5話 一般動詞
「……そ、そうだ。この宿題と、その結果。塾長に見せてきてもいい?」
塾長に宿題の事を伝えた際に、内容と結果を見せるように言われていたのだ。
「っ?!……うん」
結唯は驚いた様子だったが、俯きながらも、なんとか返事をする。
「じゃ、じゃあ、見せてくるね」
自習室の扉の前。一度深呼吸をして、心を落ち着かせてから、朝雛は扉を開いた。
「これが結唯くんに出した宿題と、その結果です」
塾の受付。塾長の定位置に、朝雛はプリントを置いた。
「おお、多いね……?」
「え?これでも半分にしたんですけど……」
朝雛が結唯に渡したプリントは、みっちりと英単語で埋められていて、その数は50問だった。朝雛くんは百問も出すつもりだったのか……。と面食らった様子の塾長。
「いやいやいや、
「だから50問にしたんですけど、それでも多かったですか?」
「そ、そうだね。私なら十問で、多くてもその倍。日数や他の宿題も出ていた事を鑑みると、それより少なくても良かったと思っているよ」
塾の宿題は、生徒の負担になってはならない。その生徒が学校の課題を終わらせた上で、余裕を持って取り組める量にすべきである。
そう考えている塾長からすれば、50問は多すぎた。結唯が全て覚えていた事実に驚愕している。
「そうですか……」
「まあ、結果的に言えば結唯くんが英単語を覚えられたのだから、それで良いんだよ。それに、内容も完璧だった」
「なら、良かったです」
朝雛はホッとした。結唯の前では堂々と教えていたが、一から人に教えて、宿題まで出したのは始めてだったのだ。
「ところで、さっきのは一体……?」
当然過ぎる疑問だ。
塾長は長年に渡って朝雛に教えてきたにも関わらず、楽しそうに人を撫でている朝雛を見るのは始めてだった。
「み、見てたんですか?」
「ここからちょうど見える位置だからね」
それを聞いた朝雛がバッと振り返る。そして、背伸びをして塾長と目線を合わせると、窓の向こうには俯いている結唯が見えた。
「は、早く言ってくださいよ!」
「何を言えば良かったのかな?」
「それは……」
何を言われた所で変わらないだろう。むしろ、撫でている最中に言われれば、今よりも恥ずかしい思いをしたに違いない。
「と、とりあえず、もう見ないでください」
「分かったよ」
「絶対に見ないでくださいね!」
「分かった分かった」
苦笑する塾長を威嚇するように見ながら、朝雛は自習室に戻った。
「……結唯くん?まだ時間はある?」
未だに俯いている結唯を気遣うように、朝雛はゆっくりと話し掛けた。
「へ、平気。また、教えてくれるの?」
「うん。でも、ちょっとだけ移動してからね」
「うん?」
朝雛は、首を傾げる結唯を自習室の奥へと連れて行き、壁側に座らせる。塾長からは絶対に見えない位置だ。
「結唯くんさえよければ、今後もこの席を使って欲しいな。私は、いつも隣を使ってるから」
「それって、これから教えてくれるってこと?」
「時間が合えばね。私もやる事があるから。でも、結唯くんがこの席を使ってくれれば、忙しくても話すだけなら出来ると思うんだ」
普段の朝雛ならこんな事を言わないが、結唯の性格を考えて、自分から距離を詰めた。
「うん、分かった!」
「お、そんなに私と話したいんだ?」
「ち、違う。そんなんじゃない」
「じゃあ、何でそんなに嬉しそうなのかな?」
本当は朝雛自身も結唯の反応を見て、嬉しいと思っているのだが、それは隠す。
「……」
「ふふ、ごめん。意地悪な質問だったね。今日は何を教えてもらったの?」
痛いところを突かれて、黙ってしまった結唯を見て、朝雛は追撃をやめた。
「……えっと、一般動詞?I have a pen.みたいなやつ」
「うん。一般動詞で合ってるよ。……あ、そういえば、塾長の授業は分かりやすかったでしょ」
「うん。わかりやすかった」
「塾長は何を教える時でも的確で、簡潔だからね。
今日の体験授業が終われば、結唯と会う機会が無くなる。それを思い出した朝雛は、他の塾を全く知らないなりに、迷惑かもしれないと不安になりながらも、精一杯の勧誘をする。
「つまり、おすすめだよ。この塾」
「そうなんだ」
だが、そんな朝雛の胸の内を知らない結唯は、天野先生の他の授業は分かりやすいんだ。と驚きながら、返事をした。
「……ごめん。一般動詞だよね。時間が少ないから、ホワイトボードに問題を書こうかな。英文を書くから、訳を答えて。分からない単語は、この辞書を使っていいからね」
「うん」
朝雛はまだ諦めきれていなかった。問題という建前を使って、塾の話をしよう。そう考えながら、マーカーを手に取った。
そして、十数分後。
「あ……。授業の時間だから、終わりにしないと。分からない所は無かった?」
「うん、平気」
朝雛は色々な問題を出した。中にはあなたは塾に通います。のように露骨な問題もあったが、解くのに必死だった結唯がその意図に気付く事は無かった。
「なら、……うん。授業、行ってくるね」
「どうかしたの?」
進むのが早く、難しかった問題。下を向く、悲しそうな顔。元気の無い声。そして、ぎゅっと握られたスカートの裾。
結唯が、朝雛の異変に気付いた。
「いや、平気。気を付けて帰るんだよ」
しかし、朝雛は否定する。
強制される勉強の無意味さ。それを知っている彼女に、強く勧めるのは不可能だった。
「平気そうには見えないよ」
「大丈夫なの」
「そっか……」
再度の問い掛けも否定された結唯は、力なく振られた手に見送られて、塾を出た。
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