第一幕


 第一幕



 二学期の終焉を告げる終業式の幕が恙無つつがなく閉じられた事によって、幸いにも僕ら国立南天大学付属高等学校の生徒達は、およそ二週間ばかりの冬休みを満喫する事を許される身と相成った。

「行って来ます!」

 遅い昼食を胃袋の中に流し込むかのような格好でもって摂り終えるなりそう言って、学生鞄を担いで玄関から出て行こうとする僕の背中に、リビングダイニングのソファに腰掛けたままテレビを観ていた母が問い掛ける。

「あら? 万丈ったら、またあの骨董街のお店に行くつもりなのかしら?」

「ああ、うん、そうだよ。晩ご飯までには帰るつもりだけど、もし遅くなったら、皆で先に食べてていいからね」

 そう言いながら真鍮製のノブを回して玄関扉を開け放つのとほぼ同時に、小学一年生の妹の千糸が放った「行ってらっしゃい!」と言う無駄に元気な送迎の声もまた僕の背中に投げ掛けられたので、僕は背後を振り返らぬまま「行って来ます!」と言って自宅を後にした。そして氷雨が降りしきるフォルモサの街の繁華街を、傘を差しつつ小走りでもって駆け抜ければ、やがて骨董街の一角に建つ雑居ビルの前へと辿り着く。

「こんにちは!」

 古風な意匠による装飾が施された雑居ビルの内部へと足を踏み入れた僕は、鈍い飴色に光り輝く手摺を撫でる手も軽やかに、狭くて暗くて傾斜が急な階段を一段飛ばしで駆け上がった。そしてレトロな歪みガラスがめ込まれた扉を開けながらそう言うと、逸る気持ちを抑えつつ、甘く爽やかな白檀の香りが漂う『Hoa's Library』の店内へと駆け込んで辺りの様子をうかがう。

「あら、いらっしゃい? 万丈くんったら、今日もまた、うちの店に遊びに来てくれたのね?」

 すると相変わらずどこまでも澄み渡る春先の青空の様に一点の曇りも無い、それでいて少しばかり妖艶な香りが漂う流麗な声でもってそう言って、やはり純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアが僕を出迎えた。

「ええ、今日もここで、勉強させてもらいに来ました!」

「あらあら、万丈くんったら、本当にお勉強が大好きな男の子なのね? これはもしかしたら、もしかすると、将来有望な学生さんだったりするのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、店内を縦断した僕は「そんな事無いですよ」と言って謙遜しながらカフェテリアのスツールに腰掛け、学生鞄の中から取り出したノートとテキストを開帳する。

「はい、どうぞ? 今日のお茶は、大陸産のジャスミン茶でしてよ? お口に合えばよろしいんですけど、如何かしら?」

「あ、ありがとうございます! いただきます!」

 そう言って感謝の言葉を口にした僕はジャスミン茶が注がれた茶碗をグエン・チ・ホアの手から受け取り、その茶碗の中身を、ふうふうと息を吹き掛けて冷ましながらちびちびと飲み下した。一口二口とジャスミン茶を飲み下す度に、白檀のそれとはまた違った甘く爽やかなジャスミンの花の香りが鼻に抜け、何とも言えず心地良い。

「どうかしら? 美味しくって?」

「ええ、とても美味しいです!」

 僕がそう言えば、グエン・チ・ホアは切れ長な眼を更に細めながらほくそ笑む。

「そう? でしたら僥倖ね? ジャスミン茶にはリラックス効果がありますし、それに集中力を高める効果もあると言いますから、お勉強中の飲み物としても最適なんじゃないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは不意に何かを思い出したらしく、彼女の両の掌をぽんと軽く打ち合わせつつ「そうね、ちょっとここで、待っててくれるかしら?」と言って、革張りのスツールから腰を上げた。そして『Hoa's Library』のカウンターの奥へと一旦姿を消してから、何か小さく薄い、絵本の様な物を手にしながら再び姿を現す。

「ねえねえ、如何かしら、万丈くん? これは滅多に手に入らない、とても貴重な掘り出し物でしてよ?」

 ややもすれば興奮気味のグエン・チ・ホアは嬉しそうにそう言って、硬質プラスチック製の保護ケースに収納された絵本をこちらに向けて差し出すが、僕にはその小さな絵本が一体何なのかさっぱり見当がつかない。

「これって、そんなに貴重な本なんですか?」

 僕はグエン・チ・ホアが差し出した絵本の表紙をまじまじと凝視しつつ、そう言って問い掛けながら、その価値を値踏みしてみた。それは黄色い紙で出来た素っ気無い装丁の表紙に、腰布を巻いた浅黒い肌の半裸の子供の絵が描かれた、片手の掌の中にすっぽり収まるくらいの大きさの随分と古びた絵本である。

「ええ、そうね? これは『The Story of Little Black Sambo』、つまり世界的に有名な絵本である『ちびくろサンボ』の、昨夜入荷したばかりの貴重な原書でしてよ? それも1899年にイギリスのグラント・リチャーズ社から発刊された、鑑定書付きの正真正銘の初版本なんですから、何だかわくわくしちゃうじゃない?」

 やはり興奮気味にそう言ったグエン・チ・ホアの言葉が事実とするならば、どうやらこの小さな古びた絵本は、誰もが知る『ちびくろサンボ』の絵本の原書であると言う事らしい。

「へえ、そうなんですか、あの『ちびくろサンボ』の原書なんですか。僕も『ちびくろサンボ』なら、未だ小っちゃい子供だった頃に、両親や幼稚園の先生に何度も読んでもらった記憶がありますよ。懐かしいなあ」

「あら、そう? ですけど万丈くん、あなたが子供の頃に読んでもらっていた絵本は、ここに有る原書と全く同じ内容ではなかったんじゃないかしら? きっとそれはアメリカ合衆国の出版社が著者であるヘレン・バナーマンの許可を得ずに発刊した海賊版を、更に日本の出版社が勝手に邦訳した、物語の設定も挿絵も改変された劣化コピーだった筈でしてよ?」

「劣化コピー?」

「ええ、驚かれて? 元々『ちびくろサンボ』はヘレン・バナーマンと言う名のスコットランド人女性が、イギリス陸軍の軍医であった夫と共に赴任した当時の英領インドのタミル・ナードゥ州の州都マドラスで、彼女の四人の子供達のために描いて差し上げた手作りの絵本が原型になっている事はご存知かしら?」

「いえ、知りませんでした」

 カフェテリアに並べられた革張りのスツールの一つに腰掛けたままそう言って、僕は首を横に振った。

「ところがね、万丈くん? 元々がそんな自費出版の同人誌みたいな存在だったものですから、イギリスのグラント・リチャーズ社に続いてアメリカ合衆国の出版社からも刊行される事が決定した際に、著作権の所在が不明瞭になってしまってね? その結果として多数の海賊版が正規品同然の扱いでもって世界中に流通してしまっただけでなく、それらの海賊版の多くが原書とは物語の設定も挿絵も改変された劣化コピーであると言う残念な結果こそが、著名な絵本である筈の『ちびくろサンボ』を取り巻く偽らざる実情と言う訳でしてよ?」

「へえ、成程、そうなんですか。それで、その海賊版とやらは、具体的にどう言った点が原書から改変されてしまっているんですか?」

 僕がそう言って問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアは僕が『ちびくろサンボ』に興味を示した事に気を良くしたのか、益々嬉しそうにほくそ笑みながら逆に問い返す。

「でしたら万丈くん、万丈くんは『ちびくろサンボ』が一体どんなお話だったか、覚えておいででして?」

「ええ、勿論、覚えてますよ? 確かサンボと言う名の黒人の子供が両親に買ってもらったばかりの服を着てジャングルに散歩に出掛けたら、四頭の虎達に服を奪われそうになるけれど、その虎達が戦利品を奪い合って木の周りをぐるぐる回って溶けてバターになってしまうお話ですよね? それで最後は、その虎のバターでもってホットケーキを焼いて皆で食べて、お腹一杯になって万々歳って結末だった筈です」

 記憶の糸を手繰りながらそう言って、僕は覚えている限りの『ちびくろサンボ』の概要を解説してみせた。するとグエン・チ・ホアは、待ってましたとでも言いたげに嬉しそうにほくそ笑みながら、ここぞとばかりに蘊蓄を傾け始める。

「ええ、そうね? 世に出回ってしまっている海賊版の内容は、概ねそんな所で、正解なんじゃないかしら? でもね、万丈くん? 残念ながらあなたがたった今口にした『ちびくろサンボ』の概要は、ヘレン・バナーマンが著した原書と照らし合わせると、一行目から間違っていましてよ?」

「一行目から? と、言うと?」

「要するにこの絵本の主人公であるサンボは、所謂いわゆる黒人、つまりアフリカ系の黒色人種ネグロイドの子供ではないって事かしら?」

「え? 黒人の子供じゃない? タイトルが『ちびくろサンボ』なのに?」

 僕はそう言って驚かざるを得ないものの、そんな僕の大袈裟なリアクションもまた、グエン・チ・ホアにとっては想定の範囲内であった。

「どうやら、驚いていただけたみたいね? それではサンボは黒色人種ネグロイドではないとしたら一体如何なる人種の子供なのか、そもそもこの絵本の舞台となった国は果たしてどこの国なのか、そう言った第一義的な点からお話しさせていただいてもよろしいかしら?」

 純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアが僕の隣のスツールにそっと腰を下ろしつつそう言えば、僕は「はい、勿論です!」と声高らかに同意しながら、再び首を縦に振らざるを得ない。

「でしたらまず第一に考慮すべき点は、この『ちびくろサンボ』と言うタイトルの絵本がヘレン・バナーマンの赴任先であった英領インドの、タミル・ナードゥ州の州都マドラスで描かれたと言う事実でしてよ?」

「つまり、この絵本の舞台は、インドだと言う事ですか?」

「ええ、そうね? 結論から言ってしまえば、その可能性が最も高いと言わざるを得ないのではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、嬉々として蘊蓄を傾け続ける。

「著者であるヘレン・バナーマンは、夫と共に赴任した英領インドでおよそ三十年もの年月を過ごしたのですから、身近なインド人の子供を絵本のモチーフとして選んだ事は容易に想像出来てよ? それに赴任先のタミル・ナードゥ州はその名の通りタミル人が多く住む地方ですし、主人公の名前でもある『サンボ』はタミル人の男子の名前として現地で定着していると言う事実も、この説を裏付ける有力な証拠なのではないかしら?」

「成程」

 僕はそう言って、重ねて首を縦に振った。

「それにね、万丈くん? この原書の本文と挿絵にも、溶けた四頭の虎達の成れの果てであるバターがインドでは『ギー』と呼ばれている事に言及するシーンがありますし、そのバターを汲んだ真鍮の壺には『TIGER GHI』、つまり『虎のギー』とはっきりと描かれていましてよ? やはりこれらの事実もまた、澄ましバターの一種であるギーが広く普及しているインドが絵本の舞台であると言う説を裏付ける、揺るぎない証拠の一つなのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアはほくそ笑みながらそう言うと、まるで玩具オモチャの水飲み鳥か張り子の虎の様に首を縦に振る事しか出来なくなってしまっている僕に、とどめを刺す。

「更に注目すべき事実としては、この絵本の舞台が黒色人種ネグロイドが住むアフリカ大陸ではなくアジアのインドであると言う説を裏付ける決定的な証拠が本文から読み取れるのですけれども、それは如何なる点だかお分かりになって?」

「さあ、何ですか?」

「そもそもアフリカ大陸に、虎は生息しておりません事よ?」

「あ」

 僕はそう言って、はっと息を呑みながら、思わず頓狂な声を上げてしまった。確かに言われてみれば、ライオンやヒョウやチーターならともかく、アジア固有の食肉類である虎はアフリカ大陸には生息していない。

「如何だったかしら、万丈くん? これで、この絵本の舞台がアフリカ大陸ではなくアジアのインドであると言う説の信憑性の高さを、ご理解していただけて?」

「はい! 痛いほどはっきりしっかりと、理解しました! まさか、ずっと黒人の子供だとばかり思っていたサンボがインド人の子供だっただなんて、正直言って、僕、びっくりしました! それにバターの正体がギーだったと言う点も、虎がアフリカ大陸には生息していないと言う点も、今更ながら驚きです!」

「あら、そう? あたしが提唱する『ちびくろサンボインド人説』をご理解していただけて、あたしとしても、嬉しい限りでしてよ?」

 やはりベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアは少しばかり妖艶な香りが漂う流麗な声でもってそう言って、新たな知見を得た事によってきらきらと眼を輝かせるばかりの僕を前にしながら、にこにこと嬉しそうに微笑むのであった。

「でしたら次に、サンボの人種について言及してもよろしいかしら?」

 するとそう言ったグエン・チ・ホアが、尚も話を続けようとしたので、僕は少しだけ驚く。

「え? サンボはインド人って事で、結論とするんじゃないんですか?」

「ところがね、万丈くん? 一口にインド人と言っても、日本やフォルモサなんかと違って、インドと言う国は決して一つの人種だけでもって構成されているような小さな国ではなくってよ?」

「つまり、サンボの人種は?」

 僕はそう言って、革張りのスツールから軽く腰を上げて身を乗り出しながら、興味深げに問い掛けた。

「ええ、そうね? 仮にサンボが先程言及したタミル・ナードゥ州に住むドラヴィダ系のタミル人の子供だとしたら、彼は黄色人種モンゴロイドだと言う事に、ほぼ決定しましてよ? ですが、もし万が一にでもインド全域に広く分布するインド・アーリア人の子供だとしたら、サンボは白色人種コーカソイドだと言う事になってしまうのではないかしら?」

「サンボが白色人種コーカソイド? つまり、白人だって事ですか?」

 てっきり黒人の子供だとばかり思っていたサンボが実は白人の子供だったかもしれないと言うグエン・チ・ホアの解説に、再び頓狂な声を上げながら、僕はそう言って驚かざるを得ない。

「どう? あたしの仮説に納得してくれたかしら、万丈くん? 少しは驚いてくれたかしら? とは言え『ちびくろサンボ白人説』はあくまでも極端な仮説の一つであって、実際のところはサンボは南インドのタミル人の子供、つまりあたし達と同じ黄色人種モンゴロイドだと考えるのが妥当かと思われましてよ?」

 そう言って蘊蓄を傾け終えたグエン・チ・ホアの堂々たる姿に、僕は感心するやら感嘆するやら、とにかく驚かされるばかりであった。

「ええ、驚きました! まさかサンボが『ちび』で『くろ』なのに白人かもしれなかっただなんて、びっくりです! 重ね重ね、驚きました! さすがの博識ぶりですね、ホアさん!」

「あらあら、さすがの博識ぶりだなんて、万丈くんったら随分と嬉しい事を言ってくれるのね? あなたに驚いていただけて、あたしとしましても、自説を披露した甲斐があったと言うものじゃないかしら?」

 グエン・チ・ホアはにこにこと嬉しそうに微笑みながらそう言うと、カフェテリアの隣の席に腰掛けた僕の眼を医療用の眼帯越しにジッと見据えつつ、やがて彼女なりの結論へと至る。

「ねえ、万丈くん? ここで一つだけ、忠告させていただいてもよろしいかしら? この広い世界にはインド・アーリア人だけでなく、パシュトゥーン人やベルベル人と言った中東や北アフリカの諸民族の様に、黒い肌の白色人種コーカソイドも決して珍しい訳ではなくってよ? ですからぱっと見の肌の色なんてものは、その人の本質を見極めるための何の指標にもなり得ないって事を、あなたも忘れないでいてちょうだいな?」

「はあ……」

 妙に意味深な結論へと至ったグエン・チ・ホアの忠告に、僕はそう言って、気の無い返事を口にしながら一瞬ぽかんと呆けてしまった。

「それにしても、だとしたら、どうして世間一般的にはサンボは黒人の子供だと思われてしまっているんですか?」

 僕が改めてそう言って、そもそもの根本的な疑問点に関して問い掛ければ、問い掛けられたグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら懇切丁寧に解説してくれる。

「それはね、万丈くん? ついさっき言及したアメリカ合衆国の出版社が刊行した海賊版の挿絵が、ちょっとした偏見による思い込みと勘違いによって、原書のそれから差し替えられてしまった点が原因と考えられてよ?」

「ちょっとした偏見による思い込みと、勘違い? と、言うと?」

「つまりアメリカ人は、この『ちびくろサンボ』と言う絵本の表題タイトルに含まれる『Black』と言う形容詞から、彼らにとって最も身近な存在であった黒人しか想像出来なかったんじゃないかしら? 本来ならば黒人ではなく単に色黒である事を意味する形容詞であったにも拘わらず、黒色人種ネグロイドを意味する形容詞であると、うっかり勘違いしてしまったのでしょうね? ですからほぼ全ての海賊版の挿絵に於いて、サンボはインド人ではなく黒人の子供として描かれてしまっていますし、それは日本の岩波書店が刊行した日本語版の『ちびくろ・さんぼ』もまた例外ではなくってよ?」

「ああ、成程。要はイギリスの出版社とアメリカ合衆国の出版社との間で発生した、単なる形容詞の一つでしかなかった筈の『Black』の意味の解釈違いが、全ての元凶だったって事ですね?」

「ええ、そうね、まさにその通りね? サンボはアフリカ系の黒色人種ネグロイドではなく単に色黒であっただけのインド人の男の子、おまけに白色人種コーカソイドであった可能性も決して否定する事が出来ないだなんて、こんな寓話めいた皮肉な話が他にあるものかしら?」

 グエン・チ・ホアが『ちびくろサンボ』の原書を手にしながらそう言って、殊更愉快そうにくすくすとほくそ笑んだ次の瞬間、不意に『Hoa's Library』の正面玄関の扉が勢いよく開け放たれた。

「万丈! どうせあんたの事だから、性懲りも無く、またここに居るんでしょ! 大人しく出て来なさい!」

「淑華!」

 突然の闖入者に驚きながらそう言った僕の言葉通り、開け放たれた扉を潜って『Hoa's Library』の店内へと足を踏み入れたのは、僕の同級生であると同時に幼馴染でもある王淑華その人に他ならない。そして無駄におでこが広い彼女はずかずかと床板を踏み締めるかのような足取りでもって店内を縦断し、所狭しと陳列されたアンティーク雑貨の隙間をすり抜けてカフェテリアのカウンター席の前へと辿り着くと、革張りのスツールに腰掛ける僕とグエン・チ・ホアを睨み据える。

「淑華、どうしてお前がここに?」

「それはこっちの台詞セリフじゃないの! あんたがまたこんな胡散臭いお店に入り浸ってばかりだから、あたしやおば様が心配するって言ってるのに、どうしてそんな簡単な事も理解出来ないのかしら?」

 ふうふうと鼻息も荒いままそう言って、眼鏡のレンズ越しにこちらをキッと睨み据えながら僕と僕の行為を咎めるばかりの淑華であったが、そんな彼女も今日はちゃんと傘を差して来たらしく、その身を包む服も身体も少しも濡れてはいなかった。どうやらずぶ濡れの格好でこの店に足を運ぶと、濡れた服を半ば強引に脱がされるだけでなく、着替えと称してコスプレ紛いの純白のアオザイを着せられてしまう事を前回の一件でもって学習したものと思われる。

「あらあら、淑華ちゃんったら、今日もまたうちのお店に遊びに来てくれたのね? こんなに若くて元気なお客様が二人も来店してくださるだなんて、店主であるあたしとしましても、嬉しい限りじゃないかしら? さあさあ、さっそくあなたの分のお茶も淹れて差し上げますから、ゆっくりして行ってちょうだいな?」

 すると僕の隣の席に腰掛けるグエン・チ・ホアは笑顔を絶やさぬままそう言って、おもむろに革張りのスツールから腰を上げたかと思えば、鼻歌交じりにキッチンの方角へと足を向けた。そして淹れ立てのジャスミン茶が注がれた新たな茶碗を手にしながら再び姿を現すと、その茶碗をカフェテリアのカウンターの天板の上に並べつつ、怒り心頭の淑華をもてなし始める。

「さあ、どうぞ? 立ち話も何ですし、淑華ちゃんも遠慮無くここにお掛けになって、あたし達と一緒にお喋りに興じてみては如何かしら?」

 満面の笑顔と共にそう言ったグエン・チ・ホアは、僕の隣のスツールの座面をぽんぽんと優しく叩きながら着席を勧めるが、意固地な性格の淑華はそうそう簡単にはこれに応じない。

「いえ、結構です。あたしはここに、万丈を連れ戻しに来たのであって、あなたとお喋りしに来た訳ではありませんから」

 淑華はそう言ってきっぱりと固辞するものの、グエン・チ・ホアはそんな彼女の左右の肩に手を乗せて上から押さえつけ、強引にスツールに着席させようと試みる。

「あらあら、そんなつれない事を仰らないで、せめてお茶だけでも飲んで行ってくださらない? 若い女の子は誰もが皆冷え症だって言いますし、こんな寒い日に冷たい雨の中を歩いて来たんですから、あなたの手足も冷え切ってしまっているんでしょう? ですから万丈くんを連れ帰るにしても、淹れ立ての熱いジャスミン茶を飲んで、身体を内側から温めてから帰ってもよろしいんじゃないかしら?」

「まあ……そこまで言うのなら……お茶くらいは……」

 本来ならば意固地な性格である筈の淑華は意外にもそう言って、淹れ立てのお茶を飲んで行かないかと言うグエン・チ・ホアの甘言に、拍子抜けするほど呆気無く篭絡されてしまった。そして勧められるがままに革張りのスツールに腰掛けた彼女が熱いジャスミン茶が注がれた茶碗を手に取ると、どこからともなく大小一枚ずつの木の板を取り出したグエン・チ・ホアは、その二枚の木の板をカフェテリアのカウンターの天板の上に並べながら問い掛ける。

「ねえねえ、万丈くんも淑華ちゃんも、お二人とも占いはお好きかしら?」

「え? 占い?」

「はぁ? 占いですって?」

「ええ、そうね? 実はあたしったらこう見えても、一級占星術師の資格を有する占い師の端くれなものですから、良かったらあなた達の運勢も占って差し上げてもよろしくってよ?」

 ちょっとだけ自慢げにそう言ったグエン・チ・ホアがカウンターの天板の上に並べた大きな木の板の表面には、『A』から『Z』までのアルファベットが、『0』から『9』までのアラビア数字や『YES』や『NO』などの記号と共に印字されていた。そしてその上に置かれた小さなハート型の木の板の中央に眼を向けると、そこにはまるで、世界の真理を覗き込むための窓の様な丸い穴が開けられている。

「いえ、占いなんて、結構です。あたしはそんな非科学的なもの、一切信じていませんから」

 しかしながら占いや怪談などのオカルトの類に興味が無いらしい淑華はそう言って即答し、きっぱりと申し出を固辞するものの、既に占う気満々のグエン・チ・ホアは一向に動じない。

「あら、そうなの? 占いを信じていないだなんて、今時の若い女の子にしては珍しいんじゃないかしら? ですけど、もうこうして占いの準備は整いつつありますし、今更中断する事は出来なくってよ? ほらほら、万丈くんも淑華ちゃんも、このプランシェットの上に指先を乗せてちょうだいな?」

 グエン・チ・ホアが嬉々としてそう言えば、僕は素直に、淑華は渋々ながら、彼女がプランシェットと呼んだ小さなハート型の木の板の上にそっと指先を乗せた。

「お二人とも、準備はよろしいかしら? よろしいのでしたら、そろそろ占いを始めましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが何やらぶつぶつと聞き慣れない言葉の羅列を呪文の様に唱え始めると、僕ら三人が指先を乗せたプランシェットが、ウィジャ盤と呼ばれた大きな木の板の上でぶるぶると小刻みに震え始める。

「天上天下、あまねく世界を満たして止まぬ四大元素の精霊達よ、人々と神々との悠久の契約に基く召喚と要請に従って、我らが求むるべき答えを指し示してくださるかしら?」

 聞き慣れぬ言葉の羅列による呪文に引き続きグエン・チ・ホアがそう言って精霊にお伺いを立てたかと思えば、僕ら三人が指先を乗せたプランシェットがまるで氷の上のカーリングのストーンの様にすうっと音も無く滑り出し、やがてウィジャ盤の表面に印字された『YES』の記号の上でぴたりと停止した。

「さあさあ、どうやらこれで、ウィジャ盤とプランシェットによる占いの準備は整ったみたいね? それではさっそくですけれども万丈くんも淑華ちゃんも、何か精霊達に、お聞きしてみたい事はありまして?」

 グエン・チ・ホアはそう言って問い掛けるが、彼女と一緒にウィジャ盤を囲む僕も淑華も取り立てて占ってほしいような心配事がある訳ではないので、二人揃って首を横に振りながら口をつぐむ。

「あら、そうなの? でしたら古今東西を問わず若い子を占う際のお決まりのセオリーに従いまして、まずは恋バナ、つまり男女の色恋沙汰についてお聞きしてみるのが世の常と言うものかしら?」

「だ、だだだ、だん、男女の色恋沙汰だなんて、ちょっと、あたし、そんな話聞いてませんから!」

 ウィジャ盤とプランシェットを用いて占うべき命題テーマを半ば強引かつ一方的に決定させられてしまった淑華はそう言って、激しくどもりながらあわあわと泡を喰って動揺するものの、やはりグエン・チ・ホアは一向に動じない。

「あらあら、淑華ちゃんったら、占いの途中でプランシェットから指を離してしまっては駄目ですからね? さあ、それでは改めて、精霊達にお聞きしましてよ? 今現在、万丈くんには恋人、もしくは想い人はられるのかしら?」

「え? 僕も占うんですか?」

 僕がそう言って驚きを隠せないでいるその間にも、僕と淑華、それにグエン・チ・ホアの三人が指先を乗せたプランシェットはウィジャ盤の上をふらふらと彷徨さまよった後に、やがて『YES』の記号の上で再び停止した。

「あらあら、どうやら今現在の万丈くんには既に交際中の恋人か、もしくは心に決めた想い人がられるようね? どうかしら、万丈くん? 図星でして?」

「はあ、まあ、その……」

 グエン・チ・ホアに問い掛けられた僕は視線を泳がせながらそう言って、どうにも言葉を濁さざるを得ない。何故ならその想い人が、今まさに眼の前に居るなどとは口が裂けても言えないからである。

「それでは万丈くんに引き続きまして、次は淑華ちゃんに関する色恋沙汰について占って差し上げる番かしら?」

「え? あたしも?」

 何故か顔面を真っ赤に紅潮させながらそう言って驚くばかりの淑華を尻目に、純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアが「さあ、精霊達にお聞きしましてよ? 今現在、淑華ちゃんには恋人、もしくは想い人はられるのかしら?」と何も無い虚空に向けて問い掛ければ、再びウィジャ盤の上をふらふらと彷徨さまよったプランシェットは三度みたび『YES』の記号の上で停止した。

「あらあら、万丈くんだけでなく淑華ちゃんにも想い人がられるだなんて、お二人とも青春を満喫していらっしゃるのね? あたしみたいないい歳したおばさんからしてみれば、あなた方の若さが羨ましい限りでしてよ?」

 くすくすとほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアは、ものはついでとばかりに虚空に向けて問い掛ける。

「さあ、それではせっかくですから、精霊達にお聞きしましてよ? 果たして淑華ちゃんの想い人はどこのどなたなのか、今ここで、あたし達にそのお名前を教えてくださるかしら?」

「はぁ? ちょ、ちょちょちょちょっとちょっと、あんた、黙って聞いてれば、さっきから一体何言ってんの? そそそそんな馬鹿げた事をわざわざ占うだなんて、いい加減にしないと、あたし、本気で怒りますからね?」

 突然の事態に驚いた淑華は顔面を真っ赤に紅潮させたまま眼を白黒させながらそう言って、やはりくすくすとほくそ笑むばかりのグエン・チ・ホアの眼帯に覆われていない方の瞳を、ウィジャ盤が置かれたカフェテリアのカウンター越しにキッと睨み据えた。しかしながら彼女らが睨み合っているその間にも、僕らが指先を乗せるプランシェットは、ウィジャ盤の表面に印字された『A』から『Z』までのアルファベットの始まりの方へとゆっくりと移動し始める。

「ああああぁぁぁぁっ!」

 そしてプランシェットがアルファベットの『B』に差し掛かったところで、堪らずそう言って薬丸自顕流の猿叫にも似た奇声を発しながら、完全に気が動転した淑華がウィジャ盤を力任せにひっくり返してしまった。ひっくり返されたウィジャ盤がプランシェットと共に宙を舞い、カウンターの天板の上から『Hoa's Library』の板敷きの床の上へと転がり落ちて、からからと乾いた音を立てる。

「あらあら、歳若い女の子がいきなりウィジャ盤をひっくり返してしまうだなんて、淑華ちゃんったら、ちょっとはしたないんじゃないかしら? そんな事ですと、せっかくの想い人からも嫌われてしまいかねなくってよ?」

 グエン・チ・ホアは板敷きの床の上へと転がり落ちたウィジャ盤とプランシェットを拾い上げながらそう言ってたしなめるものの、たしなめられた淑華は怒っているのか恥ずかしいのか無言のままはあはあと肩で荒い息をするばかりで、どうにも要領を得ない。

「おいおい、何だよ淑華、そんなに本気マジになるなよな。昔っから占いなんてものは、当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うじゃないか。もっと気楽に構えていればいいんだよ」

「う、ううう、うるさい! うるさい! うるさい! だからあたしは、占いなんて非科学的なものは一切信じてないって言ったんですからね! ああ、もう、知らない! 知らない! 知らない!」

 僕もまた興奮冷めやらぬ様子の淑華をなだめようと試みるものの、相変わらず顔面を真っ赤に紅潮させたままの彼女はぶるぶると肩を震わせながらそう言って激昂するばかりで、どうにもこうにも取り付く島も無いとはまさにこの事である。

「それでしたら、占いはこのくらいにしておきましょうかしら? ご気分を害したようでしたらごめんなさいね、淑華ちゃん?」

 そしてそう言ったグエン・チ・ホアが拾い上げたウィジャ盤とプランシェットを片付け終えるのとほぼ同時に、不意に『Hoa's Library』の正面玄関の扉が開いたかと思えば、見慣れぬ人影が店内へと足を踏み入れた。

「あら、いらっしゃいませ? どうぞ、ごゆっくりご覧になって行ってくださいな?」

 グエン・チ・ホアはそう言って店内へと足を踏み入れた人影を出迎えるが、背格好からするとアジア人の成人男性であるらしきその人影は、どれだけ贔屓目に見ても歓迎し難いような奇妙な来客と言わざるを得ない。何故なら彼はティアドロップのサングラスと医療用の不織布マスクを装着する事によって人相を悟らせず、おまけにつばの広い中折れ帽を目深に被ってモッズコートの襟を立て、一目瞭然、まるで強盗か何かの様に顔を隠そうと試みていたからだ。

「お客様、何か、お探しの商品はございまして?」

 グエン・チ・ホアがカウンター越しにそう言って問い掛ければ、マスクとサングラスの男は一通り店内を物色してからカウンターに歩み寄り、逆に問い返す。

「実はこの店で『ちびくろサンボ』の古い初版本を取り扱っとるっちゅう噂を小耳に挟んで来たんやけんども、それはほんまやろか? ほんまなんやったら、今、その原書はどこにあるんや? 保存状態は? 冊数は? 値段は、なんぼやねんな? まさかとは思うけんども、もう既に、売れてしまいよったとか言うんちゃいますやろな?」

 マスクとサングラスの男はそう言って矢継ぎ早にまくし立てながら、まさに文字通りの意味でもって、この店の経営者であるグエン・チ・ホアをカウンター越しに問い詰めた。すると問い詰められた筈のグエン・チ・ホアは嫌な顔一つせず、むしろその整った顔立ちに浮かべた笑みを絶やしも崩しもせぬままに、眼の前の不審で不躾な男の詰問に応じる事をいとわない。

「ええ、そうね? お客様が小耳に挟まれたと言う噂は、事実に相違無いのではないかしら? 確かにお客様の仰る通り、つい昨日、当店は『ちびくろサンボ』の原書を入荷しましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは、マスクとサングラスの男に向けて、硬質プラスチック製の保護ケースに収納された『ちびくろサンボ』の絵本の原書を掲げてみせた。

「ああ、それや! それを今すぐに、俺に売ってくれ!」

 マスクとサングラスの男は、眼の前に掲げられた『ちびくろサンボ』の絵本の原書を今にも奪い取らんばかりの剣幕でもってそう言うが、そんな彼に応対するグエン・チ・ホアは困り果てる。

「お客様、誠に申し訳ありませんが、こちらは当店で取り扱う商品の象徴的存在として入荷しました貴重で希少な非売品でしてよ? ですから少なくとも当面の間はどなたにもお売りするつもりの無い事を、どうか、ご理解していただけないものかしら?」

 グエン・チ・ホアはそう言って『ちびくろサンボ』の絵本の原書の売却を拒否するものの、マスクとサングラスの男もまた何かしらの事情があってか無くてか、そうそう簡単には引き下がらない。

「そう言わんと、この通り頭を下げるさかいに、その原書とやらを俺に売ってくれ! 金に糸目は付けへん! なんぼや? なんぼ出せば、売ってくれるんや?」

「ですからお客様、どれほどお金を積まれましても、こちらの原書を売るつもりは無くってよ?」

「そこを何とか、考え直してくれへんか? どないしても、その本が必要やねんな!」

「あらあら、そんなに強情を張られるだなんて、どうしたものかしら? あたし、困ってしまいましてよ?」

 溜息交じりにそう言って困り果てるばかりのグエン・チ・ホアとマスクとサングラスの男は、暫し『Hoa's Library』のカウンターを挟んで押し問答を繰り返し、どちらも互いの主張を曲げぬまま一歩も退かない様子であった。そしてそんな二人の様子をちらちらと横眼でうかがいながら、カフェテリアの革張りのスツールに腰掛けた僕は、隣のスツールに腰掛ける淑華に問い掛ける。

「なあ、淑華? お前、知ってるか? 実は『ちびくろサンボ』の主人公のサンボは、もしかしたら、白人だったかもしれないんだってよ?」

「はぁ? ちょっと、万丈ったら、何を馬鹿な事言ってんの? どこからどう見ても、サンボは正真正銘の黒人に決まってるでしょ? そうでなかったら、わざわざ『黒人差別をなくす会』が『ちびくろサンボ』の出版社に抗議する訳無いじゃないの! まったく、あんたは昔っから馬鹿なんだから!」

 教えてもらったばかりの蘊蓄をさっそく傾けようとした僕であったが、淑華は鰾膠にべも無くそう言って、僕を小馬鹿にする事に余念が無い。そして僕が淑華に小馬鹿にされているその間にも、マスクとサングラスの男とグエン・チ・ホアとの押し問答にも進展があったらしく、二人の声のトーンが変化する。

「そうか、分かったで。どうやらあんたは、何があっても、その『ちびくろサンボ』の原書とやらを俺に売るつもりは無いっちゅうねんな?」

「ええ、そうね、まさにお客様の仰る通りではないかしら? 返す返すも申し訳ありませんが、あたしと当店の経営方針を、ご理解していただけまして?」

「ああ、理解させてもろたで。そしてどうしても売るつもりが無いっちゅうんなら、俺も暇やないさかいに、今日のところは出直す事にさせてもらうわ。ほな、さいなら」

 最後に吐き捨てるかのような口調でもってそう言ったマスクとサングラスの男は、その場でくるりと踵を返すと、モッズコートの襟を立て直しながら『Hoa's Library』の正面玄関の方角へと足を向けた。そして白檀の香りが漂う店内を縦断した後に飴色に光り輝く扉を潜り抜け、やがて僕らの視界から姿を消したかと思えば、雨に濡れた彼の革靴の靴跡だけが板敷きの床に点々と残される。

「……何か、変なお客さんでしたね」

 結露に曇る窓ガラス越しに戸外の様子を確認し、階段を駆け下りたマスクとサングラスの男が『Hoa's Library』がテナントとして入居する雑居ビルから完全に立ち去ったのを見届けてから、僕はそう言った。

「ええ、そうね? ところで万丈くんも淑華ちゃんも、お気付きになられて?」

「ん? お気付きに? 何にですか?」

 僕がそう言って問い返せば、グエン・チ・ホアは、ちょっとだけおぞましげな事を言い始める。

「あなた方お二人が『ちびくろサンボ』のサンボがもしかしたら白人で、でしたらどうして『黒人差別をなくす会』がその出版社に抗議したのかしらと言った点について意見を交わし合っていた際に、あのお客様がもの凄く鋭い眼差しでもってあなた方を睨み付けていらしたのよ?」

「え? ホアさん、それ、本当ですか?」

「やだ、何それ、怖い!」

 グエン・チ・ホアから衝撃の事実を告げられた僕と淑華はそう言って、ほぼ見ず知らずの赤の他人から理由も分からぬまま睨み付けられていたと言う彼女の言葉に戦慄し、背筋にぞっと悪寒を走らせた。

「それにしてもホアさんってば、あの変なお客さんも大きなサングラスを掛けて眼元を隠していたのに、よくそんな些細な事に気付きましたね?」

「ええ、そうね? あたしったらこう見えても、意外と眼は良くってよ?」

 そう言ってくすくすとほくそ笑みながら、グエン・チ・ホアが彼女の左眼に当てられた医療用の眼帯を意味深な手付きでもって撫で擦れば、僕はついでとばかりに重ねて問い掛ける。

「ところであのお客さん、この店で『ちびくろサンボ』の原書を取り扱ってるって噂を小耳に挟んで来たって言ってましたけど、一体どこにそんな噂が流布されていたんでしょうね?」

「あら、それはきっと、あたしが昨夜投稿したこれを見て来たんじゃないかしら?」

 再びカフェテリアのスツールに腰を下ろしながらそう言って、純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアは、カウンターの天板の上に置いてあった彼女のスマートフォンを手に取った。そして電源を入れて数回タップした液晶画面をこちらに向けてみれば、そこにはインスタグラムの『Hoa's Library』の公式アカウントのタイムラインと、入荷したばかりの『ちびくろサンボ』の絵本の原書を手にしたグエン・チ・ホアの自撮り写真もまた表示されている。

「あたしったら売る気も無い癖に、念願の『ちびくろサンボ』の原書を手に入れた事が嬉しくって、ついつい後先考えずにこんな写真を投稿してしまったのよね? あのお客様がこの写真を見て来店されたのだとしたら、とんだ無駄足を踏ませてしまったのではないかしら?」

 グエン・チ・ホアは如何にも申し訳無さそうに、眉根を寄せながら溜息交じりにそう言うが、今更そんな事を悔いてみたところで覆水は盆に返らない。

「ところで、万丈?」

「ん? 何?」

「さっきあんたが言ってた『ちびくろサンボ』の主人公のサンボが白人だったかもしれないって話、あれって結局、どう言った理屈だったの?」

 すると今更ながらではあるものの、カフェテリアのスツールに腰掛けた淑華がそう言って、先程までの僕の発言に改めて興味を示した。

「ああ、それはね……」

 しかしながら僕がそう言って口を開き掛けたところで、そんな僕の機先を制するかのような格好でもって、グエン・チ・ホアが割って入る。

「はいはい、万丈くんも淑華ちゃんも、お二人ともちょっとよろしくって? せっかく仲良くご歓談されているあなた方にこんな事をお願いするのも何ですけれども、そろそろ荷物を纏めていただいて、ご帰宅の準備をしてくださらないかしら?」

「え? どうしてですか? 未だ閉店時間じゃありませんよね?」

 突然退店を促し始めたグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言って、ポケットから取り出した僕自身のスマートフォンでもって現在の時刻を確認しながら問い返した。

「ええ、そうね、その通りね? 確かに万丈くんの仰る通り、未だ本来の閉店時間ではなくってよ? ですけど今夜これから、あたしは古い友人と一緒に、フォルモサの中心部までお出掛けしないといけなくなってしまったのよね? ですからこんな事をお願いするのも心苦しい限りですけれども、今日はもうこれで、閉店と言う事にさせていただけないかしら?」

 この店の経営者であるグエン・チ・ホアにそう言って懇願されてしまっては、僕にも淑華にも、これを拒否する義務も権利も無い。

「そうですか、そう言った理由でしたら、今日のところはもうこれで帰らせていただきます。ほら、淑華、帰るぞ」

 僕はそう言って隣に座る淑華にも退店と帰宅を促すと、荷物を纏めた学生鞄を担ぎながら、白檀の香りが漂う『Hoa's Library』のカフェテリアの革張りのスツールから彼女と共に腰を上げた。

「それじゃあホアさん、さようなら。また明日、今度はちゃんと勉強しに来ますから」

「ええ、また明日、お会いしましょうね? お二人とも視界を遮らないように傘を差しながら、車に気を付けてお帰りなさい?」

 そう言って手を振るグエン・チ・ホアに見送られながら、僕と淑華の二人は飴色に光り輝く扉を潜って『Hoa's Library』から退店すると、そのまま雑居ビルからも退出して帰宅の途に就く。

「ねえ、万丈?」

「ん?」

「さっきは話の腰を折られて答えを聞きそびれちゃったけど、あんたが言ってた『ちびくろサンボ』の主人公のサンボが白人だったかもしれないって話、あれって結局、どう言った理屈だったの?」

 二人並んで傘を差しながら、宵闇に沈む骨董街から自宅の方角へと続く夜市沿いの裏通りをとぼとぼと歩きつつ、淑華がそう言って僕に問い掛けた。

「ああ、それはね……」

 そう言って改めて答え合わせを始めた僕の頭上を覆う、降りしきる氷雨でもってしとどに濡れたビニール傘の小間生地が、夜市のネオン看板の灯りを反射して七色に光り輝いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る