鏡
鬼畑 瓜
鏡
強盗行為を繰り返す三郎太も、かつては誰よりも優しい少年だった。
門下生が虫や生き物をいじめていたら、彼らにも我々と等しく命があるのだと諭す。重い荷物を運ぶ老人を一目見れば手伝いに飛んでいく。雨に濡れる夜鷹を見つければ迷いなく自らの傘を差し出す。自分が明日を生きるにも大変な時代の彼の在り方は、鴨が葱を背負って食べてくださいと言わんばかりのものだった。
三郎太の両親は誰にでも、偏見なく、何にでも優しさを与える彼を決して良く思っていなかった。父は自分の利益にならないことは行わず、無償で物を渡すなど言語道断だ。母はそんな父の味方で、台所に巣食う蜘蛛や夕餉の魚を盗んでいく野良猫を見逃すことは愚行だと、厳しい口調で責める。しかし、これらの言動は三郎太を思ってこそのものだった。二人の間にやっと産まれた唯一の子供に、無駄な苦労をさせたくなかったのだ。
三郎太が十になった夏のある日、事故は起きた。道場の門下生との試合で、三郎太は相手に怪我をさせてしまった。相手の名は京介。三郎太とは対照的に、気性が荒く、弱い者いじめが好きな少年だ。剣の腕は道場で一位二位を争う腕を持っている。
その日、三郎太は師範から、いつも負けているのだから本気で勝ちにいけ、と言われ、必死に京介の鋭い剣技についていった。斬りを木刀の柄で受け、突きをあしらい、防戦していたが、京介が木刀を振り上げた瞬間、これは大きな隙だと気づいた。
払われた剣先は頭を低くすることでかわし、木刀と木刀をかすめるように無我夢中で突きを繰り出せば、三郎太の木刀は京介の右側頭部を切ってしまった。ぽたぽたと床に流れる血を見た三郎太は、傷の具合を確かめようと近寄ろうとした。
一歩踏み出した時、京介の顔が急激に恐怖と怒りが入り混じったように歪み、木刀の切っ先を向けられた。
たじろぐ三郎太を睨みつけながら、流れる血もそのままに京介は叫ぶ。
「本性を現したな、この鬼め! 本当のお前は、自分より弱いものを傷つけ、苦しむ姿を見るのが好きなのだろう。お前の今までの善行は、その本性を隠すためだろう!」
同時期に入門してから、京介は試合で三郎太に勝ち続けていた。今回、初めて負けたうえに怪我をさせられ、京介は完全に頭に血が昇っていた。こうなると厄介だ。落ち着くまで待たなければ、まともに話などできやしない。だから、三郎太にほとんど衝動的に言葉を浴びせた。今までの二人が、もう少しお互いに寄り添えていたならこの言葉は出てこなかっただろう。
浴びせられたあまりの言葉に、三郎太はざあっと血の気が引いていく音を聞いた。普段から争いごとを好まない三郎太は委縮し、助けを求めて試合を見ていた師範と門下生を見回した。
誰か、止血してやってくれ。
誰か、落ち着かせてやってくれ。
誰か、それは違うだろうと言ってくれ。
そんな思いで見た師範と門下生たちの目は、実に冷ややかなものだった。
道場や町の人々の手のひら返しは早かった。京介の言葉は噂となって瞬く間に広がり、三郎太と両親は後ろ指を差されながら日々を過ごす。父は三郎太を殴り、母はこんな子に育てた覚えはないと泣く。弁解は誰も聞いてくれない。京介の影響力は強かった。あれは、本当にただの事故だったのだ。
夜、父に殴られ顔を腫らした三郎太は、両親が寝静まった部屋で、木刀を見つめ涙を流していた。泣いているのだから、その顔は悲しみに歪んでいるかと思えば、違う。表情は冷えきっており、目は真剣の刃のように鋭い。
三郎太は涙を拭うことなく思った。
――みなが私の行いを嘘と言うのなら……。
目の前に置いてある木刀に手を伸ばす。
――みなが望む、私の姿があるのなら……。
柄をしっかりと掴み、立ち上がった。もう涙は流れていない。三郎太は小さく、自分にしか聞こえない声で呟いた。
「私は、望まれる私にならなければならない……!」
その瞬間、誰よりも優しかった少年は消え失せた。顔を動かし、両親が寝ていることを確認する。そして、ゆっくりを数歩しかない距離を詰め、父の枕元で木刀を大きく振り上げた。
道場に通っていたおかげか、三郎太の剣技は研ぎ澄まされていた。木刀は的確に父の頭を割り、月明かりのない暗い部屋に血が舞い踊る。隣で寝ていた母は、鈍い打撃音で目を覚まし、仰向けのまま、枕元に立つ三郎太を見上げた。母は、木刀を持って見下ろしてくる息子に、いったい何を思っただろう。
あれから何年経ったか。三郎太は、最初の強盗で得た脇差を見て物思いに耽っていた。長く使ってきたその脇差は、手入れを欠かさず、血にまみれた今も切れ味は落ちていない。
今日、強盗に押し入った小さな家は、家族三人で暮らしていたようだった。父親、母親、そして幼い息子までもが痩せ細っていたが、仲が良かったのだろう、川の字に布団を並べ、一緒に寝ていた。
斬ったはいいが、この家は貧乏なようで金品が少ない。しくじったと胸の中で呟けば、さらに腹が立ってきた。なんのためにやったのか、意味がないではないか、と。
十数枚の銭をふところに入れ、さっさと家を出ようとした時、窓から差し込んだ月明かりに血だまりが照らされ、三郎太を映した。血だまりの中の自分を目が合う。その目は異様に暗く、まるで三郎太を責めているように見えた。何をしている、なぜ殺した、と。
そんなことは言っていないと分かりつつも、機嫌が悪い三郎太は頭に血が昇り、被害妄想が膨らんでいく。
「私が生きていくために殺したのだ。それの何が悪い。みな、そうしている。自分が生きるために、誰かを犠牲にしている……」
――犠牲にしなくても良い道だってあるはずだ。
「そんなものは綺麗事だ。誰かが生きるには、誰かが犠牲にならなければならない。それが世の常であると言えるだろう」
――お互いが生きていくために、助け合う道があったはずだ。
「ない。助け合ったところで、裏切り者は必ず出てくる。不利益を被るのは御免だ」
血だまりの三郎太が顔をしかめた。しかしそれは、本物の三郎太が顔をしかめたからだ。
胸がどんよりと、不快なものが詰まったように苦しくなる。心臓を鷲掴みにされた気分だ。なぜこんな気分になるのか、なぜだ、なぜだ。
――あなたは、あなたが嫌っていたものになってしまったのですね。
「……なんだと。お前、私の何を知っているというのだ!」
――思い出せませんか。最初に犠牲にした二人を。
先ほどまで過去を思っていた。覚えている、その二人を。
「…………まさか、両親と同じだと言うのか?」
誰もが明日を生きるのも大変だったあの日々を、三郎太はただ一人だけ優しくあり続けていた。結果として、それが悲劇を起こしたとしても、三郎太の善行はたしかに誰かを助けていた。今はどうだ。斬って傷つけ殺しているだけだ。正反対ではないか。血だまりの三郎太の顔が歪む。
「いいや、いいや! あの二人は正しかった! この世で生きるには、己を一番に考えるべきだ! だってそうだろう、野良猫に魚を盗まれたら腹は膨れない……重い荷物を運んだらくたびれる……夜鷹に傘を差し出せば己が濡れてしまう!」
激昂した三郎太は脇差を振り上げる。
「私がこのように生きるようになったのは……道場や町の連中のせいではないかぁ!」
血が舞い上がる。畳に思いきり叩きつけたせいで、同時に刃も折れた。血だまりは斬れない。何度も何度も三郎太を映してくる。息を荒くし、短く呼吸を繰り返す三郎太は、身を翻して押し入った家を飛び出した。
これからどうする、新しい刀を手に入れなければ、酔っ払いを狙うか。様々なことが頭をぐるぐると巡る。すると、じゃり、と砂を踏む音が聞こえ、振り返った。
「やっと見つけたぞ……三郎太」
月明かりでぎりぎり顔が見える位置にその人物はいた。きっちりと髷を結い上げ、凛とした顔つきの男。腰には打刀と脇差の二振りを下げている。堂々とした立ち姿に三郎太は怯む。
「誰だ……お前。いや、まさか……京介か……?」
「いかにも。懐かしいな、あの道場以来の再会か」
京介は立派な大人になっていた。着ているものも、三郎太のぼろとは訳が違う。あの荒い気性はどこへ行ったのか、京介は穏やかな口調で続ける。
「ずっと探していた。あの町を恐怖に陥れた責任を取りに来たぞ」
三郎太は折れた脇差を構えながら問いかけた。
「責任だと……?」
「幼い私がお前を罵倒しなければ、こんなことにはならなかっただろう。お前は町で一番優しい人であれた。そして、両親を殺し、あの町を飛び出し、各地で暴虐を働くこともなかっただろう」
あまりにも悲しそうに話す京介に、三郎太はなぜか可笑しくて笑ってしまった。急に笑い出した幼馴染を見ても、京介は動じない。
「私はありのままに生きている。両親を殺したのも、強盗も、殺人も、私のありのままだ! お前が暴いた本来の私だ! お前が言ったんだ、私は、私はぁ!」
京介に向かって踏み出す。三郎太は一生懸命叫んだ。
「みなが望んだ三郎太だあぁ!」
三郎太は駆け出す。迎え撃つつもりなのか、京介は素早く打刀を抜いて構えた。
二人が刀を振り下ろす刹那、ふと思う。
――誰か、どうすればよかったのかを、教えてくれたなら。
地上を照らしていた月は、まるで目をそむけるように雲に隠れ、あたりは闇に閉ざされた。
残ったのは、一人が倒れるその音だけ。
鏡 鬼畑 瓜 @oniazuma09
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