猿神様
りん
俺は、鈴の音で目を覚ました。
あれから馬を盗んで駆けて、何日経ったか。名前も知らない暗い山に迷いこんだのを覚えている。視界に入る木も草も土も色が濃くて、塩気がなくて水っぽい。羽虫が顔に身体に張り付いて、口の中にまで入り込んできて鬱陶しかった。それで頭を振ったのがいけなかった。
枝がせり出してたのに気づかずに頭ぶつけて、馬から落ちた。それからは覚えていない。
やけに血色の良い大人達が、俺の顔を覗き込んでいた。
土よりも柔らかくて暖かな寝床で目覚めたのは村を出て以来だった、そのせいで気づくのが遅れたが、どっちにしろ手遅れだった。
土と獣の臭いがする見知らぬ人々は、とっくに済ませていた。俺の拘束と監禁だ。
かさかさした匂いのする香を焚きしめた部屋で、俺は手枷を嵌められたまま綺麗に身体を拭き上げられた。最も、そんな縛りの必要なんかないほど俺は消耗していた。
白装束を着せられた。柔らかくて、肌触りが良かった。お小夜を思い出した。竹治と祝言をあげる時ですらこんな上等の布を着けなかった。死んだ双子達を思い出した。産着が、これくらい柔らかそうだった。
日が暮れてから、傾斜のきつい道を登らされた。出奔してからろくなものを食べていない身に寒さが堪えた、ふらつく度に杖で
畏まった着物の大人達が俺の前後を挟んで、めいめいにやたらシャンシャンと鳴る鈴がついた杖を握っている。俺達の足音も虫の声も、全て掻き消された。耳障りだった。それに慣れた頃に開けた場所に出た。およそ何十年も
その中央に、頑丈そうな建物が建っていた。
先頭に立っていた人間が扉に向かって恭しく礼をすると、杖を振るっていっそうでかく鈴を鳴らした。
狩衣姿の者が
胡乱な頭のまま理解した、自分達が生き延びるために犠牲を払う風習に、海も山も変わりないってことだ。いずれ弱虫共の仕草、でも情の湧く身内から調達していたあの村よりも、ここの奴等の方がよっぽど親しみが持てるじゃないか。笑いがこみ上げた。実際には唇の隙間からひいと空気が漏れるだけで、我ながら悲鳴と変わらなかった。
祝詞が終わると、建物の扉がゆっくりと開かれた。
開けてすぐに錆びた鉄格子が見えた。中はうす暗く、四隅に申し訳程度の行灯の明かりが見える。格子の奥、広々とした座敷で、その男は胡座をかいて頬杖をついていた。
長い前髪の隙間から紅い目が覗いている。髪は後ろにも長く、畳に届き広がっている。年の頃はわからない、俺とそう変わらないようにも思える。黒い着流しに包まれた身体は細身で、華奢に見えた。
その首、手首、足首にそれぞれ大ぶりの鈴がぶら下がっていた。足を留める枷からは鎖が伸び、部屋の隅の太い杭に繋ぎ止められている。
格子の前まで引っ立てられてきた俺を見て、彼は口を開いた。
「潮の匂いがするねえ」
その言葉に誰も答えようとしない。俺を囲む者達は、ただひっきりなしに鈴を鳴らしている。なのに男の声ははっきりと聞き取れた。
りん
彼が片膝を立てる。
一人が忙しなく杖をシャンシャン鳴らしたかと思うと、格子の錠を外し俺を中に突き飛ばした。
顔から着地して、畳に頬が擦られた。勢いで、長髪男の前まで転がり出た。紅い双眸が俺を見下ろして、細くなる。
「……へえ」
前髪を掻き上げる。片頬が僅かに持ち上がった。
がちゃん、と冷たい音が背中で響いて、長髪男と二人閉じ込められた。建物の扉が閉められると、牢の中は一層暗くなった。規則正しい鈴の音をさせながら、連中は去っていった。
「お前さん随分弱ってんじゃないか」
恐る恐る見上げる。細い身体によく合う、少し高めの声だった。
声色に敵意は感じられない。むしろ嬉しそうですらある。なのに、震えが止まらなかった。歯の根が合わない。
サルガミサマと呼ばれていた。サルガミ――猿神、なのか。
「なんだ、口がきけないのかい」
どうにか言葉を出そうと口を開けるが、喉がひりついて掠れた息が出ただけだった。
「まあ、落ち着きなよ。こんなとこに入れられちまってると暇でしょうがなくってね。ちょっと話し相手になってくれよ」
そう言うと、彼は右手を差し出してきた。掌に、蜜柑が一つ乗っていた。尖った爪が指からはみ出している。ぷんと獣の臭いがした。
手が震えて、受け取り損ねた蜜柑がぽとりころころ転がった。手枷のせいで拾うのも一苦労だった。
拘束具が邪魔して皮が剥き辛い。最初はゆっくり食べた。ほんのりと冷えて甘い味がした。男がずっとこちらを見ていて、怖くて、喉を通りそうになかった。でも一口飲みこむと、するりするりと胃に落ちていった。
一つ食べ終えるともう一つ、その次は梨をくれた。
食べながら、名前を聞かれ、生まれを聞かれた。ここに来るまでの経緯も、残らず聞き出された。いつの間にか、震えは止まっていた。火鉢も見当たらないのに座敷の中はほのかに暖かく、縮み上がった身体が解れていくようだった。男は目を見開いたり身を乗り出したり、随分熱心に聴き入っていた。
話し終えると、彼はいきなり歯をむき出して笑った。手を叩き、鼻に皺が寄り、切れ長の目がぎゅっと細められる。
「いやあ、久しぶりに面白え話が聴けたよ。最近はずっと
そなえ。
口をついて出た。忘れかけていた恐れが、また戻ってきた。青くなる俺をよそに、男は嬉しそうだった。鈴が鳴っている。
「そう。大体は小せえ童が多いんだ。攫いやすいし“神隠し”として誤魔化しやすい、何なら口減らしのためにここらに捨ててく輩もいるらしいぜ。後は、爺さん婆さんだな。
世間話のような気安さで上機嫌に語る。
もう、俺が話せることは話し尽くしてしまった。なら、これから、やはり。
「猿神様なんて言われてるけどさあ、俺あそんな上等なモンじゃねえのよ。昔っからこの山を根城にしてただけの、しがない物の怪。二百だか三百年だか前にさ、修験者ってのかな、大勢に取り囲まれて煙で
頭を掻いてつるりと顔を撫でる。どこか
「俺の髪とか血とか肉がな、万病に効くんだと。食わされたモン以上に搾り取られて。でもこの鈴が鳴ると力が入らなくってさ」
りりん
片腕を振って鈴を鳴らして見せる。髪を引き摺って、にじり寄ってくる。ずっと鈴が鳴っている。男の腰の後ろで
両手で顔を挟まれた。眼だけでなく、唇も紅い。
「でもまあ、お前さん喰うくらいの力はあるから、苦しい思いしたくなけりゃ動かんがいいぞ」
腰が抜けていて、立てるわけがなかった。
俺を覗き込んでくる眼が、いっそう赤味を帯びた。柔らかな黒髪が、俺の頬にかかる。
「若い男を喰うのは何十年ぶりかね。童は肉が柔らかくて良いが、喰いでがないんだ。爺婆は骨と皮ばっかりだしよ」
かか、と男は大口を開けて肩を震わせた。笑い声に合わせて首の鈴も震える。さっきは気づかなかった鋭い牙が、光った。
そのまま、ぱかりと耳まで口が裂けた。涎が細く糸を引き、肉が腐ったような臭いがする。逃げようとしたところで檻に閉じ込められている、でも俺がじっとしていたのはそういう思考が回ったからじゃなく単に身体が竦んだからだ。
考え無しに村を飛び出して、何がしたいでもなかった、でも命は惜しかった。なのに命乞いすらできない。走馬灯も何もない、ただ男の暗い口の中から目が離せなかった。
が、男は不意に俺を離して口を閉じた。
「と、言いたいところだが」
彼は座り直して髪を掻き上げる。元の端正な顔に戻っている。
「お前も可哀想なこった。
男は首の後ろを人差し指の爪でトントンと叩いて見せた。自分の
「あ……おイソ様の……徴」
「おイソ様、なあ。ソイツも神様じゃねえよ。
「ヨブカ?」
「山猿だってな、長く生きてら世間のことをそれなりに知ってるもんだ。たかだか百年も生きられねえお前等よりも、よっぽどな。ヨブカは、海の向こうの遠い国の
その時。視界が、ぐらりと揺れた。咄嗟に畳に手をつく。
りりりりりりりん
揺れているのは、俺だけじゃなかった。男も、それどころか建物全体が激しく振動している。行灯の灯りが消えた。
「ほうら、来なすった」
暗闇に男の紅い目が光る。
みしみし、がたがたと、嵐の小舟みたいに座敷が揺れる。
揺れと共に、男の鈴も忙しなく鳴いている。
立ち上がれないのは、恐怖のせいでも混乱しているせいでもない。揺れが激しすぎるせいだ。
四肢を踏ん張っていると、男に襟首を捕まれて強制的に立たされた。
そのまま額がぶつかりそうなほど顔を近づけてくる。
間近にいるのに、暗くてはっきり見えない。きひひ、と歯の隙間から生臭い息を吐いているのだけはわかる。笑っているらしい。
「お前さんにとっちゃ不運、だが俺にとっちゃあ千載一遇よ」
りん
強い力で俺を突き飛ばした。
俺が壁に叩きつけられるのと、畳を突き破って黒い塊が飛び出してくるのとは、ほぼ同時だった。
衝撃で、息が詰まる。
巨大な黒い影が、天井を、屋根を突き破る。空いた穴から、まん丸の月が覗いていた。
外の方がずっと明るい。そんなことを思った。それくらいしか、俺にできることはなかった。
多少明るくなった頭の上から、何かが落ちてきた。見る影も無いほど粉砕された畳の残骸に、それはひらりと二本足で立った。男だ。
「全部は無理だったかあ」
首を抑えながら独り言ちた。両腕と両足の枷が外れている。突き上げられた衝撃で外れたらしい。
俺が何かを言う前に、黒い塊が音を立てて降ってきた。
男は俺を抱えて外に転がり出る。轟音とともに、それは地中に潜りこんだ。
「お前を狙ってきてる。またすぐに飛び出してくるだろうよ。お前を食うまで」
言いながら、首輪に手をかけた。両の指で、難なく引きちぎってみせた。
りん
土の上に落ちた鈴は、最後に弱弱しい音を立てた。
男の身体が変質していく。
滑らかだった肌から黒い毛が伸び、腕が、足が、身体が膨れ上がっていった。着物が散り散りになる。
大木よりもさらに身の丈の伸びた姿を、月が照らす。長い毛足がそれを艶々と反射している。
毛も顔も黒い大猿だ。
「ああ、外の空気が旨え」
大猿は一つ伸びをすると、俺をひょいとつまみ上げた。
俺の後を追うように、地面から黒いものが飛び出す。当たる寸前、大猿は俺を無造作に瓦礫の山に放り投げた。
それは今度は地中に潜ることなく、大猿の遥か上まで飛び上がり、俺達を見下ろすように静止した。
鱶だ。形としては、確かにそれだ。
その大きさも、空に浮かぶという有り様も、俺の知っている鱶ではないが。
「ようこそ俺の縄張りへ。歓迎すんぜ。アンタの武勇伝聞かせてくれよ」
ヨブカが動く前に、大猿の尻尾が
土煙の向こうから飛び出したヨブカが大猿の右腕に噛り付いた。辺りに血の臭いが広がる。
大猿は左拳をヨブカのどてっ腹に捻じ込み、強引に腕から引き剝がした。
「言葉通じっかな。クニが違うもんなあ。でけえ嵐に巻きあげられて海渡った話とかさあ、大蛸とやり合った話とかさあ、詳しく聞かせて欲しかったんだがよ」
「ああ旨い。新鮮な海の魚はここいらじゃ人間の肉よりありつくのが難しいんだ」
両手でヨブカを押さえつけ、貪るように吸い付いた。ヨブカの尾が苦しそうに地面を叩いている。
すると突然、大猿が弾き飛ばされた。大木がいくつも折れた。
大猿の歯形のついたヨブカの傷口から、鱶の頭が生えていた。新しい頭は生首のように地面に転がり出ると、大きく咆哮した。
「おおすげえ、もっと見せてくれよ」
起き上がった大猿が両手を広げて雄叫びをあげる。
その反らした胸に、白い礫が大量に突き刺さった。
ヨブカが歯を飛ばしたのだ。
大猿が膝をついた。
その頭に、ヨブカの生首が食らいついた。
抵抗しようともがく大猿の腕、足、腹に、いくつも生えてきたヨブカの生首が次々に喰らいつく。もはやどちらの血かもわからない紅い水溜りが広がっていく。蛇のように大猿の尻尾が這う。ヨブカに向かって鎌首をもたげる。
この後、山猿が形勢を逆転したのかもしれない。ヨブカがそのまま全てを喰らいつくしたのかもしれない。
いずれにしろ、もうどうでも良かった。折れた柱が俺の腹を貫通している。
月明かりに照らされて重なり合う二つの影を眺めながら、俺はゆっくりと訪れる死を待った。
座敷牢シャーク 惟風 @ifuw
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