第二幕


 第二幕



 顔を隠した奇妙な来客が姿を現し、僕ら二人が本来の閉店時間より早く退店させられてしまったその翌日、僕は性懲りも無く午前中から『Hoa's Library』へと足を運んだ。

「あれ?」

 しかしながら『Hoa's Library』がテナントとして入居する雑居ビルを視界に捉えたところで、そう言った僕は、思わず足を止めてその場に立ち尽くさざるを得ない。何故なら雑居ビルのエントランスの真正面に、白と黒のツートンカラーで塗り分けられた数台のフォルモサ市警のパトカーが、赤色灯を明滅させながら停車していたからである。

「えっと、あの、ちょっといいですか? このビルの二階の店に用があってここまで来たんですけど……何か、事件でもあったんですか?」

 停車しているパトカーに歩み寄った僕はそう言って、そのパトカーの脇に立っていた若い制服姿の警察官の一人に、おずおずとした態度と口調でもって問い掛けた。すると彼はこちらをちらりと一瞥してから、人を小馬鹿にしたかのような小さな溜息を吐くと、如何にも面倒臭そうに返答する。

「ああ、空き巣だよ。その二階の店が、昨夜遅く、空き巣の被害に遭ったのさ」

「何だって?」

 そう言った僕は矢も盾も堪らず、半ば無意識の内に警察官達の脇をすり抜け、気付けば黄色いバリケードテープでもって規制線が張られた雑居ビルの中へと一目散に駆け込んでいた。そして「おい、キミ! ちょっと待ちなさい!」と言う警察官達の声を無視しながら、狭くて暗くて傾斜が急な階段を一段飛ばしで駆け上ると、やがて錠前が破壊された扉を潜って『Hoa's Library』の店内へと足を踏み入れる。

「ホアさん!」

 飴色に光り輝く扉を潜ると同時にそう言って彼女の名を呼べば、果たしてアンティーク雑貨が所狭しと陳列された『Hoa's Library』の店内に、どうやら刑事と思しきスーツ姿の男達と共に立つグエン・チ・ホアの姿が見て取れた。

「あらあら、一体どこのどなたが駆け込んで来られたのかと思ったら、万丈くんじゃないの? そんなに急いじゃって、あなた、あたしに何かご用かしら?」

「ええ、たった今、下でホアさんが空き巣の被害に遭ったって聞いて、ここまで飛んで来ました! ホアさん、大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

 僕がそう言って気を揉めば、純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアは、小首を傾げながら訝しむ。

「怪我ですって? ……えっと、もしかして万丈くんったら、空き巣と強盗を取り違えてしまっているんじゃないかしら?」

「あ」

 グエン・チ・ホアにたしなめられた僕はそう言って、思わず頓狂な声を上げながら、自分の勘違いにようやく気付いたのだった。

「あらあら、やっぱり万丈くんったら、空き巣と強盗を取り違えてらしたのね? でも大丈夫、空き巣はお店が無人だった深夜に盗みを働いただけですし、当然の事ながら、朝まで飲み歩いていたあたしに怪我は無くってよ? それにしても、一介のアンティーク雑貨のお店の経営者に過ぎないあたしの身を案じてくれるお客様がいらっしゃるだなんて、店主冥利に尽きると言うものじゃないかしら?」

 くすくすとほくそ笑みながらグエン・チ・ホアはそう言うが、僕は顔面を真っ赤に紅潮させて俯いたまま口をつぐみ、空き巣と強盗の区別もつかない自分の愚かさに只々恥じ入るばかりである。

「グエンさん、こちらの少年は、どなたですかな?」

 するとフォルモサ市警の刑事と思しきスーツ姿の男がそう言って、手にしたボールペンの尻の部分でもって僕の事を指し示しながら、彼の傍らに立つグエン・チ・ホアに問い掛けた。

「ええ、ツァイさん? こちらは数井万丈くんと仰いまして、当店に足繁く通われる、常連さんのお一人でしてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、彼女が蔡と呼んだ刑事は如何にも怪訝そうな眼差しを向けながらこちらへと歩み寄り、僕の身体を頭の天辺から足の爪先までじろじろと睨め回す。

「ふうん、常連客ねえ。その若さで骨董趣味に興じるとは殊勝な心掛けだと言いたいところだが……この店に足繁く通う真の目的は、もっと別のところにあったりするんじゃないのかな? そうだな、例えば、この店に来れば気になる女主人が優しく出迎えてくれるとか? ん?」

 まるで値踏みするかのような表情と口調でもってそう言いながらこちらを睨め回す蔡刑事に図星を突かれてしまっては、僕は口をつぐんで押し黙ってしまったまま、ぐうの音も出ない。

「まあまあ、蔡さんったら、そんなに万丈くんを苛めないであげてちょうだいな? 彼の最終的な目的が何であれ、この子はあたしが強盗に襲われたのではないかと心配してくれる、正義感溢れる心優しき少年なんですからね? それにしても、幸いにも強盗ではなく空き巣だったにせよ、この惨状を生み出した犯人ばかりは許しておけないんじゃないかしら?」

 そう言って溜息を吐くグエン・チ・ホアの言葉に『Hoa's Library』の店内をぐるりと見渡せば、所狭しと陳列されていた筈のアンティーク雑貨の数々は引き倒されて床の上に散乱し、戸棚の抽斗ひきだしはひっくり返されて中身が方々にぶち撒けられ、それら空き巣の被害状況の写真を撮ったり指紋を採取したりしている警察の鑑識官達の姿があちらこちらに見て取れた。

「酷い……」

 思わずそう言って『Hoa's Library』の惨状を嘆いた僕の言葉に、グエン・チ・ホアもまた同意する。

「ね? 酷いでしょう? それに荒らすだけ荒らしておいてレジのお金には一切手を付けていないんですから、うちみたいなさほど儲かってもいないお店なんかに押し入って、一体何が目的だったのかしら?」

「空き巣の目的が何であったにせよ、金銭的な被害がほぼ皆無であるとするならば、我々警察に出来る事は限られています。グエンさんには誠に申し訳ありませんが、今日のところはうちの鑑識が仕事を終えたら一旦署へと帰還し、また後日、改めて連絡させていただきます」

 すると蔡刑事がそう言って、彼の部下であるらしきフォルモサ市警の鑑識官達や警察官達に、帰り支度を始めるよう指示を下し始めた。しかしながらグエン・チ・ホアは、そんな蔡刑事の言動に対して異を唱える。

「あら? もう帰ってしまわれるの? 確かに只の空き巣、それも何も盗んで行かずに未遂に終わった事件とは言え、もうちょっと真面目に捜査して行ってくださってもよろしいんじゃないかしら? そうでないと、今度はあなた方が、税金泥棒のそしりを免れなくってよ?」

 グエン・チ・ホアは若干苛立たしげに、皮肉交じりにそう言うが、蔡刑事もまた引き下がらない。

「そうは言われましてもね、グエンさん。返す返すも誠に申し訳ありませんが、盗まれた物が無い以上、今回の一件の犯人だって建造物侵入罪以外の罪には問えませんからね。それに、そんなに犯人を捕まえたいって言うんでしたら、今度からはちゃんと店内を見張る監視カメラの一つや二つでも設置しておく事ですな。そのくらい用心深くなければ、昨今のフォルモサの街の治安の悪さから鑑みるに、空き巣の一人だって捕まえられやしませんよ」

 如何にも面倒臭そうにそう言った蔡刑事は踵を返し、一通りの仕事を終えた部下達に撤収の号令を掛けると、やがて雑居ビルの真正面に停めてあった数台のフォルモサ市警のパトカーでもって骨董街から走り去って行ってしまった。彼らが姿を消した『Hoa's Library』の店内には、板敷きの床にぶち撒けられた古い本や家具と言ったアンティーク雑貨の数々と、それらに囲まれながら立ち尽くす僕とグエン・チ・ホアの二人だけがぽつんと取り残される。

「まったくもう、警察は肝心な時に役に立たないんですから、せめてお店のお片付けくらい手伝って行ってくれても罰は当たらないんじゃないかしら?」

 やはり唇を尖らせながら苛立たしげにそう言ったグエン・チ・ホアは、普段は終始にこやかで温厚な女性である筈の彼女にしては珍しく、ぷりぷりと怒りを露にしている様子であった。そして当然の事ながら、蔡刑事に値踏みされるかのような格好でもってじろじろと睨め回されてしまったこの僕もまた、国家権力に対する彼女の怒りに同意せざるを得ない。

「仕方ありませんよ、程度の差こそあれ、世の公務員なんて人種は総じてそんなものですから」

「ええ、そうね? 認めたくない事実であるとは言え、あなたのその言葉には、賛同せざるを得なくってよ? それじゃあ申し訳無いけれど、万丈くん、あたしと一緒にお店のお片付けを手伝っていただけないものかしら?」

「はい、喜んで!」

 そう言った僕とグエン・チ・ホアはさっそく二人で作業を分担しながら、空き巣が荒らすだけ荒らして行った『Hoa's Library』の店内の片付けと、この際折角なので、年末の大掃除にもまた着手し始めた。そして片付けと大掃除を開始した時点より小一時間ばかりが経過し、ようやく床の上に散乱していたアンティーク雑貨の半分余りが元の状態へと戻された頃になってから、不意に新たな来客が姿を現す。

「うわ! 何よこれ?」

 果たして『Hoa's Library』の店内へと一歩足を踏み入れるなりそう言って驚きの声を上げたのは、今更説明するまでも無い事ではあるものの、僕の同級生であると同時に幼馴染でもある王淑華その人に他ならない。

「なんだ淑華、お前、また来たのか」

「今更「また来たのか」、じゃないでしょう? 一体何がどうしたって言うのよ、このお店の惨状は? まるでここら辺り一帯だけが、局所的な地震にでも見舞われたみたいな事になってしまってるじゃないの!」

「あらあら、淑華ちゃんったら「局所的な地震にでも見舞われた」だなんて、なかなか上手い事を言うものね?」

 淑華の喩えを耳にしたグエン・チ・ホアはそう言って、床板を磨くためのモップを手にしながらほくそ笑み、ほんのちょっとだけ機嫌を取り戻したようにも見受けられた。

「グエンさんも万丈も、見え透いたお世辞なんてどうでもいいですから、あたしの質問にちゃんと答えてください。一体何がどうして、今日に限ってこのお店は、こんなに商品が散乱してしまっているんですか?」

 しかしながら喩え上手を褒められた筈の淑華は愛想の欠片も無いままそう言って、現役女子高生らしからぬつっけんどんな表情と口調でもって問い返し、鰾膠にべも無いとはまさにこの事であると言わざるを得ない。

「昨夜、空き巣の被害に遭ったんだよ。それで店が荒らされたもんだから、こうして大掃除も兼ねて、僕ら二人で片付けてるって訳さ」

「ええ、そうなのよ? 空き巣だなんて、ホント、参っちゃうじゃない?」

 僕とグエン・チ・ホアの二人がそう言って事情を説明すれば、淑華は「ふうん」と言って得心し、そのまま無言で片付けを手伝い始める。

「あら? 淑華ちゃんったら、あなたも手伝ってくださるのかしら?」

「ええ、そりゃ勿論、手伝うに決まってるじゃないですか。こんな状況であたし一人だけ手伝わずにぶらぶらしてるだなんて、そんなばつが悪くて人聞きの悪い事、出来やしませんからね」

「あらあら、淑華ちゃんったら、相変わらず素直じゃないのね? けれどもあたし、そんなあなたの不器用で素直じゃないところも、決して嫌いじゃなくってよ?」

 そう言ってほくそ笑むグエン・チ・ホアの言葉に、淑華は無言のまま努めて平静を装いながらも、少しだけ照れ臭そうな表情をその顔に浮かべているように見えなくもない。そして僕ら三人が黙々と働き続ければ、やがて時計の針が午後一時半を指し示す頃になってから、ようやく空き巣に荒らされた『Hoa's Library』の店内の片付けと大掃除が完了するのであった。

「ふう、やっと終わった」

「これで終わり? まったくもう! 万丈に付き合ってあげてたら、いっつも面倒な事に巻き込まれるんだから!」

 片付けと大掃除を終えた僕と淑華が額や首筋に浮いた汗を上着の袖口でもって拭いながらそう言えば、そんな僕ら二人を、洗って乾燥し立ての清潔なフェイスタオルを手にしたグエン・チ・ホアが労ってくれる。

「万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも、どうもご苦労様? お片付けだけでなく大掃除まで手伝ってくださって、あたし、本当に感謝の念に堪えなくってよ? ですからお礼代わりにピザのデリバリーをお願いしておきましたし、奥のバスルームで手と顔を洗って来られたら、皆でお昼ご飯にしましょうね?」

 感謝の言葉交じりにそう言ったグエン・チ・ホアに手渡されたフェイスタオルを携えながら、バスルームの洗面台で汗と埃を洗い流し終えた僕と淑華が『Hoa's Library』の店舗へと取って返してみれば、彼女がデリバリーをお願いしたと言う宅配ピザがたった今しがた届けられたところであった。

「それじゃあ、いただきます」

「いただきます」

「ええ、どうぞ、召し上がってちょうだいな? あなた方の労働の正当な対価なんですから、誰にも遠慮は要らなくってよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアに勧められるがままに手を伸ばした宅配ピザは焼き立てらしく、一口頬張る毎にとろとろにとろけたモッツァレラチーズと熱々のトマトソースの芳醇な香りが味蕾と鼻腔粘膜を刺激し、片付けと大掃除で疲れ切った身体に滋養と栄養が染み渡る。

「それにしても、よりにもよって空き巣だなんて、本当に災難でしたね」

 白檀の香りが漂う『Hoa's Library』のカフェテリアの革張りのスツールに腰掛け、焼き立て熱々のピザをむしゃむしゃと頬張りながら、僕は改めてそう言った。

「ええ、そうね? しかも何も盗まずに立ち去るだなんて、気持ち悪いとでも言いましょうか、とにかく人を馬鹿にした話じゃなくって?」

 やはりグエン・チ・ホアもまた上品にピザを咀嚼しながらそう言って、ぷりぷりと怒りを露にし、彼女の縄張りを荒らされた事に対してひどくお冠の様子である。

「それに肝心要の警察も頼りにならないんですから、困っちゃうじゃない?」

「ええ、そうですね。こんな時こそ、探偵でも雇って犯人探しが出来ればいいんですけどね」

「探偵? ああ、そうよ、その手がある筈じゃないかしら? 万丈くんったら、ナイスアイディアでしてよ?」

 一体何を思い付いたと言うのか、そう言ったグエン・チ・ホアはカウンターの天板の上に置いてあった彼女のスマートフォンを手に取り、うきうきと楽しげな様子でもって液晶画面をタップし始めた。そして国際電話の電話番号らしき数字の羅列を一通り入力し終えると、ハンズフリーのスピーカー通話モードに設定したスマートフォンを再び天板の上に置き直し、電話が繋がるまで暫し待つ。

「……もしもし? 誰?」

 果たして暫しの間の後にスマートフォンのスピーカーから聞こえて来たのは、気怠げにそう言ってこちらの素性を問い質す、若い女性の声だった。

「もしもし、エルメスかしら? こちらはフォルモサの、グエン・チ・ホアでしてよ?」

 しかしながらグエン・チ・ホアがそう言って彼女の名を名乗れば、スマートフォンの向こうの若い女性は先程までの警戒心をかなぐり捨て、勢いテンションを上げながら馴れ馴れしい口調にならざるを得ない。

「なんだ、こんな時間に誰かと思ったら、キミか、チ・ホアか! 久し振り! 元気してた? ん?」

「ええ、おかげ様で、あたしでしたらいつにも増して元気溌剌げんきはつらつでしてよ? それにしてもエルメスったら、なんだか声ががさがさに枯れているようですけれども、もしかして寝起きだったりするのかしら? 今、あなたがられる筈のフランスは、午後の八時を回った頃でしょう? でしたら未だ若いティーンエイジャーが床に就くには早過ぎる時刻ですし、まさかあなたったら、また昼夜逆転の不健康な生活を繰り返してしまっているのかしら? どう? 違って?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い質せば、彼女がエルメスと呼ぶスマートフォンの向こうの若い女性は何が面白かったのか、げらげらと下品な声を上げながら心底愉快そうに爆笑し始めた。

「ははは、さすがチ・ホア、察しが良いじゃないか! 確かにキミの言う通り、僕は今朝の明け方から今の今まで、ふかふかのベッドの上で温かい毛布に包まりながらぐっすり寝ていたのさ! ざまあ見ろ!」

 何に対して勝ち誇っているのかは分からないが、とにかくそう言って、スマートフォンの向こうのエルメスはげらげらと笑い続ける。

「まったくもう、エルメスったら、ちゃんと朝早く起きて夜早く寝るような規則正しい生活を心掛けなくっちゃ駄目ですからね? それに、どうせ欲望に負け易いあなたの事ですから、相変わらず学校にも通わないまま大麻とアルコールにふけってばかりいるんでしょう?」

「ご明察! その通り! やっぱりチ・ホアは察しが良いね! まさにちょうど今、起き抜けのジョイント、つまり紙巻き乾燥大麻に火を点けて缶ビールのプルタブに指を掛けたところさ!」

 やはりげらげらと声を上げて笑いながらエルメスがそう言えば、スマートフォンのこちら側に立つグエン・チ・ホアはかぶりを振り、深い深い溜息交じりに呆れ返らざるを得ない。

「せっかく永年依存し続けていらしたコカインから足を洗ってくれたかと思えば、今度はこの有様ですものね? まったくエルメスったら、いい加減にしておかないと、また始末屋にこっぴどく叱られましてよ?」

「いやいやいや! 大丈夫大丈夫! 何の問題も無いから! その始末屋だって、ちゃんと学校に通ってさえいれば、薬物やアルコールに依存し続けていても構わないって言ってたもんね!」

「でしたら、あなた、学校にはちゃんと通ってらして?」

「……」

 通学状況についてグエン・チ・ホアが問い掛ければ、エルメスは不意に笑い止み、口をつぐんだ。どうやら彼女は始末屋とか言う名の人物の言い付けを守らず、ちゃんと学校には通っていないものと思われる。

「ほら見なさい、やっぱりエルメスったら、大きな口を叩いておきながら学校には通っていないんでしょう? どうやらまた今度、あなたが頭が上がらない始末屋に、改めてがつんと叱ってもらわないと懲りないようね?」

 まるで聞き分けの無い我が子を父親に叱ってもらおうとする母親さながらに、グエン・チ・ホアがぷりぷりと怒りを露にしながらそう言えば、スマートフォンの向こうのエルメスもようやく観念したらしい。

「ああ、もう、分かったよ! ちゃんと明日から学校に通うから、キミも始末屋にだけはチクんないでおいてくれってば! ……それでチ・ホア、改めて聞くけど、今日はまた一体何の用でもって電話を掛けて来たんだい? まさか、この歳にしてIQ250オーバーの知能指数を誇る若き天才ハッカーであるこの僕に、学校に行けって説教をするためだけじゃないんだろう?」

「ええ、そうね? 勿論そんなつまらない理由でもって、わざわざフランスにられるあなたに、国際電話を掛けた訳ではなくってよ?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、エルメスの問い掛けに対して同意した上で、いよいよ本題に入る。

「実を言いますと、昨夜遅く、あたしのお店が空き巣の被害に遭ってしまったものでしてね?」

「昨夜? 空き巣? キミのあの、何とかって言う名の骨董品店がかい?」

「ええ、そうなのよ? とは言っても結局何も盗まれはしなかったんですけれども、それはそれで、犯人の意図が分からなくってなんだか気持ち悪いじゃない? ですからエルメス、是非とも自称天才ハッカーであるあなたの力をお借りして、犯人の居所を突き止めてくださらないかしら? その上でこのあたしが直々に、犯人を問い詰めに参上する次第でしてよ?」

「成程、そいつは面白そうだ! よし! やってやろうじゃないの!」

 スマートフォンの向こうのエルメスはそう言って膝を打ち、正体不明の空き巣の居所を突き止めてほしいと言うグエン・チ・ホアの要請を、快く受諾した。

「それで、その依頼の報酬は幾らだい? まさか、この僕にタダ働きしろとは言わないよね?」

「ええ、そうね? 友人であるべきあなたにタダ働きしろだなんて、あたしはそんな薄情者ではなくってよ? とは言え申し上げ難い事に、今ちょっと年末年始の用意で色々と出費が嵩んでいますから、あまり用意出来るお金が無いのよね? ですから空き巣の被害に遭ったあたしとあたしのお店を助けると思って、成功報酬でもって、米ドルで5000ドルほどで引き受けてくださらないかしら? よろしくって?」

 グエン・チ・ホアがそう言って報酬の額を提示すれば、エルメスは暫し考え込む。

「成功報酬で5000ドルか……ちょっとばかり少ないけれど、まあ、他ならぬチ・ホアの頼みだからな! いいよ! その額で引き受けてやっても構わないさ!」

「あら、そう? そう言ってくださると、助かってよ?」

 報酬の額に納得したエルメスに、グエン・チ・ホアはスマートフォン越しにそう言って謝意を表した。

「それじゃあチ・ホア、僕はまず、何について調べればいいんだい?」

「ええ、そうね? でしたらフォルモサ中の施設や商店に設置された監視カメラのデータを解析していただいて、昨夜未明にあたしのお店を荒らすだけ荒らして行った空き巣の正体と、その足取りを追ってはくださらないかしら? あなたでしたら、そのくらいの事は朝飯前でしょう?」

「よっしゃ! そう言う事だったら、この僕に任せときなっての! 合衆国のホワイトハウスだろうと連邦のクレムリンだろうと、若き天才ハッカーであるこの僕に侵入出来ない場所はこの世のどこにも存在し得ないって事実を、今すぐにでも証明してみせてやるからさ!」

 エルメスがそう言って手前味噌とも解釈出来るような自画自賛の言葉を口にしたかと思えば、スマートフォンの向こうからカタカタと言う小気味良い打鍵音が聞こえて来た事から推測するに、どうやら彼女はパソコンか何かのキーボードを連打しながらフォルモサ中の監視カメラへのハッキングを試みているらしい。そしてハッキングの完了とその成果の報告を待っているその間にも、僕はカウンターを挟んだ向かいの席に座るグエン・チ・ホアに問い掛ける。

「ホアさん、ちょっとお聞きしてもいいですか? このエルメスって方とホアさんは、一体どう言ったご関係なんですか?」

「あら? 万丈くんったら、あたし達の関係に興味がおありなのかしら? ですけどご心配されずとも、エルメスとあたしとは彼女が小学生だった頃からの古い友人ですから、何の問題も無くってよ?」

 グエン・チ・ホアはくすくすとほくそ笑みながらそう言うが、その古い友人である筈のエルメスが若き天才ハッカーだとか大麻とアルコールがどうだとか言った不穏な単語を並べ立てているのだから、ここ『Hoa's Library』の常連を自負する僕としても気を揉まざるを得ない。

「ん? ねえ、チ・ホア? そっちにはキミ一人だけじゃなくって、誰か僕ら以外の第三者も同席しているのかい?」

 すると僕の声を耳聡みみざとく聞き付けたらしいエルメスがスマートフォン越しにそう言って、キーボードをカタカタと絶え間無く連打し続けながら、グエン・チ・ホアに問い掛けた。

「ええ、そうね? こちらにはあたし以外にもお二人の可愛らしいお客様方が同席されていて、そのお二人は万丈くんと淑華ちゃんと言うお名前の、あなたと同じ現役高校生でしてよ?」

「へえ、そうなんだ? ふうん、こんな犯罪すれすれのハッキング行為の現場に同席するだなんて、物好きも居たもんだね! まあ、喩えどこの誰であっても他ならぬチ・ホアの知り合いだって言うんなら、僕だって挨拶ぐらいはしておく事もやぶさかではないよ? やあ、偽名で申し訳無いけど、僕の名はエルメス! 万丈も淑華も、どうぞよろしく!」

「あ、その、どうも、数井万丈です」

「王淑華です。よろしくおねがいします」

 僕は淑華と共にそう言いながら、カウンターの天板の上に置かれたスマートフォンに向かって軽い会釈をするものの、顔も見えず本名も名乗らぬ相手と挨拶を交わすと言うのも何だかもやもやとした妙な具合である。そして暫しの間を置いた後に、どうやらスマートフォンの向こうのエルメスは、彼女が探し求めていた監視カメラのデータをハッキングする事に成功したらしい。

「ビンゴ! 遂に発見したよ!」

「あら? エルメスったら、一体何を発見したのかしら?」

「おいおい、何を発見したのかしらって、そんなの決まってるじゃないか! 昨夜未明の午前二時半頃、大きなワイヤーカッターとハンマーを手にした人物がキミの店へと続く階段を駆け上がって行く様子が、裏通りを挟んだ向かいの店の監視カメラにばっちり映ってたのさ!」

 ハッキングに成功したらしきエルメスがスマートフォン越しにそう言えば、彼女の報告を待ち侘びていたグエン・チ・ホアもまた色めき立つ。

「あら、ホントに? さすが若き天才ハッカーを自称するだけの事はあって、エルメスったら、見事なハッキングの腕前ね? それで、あたしの大事な大事なお店を荒らすだけ荒らして行った空き巣の正体は、一体どんな人物だったのかしら?」

「うん、まあ、それがちょっと、その、何と言うべきか、これがまた何とも言えない人物なんだよなあ……」

 空き巣の正体について問い質されたエルメスは言葉を濁しながらそう言って、まるで奥歯に物が挟まったかのような曖昧な発言をもごもごと繰り返し、何とも歯切れが悪い事この上無い。

「チ・ホア、残念ながらキミの店を荒らして行った空き巣はマスクとサングラス、それに目深に被った帽子でもって顔を隠しているから、この監視カメラの画像じゃ人相を特定する事までは出来ないね」

「マスクとサングラスですって? ねえ、エルメス? その空き巣はもしかすると、襟を立てたモッズコートを羽織っているのではないかしら?」

「あれ? 良く分かったね? ひょっとして、キミはこの空き巣の正体について、何か思い当たる節があるのかい?」

 そう言ったエルメスの問い掛けに対して、その場に居合わせたグエン・チ・ホアと僕と淑華の三人の脳裏に思い浮かぶのは、昨日『Hoa's Library』を尋ねて来た奇妙な来客の姿である。

「そうか、あいつか!」

 昨日の奇妙な来客の、まるで人目を避けるかのような姿を脳裏に思い浮かべながら、僕は膝を打って得心すると同時に小声でもってそう言った。そしてカウンターの向こうに座るグエン・チ・ホアもまた、おそらく僕と同じ脳内ビジョンと共に、エルメスの問い掛けに対して返答する。

「ええ、そうね? 実を言いますと昨日の夕暮れ時に、骨董街のあたしのお店まで『ちびくろサンボ』の貴重な原書を買い求めに来られたお客様が、まさにそう言った風貌の人物でしたのよ?」

「は? 今、キミは『ちびくろサンボ』って言った? だとしたら大の大人が、街の本屋じゃなくって、わざわざ骨董品店であるキミの店まで『ちびくろサンボ』の絵本を買いに来たって言うのかい?」

「ええ、勿論あたしのお店で扱うのですから、只の絵本ではなくってよ? 今から一世紀以上前の1899年にイギリスのグラント・リチャーズ社から発刊された、鑑定書付きの正真正銘の初版本なんですから、立派なアンティーク雑貨の一つと言っても過言ではないのではないかしら?」

「ああ、成程。それで、その『ちびくろサンボ』の貴重な原書とやらは、無事だったのかい?」

「ええ、そうね? おかげさまで、やっとの思いで手に入れた原書は無事でしてよ? 昨夜出掛ける際に、一緒に食事を摂る約束をしていた始末屋にも自慢してさしあげようかと思ったものですから、半ば無意識の内に持って出たのが幸いしたんじゃないかしら? もし仮に、これをお店に置いたまま出掛けていたとしたら、今頃は貴重な原書も件の空き巣の手によって盗まれてしまっていたに違いないでしょうからね?」

 グエン・チ・ホアはスマートフォン越しに問い掛けるエルメスに向かってそう言いながら、普段彼女が外出する際に持ち歩いている小さなラタンのショルダーバッグを手に取ると、その中から硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の原書を取り出した。

「だから空き巣はキミの店を荒らすだけ荒らしたにも拘わらず、目当てのブツである原書が発見出来なかったから、結局何も盗まずに退散したと言う訳か」

「ええ、そうね? これで空き巣が犯行現場に残して行った謎の一つが、解明されたのではないかしら?」

 エルメスとグエン・チ・ホアはフォルモサとフランスとを隔てるおよそ10000kmもの距離を間に挟みながらそう言って、互いの意見に同意し合い、間髪を容れぬまま次の謎の解明へと着手する。

「でしたらエルメス、あたしの大事なお店から『ちびくろサンボ』の原書を盗み損ねて退散した空き巣の、その後の足取りは追跡出来て?」

「ああ、勿論さ! 今すぐにでも、ちゃっちゃと調べ上げてみせるから、ちょっとばかり待っててくれよな!」

 スマートフォン越しにそう言ったエルメスは、再びカタカタと言う小気味良い打鍵音を奏でながら、彼女の手元に在るべきキーボードを連打し始めた。

「ふうん、成程。どうやら空き巣はおよそ二時間ばかりキミの店を物色した後に、最終的には『ちびくろサンボ』の原書を手に入れる事を諦めて、夜市の外れで拾ったタクシーでもって移動を開始したみたいだね。それじゃあここからは、街中の街道沿いに設置された監視カメラのデータをハッキングしながら、この空き巣が拾ったタクシーのナンバーを追跡してみようか?」

「ええ、是非ともお願いさせていただこうかしら?」

 グエン・チ・ホアがくすくすとほくそ笑みながらそう言えば、スマートフォンの向こうのエルメスは引き続きキーボードを連打し続け、やがて暫しの間を置いた後に結論へと至る。

「ナンバーを追跡してみた結果、空き巣を乗せたタクシーが、フォルモサの街の中心部に建つホテルの玄関先で停車したのを確認したよ! ホテルの名前は、美麗島大飯店メイリータオ・ダーファングァン! そしてホテルのロビーの監視カメラをハッキングしてみれば……ああ、空き巣がフロントでチェックインしてから客室の鍵を受け取って、そのままエレベーターに乗り込む様子もばっちり映ってるね! 残念ながら、ロビーに居る間もエレベーターの中でもマスクとサングラスは外さなかったんで、空き巣の素顔までは確認出来なかったけどさ!」

「あら? エルメスったら、あなたが気に病む必要は無くってよ? 空き巣の居所を突き止められたのでしたら、それでもって、今回のあたしからの依頼は達成されたも同然なのですからね? さあ、でしたらこれから美麗島大飯店まで赴いて直々に空き巣を問い詰めて参りますから、エルメス、あなたはあたしが結果を報告するまでその場で待機していてちょうだいな?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、通話を終えて電源を落としたスマートフォンをラタンのショルダーバッグに仕舞い直すと、そのショルダーバッグを手にしたまま革張りのスツールから腰を上げた。

「万丈くん、淑華ちゃん、せっかくのお客様であるあなた方にこんな事を申し上げるのも気が引けますけれども、あたしが帰って来るまでの間だけ、お留守番をお願い出来るかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアがくるりと踵を返し、白檀の香りが漂う『Hoa's Library』の正面玄関の方角へと足を向けたので、僕はそんな彼女を引き留める。

「ちょっと待ってください、ホアさん! 本当に空き巣を問い詰めに、ホテルまで行く気ですか?」

「ええ、そのつもりでしてよ? 何か問題でもありまして?」

「問題があるも何も、ホアさんみたいな華奢な女性一人で素姓も知れない空き巣と対峙するつもりだなんて、危険極まりないにも程がありますよ!」

「あら? 万丈くんったら、あたしの身を案じてくださるのかしら? でも大丈夫、どうぞご安心くださいな? こう見えてもあたしったら、腕っ節にはそこそこ自信がありましてよ?」

 まるで危機感を抱いていないらしいグエン・チ・ホアは至って涼しい顔でもってそう言うが、そんな彼女の言い分を「はいそうですか」と言って鵜呑みにする程、僕も馬鹿ではない。

「駄目ですよ! どうしても空き巣を問い詰めるつもりなら、警察と一緒か、そうでないならこの僕が一緒にホテルまで行ってホアさんを守ります!」

 僕がそう言ってスツールから腰を上げ、やはり白檀の香りが漂う『Hoa's Library』の正面玄関から出て行こうとするグエン・チ・ホアの背中を追い掛ければ、つい今しがたまでピザを頬張っていた淑華もまた僕の隣のスツールから腰を上げる。

「ちょっと、待ちなさいよ! あんた達二人だけで出て行って、このあたしを置いて行くつもり? 冗談じゃない!」

 ややもすれば声を荒らげながらそう言った淑華は、彼女只一人だけが蚊帳の外に置かれた事に対して憤慨し、ひどくお冠な様子であった。

「なんだよ淑華、だったら、お前も僕らと一緒にホテルまで行く気だってのか?」

「当たり前でしょ? あんた達を二人っきりにさせるだなんて、そんな事、このあたしが許すもんですか!」

 そう言った淑華はずかずかと現役女子高生らしからぬ大股でもってこちらへと歩み寄ると、今にも『Hoa's Library』の正面玄関から出て行こうとする僕とグエン・チ・ホアとの間に強引に割って入り、そのまま僕らと一緒になって空き巣を問い詰めにホテルに乗り込む気満々である。

「どうやら、お話は纏まったようね? でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、あたしと一緒に仲良く三人揃って、美麗島大飯店へと赴く事にしましょうか?」

 僕と淑華との遣り取りを見守っていたグエン・チ・ホアはそう言うと、彼女が経営する『Hoa's Library』の店内と店外とを隔てる飴色の扉の、鈍い黄金色に輝く真鍮製のノブに手を掛けた。そして開け放たれた扉を潜った僕ら三人は、空き巣を働いたマスクとサングラスの男が待ち構えているであろうホテルの方角、つまり美麗島大飯店の方角へと足を向ける。

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