1ー5 GZ-002
「それで、ついに重い腰を上げたんだね?」
何かの液体を試験管に注ぎながら、ロヴィアが振り返りもせずに言った。
相変わらずのぼさぼさ髪が肩の辺りまで伸びているが、そこから更に延長したことはないように思う。そこが限界と決めて切っているのだろうか。ならば全体的に整えるべきだと思ったりもするが、その手の話は女に振らない方がいいと学んでいる。ジェイスが教えてくれたことの一つだ。
「重かったか?」
嗅ぎ慣れない匂いに満たされた部屋。蹴飛ばされたように倒れていた椅子。それを起こして座る。
いつものように煙草に火をつけようとして、ここは禁煙だということを思い出す。以前に普通に吸っていたら「吸うのはかまわないけど、何かに引火したらこの辺り全部が吹っ飛ぶかもしれないから、その覚悟をしておいてね?」と脅された。
一体どんな危険物があるというのか。はったりだとも考えたが、ロヴィアはそんなことをするような性格ではなかった。
「ボクがこの件を知ってから、もう大分経っているじゃないか。ええと、そうそう、プロジェクト3Lー4が第三フェイズまで進んでいるんだ」
「そうだったか」
そんなプロジェクトは知らないし、フェイズ云々も初耳だった。指摘しても無駄だろうし興味もない。ロヴィアを引き入れてからそれなりに時間が経ったということだろう。慎重に事を運んでいるので仕方のないことだ。
「その様子だと、俺が集め始めたことを知っているんだな?」
「キミはボクをバカにしてるのか?あの訓練棟を使っておいて、ボクが気づかないとでも?というより、今日ひょっこり現れたのは、そのデータを取れってことなんだろう?」
急に振り向いたロヴィアがまっすぐにその黒い瞳を向けて来る。
魔兵士の表情を読み取るようなことは滅多にない。視線を合わせて話すことが少ないからだが、ロヴィアは例外の個体、いや人間の部類で感情が割と顔に出る。少ない経験則からも今の状況は理解ができる。
何やら怒っているようだ。「女が怒っている時はわけも分からず謝るな」という助言と「まずはすぐ素直に謝る」という過去の言葉がある。相反するこのアドバイスのどちらに従うべきか。
悩んでいる間にロヴィアの持っている試験管が不意に爆発した。
「はわっ!?」
爆発といっても小規模でたいしたことはない。いつもの煙草の煙より少し濃いものが瞬間的に広がっただけだ。すぐにそれも消える。
「ぬぬぬ、この匂いはバセス系?混合比率が悪かったかしらん……」
爆発したことよりも原因特定に頭をひねっているロヴィアだが、気にするべきなのはその髪の方だ。
爆風を受けたためか、飛び散った液体の影響か、ぼさぼさ髪が逆立ったまま固まって凄いことになっている。一瞬浮き上がったのなら理解できるが、なぜその状態で固まっているのか。さすがに気になって指を差すと、
「ほむ?ボクの髪が浮き上がっている?どれどれ……うわぁ、これはなかなか斬新な現象じゃないか!ジーガ系の効能で凝固成分の機能が働いたのか?それとも――」
ぶつぶつと結局自身の考えに没頭するロヴィア。
どこから取り出したのか、手鏡を持っていたことに驚く。それなりに高価な代物だったはずだ。昔ねだられて買った覚えがある。ロヴィアはどうやって手に入れたのか、などと考えかけて無駄な思考を振り払う。
今はそんなことはどうでもいい。本筋へ戻るべきだ。
「訓練棟の監視魔法で既に気づいているということだな?」
先程の話の続きをする。
「え?ああ、そうそう。いきなりケモノを連れて来てただろう?何かやるんだろうと思っていたけど、そこへあの娘を連れて来たからね。というか、勝手に始めないでくれないか。それで知らない間に死んでいたらデータが取れないじゃないか」
「そんなヤワな個体……弱いヤツじゃない」
「その根拠は?号持ちだからといって生き残るとは限らない。環境も条件も違うし参照すべき……まぁ、いいか。どのくらいカバーできるかの実験にもなる。それで、何階限定にしたんだい?」
「いや、棟全部だが?」
「はぁ?キミはバカなのか?訓練棟全域を監視できるはずがないだろう?」
「そうなのか?てっきりお前の研究道具ならできると思っていたんだが、そうか、できないのか……」
それは誤算だった。保険があまり利かない。壊されることはないとは思うが、万が一ということは往々にしてあるものだ。すぐ近くで張り込むべきだろうか。
「くくく、キミもなかなかやるじゃないか。このボクを煽るとはね」
「何の話だ?」
「この天才にできないことなどないよ。全棟の監視、問題ないさ。並列処理でもう少し目を増やせばいい。くくく、できないなんて言ったことを取り消してもらおうか」
良くは分からないが、ロヴィアが前言を撤回したということでいいのだろうか。
突然やる気に満ち溢れているのは意味不明だが、やってくれるのなら有難い。
「そうか。じゃあ、頼む」
「いや、そうじゃなくて取り消せと……まぁ、いい。最年長でもやっぱり
「だから、何の話だ?」
ロヴィアの言うことは時々本当に意味不明だ。いや、おそらくは他の人間でも同じなのだろう。長く会話する相手として、ロヴィアの比率が高いせいでそう思うだけかもしれない。まだまだ他の個体、他人との会話について慣れているとは絶対に言えない。経験不足だ。
自分自身でもこうなのだから、他の特殊な魔兵士は更に厳しいものだということは明白だ。道のりは果てしなく遠い。
「気にしなくていい。そうだ、ついでに聞いておこうと思っていたんだ。例の司令官補佐殿はどんな感じだ?使えそう?」
ロヴィアは突然違う話題を切り出した。
一瞬、誰のことか分からなかった。あまり肩書を気にしたことがないからだ。しかし、すぐにニヴェンのことだと気づく。
「どんなと言われても良く分からんな。逆に聞くが、使える人間かどうか、何で判断すべきなんだ?」
まともな人間という基本的な知識が自分の中にはない。外部の人間そのものに触れる機会がほとんどないのだから当然だ。街には外から来た人間も多数いるが、話を聞く限りでは普通の状態ではない。その普通さえ分かってはいないが、少なくとも何らかの基準がなければならないと今更ながら思い当たったぐらいだ。
今のところ、ニヴェンに対する判断は保留しているとしか言えなかった。
「くくく。それをボクに聞く時点でどうしようもないな。特筆すべき知性がないものに興味はないよ。他を当たってくれないか。それこそ、情報部(ブレイン)にでも頼ればいい」
「簡単に会える相手じゃない。引き合わせるにしても最後の方になるだろう」
「そうかい。何にせよ管轄外だ。聞く相手を間違えている」
そうだろうか。
ロヴィアは確かに特定の事柄にしか興味を持たないし、それ以外については冷淡ではあるが、一度目を向ければ誰よりも社交的な面がある気がする。要するに気分の問題ではないだろうか。何か関心を引きさえすればまともに取り合ってくれる確信があった。
ニヴェンの言葉を思い出す。
「『会話をすることで私は君たちをより理解できる』……そんなことを言っていた」
「なに?会話だって?ボクらのことをまるで分かってない証拠じゃないか」
その指摘は間違っていないが、外からの人間ならば当然でもある。誰かを知るためには会話が重要だと自覚したのは俺自身も最近だ。一般論では正しいのだろう。無知であろうと、分かろうとするその姿勢は悪くないと思うし、何かが変わらないとも限らないとも思う。
それに、試したことがないからこそ、あるいはそれが何か違いを生むのではないだろうか。
じっと黙っていると何かが伝わったのか、ロヴィアはやれやれと言うように頭を振った。
「……まぁ、その心意気がどれだけのものなのか、試してみたい程度には興味が少し湧いたよ。判断云々は抜きにして、ちょっとぐらい「会話」してみてもかまわない。ボクにとっても、外部からの刺激で脳が活性化される可能性はなきにしもあらずだ」
「そうか。なら、一度話してみてくれ」
気分の風向きが変わったようだ。俺もこのくらい柔軟になれればいいのだが。いつか誰かに言われたように、己には頑固な一面が強いということを最近は少し自覚している。
「ふむ。それにしても、上は随分とキミに寛容だね。ボクにとっては有難いけど、その自由がいつまで続くかは大いに気になるところだ。この状況が気に入っているだけに、ね」
「自由というより放置だろう。記録を伸ばしている限り、過度に干渉はしないというような契約だと理解している」
「物は言いようだね。半分脅したんじゃなかったか?」
「そんな事実はない」
「そう。まぁ、ボクの研究が捗るなら何でもいいんだ。あ、それと――」
ロヴィアはその後、色々な研究対象の話を延々と続けた。半分以上、その意味は分かっていない。適当に相槌をしていただけだ。
それで十分だと今では理解している。研究者というのは、その研究の中身を誰かに話して仕方がないらしい。たとえ、その内容を相手が理解していなくとも。
珍しくこちらの状況を心配している素振りもあったが、自身の状況の変化がないか確認したかっただけのようだ。その変わらないスタンスは安心できる。目的が明瞭であればあるほど安定した関係でいられる。そういう意味で、内面が分かりづらい魔兵士というのはとても厄介な相手だ。
いや、それは別に魔兵士に限った話でもないか。
ニヴェンという男を思い浮かべて、外の人間というものも良く分からないと改める。すると思い当たる他人が沢山増えて、結局他者全員がつかみどころのない雲のように見えて来る。
芋づる式に増える疑問と漠然とした寂寥感を覚え、自分自身すら淀んでゆく。
「分からなくてもいいの、分かろうとすることが大事なのよ」
あれは誰に言われたのか。
自分は今それをできているのだろうか。
ロヴィアの部屋を後にする頃には、そんなことをつらつらと考えていた。
自室にはたいしたものはなかった。
寝るためのベッド、書類を書くための書斎机と椅子。支給された服を吊り下げる収納棚。
他には何もない。
私物を置いていないのではなく、持っていない。
階級の権利で制限はかなり緩い。許可されていないわけでもなかった。
ただ、昔から必要だと思うものがなかっただけだ。
誰かは立派な本棚を置いていた。
誰かは武器の飾り棚などを配置していた。
誰かは植物で部屋をいっぱいにしていた。
何一つ、意味があることには思えなかった。
それで何か得られるのだろうか。
一時だけ、花瓶を置いたことはあったように思う。すぐに枯らしてしまったし、何か変わったことも感じなかったが。
あれは確か……
誰かの影響だったような気がする。
強く勧められただけだったか。
そんなことを思い出そうとして、思い出せないまま、眠りに落ちそうになる。
ぼんやりとした思考が、ふと疑問を置いていく。
これは始まりなのだろうか。
既に集めているのだから、おそらくはそうなのだろう。
計画は以前からあった。ずっと考え続けていた。そのために動いていた。
ならばもう始まっていたはずなのに、そう認識していなかったのは何故だろうか。
途中で引き返せたからか?
いつでも止めることができた。あきらめることができていたからか。
戦いとは違ったということか。しかし。
今は、もう止まらない、止められない。
前に進むしかない状況になって初めて、開始という狼煙が己の中で見えたのかもしれない。
まどろみの中で、誰かが無表情に言った。
――これより、破壊を開始する。
聞き慣れた開始宣言。何よりも多く聞き、発したであろう言葉。
本当に始まったのか、いや、始めたんだろう。誰でもない自分が。
瞼が落ちて、暗闇が広がる。
今は夜だ。
あやふやな意識の中で皮肉を覚えつつ、星明かりのようなものを見上げる。
曖昧に点滅する光。
眠気に包まれる。
こんな時間では開始できない、そう否定しながら眠りに落ちていった。
デリエール ―魔兵士― 南無参 @nyarth
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