第四幕


 第四幕



 翌日の正午前、各自の荷物を携えた僕と淑華とグエン・チ・ホアの三人は、正面玄関の扉に臨時休業の札が掲げられた『Hoa's Library』の店舗前に集合した。

「おい、淑華? 何だよお前、その大袈裟な荷物は? 一体何を詰め込んだらそうなるんだ?」

「うるさい、黙れ! 女の子は何かと必要な物の数が多いんですから、いくらあんたが馬鹿みたいに鈍感だからって、そのくらいの事は察しなさいよ! それに、そう言うあんたの方こそ、何でそんなに荷物が少ないの? まさか、日帰り旅行のつもりでいるんじゃないでしょうね?」

 荷物が背中に背負ったデイパック一つきりの僕に向かってそう言って、悪態を吐いた淑華は渡航先で一体何泊するつもりなのか、随分と大きなキャスター付きのキャリーケースを転がしている。

「はいはい、万丈くんも淑華ちゃんも、夫婦喧嘩はまた後にしましょうね? さあ、それでは時間も無い事ですし、そろそろ空港に向けて出発しましてよ?」

 若干呆れ返りながらそう言って僕と淑華をたしなめたグエン・チ・ホアに先導されるような格好でもって、僕ら三人は『Hoa's Library』がテナントとして入居する雑居ビルを後にすると、そのまま骨董街の外れで拾った一台のタクシーに乗り込んだ。そして運転手に告げた第一の目的地、つまりノーザンフォルモサ国際空港目指してタクシーが発車すれば、助手席に腰を下ろしたグエン・チ・ホアは改めて僕と淑華に問い掛ける。

「ところでお二人とも、今更聞くまでも無い事とは思いますけれども、ちゃんとあなた方のご両親から渡航の許可は得て来たのでしょうね?」

「ええ、勿論、その辺は抜かり在りません! ちょっとだけ妹の千糸から「お兄ちゃんだけ日本に行くなんてズルい!」って嫌味を言われましたけど、ちゃんと両親からの許可は得ていますから!」

「当然です。未だ高校生のあたし達が親に黙って外泊するだなんて、許されませんもの」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して、タクシーの後部座席に腰を下ろした僕は胸を張りながら、そして僕の隣に座る淑華は表情一つ変えぬままそう言った。

「そう、でしたらこのまま後顧の憂い無く、フォルモサを発てるのではないかしら? ねえ、運転手さん? あたし達、14時ちょうどに離陸する旅客機に搭乗しなければなりませんので、もう少しだけ急いでいただけて?」

かしこまりました」

 ハンドルを握る壮年の運転手がそう言って、ほんの少しだけアクセルペダルを余計に踏み込めば、やがて国道を北上し続けたタクシーはノーザンフォルモサ国際空港の第一ターミナルビルの正面玄関前へと到着する。

「さあ、急ぎましょ? このままですと、搭乗手続きに間に合わなくなってしまいかねなくってよ?」

 運賃を支払い終えたグエン・チ・ホアは停車したタクシーから降りると同時にそう言って、トランクから下ろした彼女のラタンの旅行鞄を手にしながら、やはり僕ら二人を先導するような格好でもって空港の第一ターミナルビルの建屋の内部へと足を踏み入れた。勿論僕と淑華の二人もまた各自の荷物を背負い、あるいは転がしながら、颯爽とした足取りを崩さぬまま前を歩く彼女の背中を足早に追い掛ける。

「ふう?」

 やがて第一ターミナルビルの二階の出国ロビーで諸々の手続きを終えてから、搭乗ゲートを潜って関西国際空港行きの旅客機に乗り込んだグエン・チ・ホアは、事前に予約してあった彼女の座席に腰を下ろすなりそう言って一息吐きながら天を仰いだ。

「もうちょっとでゲートが閉まってしまうところでしたけれども、どうやら免税店にも立ち寄らずに急いだ甲斐あって、恙無つつがなく搭乗出来たのではないかしら?」

 そう言って安堵するグエン・チ・ホアに、彼女の隣の座席に腰を下ろした僕はおずおずと問い掛ける。

「あの、ホアさん? 本当に僕と淑華の分の飛行機のチケット代もホテルの宿泊費も、ホアさんが肩代わりしてくれるつもりなんですか? 僕らも少しくらいだったら、お金は出せますよ?」

 僕はそう言って問い掛けるが、その程度の事でもって、意外と頑固で意固地な性分であるらしいグエン・チ・ホアの決意は揺らがない。

「あら? 万丈くんったら、あたしの懐具合を心配してくださっているのかしら? でも大丈夫、そんなにお金の事を気に掛けたりなさらずとも、あたしは無一文になって破産したりなんかしませんからね?」

「だけど、ここ、ビジネスクラスですよ?」

 若干裏返った声でもってそう言った僕の言葉通り、僕と淑華、それにグエン・チ・ホアの三人が並んで腰を下ろしているのは狭くて安価なエコノミークラスの座席ではなく、それなりに高価で快適なビジネスクラスの座席であった。

「ええ、そうね? 残念ながらファーストクラスの座席は全て予約で埋まってしまっていたものですから、あなた方お二人には申し訳ありませんけれども、今日のところはここで我慢していてくださるかしら?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアと僕とは、どうにも論点がズレてしまっているように思えてならない。

「そうじゃなくって、チケット代の問題ですよ! こんなビジネスクラスの、決して安くはないチケット代を肩代わりしてもらえるだなんて、僕、聞いてませんから!」

 僕が重ねてそう言って金銭面での懸念を表明すれば、グエン・チ・ホアは悪戯っぽい笑みを絶やさぬまま、全てのからくりを開示する。

「ですからね、万丈くん? もう一度言っておきますけれども、あなたみたいな可愛らしい一介の男子高校生が、そんなにお金の事を気に掛けたりするべきではなくってよ? それにこう見えてもあたしったら航空業界やホテル業界のお偉いさん方に顔が利くものですから、今回の旅行に於けるあたし達三人分の航空機のチケット代もホテルの宿泊費も、全てそれらのお偉いさん方のおごりなのですからね?」

おごり?」

「ええ、そうね? 年末年始の休暇を利用して、お店のスタッフの方々と一緒にちょっと日本まで慰安旅行に行く計画を立てていましてねとお伝えしたところ、どちらのお偉いさん方も喜んで資金を提供してくださってよ? やはりこう言った時のために、普段から顔を広くするように心掛けていますと、何かと都合が良いのではないかしら?」

「えっと、つまりそのお偉いさんに伝えた計画の、一緒に慰安旅行に行くお店のスタッフの方々と言うのが……」

「ええ、そうね? 万丈くん、淑華ちゃん、あなた方お二人の事でしてよ?」

 やはりくすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉によると、どうやら僕ら三人の渡航費用は、どこの誰とも知らぬお金持ちのお偉いさん方の好意でもってまかなわれているらしい。

「さあ、でしたら種明かしを終えましたところで、気兼ね無く日本へと旅立つ事にいたしましょうか?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、彼女と僕と淑華、それにその他大勢の搭乗客達を乗せた旅客機は離陸の準備を終えて滑走路へと移動すると、そのままノーザンフォルモサ国際空港から飛び立った。そしておよそ三時間ばかりのフライトの後に、旅客機は大阪府に在る関西国際空港の滑走路へと着陸し、僕ら三人は日本本土へと無事到着したのである。

「寒っ!」

 離陸時と同じく諸々の手続きを終えてから、関西国際空港の第一ターミナルビルの正面玄関の自動扉を潜った僕はそう言って、戸外の空気のあまりの冷たさにぶるぶるっと肩を震わせた。

「うわっ! 寒っ! 12月の日本って、こんなに寒いの?」

 僕に遅れること数秒後、やはり第一ターミナルビルの正面玄関の自動扉を潜った淑華もまたそう言って、僕と同じくぶるぶるっと肩を震わせながら寒さを訴えざるを得ない。何故なら亜熱帯気候のフォルモサと温暖湿潤気候の日本本土では、冬場の平均気温が10℃から15℃ばかりも違うのだから、南国育ちの僕らが寒さに慣れていないのも無理からぬ事なのである。

「あら? 万丈くんも淑華ちゃんも、そんなに震えてしまうほど寒いのかしら?」

「寒いのかしらって、ホアさんは寒くないんですか?」

 ベトナムの民族衣装である純白のアオザイ一枚しか身に纏っていないにも拘らず、まるで寒さを気にする素振りも見せないグエン・チ・ホアに、僕はそう言って疑義を呈した。

「ええ、そうね? こう見えましてもあたしったら、昔から寒さにも暑さにも一瞬で順応出来る体質でしてよ?」

 アオザイ姿のグエン・チ・ホアはくすくすとほくそ笑みながらそう言うが、彼女と違って僕や淑華はそんな特異体質ではないのだから、寒いものは寒いのである。

「とにかくホアさん、早く大阪の街まで移動して、何か上着を買いましょう! このままだと、僕と淑華は凍え死にます!」

「あらあら、凍え死にますだなんて、万丈くんったら少しばかり大袈裟なのではないかしら? ですけどそんなに寒くて堪らないと言うのでしたら、リムジンバスの到着を待つ時間も惜しい事ですし、タクシーで移動する事にいたしましょうね?」

 やはりラタンの旅行鞄を手にしたままそう言ったグエン・チ・ホアに先導されながら、僕ら三人は関西国際空港の第一ターミナルビル前のタクシー乗り場で拾った一台のタクシーに急いで乗り込むと、暖房が効いた車内でほっと一息吐かざるを得ない。そしておよそ一時間のドライブの後に、運転手に告げた第二の目的地、つまり大阪市中央区の道頓堀川南岸の繁華街の一角で降車した。

「あの、ここは一体、どこなんですか?」

 タクシーから降りた淑華がきょろきょろと周囲を見渡しながらそう言って、若干訝しげな表情と口調でもって問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアはさも嬉しそうに返答する。

「ここは俗に『ミナミ』と呼ばれる、大阪有数の繁華街の一つでしてよ? あたしったら以前から、大阪に来る機会がありましたら是非ともここに立ち寄ってみたかったものですから、思わず感動してしまいますものね? ほら、あそこに見えますのが、阪神タイガースが優勝すると若者が飛び込む事で知られる道頓堀川じゃないかしら? あら、想像していたよりも随分と汚い川ですのね? こんな川に飛び込んだら、大阪の若者は病気になってしまうのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアは道頓堀川に掛かる橋のたもとから川面を覗き込みながら、まるで十代の少女の様に無邪気な表情と口調でもってそう言った。

「それでホアさん、このミナミのどこかに、例のサイモン仁とか言う名前の空き巣が潜伏しているんですか?」

 しかしながら寒さにぶるぶると震えつつもそう言った僕の問い掛けを、無邪気に微笑むばかりのグエン・チ・ホアはいともあっさり否定する。

「いいえ、違いましてよ? ここミナミを訪れましたのは、単にあたしが足を運んでみたかったからに過ぎないのではないかしら?」

「え? ……と言う事は、つまり、この場所とサイモン仁は何の関係も無いって事ですよね?」

「ええ、そうね? 勿論サイモン仁さんが関西国際空港から日本に入国したのは紛れも無い事実ですけれども、それは決して、今尚この地に彼がられると言う事を意味する訳ではなくってよ?」

「はぁ? 何それ? だったらあたし達、とんだ無駄足じゃない!」

 するとそう言ってグエン・チ・ホアの身勝手な行動を咎め立てたのは、キャスター付きのキャリーケースを転がしながら、僕と同じく寒さにぶるぶると震えるばかりの淑華に他ならない。

「あら、そうでもなくってよ? 大阪有数の繁華街の一つであるこのミナミでならば、あなた方お二人の上着を購入すべきお店も簡単に見付かる事でしょうし、長旅で疲れたお身体に休息を与える事も出来るのではないかしら? ほら、ちょうどあそこに、良さげな古着屋が在りましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女が指差す方角には一軒の古着屋の看板が見て取れたので、僕ら三人は通りを行き交う地元民や観光客達の人波を掻き分けながらその古着屋に足を踏み入れた。足を踏み入れた古着屋の店内は暖房が効いていて、暖かい。

「すぐに着るので、このまま袋に入れないで、値札タグだけ外してください」

 種々雑多な古着が陳列された店内を一通り物色した後に、会計を終えたレジでそう言って値札タグを外してもらうと、僕は購入したばかりのフェイクムートンのジャンパーを、淑華は羊毛ウールのダッフルコートをシャツの上から羽織りながら古着屋を後にした。

「どうかしら、お二人とも? もう寒くはないかしら?」

「ええ、これなら暖かいです」

「とりあえず、まあ、何とか」

 購入したばかりのジャンパーとダッフルコートを羽織った僕と淑華がそう言えば、僕ら三人の中で一番薄着である筈のグエン・チ・ホアは「でしたら改めて、そろそろ出発なさいましょうか?」と言うと同時に、まるで寒さを感じていないらしい軽快な足取りでもって歩き始める。

「それで、ホアさん? 今度はどこに行くんですか?」

「ええ、そうね? 実は以前から立ち寄ってみたかったお店があるものですから、お二人とも、もうちょっとだけあたしに付き合ってくださるかしら?」

 なんだか妙に勿体ぶった表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアの背中を追いながら、僕と淑華の二人もまた各自の荷物を手にしつつ、まるで初詣かお盆の縁日さながらの賑わいを見せるミナミの繁華街をぶらぶらとそぞろ歩き始めた。ここ大阪で雨が降る日は年間100日にも満たないので、常雨都市として知られるフォルモサで生まれ育った僕が雨や霧に煙らぬ乾燥し切った街並みに身を置くのは、どうにも不思議で新鮮な体験であると言わざるを得ない。

「そうね、こちらのお店辺りでよろしいんじゃなくて?」

 やがてそう言ったグエン・チ・ホアは、ミナミの繁華街の外れの一軒の店舗の前で、ふと足を止めた。

「ここ?」

 その店舗は『串焼ホルモン とんぼり』と書かれた大きな看板を掲げる、どこにでも在るようなホルモン焼肉屋の一軒であり、まるで吸い込まれるかのような格好でもってグエン・チ・ホアはその店内へと足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ! 何名様でっか?」

 威勢良くそう言ったホルモン焼肉屋の女性のホールスタッフに案内されながら、指を三本立てて「三名ですけれども、座れるかしら?」と言ったグエン・チ・ホアと僕と淑華の三人は、さほど広くもない雑然とした店内の一角の四人掛けのテーブル席の一つへと案内された。

「とりあえず串焼きのホルモンとキモとアブラを六本ずつに、たこ焼きとセンマイ刺しと塩昆布キャベツを一皿ずつ、それに生ビール一つと烏龍茶二つをいただけて?」

「毎度、おおきに!」

 やはり威勢良くそう言った女性スタッフに注文内容を伝え終えると、うきうきと楽しそうに店内の様子を観察するグエン・チ・ホアに、彼女の向かいの席に腰を下ろした僕は問い掛ける。

「えっと、ホアさん? それで、この店は何か、特別な店なんですか?」

「いえ、別に? あたしったら以前から機会をうかがいながら、是非とも本場大阪のホルモン焼きを、現地まで足を運んだ上で食べてみたかったのよね? ですからこのお店はあたしの商売人、そして美食家グルメとしての勘と嗅覚を頼りに選んだのですけれども、きっと美味しいホルモン焼きを食べさせていただけるに違いなくってよ?」

「はあ……」

 どうやら美食家グルメを自認するグエン・チ・ホアは、本当に只単に、美味しい本場大阪名物のホルモン焼きが食べたいがためだけにこの店まで足を運んだらしい。

「お待たせいたしました、こちら生ビールに烏龍茶、センマイ刺しに塩昆布キャベツ、それからホルモンとキモになります。アブラとたこ焼きは今焼いてますんで、もうちょっとだけお待ちください」

 やがて酔客で賑わうホルモン焼肉屋の一角で待つこと数分後、そう言った女性スタッフの手によって、僕らの眼の前のテーブルの天板の上に酒とソフトドリンクのジョッキと料理の皿が並べられた。

「さあ、それでは万丈くんも淑華ちゃんも、ご自分の飲み物のジョッキを手に取られましたら、さっそく冷めない内にいただきましょうね? 乾杯?」

「……乾杯……」

「……」

 並んで腰を下ろした僕と淑華はそう言って半ば呆れ返りながらも、グエン・チ・ホアが手にした生ビールのジョッキと僕ら二人の烏龍茶のジョッキをかちんと打ち鳴らし、そのジョッキに注がれた冷たい烏龍茶をちびちびと控えめに飲み下す。

「あらあら? やっぱりYouTubeで幾度か拝見させていただいた動画から想像していました通り、刺激的なニンニク醤油と唐辛子が効いたタレが程良くお肉の脂に絡んで、なかなか美味しいんじゃないかしら? それに如何にもコッテコテの大阪の方々が好まれる名物料理らしく、コッテリとした濃厚なお味なものですから、ついついビールに手が伸びてしまいましてよ?」

 呆れ返るばかりの僕らとは対照的に、グエン・チ・ホアはその整った顔立ちに満面の笑みを浮かべながらそう言って、ホルモンとキモの串焼きを口へと運びつつ生ビールをぐいぐいと飲み下す手を止めない。

「あら? お二人とも手が止まってらっしゃるみたいですけれども、どうしちゃったのかしら? ここのお勘定は全てあたしが持ちますから、遠慮なんてなさらずに、健康な若者らしくどんどん召し上がってちょうだいな?」

「……はぁ……それじゃあ……遠慮無く……」

 喫食を促された僕はそう言うと、眼の前の皿の上に盛られたホルモンの串焼きの内の一本を手に取り、恐る恐る口へと運んだ。

「あ、美味しい!」

 口へと運んだホルモンの串焼きは、確かにコッテリとした濃厚な味付けながらも咀嚼する毎に牛の内臓を包み込む脂の旨味と甘味がじゅわっと滲み出して口腔内に広がり、思わずそう言って感嘆の声を上げざるを得ない。

「そうね、まあ、ちょっとクドい味だけど、そこそこ美味しいんじゃないの?」

 僕の隣に座る淑華もまた素っ気無くそう言って、渋々認めざるを得ないと言った口振りながらも、手に取ったキモの串焼きをむしゃむしゃと咀嚼している。

「でしょう? 実を言いますとその界隈では有名な『やまき』と言う屋号のお店に足を運んでみたかったのですけれども、さすがに『やまき』が在る西成のドヤ街は、あたし達みたいな他所の土地からやって来たような女子供だけでもって足を踏み入れるには二の足を踏んでしまうじゃない? ですからミナミのこのお店で妥協させていただいたのが本音とは言え、ここもまた、大正解のお店だったんじゃないかしら?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアに促されながら、僕ら三人は各自のジョッキに注がれた生ビールと烏龍茶でもって喉を潤しつつ、大阪名物のホルモンとキモの串焼きを堪能し続けた。

「大変お待たせいたしました、こちらアブラとたこ焼きになります。ご注文の品は、これでお揃いでっか?」

「ええ、全て揃っていましてよ? それともう一杯、生ビールのお代わりをいただけるかしら?」

「おおきに!」

 三度みたび威勢良くそう言って、グエン・チ・ホアの注文を快諾した女性スタッフがテーブルの天板の上に並べた焼き立て熱々のたこ焼きに、僕は箸を伸ばす。

「あ、え、何これ? 無茶苦茶美味しい!」

 本場大阪の激戦区に店を構えるだけの事あって、ここ『串焼ホルモン とんぼり』のたこ焼きもまた、過去に食べたどのたこ焼き屋のたこ焼きよりも格段に美味しかった。

「……悔しいけど、美味しい……」

 勿論僕と一緒に箸を伸ばした淑華もまたそう言って、忌々しげに悔しがってはいるものの、眼の前のたこ焼きの美味しさを認めざるを得ない。

「どうやらお二人とも、あたしが選んだお店を気に入っていただけたようね?」

 そして僕らの向かいの席に腰掛けたグエン・チ・ホアは、そう言いながらくすくすと満足そうにほくそ笑み、まさにしてやったりとでも言いたげである。

「ええ、この店に連れ込まれた時は一体どうなる事かと思いましたが、こんなにも美味しいホルモンとたこ焼きが食べられるんだったら、ホアさんに従った甲斐があったと言うものです!」

 僕はホルモンの串焼きとたこ焼きの美味しさに眼を見張りながらそう言って、つい先程までの、呆れ返らざるを得ないほど下落してしまっていたグエン・チ・ホアに対する評価を改めた。するとおもむろに、彼女はラタンの旅行鞄の中からスマートフォンを取り出すと、それをテーブルの天板の上に置いてから本題を切り出し始める。

「万丈くんも淑華ちゃんも満足してくれたのでしたら、そろそろ作戦会議を再開する事といたしましょうか?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、ハンズフリーのスピーカー通話モードに設定した彼女のスマートフォンの液晶画面をタップした。

「もしもし、そちら、エルメスかしら?」

 コール音が数回繰り返された後に、グエン・チ・ホアがそう言ってスピーカー越しに呼び掛ければ、回線が繋がったスマートフォンの向こうから聞き慣れた若い女性の声が応答する。

「やあ、チ・ホア。待ってたよ」

 今更言うまでもない事ではあるものの、スマートフォン越しにそう言ってグエン・チ・ホアの呼び掛けに応答したのは、遠くフランスの地に居る筈のエルメスその人に他ならない。

「あら、お待たせしてしまったのかしら? でしたら前置きを割愛した上でさっそく本題に入らせていただきますけれども、その後の空き巣、つまりサイモン仁さんとか言う方の足取りは追えまして?」

「ああ、勿論さ! 昨日からずっとリアルタイムで彼の足取りを追っていたところだけれど、サイモン仁は昨夜大阪市内のビジネスホテルで一泊した後に、今ちょうど新世界のカフェでもって、また別の男と面会しているところだね! さすがにカフェの監視カメラにマイクは内蔵されていなかったから、二人の会話の内容までは盗み聞きする事は出来ないけどさ!」

「あらあら、こんな短時間でもってサイモン仁さんの居所を特定してみせるだなんて、エルメスったら素晴らしい成果じゃないかしら? それにあたしが予測しました通り、やっぱり彼は、未だ大阪市内に留まっておられましたのね? でしたらあたし達はこれから新世界へと向かいますので、その二人が面会していると言うカフェの店名と、詳細な所在地を教えていただけて?」

 グエン・チ・ホアがそう言って情報提供を要請すれば、スマートフォンの向こうのエルメスは件のカフェの公式サイトへのリンクが張られたメールを即座に送信し、それを受信した彼女は「でしたらエルメス、状況に進展がありましたら再度ご報告させていただきますので、また後で掛け直しましてよ?」と言って通話を終えた。そして用を為し終えたスマートフォンをラタンの旅行鞄の中へと仕舞い直すと、テーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろすグエン・チ・ホアは改めて、僕ら二人に向き直る。

「つまりそう言った事情ですので、お二人とも、準備はよろしいかしら? 万丈くんも淑華ちゃんも、眼の前のお料理を急いで召し上がり終えましたら、あたしと一緒に新世界へと出発いたしましょうね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに半ば急かされるような格好でもって、僕と淑華、それに当の彼女自身の三人で力を合わせながらテーブルの天板の上の料理の数々を急いで平らげた。そして会計を終えてから退店すると、拾ったタクシーに乗り込み、第三の目的地目指してミナミの繁華街を後にする。

「大至急、出来得る限りの大急ぎでもって、新世界の『珈琲舎 ダンケ』と言うお店まで向かっていただけて?」

 助手席に乗り込んだグエン・チ・ホアがそう言って行き先を告げると、コテコテの関西人らしきタクシーの運転手は大音量のダミ声でもって「大至急でんな? かしこまりましたさかいに、しっかりシートベルトを締めたってや!」と言いながら、アクセルペダルを踏み込んだ。すると僕らを乗せたタクシーは急発進するや否や、そのまま大阪のシンボルの一つでもある通天閣が在る事で有名な新世界を目指しつつ、大阪市内を南下し始める。

「ホアさんは、ちゃんとエルメスさんと、その後も連絡を取り合っていたんですね! それに空き巣のサイモン仁が未だ大阪市内に留まっているであろう事を予測していただなんて、さすがです!」

 疾走するタクシーの車内で僕がそう言って褒め称えれば、グエン・チ・ホアはさも愉快そうに相好を崩すと同時にくすくすと不敵にほくそ笑みながら、彼女を褒め称えた僕を揶揄からかって止まない。

「あらあら、そんな見え透いたお世辞でもってあたしみたいな歳上の女に媚びを売るだなんて、万丈くんったら、将来はホストクラブにでも就職なさるつもりなのかしら? それにサイモン仁さんの居所に関しましても、単に彼が大阪市内のビジネスホテルに宿泊したと言う事実から鑑みて、未だ何かこの地でやり残した事があると予測したまでの事でしてよ?」

「それでも、さすがです!」

 僕はそう言って感嘆と感銘の声を上げ、隣に座る淑華がまるで苦虫を嚙み潰したかのような眼差しでもって忌々しげに僕の横顔を睨み付けている事にも気付かぬまま、何度も繰り返しグエン・チ・ホアを褒め称え続けた。そしておよそ30分後、多少の渋滞に巻き込まれて難儀しながらも、やがて僕ら三人を乗せたタクシーは『珈琲舎 ダンケ』なる看板が掲げられた一軒のカフェの前で停車する。

「ここね?」

 運賃を支払い終え、停車したタクシーから新世界の路上へと降り立ったグエン・チ・ホアが、カフェの看板を見上げながらそう言った。

「ホアさん、エルメスさんからの情報が確かなら、この店にサイモン仁が居る筈なんですね?」

「ええ、そうね? そしてその真偽の程を、今からはっきりさせましてよ?」

 僕の問い掛けに対してそう言って返答したグエン・チ・ホアに先導されながら、歪みガラスが嵌め込まれた扉を潜った僕ら三人が『珈琲舎 ダンケ』の店内へと足を踏み入れれば、高齢で品の良さそうな女性店員が「いらっしゃいませ、何名様ですか?」と言って出迎える。

「三名ですけれども、待ち合わせですので、案内は結構でしてよ?」

 そう言って女性店員の問い掛けをさらりと受け流したグエン・チ・ホアは、きょろきょろと辺りを見渡した。しかしながらそこそこ混み合った店内のどこを探しても、サイモン仁の姿は見当たらない。

「あら、変ねえ? あの空き巣さんったら、一体、どこに行ってしまわれたのかしら?」

 グエン・チ・ホアはラタンの旅行鞄からスマートフォンを取り出し、エルメスからのメールに添付されていたサイモン仁の画像を再度確認するものの、やはり店内に彼の姿は見当たらないのでそう言って小首を傾げる。

「もしもし、エルメスかしら? つい今しがた件のカフェに到着したのですけれども、サイモン仁さんの姿が、どこにも見当たらないのよね? 本当に、彼はこのお店にられるのかしら?」

「もしもし、チ・ホアかい? 今もリアルタイムでカフェの監視カメラをハッキングしているところなんだけど、残念ながら、キミらが到着する10分ほど前にサイモン仁はカフェを出て行ってしまったよ! 惜しい!」

 ラタンの旅行鞄からスマートフォンを取り出したついでに、電話を掛け直したグエン・チ・ホアの疑問に対して、通話相手のエルメスはそう言って返答した。

「あら、そうなの? つまりサイモン仁さんは、ほんの10分ばかりの僅かな時間差でもって、あたし達と行き違いになってしまわれたと言う事なのね? でしたらエルメス、今現在の彼がどこにられるのか、あなたは把握しておいででして?」

 グエン・チ・ホアがそう言ってサイモン仁の所在について問い掛ければ、問い掛けられたエルメスは一瞬口篭もって沈黙し、もごもごと歯切れが悪くなる。

「ああ、うん、その件に関する残念なお知らせなんだけどさ? カフェから出て行ったサイモン仁が大阪メトロ御堂筋線の動物園前駅で電車に乗ったところまでは追跡出来たんだけど、電車の車輛内には監視カメラが設置されていなかったもんだから、うっかり見失っちゃったんだよね?」

「つまり、今現在のサイモン仁さんの居所は、あなたも把握出来ていないと言う事ですのね?」

「……うん、まあ、そう言う事になるかな?」

 ばつが悪そうにそう言ったエルメスの揚げ足を取る、もしくは言葉尻を捉えるような格好でもって、スマートフォンのこちら側の淑華はぷりぷりと怒りを露にしながら文句の一つも垂れざるを得ない。

「ちょっと待ってよ、これって一体、どう言う事なの? こんな辺鄙な場所まで移動させられておいて空き巣を取り逃がすだなんて、やっぱりあたし達、とんだ無駄足を踏まされたって事じゃないの!」

 唇を尖らせながらそう言って不平不満の言葉を口にする淑華に対して、エルメスもまた起死回生の弁解、もしくは釈明の言葉を用意する。

「いや、そんなに悲観しなくても大丈夫! 確かにサイモン仁はうっかり見失っちゃったけど、彼と面会していたもう一人の男は、未だそのカフェの店内に留まってるから! だからそいつを問い詰めれば、ひょっとしたら、サイモン仁の行方も判明するかもしれないよ?」

「でしたらエルメス、そのもう一人の男の方は、今、この店内のどこにられるのかしら?」

「その店の出入り口から一番遠く離れた壁際で窓際の、かどのテーブル席に座っているダウンベストを着たニット帽の人物こそが、その男さ!」

 ハンズフリーのスピーカー通話モードに設定されたスマートフォン越しにエルメスがそう言えば、僕ら三人は、彼女が特定してみせたテーブル席に眼を向けた。するとそこには確かに、ダウンベストを着てニット帽を被った、一人の中年男性が腰掛けているのが見て取れる。

「サイモン仁さんの居所は、あの方がご存知だと判断してもよろしくて?」

「ああ、その通りさ!」

 エルメスがそう言って太鼓判を押したのを最後に、グエン・チ・ホアは彼女のスマートフォンの液晶画面をタップして、通話を終えた。そして僕と淑華の二人を背後に従えながら、かぐわしいコーヒーの香りが充満する『珈琲舎 ダンケ』の店内を縦断し、件のダウンベストとニット帽の男が腰掛けるテーブル席へと歩み寄る。

「こんにちは、それとも、初めましてと申し上げた方がよろしいかしら?」

 壁際で窓際のテーブル席へと歩み寄ったグエン・チ・ホアはそう言って挨拶の言葉を口にしながら、ダウンベストとニット帽の男の向かいの席に、おもむろに腰を下ろした。すると昼下がりのカフェの窓から戸外の景色を眺めるともなしに眺めていた男は、彼女から声を掛けられた事によってようやくグエン・チ・ホアの姿に気付くと、少しばかり驚いたような様子でもって息を呑む。

「……いきなり誰やねん、あんたら?」

 いぶかしげにこちらを睨み付けながらそう言って、突然眼の前に姿を現したグエン・チ・ホアに、ダウンベストとニット帽の男は不躾な関西弁でもってぶっきらぼうに問い掛けた。

「あらあら、そんなに邪険になさらないでいただけて? あたしはグエン・チ・ホアと申しまして、つい数時間前にこの地に足を踏み入れたばかりの、遠くフォルモサの地で骨董店を営む骨董商の一人でしてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言って名を名乗れば、彼女の向かいの席に腰掛けたダウンベストとニット帽の男は眉根を寄せて眼を細めながら、益々をもっていぶかしむ。

「せやったら、そのフォルモサの骨董商のグエンさんとやらが、一体この俺に何の用やねん? 先に言うとくけどな、俺はカビ臭くて辛気臭い骨董品なんぞには、まるで興味は無いで?」

「そこまであからさまに警戒なさらずとも、今日は当店で取り扱っている商品を売り込もうと馳せ参じた訳ではございませんので、どうぞご安心くださるかしら? 実を言いますと、あなたにはサイモン仁さんと言う方の所在についてお尋ねしたいのですけれども、よろしくて?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの問い掛けに、ダウンベストとニット帽の男は眉間に深い縦皺を寄せ、やにわにその身を強張らせた。

「……あんた、あいつとどう言う関係やねんな?」

「そうね、ちょっとした因縁、もしくはとある事件の被害者と加害者の関係とでも言ったところかしら? ですけどその前に、あなたのお名前をお尋ねさせていただいてもよろしくて? ずっと「あなた」とお呼びするのも、何だかやけに他人行儀ですし、不自然ですものね?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、一瞬躊躇した後に、ダウンベストとニット帽の男もまた名を名乗る。

「俺は塩川、塩川肇しおかわはじめっちゅうもんや」

「でしたら塩川さんに改めてお尋ねさせていただきますけれども、ついさっきまでこのお店であなたとご歓談されていた筈のサイモン仁さんは、今、どこにられるのかしら?」

「知るか! あんな奴の事なんか、もう知らん! あんな奴、もう赤の他人や! 今後一切、金輪際何があったかて、二度と関わりたくもないねん!」

 するとダウンベストとニット帽の男こと塩川はそう言って、サイモン仁との関係の継続を否定しながら声を荒らげた。

「あらあら、そんなに興奮なさらないでくださいな? ねえ、塩川さん? 果たしてこのお店でもって、あなたとサイモン仁さんとは、一体どのような案件に関して話し合われていたのかしら? 本来であれば彼の所在についてお尋ねするだけのつもりだったのですけれども、あたしったら、ついついあなた方お二人のご関係についても興味が湧いて来てしまったのよね? ですからよろしければ、その辺りの詳細を、あたしに教えてくださらない?」

 まるでなだすかすかのような表情と口調でもってグエン・チ・ホアがそう言えば、塩川は暫し押し黙ったまま逡巡してから、ゆっくりと口を開く。

「……なあ、あんた『黒人差別をなくす会』って、知ってっか?」

「ええ、勿論、存じ上げておりましてよ? 確か『ちびくろサンボ』の絵本を絶版に追い込んでご覧に入れた、その界隈では知らぬ者の存在し得ない、曰く付きの私設団体だった筈ではないかしら?」

「ああ、まさにその通りや。そして俺とあいつとは、サイモン仁とは、その『黒人差別をなくす会』の元会員同士で友人同士だったっちゅう訳やねん」

 塩川は顔を伏せたままうつむき、沈痛な面持ちでもってそう言った。

「元会員同士だったと言う事でしたら、今現在はあなた方お二人とも、脱会なさったと言う事でして?」

「せやねん。俺らが『黒人差別をなくす会』の会員達と一緒に黒人差別撤廃運動にうつつを抜かしていたのは昔の話であって、今の俺は一介の、善良な大阪市民の一人に過ぎへんねん。せやけどサイモン仁と、あいつの従兄のアンブローズとは、その限りではなかったっちゅう事や」

「アンブローズ?」

 唐突に第三者の、それもどこかで聞いたような名前が話に割り込んで来たので、テーブルの傍らに立つ僕はそう言って鸚鵡返しに問い返した。

「何やねんあんたら、サイモン仁の行方を追っとるくせに、その従兄のアンブローズの事を知らんのか? ほら、最近アメリカさんの大統領選で勝利してすっかり有名人になっとるアンブローズ・トマス・ホンダな、あいつ、実は本田サイモン仁の血の繋がってない従兄やねんで?」

 そう言った塩川から思いがけずもたされた新情報に、僕と淑華の二人は驚きを隠せないものの、意外にもグエン・チ・ホアだけはさほど驚いているようには見受けられない。

「あら、そうですの? でしたらサイモン仁さんとその従兄であるアンブローズさん、それに塩川さん、つまりあなたは、何故なにゆえに『黒人差別をなくす会』から脱会されたのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い質せば、やはり塩川は暫し押し黙ったまま逡巡してから、やがて訥々と語り始める。

「……ご存知の通り『黒人差別をなくす会』の主な活動内容っちゅうんは、世に出回っとる工業製品や出版物から差別的な描写や表現を見つけ出したって、それらを世に送り出しとる企業や個人に執拗に抗議して回収や絶版に追い込む事やったんや。せやけどな、そんな活動を繰り返して行く内に、俺ら一部の会員達は自分らのやっとる事にほんまに意味があるんかどうか疑問を抱き始めてんねん」

「と、仰いますと?」

「俺らがどんだけ差別的な表現を糾弾してからに、それらを世間の眼から遠ざける事に成功しよったかて、そもそも黒人に対する差別や偏見が根本的にこの世から消えて無くなるんかっちゅう疑問や。過去にも『ちびくろサンボ』や『ドリトル先生』を絶版に追い込んだか何だか知らんけど、そんな上辺だけの排斥運動なんぞでもって、差別を生む人の心そのものは変えられへんねん。むしろ臭い物に蓋をして問題を解決した気になっとるのは傍から見よっても滑稽で無様やろうし、ぶっちゃけ『黒人差別をなくす会』の活動は、逆効果とちゃうんか?」

「それで、あなた方は脱会されたのね?」

「せやねん。俺もサイモン仁もアンブローズも、その他数名の会員達と一緒になって脱会してん。そんで俺は、脱会を機に黒人差別撤廃運動から足を洗ってんけど、サイモン仁の奴はちごてんねん」

「違う? あなたと同じように『黒人差別をなくす会』を見限って、活動から足を洗われたのではなくて?」

「ちゃうねん。むしろあいつらは、サイモン仁らは仲間内で内ゲバを繰り返して先鋭化しよってからに、より一層過激な黒人至上主義に傾倒し始めててん」

 顔を伏せて俯いたままそう言った塩川は、沈痛な面持ちを維持しつつ、深い深い溜息を吐きながらかぶりを振った。

「黒人至上主義ですって? それはまた、随分と不穏な響きの主義主張なのではないかしら?」

「せやねん。あいつらは黒人の地位向上のためなら如何なる手段も、暴力も含めたあらゆる不法行為もいとわない危険な集団と化しとるよってに、俺はもうあいつらとは関わらんと決めてんねん。せやけど昨日の夜、久し振りにサイモン仁の奴から電話が掛かって来よったけん、てっきりあいつも更生したのかと思ってついついこの店まで足を運んでもうて……」

「ところがサイモン仁さんは、更生なんてされていなかったと言う訳ね?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、問い掛けられた塩川は無言のまま首を縦に振って彼女の言葉を肯定した上で、この店で一体何が話し合われたのかについて語り始める。

「サイモン仁の奴はこの俺に、近々自分ら黒人至上主義者が永年練り上げ続けた計画を実行に移すけん、それを自分らと一緒に眺めの良い高みから見物しないかと誘って来よったんや。何でも世界の構造が大きく様変わりするような歴史的な大変革とやらが、とうとう成就されるべき時が到来したんだか何だとか抜かしおってからに、興奮を隠し切れへん様子やったんが矢鱈と気色悪くってかなわんかったわ」

「黒人至上主義者が永年練り上げ続けた計画? 世界の構造が大きく様変わりするような歴史的な大変革? ねえ、塩川さん? それらは一体、具体的には何を意味する言葉なのかしら?」

「残念やねんけど、それは分からへんねん。その詳細をあいつが説明する前に、俺が怒って、あいつを追い払ってしまいよってん」

 塩川はそう言いながら、再びかぶりを振った。

「成程ねえ、それでサイモン仁さんはあなたをこのお店に残したまま出て行ってしまわれて、今現在の行方は分からないと言う訳ね?」

「ああ、そう言う事やねんな。……さて、これで俺が知りよる事はほぼほぼ話し終えてんけど、今度はあんたらがあいつと、サイモン仁の奴とどんな関係なのか、それを教えてくれへんか?」

 一息吐いた塩川がそう言って情報の提供を要求すれば、グエン・チ・ホアはその要求に応える事にやぶさかでない。

「実を言いますと、先日フォルモサのあたしのお店が空き巣の被害に遭ってしまいましてね? それで監視カメラに残されていた画像を解析しました結果、その空き巣の正体こそが、サイモン仁さんだったと言う次第でしてよ?」

「空き巣? よりにもよって、サイモン仁の奴が? それで、あんた、あいつに何を盗まれよってん?」

「ところが空き巣に身をやつしたサイモン仁さんったら、あたしの大事なお店を荒らすだけ荒らして行っただけで、何も盗み出しては行かれなかったのよね? ですけどどうやら彼があたしのお店から盗み出したかったのは、この本みたいでしてよ?」

 ラタンの旅行鞄の中から硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を取り出し、それをテーブルの天板の上に置きながら、グエン・チ・ホアはそう言った。

「これは?」

「あら、ご存知なくて? あなた方『黒人差別をなくす会』がかつて絶版にまで追い込んだ、あの有名な『ちびくろサンボ』の、1899年にイギリスのグラント・リチャーズ社から発刊された貴重な原書の内の一冊でしてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、塩川は眼の前のテーブルの天板の上に置かれた原書をじろじろと興味深げに睨め回しながら、随分と驚いた様子である。

「へえ、これが『ちびくろサンボ』の原書なんか。岩波書店の『ちびくろサンボ』は何度も何度も、それこそ穴が開くほど読み返しよったけど、原書がこんな小さな本やっちゅうんは知らんかったな」

「あら、そうですの? それでね、塩川さん? あたしは空き巣を働いたサイモン仁さんを、何故犯罪に手を染めてまでこの原書を手に入れたがったのかを問い詰めてやろうかと思いまして、彼の足取りを追ってここ大阪の地まで馳せ参じた次第と言う訳でしてよ?」

「ああ、成程な。それであんたはこの俺から、あいつの所在を聞き出そうとしたっちゅう訳やな? せやけど申し訳無い事に、俺もあいつが、サイモン仁の奴が今どこにんのかは知らへんねん。ほんま、堪忍な」

 その言葉尻とは裏腹に、塩川はさほど申し訳無いとは思っていないような、あっけらかんとした表情と口調でもってそう言った。そしてグエン・チ・ホアもまた、そんな塩川の言葉に嘘偽りは無いものと判断したらしい。

「でしたらもうこれ以上、今この場であなたにお尋ねすべき懸念材料は無さそうね? 塩川さん、あなたの貴重なお時間を頂戴しました事に対して、感謝とお詫びの言葉を述べさせていただきましてよ? それではあたし達はこれでおいとまさせていただきますので、引き続き、午後の優雅なティータイムをお楽しみくださるかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは『ちびくろサンボ』の原書をラタンの旅行鞄の中へと仕舞い直すと、塩川の向かいのテーブル席からおもむろに腰を上げた。そして最後の別れ際に「ご機嫌よう、塩川さん? あなたの前途に幸多からん事を、お祈りさせていただきましてよ?」と言い残してからくるりと踵を返し、僕と淑華を背後に従えながら、そのまま『珈琲舎 ダンケ』の出入り口の方角へと足を向ける。

「あ、そうだ」

 前を歩くグエン・チ・ホアの背中を追うような格好でもってカフェから出て行こうとしていた僕は、ふと思い立つと、そう言って再び踵を返した。そしてテーブル席に腰を下ろしたままの塩川の元へと歩み寄ると、彼にそっと耳打ちする。

「知ってますか? 実は『ちびくろサンボ』のサンボって、黒人じゃないんですよ?」

 僕がそう言って耳打ちすれば、耳打ちされた塩川はニット帽の下のその顔にきょとんとした表情を浮かべ、ひどく驚いている様子であった。そしてつい先日覚えたばかりの蘊蓄を披露し終えた僕は三度みたび踵を返すと、さっさと『珈琲舎 ダンケ』の出入り口の扉を潜って退店する。

「さて、と? これから一体、どうしたものかしら?」

 扉を潜って『珈琲舎 ダンケ』から退店してみれば、先に退店していたグエン・チ・ホアが淑華と共に店先に佇んだまま、小首を傾げて考えあぐねながらそう言った。すると次の瞬間、不意に彼女のラタンの旅行鞄の中に仕舞われていたスマートフォンが、軽快な着信音を奏で始める。

「もしもし?」

「ああ、もしもし、チ・ホアかい? 僕だよ、エルメスだよ!」

 果たしてスマートフォン越しにそう言って自らの名を名乗った通話相手こそ、敢えて説明するならば、遠くフランスの地に居る筈のエルメスその人であった。

「あら、エルメス? あなたの方からこうしてわざわざ電話を掛けて来てくれたと言う事は、何かしら状況に進展があったのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、どうやら大麻とアルコールの過剰摂取でもって若干ラリってしまっているらしきエルメスは、妙なテンションを維持したまま意気揚々と返答する。

「ああ、その通りさ! 実はあれからサイモン仁が所有する彼名義のクレジットカードの使用履歴を追跡していたんだけど、つい今しがた、そのサイモン仁が新たな航空券をネット経由でもって購入した事が明らかになったよ!」

「航空券? それは一体、どこからどこへと向かう旅客機の航空券なのかしら?」

「それがね、チ・ホア、聞いて驚けよ? その旅客機の出発地点は日本の大阪府の関西国際空港だけど、何と最終的な目的地は、アフリカ大陸のエチオピアさ!」

「エチオピアですって?」

 あまりにも予想外の国名に、さすがのグエン・チ・ホアもそう言って、驚かざるを得ない。

「そう、エチオピア! 正確には、エチオピア連邦民主共和国! 東アフリカに位置する連邦共和制国家で、アフリカ大陸最古の独立国家さ!」

 スマートフォン越しにそう言ったエルメスはやけに興奮し、大麻とアルコールの過剰摂取でもってラリってしまっている分を差し引いたとしても、何故だか妙に楽しそうであった。

「生粋の日本人である筈のサイモン仁さんが、せっかく日本に帰って来られたばかりだと言うのに、どうして今度はエチオピアなんて遠い国まで旅立とうとしてらっしゃるのかしら? ねえ、エルメス? あなた何か、サイモン仁さんの不可解な行動に関して思い当たる節はあって?」

「いいや、さっぱりだね! わざわざキミの店で空き巣を働くような奴が何を考えているのかなんて、常識人であるこの僕に分かる筈が無いだろう?」

 彼女が常識人かどうかはさておいて、サイモン仁が何を考えているのか分からないと主張したエルメスの言い分は、至極尤しごくもっともである。

「でしたらエルメス、今から急ぎましたら、関西国際空港でもって離陸前のサイモン仁さんを捉える事が出来るのかしら?」

「残念ながら、それはちょっと無理かな? チ・ホア、今キミ達は、未だ大阪市内の新世界の辺りに居るんだろ? だったら電車でもタクシーでも関西国際空港までは一時間ほど掛かるだろうし、その頃にはもう、サイモン仁を乗せた旅客機は遠くエチオピア目指して旅立ってしまっている筈だからね!」

 スマートフォンの向こうのエルメスはそう言って、エチオピア連邦民主共和国へと旅立つ前に、サイモン仁を捉える事が出来るのだろうかと言うグエン・チ・ホアの問い掛けに対して返答した。

「そう、それは確かに残念ね? でしたら今日のところはこちらで一泊しまして、サイモン仁さんの所在を突き止めるのは、また明日以降に持ち越しましてよ?」

「だったらまた何か、状況に進展があったらこちらから連絡するよ! それじゃあチ・ホア、また明日!」

「ええ、そうね? でしたらまた明日以降も連絡を取り合うとして、引き続き情報の収集をお願いしましてよ、エルメス?」

 最後にそう言ったグエン・チ・ホアはスマートフォンの液晶画面をタップして通話を終えると、そのスマートフォンをラタンの旅行鞄の中へと仕舞い直してから、彼女の発言に耳を傾けていた僕と淑華の方へと向き直る。

「そう言った訳でして、今夜はここ大阪市内でもって、一泊する事と相なってしまったのよね? 万丈くんも淑華ちゃんも、お二人ともあたしと一緒に、今夜のお宿を探してくださるかしら?」

「え? 今夜の宿? 今回の旅は、日帰りの筈じゃないんですか?」

「はぁ? ここで一泊する事と相なってですって? 日本に来たらさっさと空き巣を問い詰めて、すぐにでもフォルモサに帰る筈じゃなかったの?」

 僕と淑華の二人がそう言って疑義を呈するものの、意外と負けず嫌いであるらしきグエン・チ・ホアは、このままおめおめと引き下がってフォルモサへと逃げ帰るつもりは無いらしい。

「ええ、そうね? あなた方お二人には申し訳ありませんけれども、もうほんのちょっとだけ、あたしの我儘わがままに付き合ってはいただけないものかしら?」

 生憎ながら僕も淑華も、彼女をこの場に置き去りにしたままとっととフォルモサへと帰還してしまうほど薄情ではないので、そう言って懇願するグエン・チ・ホアの我儘わがままに付き合ってあげる以外の選択肢はあり得なかった。そこで僕ら三人は各々手分けしながらネットで検索し、JR新大阪駅近くのそこそこ安くて小奇麗なビジネスホテルの一つに狙いを定めると、三度みたび拾ったタクシーでもってそのホテルの正面玄関前へと乗り付ける。

「明日までの予定で三名で一泊したいのですけれども、シングルのお部屋を一つとツインのお部屋を一つ、お願い出来て?」

 タクシーでもって乗り付けたビジネスホテルのロビーへと足を踏み入れると、先頭に立つグエン・チ・ホアはそう言って、フロント係のホテルマンに問い掛けた。

かしこまりました、すぐにお部屋をご用意いたします」

 うやうやしいお辞儀と共に僕ら三人を出迎えたフロント係のホテルマンは、手元のタブレットの液晶画面をタップしながらそう言って、宿泊可能な客室の有無を確認し始める。

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