6話 塾の名前

「近頃は集中が乱れているように見える。何か相談があるなら、聞かせて欲しい」


「別に、平気です」


 結唯ゆいの体験授業が終わってから、一週間後。塾長に呼ばれた朝雛あさひなは、受付で話していた。


「……そんなに佐宮さみやくんとの時間が楽しかったのかい?」


「そんなんじゃないです」


 朝雛は否定しているが、表情は硬い。強がっているのは明らかだった。


「後生の別れという訳でも無いだろう。何をそこまで落ち込んでいるんだい」


「そんなの、分からないじゃないですか。中学は、同じかもしれないけど……」


 仮に同じ中学校に通っていても、二つも学年が違う。会う機会が無ければ、接点すら無い。そう落胆していた朝雛を見て、ようやく塾長が気付く。


「ん?佐宮くんとは再来週に会えるよね?」


「……え?何でですか?」


「何でって、春期講習が始まるからだよ」


 朝雛も塾長の言葉の意味に気付いた。

 そして、今までの自分を客観的に振り返った結果――


「こ、この事は、絶対に誰にも言わないでくださいね……」


 顔を真っ赤に染めて、懇願する。


「勿論言わないけど、効果があるとは思えないよ」


 そう、塾長が誰かに言う事は有り得ないが、通っている人数の少ないこの塾では、朝雛の異変が既に噂になっていた。その中でも特に気にしていた一人が、教室の窓から顔を覗かせる。


「それってこの前言ってた男の子ー?そーんなに気に入ったんだ」


「あ、杏子あんず……!違うし、っていうか、授業中でしょ?!」


「あははっ、ちょっと話すってちゃんと言ったからへーきだよ。ね、龍雄たつおせーんせ」


 突然現れた友人に驚き、否定して、注意する。杏子は慌ただしい朝雛を笑いながら、天野あまのに問い掛けた。


「名前で呼ぶなって。それに、俺は良いとは言ってないからな」


「龍雄せんせーはイケメンだから、いいって言ってくれると思うよ?」


「いや、いいけどさ……」


「ほーらね?」


 もはや慣れてしまったが、社会人と中学生という立場を考えて一応注意する天野と、そんな事情を理解しているが故に無視をする杏子。

 そんな二人を見て落ち着いたのか、朝雛は改めて杏子に言う。


「天野先生に迷惑掛けないの。話すのは授業が終わったらでもいいでしょ」


「んー、わかった。ちゃんと聞かせてよー」


 杏子が顔を引っ込めると、天野の声が聞こえた。授業が再開されたらしい。

 朝雛も、中断された会話を再開する。


「その、心配を掛けて、すみませんでした」


「いや、こちらこそすまなかった。春期講習の件は先に知っていると思い違いをしていたよ。佐宮くんは葉仙ようせん中に通うし、春期講習の後も通う意思があるようだから、すぐに会えなくなる事は無いと思うよ」


「そうですか。良かった……、ですね」


 朝雛は口から出てしまった本心をなんとか包み隠そうとしたが、塾長の微笑みを見るに、意味があるとは思えない。


「話は、これだけですよね?なら、自習に戻りますけど」


「そうだね。佐宮くんの事でも、そうで無くとも、相談があれば今後も気軽に言って欲しい」


「分かりました。ありがとうございます」


 塾長の視線から逃げるように、朝雛はそそくさと自習室に戻った。






「授業終わったよー」


 授業を終えた杏子は自習室の外から朝雛を呼んだが、勉強に集中しているのか、気付かない。

 そんな朝雛を見て、調子が戻ったらしいと安心した杏子は自習室に入ると、いつも通り、区切りが良い所まで待つ事にした。




「授業終わったよー!ひなちぃ!」


 教科書が次のページに進んだタイミングで、再び声を掛ける。


「あ、ごめん。もしかして待ってた?」


「ううん。へーきだよ」


 待っていた時間は10分程。自習室では禁止されているスマホで、こっそりとSNSを眺めていれば一瞬だった。


「いちおー外に行く?」


「そうだね。そうしようか」


 自習室は私語厳禁。通っている人数が少ない故に守られる事は少ないが、杏子は自習室の外で話す方が好きだった。




「で、その子のどーこが気に入ったのー?」


「だから、気に入った訳じゃ無いって。ちょっと勉強を見てあげただけ」


 自習室の外。受付の隣にある休憩スペースで、朝雛は再び否定していた。


「んー、この前も引っ掛かってたんだけどー、初対面の男の子に教えるのってひなちぃっぽくなくない?しかも、ひなちぃから提案したんでしょ?」


「それは、……その子は始めてなのに、英語の授業が塾長じゃ無かったから……」


 朝雛の少しだけ人見知りな性格を知っている杏子が浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、朝雛は少しだけ悩んでから、小声で答えた。

 この塾に英語を教えられる講師は、二人しか居ない。つまり、天野先生であったと婉曲に伝える。


「あははっ!それなら納得かもー!龍雄せんせーの英語の授業はひどーいもんね」


 しかし、そんな配慮など知ったものかと、大声で笑う杏子。すぐ隣の受付には天野も居るので当然耳に入るが、お構い無しである。


「おい。聞こえてるぞ」


「私は苦手でも頑張ってる龍雄せんせーが大好きだよー?」


 本人からその事実を伝えられても、気にする事無く豪速球で好意を伝える杏子と――


「お前は本当に……」


「んー?照れてるのー?」


「はあ……」


 唐突に飛んできたボールに戸惑う天野。

 そんな二人に呆れた視線を向ける、朝雛と塾長。これがこの塾、山手前やまのてまえ塾の日常だった。

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