鉛筆、シャーペン、そして鉛筆、

炭石R

1話 be動詞

 未だ寒さの残る、冬の朝。少年は白い溜め息を吐いた。


「はあ。これ、ローマ字じゃだめだよなぁ……」


 視線の先には、一枚のプリント。次の文を英語で書きなさいとある。


 これはペンです。


 いつ使うんだ?と誰しもが思う、一番最初の問題に躓いている少年に、近付く人影。寒いにも関わらず上着は着ておらず、制服のスカートから生脚を出している少女。

 一度立ち止まって、手を握り、深呼吸をしてから口を開いた。


「あの、さ。体験に来てる男の子。だよね?」


 親に言われて休日の朝から塾の体験に来てみれば、地味に長い階段を登らされて、辿り着いたのは古い上に寒い、木造の校舎。初めて受けた英語の授業は、個別指導にも関わらず、全く理解出来なかった。

 そんな状況に苛立っていた少年は、無視をする。


 しかし、少女は諦めない。


「さっきから、手が止まってるよ?私が教えてあげようか?」


 少年の返事は無い。 

 二度も無視された少女は少しだけ顔をむっとさせると、座っている少年の耳元に口を近付けて、小さく囁いた。


「さっき、天野あまの先生の授業だったでしょ。あの人の説明、分かりにくいよね」


 冬の空気に冷やされた耳に、暖かい吐息が掛かる。驚いた少年の背筋が伸びた。


「初めての英語の授業があれなら、分からなくて当然だよ。だから、私がちゃんと教えてあげる」


 少年は、ようやく振り向いた。


「私は朝雛あさひな葉仙ようせん中学の二年だよ。よろしくね」


「ぼ、僕は佐宮さみや結唯ゆい紅台こうだい小の、六年。よろしく」


 やっと反応してくれた、と満足気に自己紹介をした朝雛に、結唯は辿々しく返した。




「じゃあ、色々持ってくるから、ちょっとだけ待ってて」


「うん」


 そう言い残した朝雛は、辞書とポーチ、小さなホワイトボードを手に戻ってきた。近くにあった椅子を結唯の隣に置いて、腰掛ける。


「じゃあ、さっそくだけど一問目の答えを教えちゃおうかな」


 左手に持ったホワイトボードに、This is a pen.と書いた。


「それぞれの単語の意味はこうね。be動詞のisがThisとa penを矢印で繋いでくれるから、これはペンですって文になるの」


 そして、英文の上に少しだけ丸っこい文字で意味を書き、赤と青で線を書きながら解説をする。


「だからisを使うと、これisホワイトボードとか、これis消しゴムとか、あれis扉、みたいな文も作れるの。ここまでは理解出来た?」


 続けて、付近にある物を指差しながら、様々な例を出した。


「うん」


「良かった。そしたら、要注意なのがaとanの使い分けね。次の文字が母音だとanになるの。母音は分かる?」


「……うん」


 結唯は何とか頷いたが、それどころでは無かった。

 高学年になり、学校で男女の間に壁が生まれて以降、この距離で異性と接するのは初めてだった。

 しかも、朝雛は年上だ。同学年とは違う。着こなしている制服。落ち着いた言動。そして、整った顔立ち。


 結唯には刺激が強かった。


「じゃあ、ホワイトボードを見ながらでいいから、プリントの上半分を解いてみようか。文頭を大文字にするのと、文末のピリオドを忘れないようにね。分からない単語があったらこれで調べていいし、質問もどんどんしていいよ」


「うん」


 朝雛はホワイトボードを机の前にある壁に立て掛けると、辞書を渡した。

 結唯は問題と向き合っている間に落ち着けると思っていたが、隣に居る少女の存在は相変わらず、結唯の鼓動を速めていた。






「お、全問正解。ちゃんとanも使えてるし、完璧だね」


「あ、ありがとう」


 体を乗り出してプリントを見ている朝雛に、結唯の顔は赤くなった。すぐ目の前で揺れる黒髪。息を吸う度に甘い香りがして、心をくすぐられる。

 それに気付いていない朝雛は、そのままの体勢で続きの解説をした。


「じゃあ、次は人を説明する文だね。英語は主語によってbe動詞が変わるの。私だとam、あなたか複数だとare、それ以外だとisになる。でも、変わっても役割は同じだよ。前後の文を矢印で繋いでくれるの」


 残念ながら、その言葉は届いていない。

 目の前の壁に立て掛けたホワイトボードに伸ばした、朝雛の細い腕。それが隣に座っている結唯の体に当たり、思考を停止させていた。


「……あれ、どうしたの?顔が赤いよ?」


 振り返った朝雛が、ようやく異変に気付いた。


「もしかして照れてるの?可愛いなあ」


 しかし、離れるどころか顔を近づけて、至近距離から結唯が紅潮していく様子を楽しそうに見つめている。


「顔、真っ赤になっちゃってるよ」


 そして、更に近付く。


 あと少しで唇が触れる。


 結唯がギュッと目を瞑る。






 が、何も起きない。結唯が目を開くと同時に、朝雛は笑った。


「ふふ、キスされるかと思った?今は勉強の時間だよ」


「……うるさい」


 結唯は弄ばれた。と不機嫌そうな声を出したが、その胸の内は安堵か落胆か。本人さえも分からなかった。


「もう、拗ねないでよ。結唯くんが勘違いしちゃっただけでしょ?そんなに私とキスしたいなら、勉強を頑張ってよ。そしたら、考えてあげる」


「別に、したくない。……塾に来たんだし、勉強はするけど」


「そっか、偉い偉い。じゃあ、私はちょっと飲み物を買ってくるね。戻ったら続きも教えるから、ちょっとだけ待ってて」


 朝雛は外にある自販機へと、早足で向かった。

 出てきたココアを取り出している朝雛の耳がほんのりと赤かったのは、寒さが原因だろうか?

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