第三幕


 第三幕



 やがて僕ら三人を乗せたタクシーは、昨夜未明にマスクとサングラスの男を乗せたタクシーと同じく、美麗島大飯店の玄関先で停車した。

「ここね?」

 停車したタクシーから降りるなりそう言ったグエン・チ・ホアが見上げる美麗島大飯店の建屋は、高層ビルディングとしてはフォルモサでも有数の規模を誇り、各国要人なども宿泊する高級ホテルの一つである。

「ホアさん、改めて確認しますけど、本当に空き巣を問い詰めに行く気なんですか?」

「ええ、勿論でしてよ? あたしったらこう見えましても、一度決めた事は、最後までやり抜かないと気が済まない性分なものですからね?」

 グエン・チ・ホアは空き巣が待ち構えている筈のホテルを前にしても、まるで臆する事無く息巻き、僕の問い掛けに対してくすくすとほくそ笑みながらそう言った。どうやら有言実行を旨とするらしき彼女は、最早如何なる言葉をもってしても、引き留める事は不可能な状況であると思われる。

「さあ、万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも覚悟はよろしくって?」

 意気揚々とそう言ったグエン・チ・ホアは、自ら先陣を切るような格好でもって、正面玄関の回転扉を潜って美麗島大飯店のロビー兼エントランスへと足を踏み入れた。そして僕と淑華の二人が少し遅れて彼女の背中を追い掛ければ、既にグエン・チ・ホアはロビーの奥のエレベーターホールで立ち止まり、客室が在る階層へと続くエレベーターの到着を待ち侘びている。

「タクシーの中でエルメスから教えていただいた情報によりますと、空き巣が宿泊する客室は、確か1009号室の筈でしてよ?」

 そうこうしている内に到着したエレベーターの籠に乗り込み、扉が閉まると同時に上昇し始めたその籠の中でもって、グエン・チ・ホアはまるで独り言つようにそう言って空き巣の所在を再確認した。そして件の客室が在るべきホテルの10階へと籠が到着すると、僕ら三人はぞろぞろと連れ立ってエレベーターから廊下へと降り立ち、そのまま廊下の最奥の1009号室目指して歩き続ける。

「いよいよと言いましょうか遂にと言いましょうか、とうとうこれが、世紀のご対面とでも言うべき瞬間じゃないかしら?」

 やがて薄暗い間接照明に照らし出されたホテルの廊下を颯爽とした足取りでもって渡り切り、固く閉ざされた1009号室の扉の前で足を止めたグエン・チ・ホアは、やはり独り言つようにそう言いながら扉のノブに手を掛けた。

「お邪魔させていただきましてよ?」

 そう言って入室を宣言したグエン・チ・ホアが、ノックもせぬまま勢い良く扉を開けて客室内へと足を踏み入れたので、僕と淑華の二人もまた彼女の後に続く。

「あら?」

 しかしながら僕ら三人が揃って足を踏み入れた美麗島大飯店の1009号室の客室内は、そこに居る筈だった空き巣どころか猫の子一匹さえ存在し得ないような、まさに古典的な喩えで言うところのもぬけの殻とでも表現すべき様相を呈していた。

「変ねえ? あのマスクとサングラスのお客様は、一体全体、どこに行ってしまわれたのかしら?」

 不思議そうに小首を傾げながらそう言ったグエン・チ・ホアと共に無人の客室内を探索するものの、リビングルームにもベッドルームにもそれらしき人影は見当たらず、タイル敷きの床が僅かに濡れたバスルームもまたもぬけの殻である。

「いくらホテルに泊まっているからと言ったって、ずっと客室に引き篭もっているって訳でもないんですから、どこか外の店にでも晩ご飯か何かを食べに出て行ったんじゃないですか?」

 客室内をぐるりと一周した僕はそう言って有り得べき可能性の一つを示唆するが、グエン・チ・ホアは納得しない。

「あら、果たして本当にそうかしら? もし仮に万丈くんの仰る通り、只単にお食事に出掛けただけでしたら大きく嵩張かさばる荷物などは部屋に残して行かれても良さそうなものですけれども、ざっと辺りを見渡したところ、彼の荷物と思しき遺留品の類は見当たりませんものね?」

 まるで説き伏せるかのような表情と口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、確かに1009号室の客室内には、マスクとサングラスの男の所持品などは一切遺されてはいなかった。

「ああ、成程。そう言われてみれば、確かにそうですね」

「でしょう?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの指摘にきょろきょろと辺りを見渡せば、がらんとした客室のリビングルームの壁沿いの一角に設置されたテレビの液晶画面に、不意に僕の眼が留まる。

「でもホアさん、テレビは点けっ放しですよ?」

「ええ、そうね? お部屋を留守にするのにテレビを消して行かないだなんて、あのお客様ったら、随分とお行儀が悪くていらっしゃるんじゃないかしら?」

 そう言って呆れ返るばかりのグエン・チ・ホアと僕の視線の先では、電源を落とされぬまま点けっ放しになったテレビの液晶画面上に、夕方のニュース番組のトップニュースの原稿を読み上げるニュースキャスターの姿が映し出されていた。

「……年明け早々にワシントンD.C.での就任式を控えたアンブローズ・トマス・ホンダ次期合衆国大統領は、就任直前の年末に祖先が奴隷として捕らえられた地と推測されるエチオピア連邦民主共和国の首都アディスアベバを表敬訪問する計画を立てており、この表敬訪問によってアフリカ系アメリカ人としての彼のルーツを国内外のマスメディアに誇示する狙いがあるものと……」

 テレビの液晶画面上ではそう言って原稿を読み上げ続けるニュースキャスターの声に重ねて、仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包むアンブローズ・トマス・ホンダ次期合衆国大統領の姿と、彼が表敬訪問すると言うエチオピア連邦民主共和国の国旗が画面一杯に映し出される。

「何だかここ最近は、どこのテレビ局のどの番組にチャンネルを合わせてみましても、このアンブローズさんとか仰る方の話題ばかりじゃないかしら? あたしったら、もう、いい加減に飽き飽きして来ちゃったところでしてよ?」

 次期合衆国大統領の姿を映し出す液晶画面に眼を向けながら、グエン・チ・ホアは半ばうんざりするかのような表情と口調でもってそう言ってかぶりを振り、深い深い溜息を吐いてみせた。そして世間の流行り廃りに疎い性分の僕はあまり良く知らないが、確かに今年の春から秋に掛けての全米初の直接選挙による大統領選からこっち、テレビやラジオや新聞と言ったマスメディアがアンブローズ・トマス・ホンダの名を報じない日は無いのもまた事実であるらしい。

「ちょっと、あんた達! あたしにばっかり空き巣を探させておいて、さっきから二人で何やってんのよ!」

 すると1009号室のリビングルームに姿を現した淑華が不服そうに唇を尖らせながらそう言って、僕とグエン・チ・ホアの探索の手が止まっている事を見咎めるが、僕はそんな淑華に問い掛ける。

「なあ、淑華? 今ここに映ってるアンブローズって人がどこの誰なのか、お前、知ってるか?」

「はぁ? 万丈ったら、何言ってんの? こんな毎日毎日朝から晩までテレビで引っ張り凧の有名人の事を知らないような間抜けな物識ものしらずが、この世に居る筈が無いじゃない! 馬鹿にしないでよ!」

 さも当然とでも言いたげな表情と口調でもってそう言い切った淑華の言葉によると、どうやらつい最近までアンブローズ・トマス・ホンダ次期合衆国大統領の顔も名前も知らなかった僕は、この世に居る筈が無い程の間抜けの物識ものしらずであるらしい。

「それで、そのアンブローズ次期大統領が、どうかしたの?」

「いや、何でもないんだ。お前がこの人の事を知っているのなら、別にそれ以上、聞きたい事は無いからさ」

「?」

 彼女の問い掛けに対する返答をはぐらかした僕の姿に、淑華は無言のまま小首を傾げながら、頭の上に見えない疑問符を浮かべるばかりである。

「どうやらこれ以上ここに居たとしましても、何も得るものは無さそうね? ですから今日のところは一旦これで諦めて、いずれまた今度、日を改めて出直す事にいたしましょうか?」

 やがて探索を諦めたらしいグエン・チ・ホアが溜息交じりにそう言ったので、僕と淑華も「そうですね」と言って頷くと、三人揃って美麗島大飯店の1009号室から退散した。そしてエレベーターに乗ってホテルの一階へと移動し、正面玄関の方角へと足を向けたところで、ふと思い立った彼女はフロント係のホテルマンに問い掛ける。

「少々お尋ねしたい事があるのですけれども、よろしいかしら?」

「はい、如何なさいましたか、大姐ターチエ?」

「昨夜からこのホテルの1009号室に宿泊されている方は、今、どちらにいらっしゃるのかご存知でして?」

「1009号室にご宿泊のお客様でしたら、つい先程、チェックアウトなされました」

 アイロンの折り目正しい臙脂色の制服に身を包んだフロント係のホテルマンは、上品で落ち着いた姿勢と態度を崩さぬまま、彼の手元のノートパソコンの液晶画面に表示された顧客の宿泊状況をチェックしながらそう言った。どうやら運と間の悪い事に、僕ら三人はほんの僅かなタッチの差でもって、空き巣であるマスクとサングラスの男とうっかり入れ違いになってしまっていたらしい。

「あら、そうなの? それはどうも、ご親切に教えてくださって、あたし、心より感謝しましてよ?」

「こちらこそ、あなた様のお役に立てて光栄でございます、大姐ターチエ

 うやうやしく頭を下げながらそう言ったフロント係のホテルマンに見送られながら、先頭を歩くグエン・チ・ホア、それに彼女の背中を追う僕と淑華の三人は美麗島大飯店を後にした。

「それで、ホアさん、これからどうします?」

 美麗島大飯店の建屋から一歩外へと踏み出した僕がそう言って問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアは小首を傾げ、ちょっとだけ考え込んでから返答する。

「ええ、そうね? せっかく空き巣を問い詰めて差し上げようと意気込んで来たのに、それが無駄足になってしまった事ですし、これからどうしましょうかしら? 取り敢えず骨董街のあたしのお店まで戻ってから、改めて今後の計画を立て直すって段取りで、よろしくって?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに先導されながら、僕ら三人は美麗島大飯店の正面玄関前で拾ったタクシーに乗り込み、来た道を取って返すかのような格好でもって骨董街の一角に建つ『Hoa's Library』へと帰還した。そして飴色に光り輝く扉を潜って店内へと足を踏み入れ、カウンターを囲む革張りのスツールに腰を下ろすと、グエン・チ・ホアはラタンのショルダーバッグから彼女のスマートフォンを取り出して液晶画面をタップする。

「もしもし、エルメスかしら?」

「やあ、チ・ホア。思っていたよりも、随分と早かったね。それで、空き巣は問い詰められたのかい?」

 果たしてカウンターの天板の上に置かれたスピーカー通話モードのスマートフォン越しに、そう言ってグエン・チ・ホアに問い掛けた通話相手は、遠くフランスの地に居る筈のエルメスであった。

「それがね、ちょっと、聞いてくださる? せっかくタクシーまで拾ってホテルに直々に出向いて差し上げたって言うのに、もうほんのちょっとのところであちらとこちらが入れ違いになったらしくって、空き巣を取り逃がしてしまったのよね? まったくもう、悔しいったらありゃしないって言うのは、まさに今のあたしの心境を喩えた言葉なんじゃないかしら?」

 グエン・チ・ホアが怒りを隠さぬままそう言えば、スマートフォンの向こうのエルメスは、やはりげらげらと下品な声を上げながら心底愉快そうに爆笑する。

「あら、エルメスったら、何がそんなに可笑しいんですの?」

「ごめんごめん、普段は澄まし顔で気取ってばかりのキミが珍しく感情を露にしているもんだから、ついつい我慢しきれなくなっちゃってさ! ……それで、チ・ホア? こうして電話を掛けて来たって事は、また何か、僕に頼みたい事があるんだろう?」

 やがて一頻ひとしきり爆笑し終えたエルメスはそう言って、ぷりぷりと怒りを露にするグエン・チ・ホアに対して謝罪と釈明の言葉を並べ立てるのと同時に、スマートフォンの向こうの通話相手が再び電話を掛けて来た理由について問い返した。

「ええ、そうね? エルメス、こうしてあたしがわざわざ電話を掛け直したのは、あなたに新たな依頼を持ち掛けるためでしてよ? つまり、もう一度フォルモサ中の監視カメラのデータをハッキングした上でもって、美麗島大飯店から立ち去った空き巣のその後の足取りを追っていただけないかしら? 勿論、以前の依頼とはまた別に、追加の報酬は支払うつもりですから安心してちょうだいな?」

 暇を持て余す不登校の現役女子高生でありながら、また同時に自分の才能の有無に関して一切の疑念を持たない天才ハッカーでもあるエルメスにとって、グエン・チ・ホアがそう言って持ち掛けた新たな依頼を断る理由は皆無である。

「ああ、いいよ! その依頼、この僕が引き受けてやろうじゃないか! まず何と言っても今回の一件は乗り掛かった船だし、キミと空き巣とのいざこざの結末と顛末を最後まで見届けられないってのも、僕としても気持ちが悪いからね! ……ああ、それと、追加の報酬は要らないよ! ちょうど空き巣が泊まっているホテルの場所と名前を突き止めたくらいの事で5000ドルも受け取ってたら、キミや始末屋に申し訳無いかなって思っていたところだからさ!」

「あら、そう? そう言っていただけると、こちらとしても助かりましてよ?」

「そうかい、それじゃあさっそくだけど、ハッキングを再開させてもらうよ!」

 スマートフォン越しにそう言って気合いを入れ直したエルメスは、またぞろカタカタと言う小気味良い打鍵音を奏でながら、彼女の手元に在るべきキーボードをリズミカルに連打し始めた。

「ふうん、どうやら美麗島大飯店を後にした空き巣は、またタクシーに乗ってどこかに移動し始めたようだね」

 やがてホテルとその周辺の監視カメラのデータを一通りハッキングし終えたらしきエルメスは、グエン・チ・ホアからの新たな依頼を達成すべくそう言って、空き巣であるマスクとサングラスの男の足取りを追跡する手を休めない。

「タクシーの行き先は、どこかしら?」

「そうだね、中央高速道路を北上している事から推測するに、これはおそらく、ノーザンフォルモサ国際空港に向かってるものと思われるね。空き巣は早くも『ちびくろサンボ』の原書を手に入れる事を諦めたのか、それとも警察の捜査の手が及ぶ事を危惧して一時的に身を隠すつもりなのか、とにかく一旦、国外逃亡を図ろうとしてるんじゃないかな?」

「つまり美麗島大飯店から姿を消した空き巣は、その足で、真っ直ぐ空港へと向かったのね? それで、エルメス? 空港内に設置された監視カメラも、あなたならハッキング出来るのかしら?」

「ああ、勿論さ! この僕に任せときなって!」

 引き続きキーボードを連打する小気味良い打鍵音を奏でながら、まるで自信と自負と自尊心に満ち満ちたかのような表情と口調でもってそう言ったに違いないエルメスは、やがて新たなる情報をグエン・チ・ホアにもたらす。

「チ・ホア、キミが居所を突き止めたがっている空き巣は購入したばかりの航空券を握り締めながら、ノーザンフォルモサ国際空港を今まさに発とうとしている国際線の旅客機に飛び乗るつもりでいるらしいね! そしてその旅客機の行き先こそは、世界に開かれた日本の西の空の玄関口、つまり大阪府に存在する関西国際空港で間違い無いみたいだよ!」

「日本? 大阪? 関西国際空港? ……それで、エルメス? その旅客機の離陸予定時刻には、今からでも間に合うものかしら?」

「残念ながら、それは無理みたいだね! こうして僕とキミとが喋っている今この瞬間にも、搭乗手続きを締め切った旅客機は滑走路に移動し始めてしまっているから、今から空港に向かったんじゃ間に合わないよ! だからこうなったら、旅客機に爆弾を仕掛けたとか言った虚偽の通報でもって空港職員の業務を妨害しない限りは、離陸は止められそうにないんじゃないかな!」

「そう、それは残念ね? さすがにこのあたしも、テロリストを装ってでも旅客機を空港に足止めするような、そしてたまたま乗り合わせた無辜の搭乗客達に迷惑を掛けるような人非人ではなくってよ?」

 離陸は止められそうにないと言うエルメスの解説に、グエン・チ・ホアはそう言って肩を落としながら落胆すると、深い深い溜息を吐いて天を仰がざるを得ない。

「そんなに落ち込むなって! 良い報せもあるからさ!」

「あら、何かしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って小首を傾げながら問い掛ければ、カウンターの天板の上に置かれた彼女のスマートフォンが、新たな電子メールを受信した旨を告げる軽快な電子音を奏で上げる。

「今送ったメールに、空港内の監視カメラが捉えた、マスクとサングラスを外した空き巣の素顔の画像を添付しておいたよ! さすがの空き巣も、パスポートに貼られた写真と本人とを見比べる出入国審査官の前では、素顔を晒さない訳には行かなかったみたいだからね!」

 そう言ったエルメスの言葉通り、確かに彼女から送られて来た本文が白紙の電子メールには、ノーザンフォルモサ国際空港の出入国審査官の前でマスクとサングラスを外した空き巣の画像が添付されていた。その素顔は中折れ帽の下の頭髪を短く刈って無精髭を生やした、どこにでも居そうな典型的な東アジア人らしい顔立ちの、特にこれと言って特徴の無い冴えない中年男性の一人である。

「ついでに自動券売機で航空券を購入した際に使ったクレジットカードの番号から個人情報を洗い出してみた結果、この男の名前は、本田ほんだサイモンじん。つい先月ちょうど40歳になったばかりの、生粋の日本人男性さ!」

「空き巣の素性を特定してみせるだなんて、エルメスったら、お手柄でしてよ? 確かにあなたの言う通り、これは良い報せね?」

 エルメスの報告を耳にしたグエン・チ・ホアはそう言って、先程までの怒りと落胆から一転、その整った顔立ちをほころばせながら喜びの声を口にした。

「素姓が特定されたのですから、これでこれまで以上に、空き巣の足取りを追い易くなったのではないかしら?」

 革張りのスツールに腰掛けたグエン・チ・ホアがくすくすと不敵にほくそ笑みながらそう言えば、エルメスはカウンターの天板の上に置かれたスマートフォン越しに、そんな彼女に敢えて問い掛ける。

「と、言う事はだよ、チ・ホア? つまりキミはこのサイモン仁と言う名の空き巣の男への追及の手を、未だ未だ緩める気は無いって事だね? そうだろ? ん?」

「ええ、そうね、まさにその通りでしてよ? このあたしの大事な大事なお店を荒らすだけ荒らして行ったのですから、その落とし前だけはつけて行ってもらわないと、あたしの気が済みませんものね?」

 くすくすと不敵にほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの横顔は、何故だか少しばかり猟奇的で、とても美しいと同時にぞっと背筋に悪寒を走らせかねない程の恐ろしさをもまた内包していた。

「でしたらエルメス、あたしはこれから明日にでもフォルモサを発つ準備に取り掛かりますから、あなたは引き続き空き巣の……えっと、確か、サイモン仁さんとか言った名前の方でしたっけ? 彼の日本での足取りを、追い続けていてくださるかしら?」

「了解! それじゃ、また明日!」

「ええ、また明日、吉報をお待ちしててよ?」

 最後にそう言ったグエン・チ・ホアは彼女のスマートフォンの液晶画面をタップし、遠くフランスの地に居る筈のエルメスとの通話を終えると、カウンターを挟んだ向かいの席に腰掛けた僕と淑華に向き直る。

「何だか当初の予想に反して、思っていた以上に大袈裟な事態になってしまったんじゃないかしら? 万丈くんと淑華ちゃんのお二人には感謝させていただくのと同時に、あたしの個人的な我儘に付き合っていただいた事に対する申し訳無い気持ちでもって、どうにも恐縮するばかりでしてよ?」

 グエン・チ・ホアは肩を竦めて申し訳無さを演出しながらそう言うが、そんな彼女を前にした僕は困惑し、むしろそれどころではない。

「そんな事よりホアさん、ホアさんは空き巣を問い詰めるためだけに、わざわざ日本まで行くつもりなんですか?」

「ええ、そうね? あたしったらこう見えましても、一度手を出した物事を中途半端な形でもって投げ出したりしてしまうのは、昔っから大嫌いな性分ですのよ?」

 もはや僕の説得の言葉に耳を貸すつもりも無いであろうグエン・チ・ホアは、やはりくすくすとほくそ笑みながらそう言った。

「とにかくそう言った訳でして、万丈くんも淑華ちゃんも、今日のところはそろそろお引き取り願ってもよろしいかしら? あたしはこれからフォルモサを発つための準備に取り掛からなければなりませんし、このお店も、日本から帰って来るまで臨時休業にさせていただかないとなりませんものね?」

 そう言って僕ら二人に退店を促すグエン・チ・ホアに、僕は革張りのスツールから勢い良く腰を上げながら異を唱える。

「ホアさん、ちょっと待ってください!」

「あら、何かしら?」

「ですから「何かしら?」じゃありませんって! さっきホテルに乗り込む前にも言いましたけど、ホアさんみたいな華奢な女性一人で素姓も知れない空き巣と対峙するつもりだなんて、危険極まりないにも程がありますよ! しかも今度は行き先が海の向こうの日本本土だって言うんですから、尚更です!」

 僕はそう言って警鐘を鳴らすが、警鐘を鳴らされた側であるグエン・チ・ホアは、まるで動じない。

「あらあら? やっぱり万丈くんったら、あたしの身を案じてくださるのね? でも大丈夫、美麗島大飯店に乗り込む際にも釈明させていただきましたけれども、こう見えてもあたしったら、腕っ節にはそこそこ自信がありましてよ?」

「だから、そんな危機感の欠片も無いような事を言ってちゃ駄目なんですってば! ホテルの時はたまたま空き巣が居なかったから良かったようなものであって、もし仮に鉢合わせしていたとしたら、危険に晒されるのはホアさんの命なんですからね?」

「あら、そう? そんなに物事を深刻に考えたりなさらないで、万丈くんも、もっと肩の力を抜いてもよろしいんじゃないかしら?」

 しかしながらグエン・チ・ホアは事も無げにそう言って、やはり涼しい顔を一向に崩さない。

「……そうですか、分かりました。だったらこの僕も、ホアさんと一緒にサイモン仁とか言う名前の空き巣を追って、日本本土に行きます!」

「はぁ?」

 グエン・チ・ホアと一緒に日本に行くつもりだと言う僕の宣言に対して、そう言って頓狂な声を上げたのは、僕の隣の席に腰を下ろしながら事の成り行きを見守っていた淑華であった。

「ちょっと、待ちなさいよ! 万丈ったら、あんた、さっきから何言ってんの? 言うに事欠いてこんな胡散臭い女なんかと一緒に日本まで行くつもりだなんて、そんな破廉恥な事、許される訳が無いに決まってるじゃないの!」

「破廉恥? 何が?」

 僕がそう言って問い返せば、淑華は無駄におでこが広くてセルフレームの眼鏡を掛けたその顔を真っ赤に紅潮させながら返答する。

「だって、いい歳した男と女が二人っきりでもって旅行に出掛けるのが破廉恥な行為でなかったとしたら、一体何が破廉恥だって言うのよ! あんた、高校生にもなって、そんな事も分かんないの?」

 まるで喰って掛かるかのような表情と口調でもってそう言った淑華の屁理屈の、余りの牽強付会ぶりに、僕は思わず呆れ返らざるを得ない。

「あのなあ、淑華よ? ホテルの時もそうだったけど、僕はか弱い女性であるホアさんの身を守るためのボディガード役として一緒に日本本土まで行こうとしてるんであって、別に、二人きりの旅行を楽しむつもりでいるんじゃないんだぞ? そこら辺をうっかり履き違えたままでいるんだとしたら、お前、空き巣を問い詰めに行くのが真の目的だって言う事実を見誤るからな?」

「うるさい、黙れ! とにかく、あんたがこの女と二人っきりでもって日本まで行くだなんて事は、このあたしの眼の黒い内は決して許さないんだからね!」

「参ったなあ……」

 こちらの言い分にまるで耳を貸さぬまま屁理屈を捏ね続ける淑華の一挙手一投足に、僕がそう言って手を焼いていると、そんな僕ら二人の様子をくすくすとほくそ笑みながら静観していたグエン・チ・ホアが横から助け舟を出す。

「でしたら淑華ちゃん、あたしと万丈くんとの間にうっかり間違いが起こってしまわないかどうかを見届けるための監視役として、あなたもまた日本まで一緒に行かれては如何かしら?」

「はぁ? あたしも? あんた達と一緒に?」

 グエン・チ・ホアの提案に、淑華は再びそう言って頓狂な声を上げた。

「ええ、そうね? あなたが一緒なら「いい歳した男と女が二人っきりでもって旅行に出掛ける」と言った「破廉恥な行為」の前提が崩れ去るのですから、あなたも納得出来るのではないかしら?」

「え……でもあたし……万丈と一緒に旅行なんて……それに、日本まで行くためのお金なんて持ってないし……」

「あら? 日本までの旅費に関する事でしたら、そんなに心配なさらなくても結構でしてよ? あたしの自分勝手な我儘にあなた方を巻き込むのですから、当然の事ながら万丈くんの分も淑華ちゃんの分も、掛かる旅費は全てこのあたしが支払って差し上げるつもりですからね? さあ、どうかしら、淑華ちゃん? これでも未だ、あたし達と一緒に日本に行く決心が付きかねて?」

 やはりくすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアに逃げ道を塞がれてしまっては、もはや一介の現役女子高生に過ぎない淑華に、眼の前のベトナム人女性からの提案を断る術は無い。

「……だったら……あたしも……あんた達と一緒に日本に行きます……」

 若干の敗北感を滲ませながら淑華がそう言えば、逆に彼女を甘言でもって言い含めてみせたグエン・チ・ホアは、その顔に浮かべた不敵な笑みを益々深めるばかりである。

「でしたらこれで、話は纏まったのではないかしら? あたしは明日の正午にはフォルモサを発つために空港へと向かいますから、万丈くんも淑華ちゃんも、それまでに荷物を纏めてこのお店まで集合していただけて? 勿論今夜中に、あなた方のご両親から渡航を許可していただく事を、忘れないでいてちょうだいね?」

「ええ、分かりました!」

「……はい」

 明日の正午までに荷物を纏めて両親からの渡航許可を得て来いと言うグエン・チ・ホアの要請を、僕は意気揚々と、淑華は苦虫を嚙み潰したかのような表情と口調でもってそう言って了承した。

「さあ、そうと決まれば、今日のところはもうこれでお開きにしましょうか? 万丈くんも淑華ちゃんも、くれぐれもご両親からの許可を得ずに無断でフォルモサを発つような真似だけはしないように、気を付けていてくださるかしら? もし何でしたら、このあたしが直々に、ご両親を説得して差し上げてもよろしくってよ?」

「ええ、ちゃんと許可は得て来ます!」

「……」

 やはり僕は意気揚々と、淑華は無言のままそう言ってグエン・チ・ホアの要請に応えると、純白のアオザイに身を包む彼女に見送られながら『Hoa's Library』を後にした。そして飴色に光り輝く手摺を撫でながら階段を駆け下り、雑居ビルの敷地外へと一歩足を踏み出せば、しとしととそぼ降る雨が僕ら二人の頬を濡らす。

「淑華、お前、さっきのは一体何のつもりだ? せっかくホアさんと二人っきりでもって遠出する絶好の機会だったってのに、それを邪魔するだなんて、何か僕に恨みでもあるのか?」

 雑居ビルを後にした僕は恨みがましい表情と口調でもってそう言って、隣を歩く淑華を問い詰めた。すると彼女は僕以上の恨み辛みを煮締めたかのような視線をこちらに向けながら、僕を頭ごなしに怒鳴り付ける。

「うるさい、馬鹿、黙れ! 一体誰のせいで、こんな事になったと思ってんの! まったくもう、万丈に付き合ってやってたら、いっつも面倒な事に巻き込まれるんだから!」

 そう言って怒りを露にした淑華はぷいと顔を逸らすと、そのままずかずかと大股でもって、自宅の方角へと歩き始めた。

「あ、おい淑華、待てよ!」

 僕は傘を差しながらそう言って、骨董街から足早に歩み去ろうとする淑華の背中を追い掛ける。

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