あいおえん。

山田 百舌:名誉猫又₍⸍⸌̣ʷ̣̫⸍̣⸌

独白




 小説の行間を読む行為は、空気を読むという行為よりかは遥かに容易い。

 沈黙を重ねる文字列は語る口を持たずとも意外と雄弁であり、数多に存在する語群から選出された語彙には、必ずそれが選ばれるだけの意味がある。そこに著者の意図は乗り、あるいは訳者の知識が透けて見える。

 文字と密に接すればおのずと悟る日が訪れる。───小説の行間を読む行為は、経験則がモノをいうのだと。んだ文字の数だけ語彙を識り、びた行列の数だけ意図を知る。溺れた内容の数だけ含蓄を覚り、重ねた書物とまなこで撫でた文字列の数だけ行間を読み解くチカラはついていく。

 必要なのは膨大な知識と積み重ねた経験。実にシンプル。つまりは───努力如何どりょくいかんでどうとでもるという、その裏付けに他ならない。


 そんな知識・経験・努力のいずれもがまったく通用しないのが、空気を読むという行為であった。


 伝播でんぱされて行く空気は1秒毎に湿度の含量を変える。だから、顔色を窺い含有量がんゆうりょうを正確に測る。

 話題の選出を誤った瞬間に温度の急落が待っている。だから、神経を摩耗まもうさせながら相手の好きなジャンルで関心を釣る。

 なおざりで居ることもおざなり対応も機嫌を損ねる。だから、自然に口から出た科白せりふであることを装い、相手が喜ぶ返事をすべく常に脳を高速で回す。

 折角の提案や自分の意見が通らないことを酷く嫌う。だから、食べたくもない物を「食え」と、観たくもない映画を「観ろ」と、居心地の悪い空間に「居ろ」と命じられたら喜んで従う。それはさながら躾のされた犬のようであり、まさしくそうだった。


 だが、この涙ぐましい努力をってしても、成功率は100パーセントにたっしない。それどころか50パーセントを下回った。

 何分なにぶん理屈りくつが通じないバケモノが相手だ。上手く立ち回ってことなきことを得ている場面が精々せいぜい40パーセント程度だと仮定すると、残り60パーセントほどはまんまと失敗して悲惨な顛末てんまつを迎えているわけである。

 むごたらしい目に遭い、耳をふさぎたくなるようなつんざく悲鳴が耳にこびりつくなか懇願こんがんれ、明日の陽光ようこうを拝むことなく生命活動が終わっていますように、などと願いながら、痛む身体からだを丸めて手を繋ぎ、病む精神に蓋をするようにして眠る。

 死にたいと思わない日はなかったが、自ら命を断ちたいとも思わなかった。自死する気概がないといえばそうだし、すぐそばにいる、自分より少しだけ小さな背丈のぬくいせいぶつを手放すだけの勇気がなかったのもまた理由として挙げられる。

 そうして幾度いくどとなく繰り返しているのだ。懲りもせず、飽きもせず、そういう毎日を。

 どれほど体験という名の経験を積めども、依然いぜんとして状況は好転しない。むしろ悪化の一途を辿っていたようにも思える。

 なにかひとつでも間違えれば首元に突き付けられた刃が勢いよく横にぎ、張り詰められた緊迫の糸がパイナップルのピンを引き抜くような状況下が常であることは勿論もちろんのこと、相手取るバケモノがなにを皮切りに暴れ散らすのか、てんでわからないのもまた問題だったのだ。

 ───昨日は踏んでも平気だったのに、今日も同じところを踏んだら爆発しました。なんていうのがザラにある、管理のザルな地雷。不発弾が爆発したとかではない。昨日まではそこに地雷など埋まってなかったのだ。だというのに、翌日には新調したての爆発物が埋め込まれているのだからどうしようもない。初見殺しが過ぎる。

 実際、そうして何遍なんべんもの心が殺されていった。

 懸念材料をいくら潰してみせたところで、箸が転がっただけで笑うどころか爆発するような地雷相手にせる対策など、もはや存在しなかったのである。

 底なし沼に嵌まったわけだった。

 魂の〝核〟と称すべき人格までもを炭化水素原子をヒドロキシ基で置換した有機化合物質に侵蝕させるような人間をやめたバケモノに、やれ知識だ、やれ経験だ、やれ努力だなどと綺麗事を説いたところで机上きじょう空論くうろんかなうはずもない。

 

 まァ、そんなだから、どうしたって苦手意識が抜けない。

 

 アルコール中毒者を相手に空気を読むという行為は顔色を窺い続けることと同義である。

 そう身を以って知った頃には、顔色を窺うことに長けてはいたが、空気を読むという行為がよくわからなくなっていた。

 いつだって漂う空気には濃度を上げた怒気と膨れ上がったおそれぜで、それを耐え凌くことに必死だった。生きるという行為そのものに命を懸けていた。

 もし仮に、これこそが空気を読むという行為だというならば───こんなに苦しいことは、きっとない。ソッと息を潜めるドブネズミ。糸で雁字搦がんじがらめの操り人形。自我を望まれていない傀儡かいらい。そんなものは御免ごめんだ。

 日毎ひごとに動き回り、勝手に配置を変える自走地雷の爆発に怯える日々をどうやり過ごすか。あんなイカれた環境に置かれて脳が焼き切れるほどに───いっそ自分自身が空気で在ればいいのにと、本当にどうしようもないことを────考えていた歳月に比べれば、小説の行間を読む行為など児戯じぎに等しく容易い。





 それはきっと、あいつも同じだろう。───なァ?


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