13 甘くて美味しい
翌朝、ヴィヴィは甘い匂いに鼻をくすぐられて目覚めた。
それは焼きたての菓子の香りであるようだったが、まるですぐそこで誰かが竈で焼いていると思えるほどに濃く感じられる。
(一体、何なんだろう)
ヴィヴィは目を開け、温かい毛布から抜け出て身体を起こした。
そして朝の静かな明るさの中、天幕の中央に置かれた八角形のテーブルに、数え切れないほどの種類の菓子が載っているのを見る。
「……お菓子がたくさんある」
驚きで寝台から立ち上がれないまま、ヴィヴィはテーブルの上を凝視した。
りんごがみっしりと詰まったタルトにふんわりと膨らんだプラム入りのスフレ、輪切りのオレンジを乗せた黒いケーキに木苺や赤すぐりにシロップをかけたサラダなど、テーブルに並んだ皿や器には華やかで美しい菓子や甘味が盛り付けられている。
その唐突な夢のような光景にただ呆然といると、背後の入り口からレオカディオの声がした。
「驚いてくれただろうか」
ヴィヴィが振り向くと、レオカディオは黒地に黒いビーズの飾りがきらめく
二人では絶対に食べきれないほどの量の菓子をこの場に用意させることができるのは、将軍として軍を率いているレオカディオの他にはいない。
「どうして、こんなに」
意味がわからないまま、ヴィヴィはレオカディオに動機を尋ねる。
レオカディオはテーブルの前に進み、長い指で皿から一切れのパイを手にとってヴィヴィに微笑みかけた。
「君は食が細いから、甘いものなら食べられるかと思って用意させたんだ」
問いかけに答えると、レオカディオはそのまま手にしたパイを一口食べた。
ヴィヴィがあまり食事をとらないのは食が細いからではなく、戦場で大勢の人の死を前にしては食べられるものも食べれないからである。
しかしレオカディオはそうしたヴィヴィの心の問題は無視をして、清々しいまでに自分勝手な思いやりを押し付けていた。
「ほら、食べてごらん」
レオカディオはパイを一切れ分平らげると、新しい一切れを手にしてヴィヴィに差し出した。
ヴィヴィが何も考えられないまま小さな手を開いて受け取ると、綺麗なきつね色に焼き上がったパイはまだ温かかった。
(だけど理由は何であれ、これは私のためのお菓子なんだ)
傲慢で相手の気持ちを理解しないレオカディオに、ヴィヴィは心を許すことはできない。
しかしレオカディオの愛情が真っ当なものではなくても、自分のために用意された食べ物は無駄にできない。
だからヴィヴィはこくりと無言で頷いて、自分の意思でパイを口に運んでかじった。
花びらの形に重ねられたパイの生地は、ヴィヴィの歯にふれるとさくさくと香ばしい音をたてて崩れて、中からアーモンドの粉で風味がつけられた温かいクリームがとろけ出す。
卵色のクリームは優しく舌を包むように甘く、パイ生地もまぶした砂糖がかりかりに焼けているので歯ざわりよく甘い。
(甘くて、美味しい)
農民であったころには絶対に口にすることはできない繊細な味わいに、ヴィヴィは身体が甘い味を求めるのを拒めず二口目をかじる。
身体に染み渡る砂糖の甘さは辛い記憶をかき消して、ヴィヴィの思考を鈍らせ心を依存させた。
ヴィヴィが権力に屈し、甘い匂いの中でパイを貪るのを見て、レオカディオは長いまつげに縁取られた目を満足気に細めた。
「俺の国の菓子は、美味いだろ」
粉糖がまぶされたビスキュイや真っ白なメレンゲが盛り合わせられた器をテーブルから掴み取り、レオカディオは長い足を組んでヴィヴィの隣に腰掛ける。
レオカディオは暴力に近い甘さと美味しさで、ヴィヴィの人生を捻じ曲げていく。
その力が取り返しのつかない破壊をもたらすものだとしても、ヴィヴィはもう飢えたくはないし、何も奪われたくはない。
だからヴィヴィは奪われる前に、自分に残されたものすべてを手放すことにした。
「はい。ありがとうございます、レオカディオ様」
ヴィヴィは生地のかけらを口につけたままたどたどしく微笑んで、以前からレオカディオに求められていた感謝の言葉を初めて口にした。
それはヴィヴィが自ら誇りを棄てて、レオカディオの寵姫であることを認めた証である。
(だって頑張ってもどうせ無駄なら、私は美味しいものを食べて生きたい)
ヴィヴィはテオや死んだ父や姉のことを考えたくなくて、神や聖女の偶像に似て端正だけれども、残忍な微笑みを浮かべているレオカディオの顔を崇めるように見つめた。
自分も菓子を食べながら、レオカディオはヴィヴィを面白そうに観察している。
自分は弱く、彼は強い。
そうした不平等だからこその愛を、ヴィヴィは受け入れることにした。
「私は甘いものが好きなので、嬉しいです」
気づけばヴィヴィは、媚びてねだるような声で話していて、自分からレオカディオの身体にすり寄っていた。
もしかすると拒絶し続けた方がレオカディオには飽きられず、結果的に長く大切にされるのかもしれないが、ヴィヴィにはもう何が正しいのかはわからない。
しかし何もわからないヴィヴィでも、見て見ぬ振りをして、破壊や殺戮から目を背けることはできた。
「やっと俺に、感謝してくれたね」
レオカディオは嬉しそうに笑って手についた粉糖を払うと、身を寄せるヴィヴィの細い腰を抱いた。
夜が朝を支配するように、レオカディオの漆黒の
レオカディオの体躯はヴィヴィよりもずっと大きく力が強かったが、ヴィヴィの肩はもう震えてはいなかった。
「ここにあるものはすべて、好きなものを好きなだけ食べればいいからな」
優しく残酷な方法で慈しみ、レオカディオはそっとヴィヴィの耳元にそっと囁いた。
金や銀よりも価値があるかもしれない砂糖の甘く儚い贅沢さが、わずかな誇りの代償にヴィヴィに与えられたものだった。
そしてレオカディオは小さな菓子と同じようにヴィヴィのやせた頬を掴んで、ヴィヴィの口についたクリームを舐めて本当に甘い口づけをする。
(これで私は全部、この人のものなんだ)
ヴィヴィはレオカディオの手の冷たさとくちびるのぬくもりを感じながら、胸の奥に重いもの感じた。
戦場に置かれた朝日が差し込む天幕の中にいる、ヴィヴィに聞こえる音は不思議なほどに静かで、レオカディオの顔は近すぎてよく見えなかった。
その目の冴える明るさに目を瞬かせ、ヴィヴィはレオカディオの腕の中で祈った。
(せめて、皆を殺した男たちが全員、不幸に死んでくれますように)
略奪者たちの破滅を祈ることが、殺戮から目を背けたヴィヴィにできる唯一のことだった。
どこかの港町の領主はレオカディオが差し向けた軍勢に怯えて自害したと、兵士たちが話しているのをヴィヴィは聞いた。
強大な敵を前にしても、領主や王のような偉い人々は生きるか死ぬかを選ぶことができるし、金持ちの商人ならお金を使ってどこへでも逃げていける。
だがヴィヴィのような貧しく身分の低い人間は、どこで生きて死ぬかを決めることはできない。手足があってもより強い力で押さえつけられる存在であるヴィヴィは、自分の身体さえも自由に動かすことはできない。
だからヴィヴィは、侵略者たちが不幸になることを祈った。
かつて村にいたときは特別信心深いわけではなかったが、今は熱心に神に祈った。
しかし好きか嫌いかに関わらずレオカディオに頼る必要があるヴィヴィは、彼の死は願うことはできなかった。
(いなくなったら私が困るから、この人は死ななくてもいい)
ヴィヴィは目を閉じ、小さな手でレオカディオの服を握った。
憎み続けることを諦めて正直になってみるとおそらく、ヴィヴィはレオカディオに恋をしていた。
それは今はまだ、淡い恋である。
しかしヴィヴィが努力して恋を実らせ、永遠に愛されたとしても、レオカディオとヴィヴィの間にある不平等な力関係は変わらないと、それだけは最初からわかっている。
だから弱者は弱者らしく、与えられるものはすべてもらおうと決めて、ヴィヴィはレオカディオの身体を強く抱きしめ返した。
狼に餌付けされた赤ずきん 名瀬口にぼし @poemin
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