静かな目覚め 夢の余韻

中澤京華

静かな目覚め 夢の余韻

 穏やかな夜明け間近の時刻—。

 浅い眠りの孝子の脳裏にまるで物語の中から現れたように、ひとりの少女の姿がぼんやりと浮かんだ。無垢でかわいらしい表情で微笑むその少女に孝子は無意識に心の中で話しかけていた。


「あなたはいったいだれ?どうしてここにいるの?」

「以前会ったことがあるのに忘れてしまったの?私はあなたが私のことを呼んだからここに来たのに」

少女は哀しそうな表情を浮かべ俯いた。


「私はあなたのことが思い出せないし、呼んだ憶えもないわ」

「でもきっとあなたはすぐに私のことを思い出すわ。だって私に気付いてこうして話しかけてくれたんだもの」

「ええっと、どこかで会ったかしら?」

そう言いかけた瞬間、孝子はっと目が覚めた。


―なんか変な夢だったけどなんだか気になる……。そういえば、最近はいろいろなことが立て込みすぎてほんとうに忙しかったっけ―。


ぼんやりとした頭で、そこまで考えたあと、孝子は時計を見た。時計の針は六時半を過ぎている。


―さっさと起きて仕事に行かなければ―。

 

そう思った瞬間、少女がさっと風のように走っていったような錯覚がよぎった。


―また、夢に出てくるかしら?ああ、だけど夢で会えたとしても所詮、夢、私の心の中の想像上の人物―。


そう思った瞬間、空耳のように少女の声が心の中で響き渡った。


「私のことを真剣に探してくれたら、きっと現実でも会えるわ。でもほんとうに真剣にならない限り、空想の中でしか会えないのよ」


―だけど私は今から出かけなければいけないの―。


孝子は心の中で少女にそっと手をふった。少女は哀しそうな表情を浮かべてスッといなくなった。


 静かな朝だった。いつものように表通りの雑踏の音が外の喧騒を運んできた。ぼんやりとした思考の中でこのまま夢の余韻に浸っていたいような気分がよぎる。


—真剣にならなければ空想のまま…ね……。空想のままの方が夢見心地でいいのかも。だけど……そう、私は出かけなければいけないんだったわ—。


時間のことが気になって孝子は時計を見直した。時計の針はいつの間にかもう七時をまわっている。


 現実は自由な思考回路を残酷に阻害する。予定にふりまわされながら、人は昔、思い描いた夢を忘れていく。今朝見た夢のことも昼間にはきっと忘れてしまうだろう。でも、夢見たことを忘れてしまったからといって、困ることは何一つない。現実においてきぼりにされることの方がよっぽど困る。


―そう、夢見たことなんてどうでもいいことだわ―。

そう思った途端、掴みどころのない空虚感に包まれいらいらしている自分に気付いた。


―なんだか疲れが溜まっているみたい―。

再び時計を見ると時計の針はすでに七時半を過ぎていた。慌てて起き上がろうとした孝子は軽い眩暈を覚えた。


―正志は今頃、どうしてるかな。相変わらず忙しくしてるだろうな―。


 恋人の正志が新潟の実家に帰って、もう一ケ月近くが過ぎていた。その一方、孝子は正志と入れ替わりのように実家を出て、正志が暮らしていたアパートで一人暮らしを始めたところだった。仕事場の研究室から近いこのアパートは正志との思い出の場所でもあったが、思い返せばこの一、二ケ月の間に国家試験や卒業式を終え、正志の引っ越しを手伝い、自分自身も引っ越し、並行して研究室の助手の仕事も始めたのだからほんとうに慌ただしかった。その疲れが出てもおかしくない。孝子は再び時計を見た。時計の針はもうすぐ八時を指そうとしている。


―もう、起きなきゃ―。


 徐に身体を起こし、立ち上がった途端、孝子は吐き気を覚え蹲った。蹲ったまま、ふと正志に抱かれた日のことを孝子は思い出した。その日は引っ越しの手伝いにこの部屋にきたのだが、荷物の整理をしているときに突然強く抱き締められ熱い口付けを受け、成り行きのまま正志に身体を預けた。うららかな春の日の午後のことだった。


「しばらく会えなくなるけど、僕のことを憶えていて欲しい。けっして忘れないで欲しい」


正志の声が不意に心の中でエコーした。


「ほんとうは孝子についてきて欲しかったんだから―」


―もしかして妊娠―?


 日数的にその可能性はある。その日、孝子は正志としばらく会えなくなることは正直、さびしかったし、正志の激しい衝動を受け止めるだけで精一杯だった。結ばれたあとも、しばらく離れられずにそのままの状態で抱き合ったまま、眠ってしまった。目が覚めたらもう夕方で、無我夢中で家に帰った憶えがある。


 正志は実家に遊びに来てくれたことがあったので両親とは顔見知りだったし、ふたりが付き合っていることを実家の両親は認めてくれていたが、正志が東京を離れ新潟の実家に帰ることを知って、娘のこれからのことを両親は案じていた。そんな状況だったので、孝子は両親に対してどこか後ろめたいような冷やっとした気分をその日は味わったのだった。その一方で、大学の研究室の助手になることが決まっていた孝子は実家の病院を継ぐために実家に帰ることを決めた正志からの結婚の申し出を断り、しばらくは遠距離恋愛で正志との関係を続けながら自分の将来を手探りしていこうと思っていたところでもあった。


「僕と一緒に病院を手伝ってくれる気持ちは君にはないんだね」

「そんなことないけれど、今すぐには考えられないの。研究室の助手の仕事は私の念願だったし。正志が実家に帰ることは急に決まったことでしょ」

「僕だって悩んだよ。でも父が過労で倒れたことを聞いてからは実家に帰って病院を継ぐこと以外は考えられなくなったからね」


 離れ離れになって暮らすことを孝子はどこか安易に考えていたように思う。少なくとも正志よりは。


—正志との結婚を断り、仕事を選んだのに妊娠してしまうなんて、なんて浅はかだったんだろう—。


 孝子はもやもやした気分で考え込んだ。でもふたりの関係を終わらせず、遠距離恋愛を続けていこうとしていたところだったのだから、その時、正志と孝子が結ばれたのはある意味、自然な成り行きでもあった。


 ふたりの未来に大きな壁を意識した正志は不安とともに生じた心の枷を外すように孝子の身体を求めてきたのだった。孝子は自分が下した決断が正志を傷つけたことをわかっていたから彼のその強い衝動を押し止めようとは思わなかったし、正志が必死になって自分の存在を孝子の脳裏と身体に刻みつけようとしたことに拒否感はなかった。むしろ、愛する人に抱かれる歓びに孝子の意識は覆われていった。だからこれから離れ離れになるふたりにとっては結ばれるべくして結ばれたはずだった。


 その後、正志の部屋を訪れ、顔を合わせたときの正志の顔には孝子が正志の身体を受け入れ、ふたりの未来にこれからがあることをお互いに確認し合えた歓びが滲み出ていた。孝子は不意にとりとめもない気持ちに襲われながらも嬉しいような気恥ずかしさに包まれていた。


—見送りの日、別れ際に孝子をそっと抱き締めながら囁いた正志の一言が脳裏を不意に過った。

「また、そのうち逢おう!」

「そのうち逢おうって、まったく正志ったら何考えてるんだか」

遠距離になってもまたそのうち会えるんだからと軽く笑って別れたはずだった。


 もしかしたら妊娠してしまったかもしれないという不安に陥りながら、今まで妊娠のことをまったく気にもとめなかったなかった自分が少し情けなかった。


 その日はいつものように研究室に行き、いつものように助手としての課題に取り組み、体調不良を理由に孝子は少し早めに研究室を出た。まだ、新学期がはじまったばかりで、研究室に入ったばかりの新顔の学生たちも多く、新メンバーは卒論のテーマもまだ未定だったため、研究室の助手としてのスケジュールもあまり立て込んでなかったし、忙しい時期より退席しやすかった。研究室を出ると孝子は夕飯の買い物がてら、薬局に寄って妊娠検査薬を買った。そしてアパートに帰ってどきどきしながら検査すると案の定、陽性と出た。


―ああ、やっぱり、これからどうしよう―。


 孝子は一瞬、途方に暮れながらも気を取り直すよう努めた。産むことに迷いはなかったが、お腹の子の父親である正志とは離れ離れになったばかりだったし、社会人として仕事にも就いたばかり。その上一人暮らしをはじめたばかりの環境で如何にして出産に臨むかは大いに悩むところだった。


―このこと、正志に連絡しなければいけないのよね……。困ったわ―。


 見送りの日の次の日に正志から電話があって以来、正志との連絡は途絶えていた。正志が実家に帰って忙しいのは想像できたし、自分自身も忙しかった。


「何かあったら、いつでも連絡してよ。俺からも落ち着いたら、連絡するからさ」


 正志はそう言っていたが、自分から連絡するのはどこか気兼ねした。それなのにこんなかたちで連絡しなければいけなくなるなんて……。孝子が妊娠したことを正志が喜ぶことは分かり切っていたことだった。


—きっと、仕事を辞めて、こっちにおいでというだろう。ああ、だけど私はまだ正志の実家のご両親と顔を合わせたこともないし、妊娠のことを伝えてしまえば、正志がご両親にも伝えてしまう可能性もある。そしたら、ご両親はどう、思うかしら?


そんなことを悶々と考えているだけで孝子は気分が滅入ってきた。


 実際、結婚も出産ももっと先でいいと孝子は思っていた。だから、正志からの結婚の申し込みを断ったのだ。結婚は社会に出てある程度働いた後で、という意識が強かった。それに正志の実家で正志のご両親と一緒に暮らす自信は孝子にはまだなかった。もっとも正志とは気心も知れているし、側にいて安心感もあるし、ふたりで過ごしている時間が心地よかったから今まで付き合ってきたのだし、正志も孝子のことを気に入って結婚まで申し込んでくれた人なのだから特別な存在ではあるが、正志の実家に入るとなると、正志のご両親のことまで気にかけなければいけない。正志から話は聞いたり、写真で見たりしているものの、正志の両親は孝子にとっては実際顔を合わせたこともなく、話したこともない未知の存在だった。せめて会って話したことがあれば……と思いながら、孝子は苦笑した。でも正志が実家に帰ることも急に決まったことで、実際、それどころではなかったのだ。


「ゴールデンウイークでも、夏休みでもいいから、一度会いに来てよ。その時は両親に紹介するからさ」

「そうね、会いに行けるといいね」


二人で交わした会話が不意に孝子の心の中でこだまする。


―妊娠のことを伝える前に会いに行くべきなのかな……。


 そう思いながら孝子はお腹に軽く手をあてた。このお腹の中で確かに命が育ちはじめている―そう思うと自分が今こうしていることさえ不思議に思えてくる。その時不意に今朝見た夢の少女が言ったセリフが脳裏を過った。


「私のことを真剣に探してくれたら、きっと現実でも会えるわ」


―お腹の中の赤ちゃんは女の子かな?男の子かな?探すもなにももうすでに赤ちゃんがお腹にいたなんて……このお腹の中の赤ちゃんも私がしっかりしないと無事に産まれないんだわ―。


 その時、なぜか不意に孝子は朝方夢に出てきた少女が誰であるか思い出した。孝子が病院実習をしていたときに出会った少女だった。


―あの子のことを今頃、夢に見るなんて。今頃、どうしているかな―?


 彼女は孝子が病院の屋上で昼食を採っているときに、孝子に話しかけてきた少女だった。

「お姉さん、こんなところでひとりで食べていて、さびしくない?」

少女は屈託のない笑みを浮かべた。

「今日はいいお天気だから、食堂ではなくて屋上で食べようと思ってお弁当を持ってきたの。外の空気は気持ちいいね」

「うん。そうだね。私は明日、退院するのよ!それでうれしくてここに来たの。それに今、お部屋に誰もいないし、少し退屈だったから」

「そう。よかったね。でも退院したら、学校とか、きっと忙しくなるわよ」

「うん。勉強、しばらくお休みしていたから、友達に教えてもらわないと」

「そうね。なんで入院していたの?」

「心臓の病気で手術してもらったの。成功して良かった」

「そうなのね!手術、成功して良かったね」

「うん。ほんとうに良かった」

少女は空を見上げた。


その時、母親らしき人が少女を探して屋上に上がってきた。

「まあ、こんなところにいたのね。駄目じゃないの、黙って何処かに行くなんて」

「ごめんなさい。でもすぐ戻るつもりだったから……」

「じゃあ、もう戻りましょう」

「あの、少し外の空気を吸いたかっただけみたいですよ。心臓の手術、成功されたそうで、よかったですね」

「ええ、ほんとうに。でもまだいろいろ心配でね」

「そうですよね」

孝子は一瞬、言葉を濁したが、気を取り直すように言った。

「私、そろそろ薬局に戻らないといけないんだったわ」

「お姉さん?薬剤師さんなの?」

「まだ実習生です」

「そう……。素敵な薬剤師さんになってね」

「ええ、あなたも頑張って」

「また、どこかで会えるといいね」


 少女はにこやかに会釈し、お互い手を振って別れたのだった。彼女のあどけなさがかわいらしくてそういえば、その日の夜、正志と食事したときに話題にしたんだった。まだ、正志と出会ったばかりの頃だった。正志は孝子が実習することになった病院の研修医であり、孝子が通っていた大学の医学部の卒業生であり、孝子は正志と病院実習の指導の先生から紹介されて知り合った。正志が当時研修中のT大学付属病院を案内してくれて親しくなり、待ち合わせして一緒に帰ったりするうちに自然な流れで付き合うようになった。そしてあれから一年半……今、孝子と正志は離れ離れになり、孝子のお腹の中には正志との赤ちゃんがいる。少女はそのことを予告するように孝子の夢の中に現れたのだった。


―一年半の間にいろいろなことがあったな……。今までが幸せすぎたのかな―。


 不意にどっと疲れが押し寄せてきて、孝子は溜息をつきながら、テーブルの上に顔を俯せた。そのまま少しうとうとしていると、突然携帯電話が鳴った。

「もしもし」

「あ、孝子、正志だけど」

「正志、元気?そっちの生活には慣れた?」

正志からの咄嗟の電話にうろたえながらも孝子は電話に応じた。


「慣れたっていうか、まあ、久しぶりに実家に帰って少し寛いでるかな。仕事は少しずつ覚えればいいって言われてるからね」

「そっか。よかったね。お父様の容態も落ち着いてるのね?」

「まだ、安心はできないけど、経過はいいみたい。俺が帰ってきて喜んでるし」

「そう。よかった」

「あ、もっと早く連絡しようと思ってたんだけど、孝子の方が忙しいかなと思って……。俺も片付けとか挨拶とかバタバタしてたけどさ」

「私の環境はそんなに変わったわけじゃないけど、仕事って意識が入るだけで緊張するよね」

「そうだよね。ところで、ゴールデンウイークにこっちに来れないかな?なんだったら、俺、迎えに行くからさ。両親に孝子のこと紹介しておきたいし。結婚前提に考えてるって。ゴールデンウイークが無理だったら、夏休みの頃でもいいからさ。予定、組めないかな。お互い忙しいからこそ、いい加減にしておけなくて。俺の気持ちはすでに孝子には伝えたけど、両親にもはっきり伝えておきたいんだ。いいよね?」

「そうだね。予定考えておく」

妊娠のことは正志には切り出せず、孝子はぼんやりと答えた。


「急な話でごめんね。でも孝子のこと早く両親に紹介したいからさ」

「私のことご両親に話しちゃったんだよね?」

「付き合っている人がいるって話したんだ。そしたら、父も母も一度会って話がしたいって」

「そうよね。大事な跡取り息子のことだもの、心配よね。私もお父様やお母様がどんな方か気になるわ」

「とにかくさ、お互い顔を合わせて話せば、安心するだろ?」

「そうかもしれないけど……」

孝子は不意に言葉に詰まった。妊娠のことをどう切り出そうかと胸苦しいような気分で心の中は一杯だった。


「連絡待ってるからさ。電話がかけにくかったら、メールでもいいから予定がはっきりしたら、連絡して」

「うん。わかった。じゃあ、今日はこれで。明日のことがあるからね」

「孝子は元気?声があまり元気でないような気がするけど」

「少し疲れ気味なだけだから、安心して」

「じゃあ、ゆっくり休んで。久しぶりに声が聞けてうれしかったよ」

「私も。電話、ありがとう。じゃあ、またね」

電話を切った後、孝子は落ち込んだ気分になった。自分の気持ちに何の悩みもない正志が羨ましかった。妊娠しているという事実を抱えていても孝子にはまだ結婚に対して抵抗があった。だから、さっきの電話で妊娠したことを切り出せなかったのだ。


—でも、このお腹の子を出産することに対する迷いは少しもない。父親が正志であることもうれしい。けれど、正志と結婚すれば、研究室の助手という仕事を辞めて、正志と正志の家族との生活を余儀なくされるだけでなく、きっとこの子の母親としての理想も求められることになるだろう。自分が希望した仕事も満足にできないまま中途半端で辞めて、嫁ぎ先の理想通りに生きることが母親としてこの子のためになるのだろうか?でも結婚しなければ、未婚の母になる。私は未婚の母になって自分ひとりで育てていけるのだろうか?世の中そんなに甘くないことはわかっている。父と母だって、妊娠の事実を知れば、正志との結婚を勧めるだろう。その前に、正志のご両親は私を気に入ってくれるだろうか?そして、結婚前に妊娠してしまったことをどう思うだろうか?世間体を気にしてだらしないと非難される可能性だってある—。


そこまで考えて、孝子はお腹に手をあてて改めて思った。


—私はこの子の母親になる自信があるのだろうか?母親になるために我慢したり、諦めたりしなければならないことが生じてくるのはしかたのないことなのかもしれない。とにかくこの子を無事に産むことを考えなければいけない。無事に産むには側に父親がいた方がいいのはもっともなことだ。この子から父親を奪う権利は私にはない。だから、正志に伝えなければ―。


そう思った途端、孝子はいてもたってもいられなくなって、正志にメールを書いた。


―さっきはありがとう。さっき正志に伝えそびれたことがあったんだ。実は私、妊娠しているみたいなの。今日、わかったばかりで、自分でも少し驚いていて、さっきは電話では話せなかったの―。


そう書くと、孝子は思いきって送信ボタンを押した。


しばらくすると正志から、返事が届いていた。


―メール、ありがとう。うれしいよ。俺たちの赤ちゃんが君のお腹の中にいるんだね。大事にしなきゃだめだよ。先のことはゆっくり考えればいいから、今日は早く眠ってね。俺の気持ちはもう、君に伝えてあるからね。あとは後悔のないように、これからのことを決めて。まずは父と母に会う日を決めて、連絡ください。父も母も喜ぶと思うよ―。


―わかりました。早めに連絡します。妊娠のことはまだお父様やお母様には伝えないでくださいね。でも無事にこの子を産めるように今後のことをよく考えようと思います―。


 孝子は妊娠を正志に伝えることができて内心ほっとした。そして、予測していたことではあったが、正志も喜んでくれていてよかったと思った。そうこうするうちに明日の仕事のことなど、どうでもいいと思いはじめている自分に気付いた。


—母親になるということはこういうことなのか。自分と子どもを守ろうとしてくれる正志の存在に結局私は甘えている。そしてこの子を無事に産めるように生きることを自ずと選択しようとしている。情けないけれど、社会人として働きたかった自分の小さなプライドは私の子宮に宿った命の重さを意識した途端、息を潜めようとしている。そしてそうできるのも正志がきっと私たちを守ってくれるという甘えが自分の心の中に生じたからだ。


―ゴールデンウイークにはそちらに伺えるようにします。結婚のことも前向きに考えます。でも実家の両親や、仕事場にもきちんと話さなければいけないので、時間をください。回り道しちゃってごめんね―。


孝子は決心を固めるためにも正志に急いでメールした。


―うん。身体を大事にしてね。そのうちそちらに行くから。今夜はおやすみ―。


正志に伝えるだけ伝えて、ほっとした後、両親にも妊娠のことを伝えなければと思いながら、孝子は肩の力が一気に抜けていくような気分に襲われ眠くなった。


 うとうととする心の中で夢に出てきた少女の声がエコーした。


「赤ちゃん、大事にしてね」


—そうね。大事にしないとね—。


—私の身体に宿った命を無事に出産できるかどうかは私次第。だから、これからはこの子のことを最優先させなければならない—。


そう思うと身が引き締まるような思いがよぎり、孝子ははっと顔を上げた。


―仕事先にいつ伝えるか、正志に相談しないと。急な事だけど、あまり迷惑にならないといいな―。


 ぼんやりとこれからのことを考えながら、寝間着に着替え、毛布の中でお腹を抱え込むように丸くなって眠りに就きながらうとうとするうちに、赤ちゃんに早く逢いたくて待ち遠しいような気持ちが押し寄せてきて孝子は胸が一杯になった。

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