意を求め返せば、アンブローズ次期大統領はその顔に浮かぶ表情を三度みたび曇らせた。しかも今回ばかりは、一瞬で掻き消された過去二回の表情の変遷とは異なり、傍目に見ても明らかな程の不快の色を滲ませる。

「ほう? サンボが黒色人種ネグロイドではない? それはまた、初めて耳にする説ですな。でしたらグエンさん、あなたがサンボが黒色人種ネグロイドではないと断ずるその根拠を、是非ともこの私にご教示願えないものでしょうか?」

「ええ、よろしくてよ? でしたら少しばかり長いお話になってしまいますけれども、もう暫くの間、あたしに付き合っていただけて?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、アンブローズ次期大統領は彼の左手首に巻かれた、シンプルな造りながらも如何にも高価そうな腕時計でもって現在の時刻を確認した。

「残念ながら、どうやら今の私には、これ以上ここであなたと歓談に興じるべき時間は残されていないようです。ですから重ね重ね、何重にも申し訳ありませんが、サンボが生粋の黒色人種ネグロイドではないと言うあなたの説を拝聴させていただくのは、また次の機会へと持ち越しましょう」

「あら、それは残念ね?」

 さほど残念がっているようには見受けられない表情と口調でもってグエン・チ・ホアがそう言えば、アンブローズ次期大統領はその身を包む三つ揃えのダークスーツの襟を正してから、ファーストクラスラウンジの出入り口の方角へと足を向ける。

「それではグエンさん、私はこれで、おいとまさせていただきます。興味深いお話を拝聴させていただけました事に対して、感謝の言葉もありません」

「ええ、さようなら? あたしも楽しいお話が出来ました事に満悦し、感謝していましてよ?」

 そう言って互いに別れと感謝の言葉を交わし合うと、やはり要人警護官シークレットサービスの男達に警護されながら、アンブローズ次期大統領はその場から颯爽とした足取りでもって立ち去った。そしてファーストクラスラウンジの出入り口の扉の向こうへと彼が姿を消したのを確認した後に、グエン・チ・ホアは、サイドテーブルの天板上に飲みしのシャンパンが置かれた彼女のソファに腰を下ろす。

「ふう、あたしったら柄にもなく、ほんのちょっとばかり緊張してしまったのではないかしら?」

 ソファに腰を下ろしたグエン・チ・ホアは天を仰ぎながらそう言うものの、少なくとも僕の眼には、彼女がさほど緊張しているようには映らない。

「凄いじゃないですか、ホアさん! あのアメリカの次の大統領になる人と、まるで物怖じせずに、一対一で対等に話し合ってみせるだなんて!」

 彼女のソファの傍らへと歩み寄った僕は興奮気味にそう言って、グエン・チ・ホアの偉業を称えるが、称えられた当の本人はどこ吹く風である。

「あら、そう? いくら次の大統領になる方とは言え、突き詰めて考えれば所詮は一人の人間に過ぎないのですから、そんなに及び腰になる必要は無いのではないかしら? それにむしろ、どちらかと言えば彼を警護していた身体の大きな方々から発せられる無言の重圧の方こそが、他人を物怖じさせる主たる原因ではなくて?」

「はあ……」

 次期アメリカ合衆国大統領を「所詮は一人の人間に過ぎない」と評してはばからないグエン・チ・ホアを前にして、僕はそう言って呆れるやら感嘆するやら、とにかく何と言っていいか分からずに言葉を失った。

「しかもあの方、きっと嘘を吐いていらしてよ?」

「え?」

 すると今度は次期アメリカ合衆国大統領を嘘吐き呼ばわりし始めたグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言って驚きを隠せない。

「だって、そうじゃない? この『ちびくろサンボ』の絵本がアメリカ合衆国や日本で発刊された海賊版の亜種ではなく、1899年にイギリスで発刊された原書である事をいとも容易たやすく見抜いてみせておきながら、サンボインド人説をご存知でないだなんて不自然な事があるものかしら?」

「はあ……えっと……そんなものですか?」

「ええ、そんなものでしてよ? それに人は一つ嘘を吐いたら嘘を吐き続けなければならなくなるものですし、サンボインド人説をご存知でないと言うのが嘘だとするならば、おそらくサイモン仁さんの所在を存じ上げないと言うのもまた真っ赤な嘘なのではないかしら?」

 やはりくすくすと不敵にほくそ笑みながらそう言って、半信半疑の僕を殊更に惑わせたグエン・チ・ホアは、シャンパングラスの底に残っていたシャンパンをぐっと一息でもって飲み干した。そして「これと同じものを、もう一杯いただけて?」と言ってコンシェルジュに追加のシャンパンを注文オーダーすると、彼女にならうよう僕と淑華を促して止まない。

「それでは万丈くんも淑華ちゃんも、先程も申し上げましたけれどもお二人とも遠慮などなさらずに、せっかくのファーストクラスラウンジのサービスの快適さと充実ぶりとを心行くまで存分にご堪能なさい?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、コンシェルジュが持って来た新たなシャンパングラスを受け取ると、その中身もまたすいすいと飲み下す。

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