猫と杓子
南方黎
猫と杓子(しゃくし)
私の家には猫がひとついる。もとよりこの家にいるものではないが、いつも私が仕事をしていると、気付かないうちにそばに現れて、不思議そうに机を覗いてくるのだ。だから何かと構ってやっていると、初めのほうなど次に顔をやった時にはどこかに行ってしまっていたくせに、日の経つごとにその縁側の、少し陽の当たるところにいる時間は長くなっていって、最近はいよいよ一日中居座るようになっている。そしてなぜかこの猫は私が朝飯を済ませ仕事に取りかかろうと言うときにやってきて、私が机の上の紙などを片付け始めると途端に興味を無くしたようにどこかへと帰ってゆくのだ。まったく、もう四十を過ぎようかというところなのに、未だ嫁さんもいなければ子どももおらず、そのくせ白髪だけは人一倍あるような男が独り、黙々と何かを書いたり、意味の分からない(猫にとっては、恐らく)ことをぶつぶつ言っていたり、たまにふて腐れて机に突っ伏していたりすることのどこがそんなに面白いのか。残念ながら私は猫になったことがないから彼(彼女?)の気持ちは分からないし、それに猫語も心得ていないからじかに訊いてみることもできない。ひょっとしたら彼の死んだ主は私の様な物書きで、彼は毎日懐かしい風景を求めて此処に通っているのではないだろうか。それともただ憐れな私を気遣って、独りで住むには無駄に広いこの家を、その小さな尻でもって精一杯有効に活用せんとしているのだろうか。いずれにせよ、あえて遠ざけておく理由もないので、彼の好きなようにさせているのだが。
彼が家に来るようになって一年ほどが経ち、秋口に差し掛かる頃だった。私はそろそろ花や果物の一つでも寄越してくれても良いのではと思っていたが、彼は律儀にも(頑固とも言う)ただ私の仕事の始まるころに来、それが終わるとともに去って行くという習慣を続けていた。その日も私はいつものように朝飯を食べつつ、新刊に寄せるエッセイのこと、またはやはり猫には秋刀魚だよなぁと言うような馬鹿なことを考えていた。それから雑用を済ませ、さあ仕事に取り掛かろうかというとき、私は例の猫がいないことに気付いた。普段この時分には毛繕いでもして私が来るのを待っているはずなのだが、その日はどうにも見当たらなかった。寝坊でもしたのだろうと大して気に留めずに仕事に取り掛かったが、昼を過ぎても彼の姿はみえない。おかしいなと思いつつもせっせと作業を続けていると、とうとう彼の来ないまま日が暮れてしまった。そしてその翌日も、翌々日も、彼は来なかった。だが私は特に彼の身の上を案じるでも、彼を探そうとするでもなく、それまでと同じ場所で、同じ生活を送り続けた。彼のことが気に掛からなかったといえば嘘であるが、私にはどことなく彼が戻ってくるような気がしていたのだ。
そうしているうちに年が明け、気付けば彼が姿を消してから殆ど一年が経った。その日もやはり私は朝飯を食べながら連載しているエッセイのこと、または昨日安く手に入れた秋刀魚をいかに食そうかというようなことを考えていた。そうしていつものように雑用を終え、仕事場である書斎に入ったとき、私は懐かしい影をみた。そいつはいつもの場所で、何事もなかったかのように毛繕いをしていた。若干の憎らしさを覚えるほどに。私が仕事に取り掛かると、彼はやはり、不思議そうに机を覗き込んでくる。今更なにを不思議なことがあるというのだ。
それから彼は、また毎日此処に通うようになった。一年もあったのだから手土産の一つくらいこしらえられただろうものを、相変わらず例の習慣を続けている。そして私も、それまでと同じ生活を送り続けている。
私は依然、その猫のことを殆ど知らない。本当の家はどこであるか。主は誰で、どうして此処に来るのか。彼も、同じように私のことを殆ど知らない。なにせ彼は、この家に杓子があるかどうかすらも判らない。私達は互いに、互いのことを深くは知らない。私が彼を置いておく理由などなく、恐らく彼にとっても此処に来る理由などない。だが、私にはこの関係が何となく居心地の良いものに思えて、そして彼の表情を見る限り、その点について彼も私と同じだと思えるのである。
猫と杓子 南方黎 @reiminakata
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