グエン・チ・ホアの素敵な商売

大竹久和

プロローグ


 プロローグ



 一年365日のほぼ全ての日々に於いて、朝から晩まで絶え間無く雨が降り続ける事で知られる街、常雨都市フォルモサ。そんなフォルモサの街の住人であるこの僕は、今朝もまたそぼ降る雨が奏でる、しとしとと言う微かな雨音に鼓膜をくすぐられるような格好でもって眼を覚ました。

「……」

 いや、正確には決して耳に届く雨音だけでもって眼を覚ました訳ではない事を、あらかじめ釈明させてもらうべきであろう。何故なら幼い頃からこの街に住んでいる僕はすっかりこの環境に慣れ切ってしまっているが故に、優しく規則正しい雨音はむしろ眠気を誘うばかりであって、聞けば聞くほどぐっすり熟睡してしまう体質なのだから是非も無い。それでは如何なる手段を講じて眼を覚ましたのかと言えば、中学校に入学すると同時に両親に買ってもらった文明の利器、つまり枕元に置いておいたスマートフォンが奏でる電子的なアラーム音によってである。

「……あと十分……いや……あと五分……」

 しかしながらスマートフォンの液晶画面をスワイプして眼覚ましアプリを強制終了させると、僕はそう言って眼を瞑り、二度寝を決め込み始めてしまった。冷たい雨がしとしととそぼ降る真冬の早朝の、温かくて柔らかい布団の中と言うのはこの世で最も心地良い空間なのだから、僕の二度寝を咎める人など存在しよう筈も無い。

「お兄ちゃん! もう朝だぞ! 早く起きろ!」

 早々に前言を撤回させてもらわなければならないが、僕の部屋に文字通りの意味でもって駆け込んで来るなり大声でもってそう言って、二度寝を許さない人物が同じ屋根の下に一人だけ存在していた。その人物の名は数井千糸かずいちいと、つまり今年の春に小学一年生になったばかりの、僕の歳の離れた妹である。

「なんだよ千糸、もうちょっとくらい寝かせてくれないか? それからお前、もっと女の子らしい言葉遣いを心掛けないと、口が腐ってブスになるぞ?」

「うるさい! 早く起きないと、お兄ちゃんの分のジョウも、あたしが食べちゃうからな!」

「ああ、もう! 分かった、分かったよ! ちゃんと起きるから、少しは静かにしろってば!」

 生意気盛りの千糸に半ば叩き起こされるような格好でもって、そう言った僕はベッドの上の布団の中からのそのそと這い出ると、自室の板敷きの床におもむろに降り立った。夜の内に冷え切った敷板の硬くひんやりとした感触が足の裏に伝わって、何とも言えず心地良い。

「おはよう」

「あら? 万丈ったら、今日は珍しく寝坊しなかったのね」

「うん、千糸に強引に叩き起こされた」

 自宅の二階の自室から一階のリビングダイニングへと移動した僕はそう言って、ソファに腰を下ろしたままテレビを観ていた母と朝の挨拶を交わし終えると、ダイニングテーブルの自分の席に着いて朝食を摂り始めた。ちなみに今しがた母が口にした『万丈』と言うのが、数井万丈かずいばんじょう、つまり高校二年生で17歳になったばかりの僕の名前である。

「千糸、お前はさっきから見てれば揚げパンばっかり食べてないで、ちゃんと香菜シャンツァイも一緒に食べなさい。好き嫌いは良くないぞ」

 パジャマ姿のままの僕はそう言って、同じダイニングテーブルの向かいの席に腰を下ろす妹の千糸が、彼女が嫌いな香菜シャンツァイを除けながらジョウを食べているのを見咎めた。

「やだ! あたし、香菜シャンツァイってカメムシみたいな匂いがするから、嫌いなんだもん!」

 しかしながらそう言った千糸は僕の苦言と助言には耳を貸さぬまま、乳歯が生え変わる時期の子供らしく前歯が抜けた口でもって、朝食であるフォルモサ風のジョウをずるずると大きな音を立てて啜りながら食べる手を止めない。

「まったく、我が妹の事ながら、先が思いやられるよ」

 僕がそう言って溜息交じりに呆れ返れば、そんな僕と千糸を他所にテレビを観ていた母が、不意に一驚の声を上げる。

「あら、そうなの?」

 そう言った母の声に、彼女が凝視しているテレビの液晶画面に眼を向けると、そこには仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包む一人の黒人男性が映し出されていた。

「ねえねえ、万丈、あなた知ってた? このアンブローズさんって人、名字がホンダだからてっきり日系アメリカ人なんだと思ってたら、母親の再婚相手がたまたま日本人だっただけなんですって! だから、日本人の血は一滴も流れていないって事じゃない? あたし、まんまと騙されちゃった!」

 騙されたも何も、母が勝手に勘違いしていただけの事に過ぎないのに、むしろ経歴詐称の濡れ衣を着せられたアンブローズさんとやらの方こそいい迷惑である。

「それで、そのアンブローズさんって、どこの誰なの?」

 ジョウを食べながら僕がそう言って問い掛ければ、今度は母が呆れ返らざるを得ない。

「あらやだ、万丈ったら、そんな事も知らないの? アンブローズさんって言ったら、ここ最近ずっとテレビで騒がれている、次のアメリカの大統領になる事が決まった人じゃないの! まったく、あなたみたいな最近の若い子はテレビでもネットでも、ニュース番組には興味が無いのかしらねえ?」

 呆れ返りながらそう言った母の言葉にちょっとだけかちんと来た僕は、だったら少しくらいはニュース番組とやらを観てやろうじゃないかと思い立ち、彼女と一緒にテレビの液晶画面を凝視しつつキャスターの声に耳を傾ける事にした。

「……全米初の直接選挙による大統領選に勝利した民主党のアンブローズ・トマス・ホンダ候補は、史上最年少であると同時にバラク・オバマ氏以来の黒人大統領として、年明け早々の就任式での演説で語られるべき内容が国内外から注目されており……」

 そう言って淀み無く原稿を読み上げるニュースキャスターの言葉から推測するに、このアンブローズ・トマス・ホンダと言う名の黒人男性は、どうやら次期アメリカ合衆国大統領に選出された人物であるらしい。そんな世界の命運を左右するかもしれない重要人物の顔も名前も知らなかったとは、僕は僕自身の無知蒙昧ぶりに、どうにも恥じ入るばかりである。

「……ホンダ候補は母親が再婚した少年期から青年期に掛けての青春時代を日本で謳歌した大の親日家としても知られている事から、当時の彼の地元であった大阪府堺市では、ホンダ候補の大統領選に於ける歴史的勝利を祝して大規模な祝賀会を開催する事を決定しており……」

 そしてどうやら、アフリカ系アメリカ人であった彼の母親が日本人男性と再婚したアンブローズ・トマス・ホンダは、日本の大阪へと移り住み、そこでおよそ十五年間の多感な時期を過ごしたのだそうだ。

「万丈、あなた、そんなにゆっくりしてていいのかしら? そろそろ急がないと、遅刻するんじゃない?」

「え? あ、もうこんな時間か!」

 はっと我に返りながらそう言った僕は大急ぎでジョウを掻っ込み、バスルームで顔を洗ってから自室に取って返して制服に着替えると、学生鞄を担いで玄関の方角へと足を向ける。

「行って来ます」

 そう言って自宅の玄関扉を潜った僕は傘を差しながら、氷雨に濡れるフォルモサの街の真冬の外気にその身を晒し、今度は街の反対側の学校の方角へと足を向けた。そして同じ学校に通う学友達と足並みを揃えつつ、通学路を歩き続ければ、やがて国立南天大学付属高等学校の正門前へと辿り着く。

「あら? 万丈ったら、随分と遅かったじゃない。今朝も遅刻ギリギリね。少しはあたしを見習って、もっと余裕を持って登校したらどうかしら?」

 朝のSHR《ショートホームルーム》の開始を告げるチャイムに急かされながら登校してみれば、一人の女生徒が皮肉ですらない嫌味交じりにそう言って、数多の生徒達でごった返す二年D組の教室に駆け込んだ僕を軽蔑の眼差しと共に出迎えた。

「何だよ淑華、その言い草は。ギリギリとは言え遅刻した訳じゃないんだから、別に何の問題も無いだろ?」

 僕はそう言って抗弁したものの、おでこが無駄に広くてセルフレームの眼鏡を掛けた女生徒、つまり僕の同級生であると同時に幼馴染でもある王淑華ワン・シュファは納得しない。

「ふん、ものは言いようって奴ね。だけど万丈、どうせあんたの事だから昨日までのクリスマスの連休で浮かれてはしゃぎ過ぎて、うっかり寝坊するくらい夜更かししちゃったんでしょ? 違う?」

「おいおい、淑華、馬鹿にすんなよ? いくら僕だって、もう子供じゃないんだから、クリスマスくらいで浮かれてはしゃぎ過ぎたりしないからな? ……いや、まあ、サンタクロースからプレゼントを貰ったのが嬉しくてはしゃぎ回る千糸の面倒を見ていたら、うっかり寝るタイミングを逸したのは事実だけどさ」

「ほら見なさい、やっぱりあたしが言った通り、夜更かししてるんじゃないの! しかも妹の千糸ちゃんを言い訳に利用するだなんて、男の風上にも置けない卑怯者ぶりね! 恥を知りなさい、恥を!」

「……」

 幼馴染である淑華の剣幕に気圧けおされた僕はぐうの音も出ないまま、口をつぐんで多くを語らず、図星を突かれてしまった気不味さから只々沈黙するばかりであった。するとチャイムが鳴り終えるのとほぼ同時に教室に姿を現した担任のチェン教諭が、黒い綴込とじこみ表紙の出席簿でもって教卓の天板を叩きながら、そんな僕と淑華をたしなめる。

「数井、王、お前ら二人の仲が良いのは結構な事だが、夫婦喧嘩はそのくらいにしておいて、そろそろ席に着きなさい」

 陳教諭はそう言って、僕ら二人をたしなめはするものの、勝ち気な性格の淑華は承知しない。

「はぁ? 夫婦喧嘩ぁ? ちょっと陳先生、仮にも教育者である筈のあなたが、そんな馬鹿げた事を言わないでくれませんか? あたしとこいつとは、ここに居る万丈とは、天地神明に誓って夫婦なんかじゃありませんからね!」

 たとえ口論の相手が教師であったとしても、決して物怖じする事無く、淑華はそう言って陳教諭の発言をきっぱりと否定した。

「そうかそうか、分かった分かった。とにかく数井も王も、早く席に着きなさい。お前ら二人の夫婦喧嘩だか痴話喧嘩だかに構っていたら、朝のSHR《ショートホームルーム》がいつまで経っても終わらないからな」

 そう言ってたしなめる陳教諭の言葉に渋々ながらも従って、教室内に整然と並べられた学生机の内の自分の座席に僕と淑華が腰を下ろせば、教壇の上に立つ陳教諭は改めて口を開く。

「諸君らもご存知の通り、長いようで短かった高校二年生の二学期も、とうとう最終日を迎える事となった。文化祭、修学旅行、体育祭、それにクリスマスと言った楽しいイベントの数々を満喫し終え、いよいよ年明けの来年からは、諸君らは三年生に進級する。高校三年生、つまり、受験生だ。我が校は国立南天大学の付属高等学校だが、決して全ての生徒が簡単に、自動的に進学出来ると言うものではない。進学試験を受ける者も、他の大学を受験する者も、等しく苦難の一年間を経験する事となるだろう。しかしながら決して挫ける事無く、自らが掲げた目標に向かって、決して後悔する事の無い充実した一年間を過ごしてほしい。いいね?」

 陳教諭がそう言って進学と受験について言及すれば、二年D組の教室に居並ぶ僕ら生徒達は、勢い背筋をぴんと伸ばしながら気を引き締めざるを得ない。

「とは言え、裏を返せば、未だ本格的に受験が始まるまで一年間の猶予があるとも解釈出来る。だから今年の年末年始は来年の分まで楽しむつもりで、思いっ切り羽を伸ばすといいだろう。それでは終業式が始まるから、全員、時間までに講堂に集合するように! さあ、急げ急げ!」

 やはり黒い綴込とじこみ表紙の出席簿でもって教卓の天板を叩きながら、陳教諭がそう言って急き立てれば、急き立てられた僕らは二年D組の教室を後にした。そしてコンクリート造りの新校舎の廊下をぞろぞろと連れ立って渡り切り、旧校舎のすぐ隣に建つ講堂へと全てのクラスの生徒達が集合してみれば、やがて二学期の終焉を告げる終業式の幕が切って落とされる。

「皆さん、とうとう来週には新年を迎える訳ですが、冬休みだからと言って決して気を緩めてはいけません。この時期は体調を崩し易く、うっかり炬燵に潜り込んだまま寝入って風邪を引いてしまう事など無いように、常日頃以上に自らを律した生活態度を心掛けながら……」

 登壇した禿げ頭の学校長が、全校生徒に向けて壇上から式辞の言葉を投げ掛けはするものの、退屈極まりない彼の言葉に真面目に耳を傾けているような奇特な者が存在しよう筈も無い。そして学校長に続いて生活指導の教師の言葉も適当に聞き流し、やがて終業式の幕が閉じれば、僕ら二年D組の生徒達は元居た教室へと帰還する。

「それでは諸君、冬休み明けの三学期も諸君らの元気な姿を拝める事を、心から楽しみにしている! 以上、解散!」

 教室に帰還してみれば今学期最後のLHR《ロングホームルーム》が恙無つつがなく進行し、全ての生徒達に通知表が手渡されれば、やがてそう言った陳教諭の言葉を合図にしながら解散した僕らは帰宅の途に就いた。

「ちょっと! 万丈ったら、あたしが掃除を終わらせるまで、その辺で大人しくしながら待ってなさいよ! ここ最近あんたの帰りがずっと遅いもんだから、ちゃんと真っ直ぐ家まで送り届けるように、あんたのおば様に頼まれてるんですからね!」

 幸か不幸か掃除当番であった淑華は学生机を教室の後方に並べながらそう言って、帰り支度を終えたばかりの僕をその場に引き留めようとするものの、そんな彼女の言葉に素直に従ってやる義理も無い。

「やなこった! 母さんがお前に何を頼んだのか知らないけれど、僕は僕の好きにさせてもらうよ! じゃあな!」

「あ、こら! 万丈ったら、待ちなさいよ! 待ちなさいってば! 待てって言ってるでしょ!」

 声を張り上げながらそう言って僕を引き留めようとする淑華の言葉を無視しつつ、学生鞄を担いだ僕は二年D組の教室から退出し、数多の生徒達で賑わう新校舎の廊下を全速力でもって駆け出した。そして廊下を駆け抜けて下駄箱で外履きに履き替え、昇降口の扉を潜って小雨が降りしきる戸外の空気にその身を晒すと、そのまま正門の向こうの繁華街の方角へと足を向ける。

「ホアさん、今日も店に居るかな?」

 終業式を終えたばかりの国立南天大学付属高等学校を後にした僕はそう言って独り言ちながら、フォルモサの街の中心部でもある夜市を駆け抜けると、そのまま夜市と並行して走る裏通りの一つへと足を踏み入れた。この辺り一帯は俗に『骨董街』と呼称され、夜市の露店よりも高級で上等な骨董品や民芸品を専門に取り扱う、観光客ではなく地元の富裕層を顧客とする店舗が軒を連ねる通りである。

「よし! 店は開いてる!」

 やはりそう言って独り言ちながら、頭上を振り仰いで店舗の灯りが点いているかどうかを確認した僕は骨董街の一角に建ち並ぶ、古風な意匠による装飾が施された雑居ビルの一つに足を踏み入れた。そして狭くて暗くて傾斜が急な階段を、硬い木材で出来た手摺を撫でつつ駆け上がれば、やがて『Hoa's Library』と言う店名が掲げられた一枚の扉の前へと辿り着く。階段の手摺と同じく硬い木材で出来た扉にはレトロな歪みガラスがめ込まれ、何十年もの永きに渡って人の手によって繰り返し触れられて来たせいか、その木目は鈍い飴色に光っていて眼に眩しい。

「こんにちは!」

 僕は鈍い黄金色に輝く真鍮製のノブを回して扉を開けると、そう言って快活な挨拶の言葉を口にしながら、この雑居ビルの二階にテナントとして入居する『Hoa's Library』の店内へと足を踏み入れた。扉を潜ると同時に、甘く爽やかな白檀の香りが鼻腔粘膜をくすぐって、どこか遠い異国の様なエキゾチックな空気に包まれる。

「あら、いらっしゃい? 万丈くんったら、今日もまた、うちのお店に遊びに来てくれたのね?」

 どこまでも澄み渡る春先の青空の様に一点の曇りも無い、それでいて少しばかり妖艶な香りが漂う流麗な声でもってそう言って、店内に足を踏み入れた僕を一人の成人女性が出迎えた。

「はい、また遊びに来ました! ……あの、えっと、もしかして、僕が来たら迷惑でしたか?」

 僕がそう言って恐る恐る問い掛けると、僕を出迎えた一人の成人女性、つまり古い本や家具などのアンティーク雑貨を取り扱うこの店を経営するグエン・チ・ホアは、くすくすとほくそ笑みながらそれを否定する。

「ううん、まさか、そんな事無くってよ? 年がら年中閑古鳥が鳴いているようなうちのお店に、あなたみたいに若くて元気な男の子が足繁く通ってくれているのですから、歓迎しない訳が無いでしょう?」

「そうですか、それを聞いてホッと一安心しました。ホアさんにそう言ってもらえなかったら、僕、どうしようかと思ってましたからね」

「あら、そうなの? もしかして万丈くんったら、見た目と違って、意外と心配性なのかしら?」

 眼を細めながらそう言ってくすくすと愉快そうにほくそ笑むグエン・チ・ホアは、何とも捉え所の無い、不思議な雰囲気を漂わせて止まない女性だった。彼女は一見すると背が高く、やけに華奢で身体の線が細いものの、血色が良いせいか病弱や不健康と言ったネガティブな印象は与えない。また端正で清楚な顔立ちの如何にもアジア人らしい美人でありながら、何故か左眼には医療用の眼帯が当てられており、その外見からだけでは実年齢を計り知る事が出来なかった。しかしながらこのベトナム人女性の年齢を、それでも邪推するとしたならば、およそ二十代後半から三十代前半と判断するのが妥当と言ったところだろう。

「さあ、万丈くん? こんな所で立ち話も何ですし、奥のカフェテリアで待っててくださるかしら? 今すぐ美味しいお茶を淹れて、お茶菓子と一緒に持って行って差し上げますからね?」

「はい、ありがとうございます!」

 僕がそう言って先んじて感謝の言葉を口にしたならば、やはりグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、軽やかな足取りでもってその場でくるりと踵を返した。そして腰まで伸びた長く艶やかな黒髪と、彼女の身を包む純白のアオザイの裾を風になびかせつつも、ここ『Hoa's Library』の店内に併設されたカフェテリアの方角へと足を向ける。

「お待ちどうさま、どうぞ、召し上がれ? ベトナムから輸入してもらったばかりの蓮花茶と緑豆餅バイン・ダウ・サインですけれど、お口に合うかしら?」

「はい、いただきます!」

 再びそう言って感謝の言葉を口にすると、僕はカフェテリアの革張りのスツールに腰掛けながら、グエン・チ・ホアが熱い蓮花茶を注いでくれた茶碗をそっと手に取った。そしてこれもアンティーク雑貨の一つらしい、白磁の茶碗の中身をゆっくりと飲み下せば、仄かに甘い香りが漂う淹れ立ての蓮花茶の風味が舌と胃の粘膜を優しく包み込む。

「如何かしら、あたしの故郷で採れたお茶のお味は? やっぱり今時の若い子は、お茶なんかよりもコーヒーやジュースの方がお好みだったかしら?」

「いえ、そんな事ありません! 美味しいです!」

 僕が熱く芳しい蓮花茶を飲み下しながらそう言えば、グエン・チ・ホアは常に語尾が上擦って疑問形になってしまう少しばかり訛った日本語でもって「あら、そう? それなら良かったんだけれども、無理しないでちょうだいね?」と言って、くすくすと嬉しそうにほくそ笑んだ。

「それで万丈くんったら、今日はうちのお店で、一体何をして時間を潰すつもりなのかしら?」

「ええ、実は、今日はホアさんに勉強を教えてもらおうと思って来たんですが……駄目ですか?」

「あら、そうなの? 確かに万丈くんは、ちょうど一年後には大学受験を控えた高校二年生ですから、勉強は大切ですものね? だけどこんなおばさんなんかに、あなたみたいな若い子の力になってあげるような重責が、果たして務まるものなのかしら?」

「大丈夫ですよ、だってほら、ホアさんは英語がペラペラじゃないですか! だから、取り敢えず今日のところは、冬休みの英語の宿題を教えてください! よろしくお願いします!」

「でしたらお言葉に甘えさせていただいて、家庭教師役を買って出ちゃいましょうかしらね? よろしくって?」

 純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアがそう言って僕の要請を承諾すれば、僕はカフェテリアのカウンターの天板の上に並べた英語のノートとテキストを開帳し、彼女と共にそのテキストに記載された問題を順を追って解き始める。

「ほら、ここ、ちょっとだけ間違っててよ? 『somebody』と『anybody』は、意味が似ている単語ではあるけれどもね? この『somebody there?』は誰かが存在する事を前提として『誰か居ないんですか?』と訳して、逆に『anybody there?』は誰も存在しない事を前提として『誰も居ないんですか?』と訳すのよ?」

「ああ、成程! someとanyは、そうやって訳し分けるんですね!」

 暫しの間、そう言った僕とグエン・チ・ホアは、雑居ビルの窓ガラスを叩く雨音をBGMにしながら僕の冬休みの宿題の英語の問題を解き合った。折に触れてテキストを覗き込む互いの顔と顔とが接近する度に、彼女の長く艶やかな黒髪から心地良い香りがぷんと漂って来て、僕の鼻腔粘膜を優しくくすぐって止まない。そして僕ら二人が仲睦まじく頬を寄せ合ってから小一時間が経過した頃、不意に『Hoa's Library』の扉が勢い良く開け放たれたかと思えば、一人の少女が姿を現す。

「万丈! ここに居るんでしょ! 出て来なさい!」

 果たして鼻息も荒くそう言いながら『Hoa's Library』の店内に駆け込んで来たのは、おでこが無駄に広くてセルフレームの眼鏡を掛けた制服姿の女子高生、つまり僕の同級生であると同時に幼馴染でもある王淑華その人であった。

「淑華! どうしてお前がここに?」

 そう言って驚くばかりの僕を他所に、どうやら傘も差さぬままここまで足を運んだらしいずぶ濡れの淑華は『Hoa's Library』の店内を縦断してこちらに歩み寄ると、僕に詰め寄りながら怒りを露にする。

「はあ? どうしてあたしがここに、ですって? あんたを探してあっちこっちフォルモサの街中を駆けずり回ったあたしに向かって、よくもまあいけしゃあしゃあと、そんな悠長な事が言えたもんね! さあ、万丈! おば様が心配してるんだから、いつまでもこんな狭くて暗くて胡散臭いお店なんかに入り浸ってないで、今すぐあたしと一緒に家に帰りなさい!」

 怒り心頭の淑華はそう言いながら僕の腕を強引に掴み上げ、強制的に退店、及び帰宅させようと試みるものの、僕はそんな彼女の手を振り払わざるを得ない。

「止めろよ! 僕は今日は未だ家に帰る気は無いし、この店が胡散臭い店だなんて、ホアさんに失礼じゃないか!」

 淑華の手を振り払った僕がそう言えば、彼女は益々激昂する。

「はあ? 失礼? 失礼ですって? こんな売り物なんだかそうでないんだか分からないような、カビキノコが生えてそうな古臭い商品を並べたお店が、胡散臭くない訳無いでしょう? それに、そもそもそのお店の店主であるこの女こそ、この上無く胡散臭いに決まってるじゃない!」

 激昂した淑華はそう言いながら、不躾にも、僕ら二人の傍らに立つグエン・チ・ホアを指差した。彼女のこの行為に、温厚な僕もさすがにかちんと来る。

「おい、淑華! ホアさんを指差すんじゃない! 歳上の大人の女性に対して、いや、そもそも誰に対しても他人を指差して「この女」呼ばわりするだなんて、失礼にも程があるだろ!」

「ちょっと、さっきから一体何だって言うの? 万丈ったら、ホアだかホヤだか知らないけれど、この胡散臭い女の肩を持つ訳? 信じらんない! こんな年増女なんかの、どこが良いって言うのかしら? だいたい、その胡散臭い格好は何? どこの国の民族衣装だか何だか知らないけれど、恥ずかしげもなくこんな格好で人前に出るような女がまともな訳が……は……は……はっくしょい!」

 純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアの服装にまでケチを付け始めた淑華はそう言って、その喉と鼻から盛大なくしゃみを漏らすと、雨に濡れて冷やしてしまった身体をぶるっと震わせた。するとそんな彼女にケチを付けられた張本人である筈のグエン・チ・ホアが、スツールから腰を上げ、淑華の身体を真っ先に気遣う。

「あらあら、あなた、確か淑華ちゃんとか言うお名前だったかしら? そんなずぶ濡れのままでしたら、風邪を引いてしまうかもしれないんじゃなくて? 着替えも貸してさしあげますし、濡れた服も乾燥機で乾かしてさしあげますから、今すぐ奥のバスルームでもって温かいシャワーを浴びて来られた方がよろしいんじゃないかしら? ね?」

「え? いや、そんな、シャワーなんて……その……」

 着替えとシャワーを勧められた淑華はそう言って、挙動不審気味に狼狽うろたえながら口篭もるが、グエン・チ・ホアは有無を言わせない。

「いいからいいから、今時の若い女の子が、こんなおばさんなんかに遠慮しないでちょうだいな? それに淑華ちゃんはうちのお店までわざわざ足を運んでくださった貴重なお客様なんですし、しかも万丈くんの彼女さんなんですから、おもてなししないと罰が当たっちゃうかもしれないでしょう?」

「はあ? いや、あたしは万丈の彼女なんかじゃなくて、ちょっと、その、引っ張らないでくださいってば!」

「ほらほら、早くこっちにいらっしゃい? シャワーと乾燥機が在るバスルームは、この先でしてよ?」

 そう言って急かすばかりのグエン・チ・ホアに強引に手を引かれながら、ずぶ濡れの淑華は一切の反論の余地も与えられぬまま、バスルームが在ると言う『Hoa's Library』の店舗の奥へと姿を消した。そして暫しの間の後に、微かなシャワーの水音と乾燥機のモーターが回転する際のがたんごとんと言う駆動音がカフェテリアで待つ僕の耳に届いたかと思えば、やがてグエン・チ・ホアに連れられたアオザイ姿の淑華が姿を現す。

「如何なものかしら、万丈くん? こんなに可愛いらしい格好の淑華ちゃんに、期せずしてお眼に掛かれた事に対するあなたの率直な感想を、是非ともお聞かせ願えないものかしら? ん?」

 グエン・チ・ホアはややもすれば興奮気味にそう言って、純白のアオザイ姿の淑華を目の当たりにした僕の胸の内を知りたがり、どうにもこうにも居ても立っても居られないとでも言いたげな様子であった。しかしながらある種のコスチュームプレイに興じる格好になってしまった淑華はと言えば、ぎゅっと固く唇を噛み締めたまま恥辱と屈辱の念でもって顔面を真っ赤に紅潮させながら、寒さとはまた別の理由でもってぶるぶると肩を震わせるばかりである。

「何だよ淑華、さっきまで「胡散臭い格好」とか言って馬鹿にしていたアオザイを、お前も着てるじゃないか」

「うるさい! うるさい! うるさい! だって、この女が着替えがこれ一着しか無いって言うもんだから、恥ずかしいのを我慢して仕方が無く着てやってるんだからね! だから、その、そんなにじろじろこっちを見るんじゃない! 見るな! お願いだから見ないでってば!」

「そんなにムキにならなくても、わざわざお前のコスプレ姿なんて見やしないから、安心しろよ。それにしても、淑華、お前は昔っから、そう言った可愛い格好が全然似合わないよな」

「うぅ……」

 図星を突かれる格好になってしまったらしい淑華は真っ赤に紅潮した顔を伏せながらそう言って、呻き声とも嗚咽ともつかない不思議な声を喉から漏らすと、それ以上何も言わぬまま口をつぐんでしまった。すると彼女の図星を突いてしまった僕の諸々の言動を、淑華の肩を抱いたグエン・チ・ホアがたしなめる。

「あらあら、そんな事言っちゃ駄目じゃないの、万丈くん? あなたが淑華ちゃんの事を可愛いと思うか思わないかはあなたの自由ですけれど、女の子は可愛いって言われれば言われるほど、実際に可愛くなるんですからね? それに、淑華ちゃんはあなたの彼女さんなんでしょ? だったら、もっともっと褒めて褒めて褒めまくってあげた方が、あなたのためにもなるんじゃないかしら?」

「いや、淑華は僕の彼女じゃありませんから!」

「そうです! 万丈は、あたしの彼氏なんかじゃありません!」

 僕と淑華は二人同時にそう言って、僕らを恋人同士だと思い込んでしまっているらしいグエン・チ・ホアの誤解を解こうと試みた。

「あら、そうなの? あたしはてっきり、あなた達二人はお似合いの高校生カップルなんだとばかり思っていたのに、違ったのかしら?」

「違います!」

 やはり二人同時に声を揃えながらそう言って、僕と淑華はグエン・チ・ホアの誤解を解こうと試みるものの、彼女はくすくすと愉快そうにほくそ笑むばかりである。

「ええ、そうね、そう言う事でしたら、今日のところはあなた達の言い分に納得しておいてあげてもよろしくってよ? ……さあ、そろそろ新しいお茶を淹れ直して、お茶会を再開しましょうか? 万丈くんも淑華ちゃんも、ゆっくりくつろいで行ってちょうだいね?」

 グエン・チ・ホアはほくそ笑みながらそう言うと、すっかり冷めてしまった白磁の茶碗の中身に代わって新しい蓮花茶を淹れ直すべく、キッチンの方角へと足を向けた。彼女が姿を消した『Hoa's Library』の、仄かに白檀の香りが漂う店舗の窓の外では、いつまでも冷たい雨が降り続けている。

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