第五幕


 第五幕



 JR新大阪駅近くのビジネスホテルのフロントで、都合二つのルームキーをフロント係のホテルマンから受け取った僕ら三人はエレベーターに乗り込むと、今夜宿泊すべき客室が在る階層へと移動した。

「万丈くんも淑華ちゃんも、今夜の客室の部屋割りは如何なさいましょうか? やはり男性である万丈くんがシングルのお部屋で、女性であるあたしと淑華ちゃんとがツインのお部屋に宿泊するのが定石かしら?」

 客室の扉の前で足を止めたグエン・チ・ホアはそう言って提案するが、そんな彼女が提案した部屋割りに、僕の隣に立つ淑華は異を唱える。

「はぁ? ちょっとあんた、黙って聞いてやってれば、何勝手な事言ってんの? 言っときますけど、あたし、あんたみたいな胡散臭い女なんかと一緒の部屋で寝泊まりするつもりはありませんからね?」

 眉根を寄せて唇を尖らせながらそう言って、ぷりぷりと怒りを露にした淑華は、どうやらグエン・チ・ホアと同室にはなりたくないらしい。

「あら、そう? でしたら淑華ちゃんがシングルのお部屋で、あたしと万丈くんとが仲良くツインのお部屋を利用させていただきますけれども、それでもよろしくて?」

 そこで同室する事を頑なに拒否されてしまったグエン・チ・ホアがちょっとだけ悪戯っぽい表情と口調でもってそう言って、改めて提案し直せば、勢い淑華の怒りは頂点に達する。

「ば、ばばば、ばか、馬鹿な事言わないでよ! よよよよよりにもよって万丈とあんたなんかが、いい歳した男と女が一つの部屋で二人っきりで寝泊まりするだなんて、そんな破廉恥な行為が許される訳無いじゃない!」

「あらあら、どうやら昨日に引き続いて今日もまた、破廉恥博士の淑華ちゃんによる破廉恥談義の幕が切って落とされてしまわれたみたいね?」

 やはり悪戯っぽい表情と口調でもってそう言って、グエン・チ・ホアはくすくすとほくそ笑みながら、怒りのあまり顔面を真っ赤に紅潮させたまま声を荒らげるばかりの淑華を揶揄からかった。

「ちょっと待ちなさい! 誰が破廉恥博士よ! あんまりふざけた事言ってると、あんたのその似合わない眼帯を引っがして、残った右の眼ん玉もスプーンでもって眼窩から穿ほじくり出してやるんだからね!」

「あらあら、淑華ちゃんったら、そんなにお怒りにならないでいただけて? ねえ、万丈くん? あなたさえよろしければ、破廉恥博士で怒りん坊の淑華ちゃんの魔の手から、あたしとあたしの右眼を守ってくださらないものかしら?」

 グエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言って、まるで人を小馬鹿にしたかのような軽快な足取りでもって僕の背後に身を隠せば、むしろ怒り心頭の淑華の感情の炎に油が注がれるばかりである。

「ちょっとあんた、万丈を盾にしないでよね、この卑怯者の年増女! それに万丈も万丈で、痛い眼に遭わされたくなかったら、さっさとそこを退きなさいよ! それともまさか、万丈ったらこのあたしを差し置いて、そんな胡散臭い女の味方をするつもりなんじゃないでしょうね?」

「いやいやいや、僕が誰の味方をするとかしないとかに関係無く、淑華もホアさんも少しは落ち着いてくださいよ! こんな狭い廊下でそんな大声でもって騒いだら、他のお客さん達やホテルの関係者の人達に迷惑を掛けるばかりじゃないですか!」

 僕がそう言って仲裁すれば、そんな僕を間に挟みながら睨み合っていたグエン・チ・ホアも淑華も、やにわに冷静にならざるを得ない。

「ええ、そうね? 確かに万丈くんの仰る通り、調子に乗って大声を出し過ぎてしまっては、無関係の方々に迷惑を掛けてしまいますものね?」

「まあ……うん……そうかな……そうかも」

 渋々ながらそう言った淑華が振り上げた拳と言う名のほこを収め直し、彼女とグエン・チ・ホアの二人がようやく冷静さを取り戻した瞬間を見計らって、今度は僕が提案する。

「だったら、こうしましょう。大人であるホアさんがシングルの部屋で、未だ子供である僕と淑華がツインの部屋に宿泊するって事で、どうですか? これなら二人とも、文句はありませんよね?」

 いがみ合う二人をなだめるような格好でもってそう言って、僕が提案した部屋割りに対しても、意固地な淑華は納得しない。

「はぁ? あたしと万丈が同じ部屋ですって? ねえ、万丈? あんた、人の話をちゃんと最後まで聞いてた? いい歳した男と女が一つの部屋で二人っきりで寝泊まりするような、そんな破廉恥な行為が許される訳無いって、ついさっきあたしが言ったばかりじゃないの!」

「あらあら、またしても淑華ちゃんの破廉恥博士っぷりと怒りん坊っぷりが、再燃してしまったのではないかしら?」

 するとグエン・チ・ホアが相変わらずくすくすとほくそ笑みながらそう言って、やはり顔面を真っ赤に紅潮させたまま声を荒らげるばかりの淑華を揶揄からかい、僕ら三人が置かれた状況は再び振り出しへと立ち戻ってしまった。

「とにかく、淑華もホアさんも、僕の提案に同意してください! そうでないと、これ以上話が一歩も前に進みませんから! 特に淑華、お前が同意してくれない限り、さっきお前が拒絶した僕とホアさんがツインの部屋に宿泊する事になるんだぞ! それでもいいのか?」

「……」

 僕が提案した部屋割りへの同意を僕自身が重ねて求めれば、淑華はそう言って唇を噛みながら押し黙り、どうやら不本意ながらも同意せざるを得ないとの結論に至ったものと見受けられる。

「それじゃあ、ホアさんがシングルの部屋で、僕と淑華がツインの部屋って事で決まりですね! ホアさん、こっちの部屋のルームキーを渡してくれますか?」

「ええ、どうぞ?」

 ようやく状況が好転してくれた事に安堵するばかりの僕の要請に従い、グエン・チ・ホアがそう言って二つのルームキーの内の一つをこちらへと差し出したので、僕はそれを受け取った。そして「さあ、淑華? お前ももうこれ以上、我儘わがままを言わないでくれよな?」と言いながら扉を解錠すると、その扉を潜ってツインの客室の室内へと足を踏み入れる。

「へえ、結構広くて明るくて、なかなか良い部屋じゃないか。なあ、淑華? お前もそう思うだろ?」

 客室の室内へと足を踏み入れた僕はそう言って、ぐるりとこうべを巡らせて周囲を見渡しながら問い掛けたが、背後に居る筈の淑華からの返事が無い。

「淑華?」

 不審に思った僕がそう言って、彼女の名を口にしながら背後を振り返れば、何故か淑華は客室の扉の前で立ち止まったまま入室を躊躇している様子であった。

「どうしたんだよ淑華、そんな所に突っ立ってないで、早く入ったら?」

「……うん……」

 僕に入室を促された淑華はそう言って覚悟を決めると、ようやく客室の扉を潜って沓摺くつずりの内側へと足を踏み入れたが、そんな彼女は何だかやけに恥ずかしがっているようにも見受けられる。

「それにしたって、日本本土の冬がこんなにも寒いとは思わなかったよ。これがフォルモサだったら真冬のよっぽど冷え込んだ日でもなきゃ暖房なんて必要無いけど、こっちはこんなホテルの中でさえ、がんがんに暖房を効かせまくってるもんな。むしろ暖房が効き過ぎてて、逆に汗が吹き出て来ちゃったくらいだ」

 そう言った僕は効き過ぎた暖房の暑さに耐えかねて、ほんの数時間前にミナミの古着屋で購入したばかりのフェイクムートンのジャンパーのジッパーを下ろすと、それをそのまま客室のベッドの上へと脱ぎ捨てた。

「お前も早く脱げよ、汗掻いただろ?」

「……え? あ、ひゃ、ひゃいっ!」

 何故だか分からないが僕に上着を脱ぐよう促された淑華はそう言って、舌をもつれさせつつも、やはりミナミの古着屋で購入したばかりの羊毛ウールのダッフルコートを脱ぎながら顔面を真っ赤に紅潮させている。そしてちょうど彼女がダッフルコートを脱ぎ終えたところで、不意にこんこんと、ホテルの廊下と客室とを隔てる扉がノックされた。

「はい?」

「万丈くん、淑華ちゃん、ちょっといいかしら? あたしは一旦シャワーを浴びて、長旅で溜まった汗と疲れを洗い流してからホテルの外にお食事に行くつもりですけれども、あなた方お二人もそれでよろしくて?」

 扉越しにそう言って、ホテルの廊下に居る筈のグエン・チ・ホアの声が聞こえて来たので、彼女の提案に対して特に異論は無い僕は返答する。

「そうですか、分かりました。それじゃあ僕らも一旦シャワーを浴びてから、ホアさんに合流します」

「ええ、お願いね?」

 やはり扉越しにそう言ったグエン・チ・ホアの気配が次第に遠ざかり、廊下の向こうの彼女の客室の方角へと消え去るのを確認してから、僕はおもむろに着ている服を脱ぎ始めた。

「淑華、僕が先にシャワーを浴びさせてもらうけど、別に構わないよな?」

 僕がフェイクムートンのジャンパーの下に着ていたタートルネックのニットを脱ぎながらそう言えば、二つ並んだベッドの内の一つの縁にちょこんと腰掛けていた淑華は再び舌がもつれたまま「ひゃ、ひゃいっ!」と言って、その場で飛び上がらんばかりに驚いた様子である。

「ちょちょちょ、ちょっと万丈! あんた、なんで急に脱ぎ始めてんのよ!」

「は? おい淑華、お前、さっきから何言ってんだ? これからシャワーを浴びるんだから、服くらい脱ぐに決まってんだろ?」

「だったら脱ぐにしたって、わざわざこっちの部屋で脱いで行かないで、ちゃんと向こうのバスルームに行ってから脱ぎなさいよ!」

「何だよ、変な奴だな」

 そう言った僕は渋々ながらもホテルのバスルームへと移動し、着ている服を脱いで一糸纏わぬ全裸になってから、ユニットバスのバスタブの中で熱いシャワーを浴びて汗と埃を洗い流した。そして一通りシャワーを浴び終えると、下着であるボクサーパンツ一枚だけを履いた身軽な姿のまま、バスタオルでもって濡れた髪を乾かしながらバスルームを後にする。

「お先に。バスルーム空いたから、淑華、お前もシャワー浴びて来いよ」

 ホテルの客室のバスルームからリビング兼寝室へと移動すると、バスタオルを手にした僕はそう言って、淑華にもシャワーを浴びるよう促した。するとベッドの縁にちょこんと腰掛けていた彼女は、今度は比喩ではなく本当にその場で飛び上がって驚き、やはり顔面を真っ赤に紅潮させながら取り乱す。

「ば、ばばば万丈! ちょっと、あんた、なんて破廉恥な格好してんのよ!」

「え?」

 淑華にたしなめられてしまった僕はそう言って、一旦バスルームへと取って返すと、洗面台の鏡に映る自分の姿を改めて確認し直した。しかしながら唯一の着衣であるボクサーパンツにもどこにも異常は見当たらないし、めつすがめつ再確認を繰り返してみたものの、彼女が言うところの『破廉恥な格好』をしているようには見受けられない。

「何だよ、どこもおかしな格好なんてしてないじゃないか」

 再びバスルームからリビング兼寝室へと移動した僕はそう言うが、そんな僕を、淑華は重ねてたしなめる。

「あんたのそのパンツ一枚しか履いてない破廉恥な格好の、どこがおかしくないって言うのよ! そんな簡単な事も分からないだなんて、万丈の馬鹿!」

 どうやら淑華は、僕のボクサーパンツ姿そのものが気に入らないらしい。

「おいおい、今更僕の下着姿を目撃したからと言ったって、そんなに大袈裟に取り乱す必要も無い筈だろ? こんなの学校での水泳の授業の時の水着姿と大差無いし、そもそも僕とお前は、昔はよく一緒に風呂にも入った仲じゃないか」

「何言ってんのよ、この馬鹿! 水着と下着じゃ意味が全然違うし、そもそもあんたとあたしが一緒にお風呂に入った仲って言ったって、それは小学校低学年の頃までの話じゃないの!」

「まあ、うん、そうだな」

 確かに改めて言われてみれば、僕も同年代の女の子の水着姿と下着姿とでは意味が全然違うと思うし、幼馴染である淑華と一緒に風呂に入っていたのもせいぜい十歳かそこらまでの事であった。

「ああ、もう駄目、これ以上こんなの耐えらんない! 万丈、あんた、出てってよ! 今すぐこの部屋から出てって! 出て行ってってば!」

 怒りと羞恥が入り混じった複雑な表情のままそう言った淑華はベッドの上の枕を引っ掴み、その枕でもって繰り返し何度も何度も下着姿の僕の頭部を激しく殴打しながら、今すぐ客室から出て行けと命じるばかりである。

「痛っ! 淑華、痛い、痛いってば! 分かった、分かったから! すぐにここから出て行くから、まずはその、枕で殴るのをめろ! めてくれ!」

 そう言った僕はボクサーパンツ一丁の下着姿のまま、有無を言わさぬ表情と口調でもって退室を命じる淑華の手によって、客室からホテルの廊下へと叩き出されてしまった。そして僕が叩き出されてしまった次の瞬間、僕の背後で、やはり淑華の手によって客室の扉がばたんと閉められる。

「おい淑華、ちょっと待ってくれ! パンツ一丁でこんな糞寒い廊下に叩き出されたままじゃ、僕、凍え死んじゃいそうなんだけど!」

 ボクサーパンツ一枚だけしか履いていない半裸の僕がそう言って、ホテルの廊下側から客室の扉をどんどんと叩いてみれば、やがてその扉がほんのちょっとだけ開けられた。そして扉とドア枠との隙間から僕の荷物や衣服がこちらに向かって放り投げられたかと思うと、次の瞬間には扉はばたんと閉められて、僕を再び拒絶する。

「おい、淑華! 頼むから部屋に入れてくれよ! 頼むから!」

「駄目! もう無理! あたしはあの胡散臭い女と同室で構わないから、万丈、あんたはあっちのシングルの部屋に泊まってよ!」

 扉越しにそう言った淑華の求むるところによるならば、どうやら彼女は僕を客室から叩き出すと同時に、グエン・チ・ホアとは一緒の部屋で寝泊まりしたくないと言う前言を撤回するつもりらしい。

「ああ、そうか、分かったよ! それじゃあこれからホアさんに、泊まる部屋を僕と交換してくれって頼み込んで来るから、ちょっとそこで待ってろよな!」

 若干やけっぱちになりながらそう言った半裸の僕は、拾い上げた荷物と衣服を小脇に抱えたままホテルの廊下を渡り、やがてグエン・チ・ホアが居る筈の客室の扉の前へと辿り着いた。

「ホアさん、ちょっといいですか?」

 そして客室の扉をこんこんとノックしながらそう言えば、僅かな間を置いてから扉が開き、純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアがその姿を現す。

「あらあら、どなたかと思えば、万丈くんじゃないの? そんな寒そうな格好で、一体何のご用なのかしら?」

「ええ、それがちょっとばかり面倒な事になってしまいましてね? 理由は何だかよく分からないんですけど、急に淑華が僕と一緒じゃ嫌だって駄々をね始めて、こんな格好のまま部屋から叩き出されちゃったんですよ。ですから申し訳ありませんけど、ホアさん、僕と部屋を交換してもらえませんか?」

「あら、そうなの? でしたらすぐに荷物を纏めますから、ちょっとだけ、そこで待っていてくださるかしら?」

 僕の要請を快諾したグエン・チ・ホアはそう言うと、半裸の僕をホテルの廊下に残したまま客室の扉を閉めて、一旦室内へと姿を消した。そして数分後、再び扉が開き、ラタンの旅行鞄を手にした彼女が姿を現す。

「お待たせしちゃったかしら? それじゃあ万丈くんも早く身体を温め直して、風邪を引かない内に着替えた方がよろしくてよ?」

 そう言って忠告しながらグエン・チ・ホアが廊下を渡り、淑華が待つツインの客室の扉の向こうへと姿を消すのを確認してから、半裸の僕は彼女と入れ替わるような格好でもってシングルの客室の室内へと足を踏み入れた。足を踏み入れた室内には微かに甘く爽やかな香りが漂い、どうやらついさっきまでここに居たグエン・チ・ホアが、わざわざフォルモサから持参したお香か何かを焚いていたであろう事が推測される。

「ふう」

 グエン・チ・ホアの忠告に従い、風邪を引かぬ内に服を着た僕はそう言って溜息を吐くと、ベッドの上にごろんと大の字になって寝転んだ。

「フォルモサから海を越えて大阪まで来たと思ったら、今度はよりにもよって、アフリカのエチオピアまで行く事になっちゃったのか……」

 まるで独り言つようにそう言いながら見上げるビジネスホテルの真っ白い天井が、何故だか分からないが妙に現実感が無いとでも表現すべきか、とにかくやけに遠くに存在するように感じられてならない。

「万丈くん、ちょっとよろしくて?」

 やがて半時ばかりの時間が経過した頃、不意にノックの音と共に、そう言って僕の名を呼ぶ大人の女性の声が耳に届いた。そこでベッドから起き上がった僕がホテルの廊下と客室とを隔てる扉を開けると、そこにはグエン・チ・ホアと淑華の二人が立っていて、僕を外出へといざなう。

「ようやくシャワーで濡れた髪を乾かし終えましたので、万丈くんさえよろしければ、そろそろお食事へと出掛けませんこと?」

「ええ、分かりました。それじゃあすぐに準備しますから、ちょっとだけそこで待っててください」

 そう言った僕は一旦客室のリビング兼寝室へと取って返し、タートルネックのニットの上からフェイクムートンのジャンパーを羽織ると、財布やスマートフォンと言った手近な荷物をデニムパンツのポケットに突っ込んでから再び扉を開けた。

「お待たせしました」

「あら? もう準備はよろしくて? でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、お夕飯をいただくには未だちょっと早い気もしますけれども、お店が本格的に混み始める前に出発しましてよ?」

 やはりくすくすとほくそ笑みつつもそう言ったグエン・チ・ホアに先導されるような格好でもって、薄暗いホテルの廊下をぞろぞろと連れ立って歩きながら、僕は隣を歩く淑華に問い掛ける。

「なあ、淑華? なんでお前、さっきは急に、僕と一緒の部屋は嫌だなんて言い出したんだ? 僕、何かお前の気に障るような事でもしたっけか?」

 僕がそう言って問い掛けると、一拍の間を置いてから、怒り心頭に発した淑華が渾身の力でもって僕の尻を思いっ切り蹴り上げた。尻を蹴り上げられた僕は「痛っ!」と言って苦悶の表情を浮かべながら、その場にうずくまる。

「万丈の馬鹿! この鈍感虫!」

 うずくまったままの僕を頭上から睨みつけながら淑華はそう言うが、苦痛に耐え忍ぶばかりの僕には一体何が何だか分からない。

「あらあら、万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも随分と仲がよろしいのね?」

 そしてそんな僕ら二人の姿を横眼でもって観察しながら、そう言ったグエン・チ・ホアは、さも愉快そうにくすくすとほくそ笑み続ける。

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