後編 せまい世界

 その日の夕食は、ルダが見たことのないものばかりだった。

 缶詰ばかりで申しわけないけど、とハーリは言っていたが、火を通したその「保存食」は、おいしいものばかりだった。肉も魚も変わった味つけがなされていたし、野菜がこんなに食卓に並ぶのを見るのははじめてだった。

 夜はベッドと呼ばれる寝床で寝た。布団はふわふわしていて、藁とは大ちがいだった。

「ねえ」ルダは言った。「昔の人はこんなところで住んでいたの?」

「まあ、だいたいね。貧しい人はちがうけど」

「いい文明だったのね」

「どうかな」ハーリは上を向いたまま言った。「俺みたいなはみだし者にとっては、それほどいいものじゃなかった」

「何をしたの?」

「盗みをした」何でもないことのようにハーリは言った。「食べるものを買うためのお金がなくて、盗むしかなかった」

 ルダは黙っていた。食料の有無は死活問題だ。ハーリはその日の食事にも困るほどの生活をしていたのか。これだけ文明が発達していたのに、人ひとり食べさせることができないなんて。

「警察っていう治安維持組織につかまったんだけど、ある日〈星の暴走〉が起こった。そこで色々あって、俺は〈生体兵器〉に志願したんだ」

「自分からなったの?」

「ああ。未来に希望なんか持てなかったし、どうにでもなれって思ってた。実験で死ぬなら死んでもいいし、死んだところで悲しむ人間なんていなかったし」

「お父さんとお母さんは?」

「知らない。顔も見たことがない」

 二人は黙りこんだ。

「なあ、さっきの話だけどさ」

「何?」

「二人で世界を救おうな」

「……うん」自然と優しい声が出た。

「はみだし者とよそ者のコンビが世界を救うなんて、何か痛快だな」ハーリは声をあげて笑った。


 翌日の昼まで、二人は身体を休めた。疲れすぎていたのだ。

 ハーリに手を引かれてルダが〈研究所〉から出ると、ハーリはハッチに土をかけ、わからないようにした。現地の人間に入りこまれたら面倒だから、とのことだった。

「次はどこへ行くの?」

「遠くだ」ハーリは言った。「うんと遠く」

 二人は歩きだそうとしたが、そこに「おいおい、あいつらがいるぞ」という男の声が聞こえた。

 ルダは厳しいまなざしを声の方へ向けた。木の枝の上に、男が五人立っている。あの新郎……名前もおぼえていない……が率いる狩人の一団だった。

「何よあんたたち」ルダは言った。「もう、私たちとはかかわりがないでしょ。ほっといて。私はハーリといっしょに旅に出るんだから」

「そういうわけにはいかないんだよ」

 新郎とその仲間たちは、木の枝から飛びおり、ルダたちを半円形に取り囲んだ。右手には剣がある。

「何のつもりだ」ハーリが前に出た。

「決まってるだろ。復讐だ。お前が村から出ていったのは好都合だ。殺しても誰も文句は言わねえ」新郎が怒りをみなぎらせて言った。「今までよくもやってくれたな、ルダ」

「それはこっちの台詞よ。私にひどいことをしようとしたくせに」ルダは言った。「それに、あんなお粗末なものでも、男にとっては大切なものみたいね」ルダは嘲笑した。「アレで奥さんを満足させられるの? 彼女もあわれよね。結婚早々、夫が不能になったうえ、あわれで粗末なものだって露呈しちゃうんだから」

「お、お前、どこまで俺を馬鹿にすれば気がすむんだ!」新郎の顔が真っ赤になる。

「まあ怒るなよ」大男が一歩、前に出た。

 この男の名前もおぼえていない。ルダは苦笑した。自分はとことん、村に興味がなかったようだ。いや、村にいたときはおぼえていたのかもしれない。だが、関係が切れた途端、村のことをすっぱり忘れてしまった可能性もある。

「ルダ、村に帰る気はないか?」大男は言った。「今ならまだ許すって村長も言っている」

「やなこった」べ、とルダは舌を出した。

「なあ、ルダ」大男は言った。「俺はな、お前を嫁にもらってやってもいいと思ってる」

「は?」

「お前のことを、多少はいい女だとは思ってる、てことだ」大男は続けた。「俺と結婚して嫁になれ。そうすれば、お前はよそ者じゃなくなる。しばらくはぎくしゃくするだろうが、それもいずれなくなる。その方が、こんな得体の知れない男といっしょにいるよりは幸せだろ?」

「ハーリのこと何も知らないくせに、知ったような口をきかないで」ルダは大男をにらみつけた。

「冷静になれ」大男は言った。「〈大神樹の世界〉を旅するなんて、自殺行為だ。絶対に死ぬ。村で暮らした方がお前にとってもいいことなんだ」

「ここに、二年間生き残った男がいるんだけどなあ」ハーリは言った。「彼女の意志は無視かい?」

「ルダ、俺のもとに来い」大男は言った。「それがお前の幸せだ」

 大男の顔面に、土の塊がぶつけられた。ルダが投げつけたものだ。

「ふざけないで」ルダは怒気を隠しもせずに吐き捨てた。「私の幸せは私が決める。私がすることは私が決める。誰の命令も受けない」

「こ、この野郎、人が下手に出てりゃいい気になりやがって」大男の顔が見る見る赤くなる。

「そう、その態度よ」ルダは大男を指さした。「嫁にもらってやる? 何様のつもりよ。誰があんたと結婚なんかするもんですか。あんたなんかより」ルダはハーリの腕をとった。「ハーリの方が数倍、ううん、数百倍いい男よ」

「もういいだろ」新郎が大男の腕に手を置いた。「こいつら、まとめてぶっ殺してやろう」

「あら、このあいだこっぴどくやられたのに?」

「お前が村から出てくれて本当によかったよ」新郎はにやりと笑った。「お前を殺そうが犯そうが、誰にもとがめられない。好都合だ」

「それはこっちも同じだって、わかってる?」ルダは剣の柄に左手を置いた。右手には槍がある。「そっちがその気なら、私も殺しにかかる。皆殺しにすれば、追手も来ないでしょう。全員そろって、森の栄養分にしてあげるわ」

「ほざけ。五対一で何ができる」新郎は言った。「カノさんの弟子だからって、調子に乗るなよ」

「ちょっと待ちなよお兄さん」ハーリがあいだに入った。「俺もいるってこと、忘れないでほしいなあ」

「ハーリ、これは私と村の問題だから」

「世界を救う」ハーリは言った。「そうだろ、ルダ。お前に何かあったら、俺が困るんだよ」

「上等だ」新郎は言った。「二人まとめて、ここでぶっ殺してやる」

 ハーリは剣を抜いた。ルダは槍を構える。

 相手は五人だが、注意すべきはあの大男だ。単純な力比べで男に負ける気はしないが、あの大男がどれだけの力を秘めているかはわからない。ともに狩りに出たことがあるならわかるが、あいにく、そんな間柄じゃない。

 男がひとり飛びだしてきた。剣を振りかぶり、ルダに襲いかかる。ルダは槍で男の腕を深く切り裂き、剣を落とさせた。

 別の男をハーリが相手している。剣と剣がぶつかりあい火花が散るが、人間の状態なのに、動きが速い。なかなかやるじゃない、とルダは思った。

「お前はあっちの男の方へ行け」新郎はもうひとりの男へ命令し、ルダと向かいあった。「お前だけは、俺が殺してやる」

「できるものなら」

 新郎の剣が迫る。長さで優る槍をものともせず、槍の穂先をかいくぐって肉薄してきた。ルダはちっと舌打ちし、槍から手をはなすと、大剣を抜いて新郎の剣をはじいた。

「重そうだな」新郎は嘲笑した。「女が使うもんじゃないだろ、それ」

「あら、知らないの?」ルダは剣を軽く振って距離をとった。「私はこの剣と十年近くつきあってるのよ?」

 新郎が剣を構えて距離をつめてきた。ルダは腰を落とし、迎え撃つ。新郎にも次の一撃がわかったのか、ルダの大剣の間合いの外で足をとめた。

 ルダが地面を蹴った。新郎の首めがけ、大剣を振るう。

 新郎が剣を盾にする。多少よろけても、それで対処できると思ったのだろう。

 だが、甘い。

 ルダの大剣は新郎の剣を真っ二つに折り、その首をはねた。熊や鹿の首をはねるより簡単だ、とルダは思った。

 血を噴きあげながら倒れる新郎を見おろし、新婦には悪いことをしたかなと、罪悪感をおぼえた。

 影がルダに覆いかぶさる。気づいたときにはおそく、ルダは大男によって地面に組み伏せられていた。

 油断した、と思った瞬間、大男のくさい息がルダの顔のすぐそばに迫っていた。

「いいにおいするな、お前」大男は下卑た笑い声をもらした。「こんなにいいにおいのする女ははじめてだ。早くだいておくべきだったな」

「このっ」ルダはもがいたが、男の力が強いうえ、体重までかかっているため、抜けだせずにいた。

「いいから俺の嫁になれよ。毎晩、天国を見せてやるよ」にたりと大男が笑う。

「誰があんたなんかとっ」

 押さえつけられていた大男の身体が、宙に浮いた。ハーリが横腹を蹴り飛ばしたのだ。

「てめえ、ルダに何しやがる!」

 今までルダが聞いたことのない、ハーリの怒声が響きわたった。

 身体を起こしてあたりを見ると、ハーリに向かっていった男二人は、血を流して倒れていた。

 ハーリと大男がもみあいになる。獣人の力をわずかしか使えない。だというのに、ハーリと大男の力は拮抗していた。

「お前らみたいな原始人に負けるかよっ!」ハーリは叫んだ。「失敗作の……欠陥品の意地、なめんなよ!」

 ハーリは大男に頭突きを食らわせた。大男は思わず目を閉じ、うめき声をあげる。

「ハーリ、どいて!」

 ルダは大剣を振りかぶった。ハーリがよけると同時に、大剣を大男の首に叩き落とした。血しぶきがあがり、大男は口からごぼごぼと血を吐く。何も言えぬまま絶命した。

「助かった」ハーリは息を吐いた。「これ以上は押さえられないところだった」

「もう、獣人が何情けないこと言ってんのよ」ルダは笑った。

 ハーリが凄まじい勢いで立ちあがり、ルダを押しのけた。何を、と言うより先に、ハーリの身体を剣が貫いていた。

 槍で腕を切り裂かれた男が、ルダに背後から襲いかかってきたのだ。左手に構えた剣には、男の体重が乗り、根本までハーリに突き刺さっていた。

「ハーリ!」ルダは立ちあがり、凄まじい勢いで大剣を振るった。男の頭は、真っ二つにかち割られた。

「ハーリ! ハーリ! しっかりして!」ハーリを地面に横たえ、ルダは何度も名前を呼んだ。

 何てこと、とルダは頭をかかえそうになった。剣を抜いて傷口を縫合しなければならないのはわかっているが、ここには道具がない。

 〈研究所〉に戻るべきか。しかし自分では、どこに何があるのかわからない。

 せめて、今が夜だったら。夜だったら、こんな剣に刺されることもなかったのに。ありえないことばかり想像し、ルダは半ばパニックに陥っていた。

「……れ」

「え、何?」ルダはハーリの口に耳を近づけた。

「抜いて、くれ」ハーリは顔を歪めながら言った。「剣を抜いてくれ」

「駄目よ! 剣を抜いたらあなた、死んじゃうじゃない!」

「いいからっ!」ハーリは歯を食いしばっている。「抜いて、くれ」

 その迫力に気圧され、ルダはぎこちなくうなずいた。

 ルダは立ちあがると、根本まで刺さった剣の柄を両手でつかんだ。

「行くよ」

「一気に、頼む」

 ルダは渾身の力で、剣を引き抜いた。

 血が噴きだした。以前、カノと一度だけ見た森の中の「滝」を、反対にしたかのように、勢いよく赤い体液が流れだしていく。

「だから言ったのに!」ルダは傷口を手で強く押さえた。「ハーリ、傷をふさぐ道具はないの!? 〈研究所〉にあるなら教えて! すぐに取ってくるから!」

 私は何て馬鹿なんだ、とルダは悔やんだ。先に道具の場所を訊いてから、剣を抜けばよかったのではないか。自分の馬鹿さ加減に反吐が出そうだった。

「い、痛い」

「わかってる!」

「そうじゃなくて、ル、ルダの手が痛い」ハーリの声は少し軽さを帯びていた。「押さえすぎ、押さえすぎ」

 え、と思ってルダは傷口から手をはなした。ルダの手も傷口も血まみれだったが、傷口はふさがりかけていた。

「獣人の力だよ」あらい息を整えながら、ハーリは言った。「再生能力。人間のときにも、多少は働くんだ」


 結局その日は、もう一晩、〈研究所〉に泊まることになった。夜になり、ハーリが獣人になると、傷口は完全に閉じてしまった。

「便利な身体ね」ルダはため息をついた。「そんな能力があるなら、教えてくれればよかったのに」

「だって、ルダはパニック状態で俺の声も聞こえないみたいだったし」傷口をたしかめながら、ハーリは苦笑した。「俺もしゃべってるのに、ルダが叫び続けるもんだから、あれ、聞こえてない、どうしようってなったよ」

「あれは!」ルダは大声を出したが、すぐに小声になり「あれは、目の前でハーリが刺されて、どうしようって思って……」

「心配してくれたんだね」

「当たり前でしょ!」ルダは椅子から立ちあがった。「目の前で仲間がやられて、冷静でいられるわけないじゃない!」

「仲間、か」ハーリはつぶやいた。「そう思ってくれてるんだね」

「当然よ」何を今さら、とルダは吐き捨てた。「世界を救うんでしょ、私とあなたで」

「そうだな」ハーリは笑った。「こんなところで死んでられないな」

 笑いごとじゃないよ、とルダは全身の力が抜ける思いだった。

「あの、さ」ハーリがひかえめに言った。「後悔、してない?」

「取り乱したことは後悔してる」

「そうじゃなくて……村の人のこと」ハーリは言った。「あれでよかったの?」

「いいのよ、あんな奴ら。それに、一度目は命をとらなかったんだし。二度目はない、てことがわからない馬鹿たちよ」ルダは言った。「ただ、あの新郎さんには悪いことしたとは思う。新婦さん、いきなり未亡人だもんね。でも、森に出たら誰もが死を覚悟する。たとえ相手が人間だったとしてもね」

「〈大神樹の世界〉の掟だね」ハーリは言った。「弱肉強食」

「弱い者から死ぬ。おじいちゃんも私にそう教えた」ルダは言った。「だから、私は強くなろうとした。これから、もっと強くなってやる。ハーリを守れるぐらいに」

「二人で世界を救うって言ったのに、俺は守られる側か」ハーリは苦笑し「さっき言った後悔の話だけどさ」

「うん」

「もう、二度と村に戻れなくなったけど、いいの?」

「は?」思わぬ言葉にルダはまぬけな返事をしてしまった。

「ルダは豪胆なように見えて繊細だからさ、村の人を殺したことを、いつまでも隠せないような気がする。口では言わなくても、態度に出ちゃうっていうか……正直なところがあるんだよね」

「それがどうかしたの?」

「俺はさ、ルダといっしょに村を出たとき、ルダを村に帰さないとって思ってたんだ」

「どうして?」

「過酷な旅だからだよ」ハーリはうつむいた。「二年程度の旅だったけどさ、〈大神樹の世界〉がどれほど過酷か、嫌というほど味わった。猛獣はうようよしているから夜はなかなか眠れない。ひとりぼっちでいると気が狂いそうになることもあった。大きな怪我をしたことは一度や二度じゃない。この獣人の身体だから、生き残れたんだ」

「ハーリ……」

「それほど過酷で残酷なんだよ、この世界は」ハーリは顔をあげた。「そんな世界に、君を巻きこんでいいのかどうか、ずっと悩んでた。ひょっとして俺は、君にひどい選択をさせたんじゃないかって」

「馬鹿なこと言わないで」ぴしゃりと、ルダはハーリの言葉をさえぎった。「巻きこんだ? ひどい選択をさせた? 変なこと言わないでよ」ルダはハーリに顔を近づけた。「いい、一度しか言わないから、よく聞いて」

「う、うん」

「私はね、何でもひとりで決めてきた。うまくいったこともあれば、間違ったこともある。でも、どちらであっても、その責任は私が負ってきた」ルダはハーリの鼻を指で突いた。「巻きこんだんじゃない。私の意思で巻きこまれたの。ひどい選択をさせたんじゃない。私の意思で選択したの。あなたといっしょに村を出るって。そこだけは間違えないでちょうだい」

 ルダはハーリからはなれ、椅子にどかっと座ると、そっぽを向いてしまった。

 ハーリはどんな顔をしているだろうか。生意気な小娘だと思っているだろうか。それとも、正しい選択もできないおかしな女だと思っているだろうか。

 知るもんか、とルダは思った。何と思われようが、これはルダが決めたことだ。村を出てハーリについていくことも、村人を殺したことも、すべてルダの意思によって決めたことだ。誰にも文句は言わせない。後悔も罪悪感も、すべてルダのものだった。

 ぷっ、と噴きだすような音とともに、ハーリが笑いだした。「俺はどうやら、凄い人物とめぐり会ってしまったらしい。とんだ傑物だ。最高のガチャを引き当てたみたいなもんだな」

「ガチャ?」

「前文明のたとえだ。気にするな」ハーリは膝を叩き、「わかった。もう何も言わない」

 ハーリはルダに近づくと、ルダの前で片膝をついた。椅子に座ったルダの顔と、ハーリの顔が同じ高さにある。

「あらためて、言わせてほしい」ハーリが真剣な表情で言った。「俺といっしょに、〈大神樹の世界〉を旅してほしい。俺には君が必要だ。君がいなければ、世界は救えない」

 ルダは顔がほてってくるのを感じた。ここまで自分のことを必要としてくれる人物は、カノを置いてほかにはいなかった。

 期待にこたえないと。

 そんな思いが、ルダの心の奥からわきあがってきた。

「ハーリ」ルダはハーリの顔を両手ではさんだ。「いっしょにいく。はみだし者とよそ者で、世界を救おう」


 その日、ルダはなかなか寝つけなかった。人を殺したという事実が心理的負担になっているのはわかる。だが、それは大したことではないと頭ではわかっていた。

 胸に手を置く。心臓がドキドキと脈打っていた。まるで、森の中を走り抜けたあとのようだった。

「ねえ、ハーリ」小さな声で呼びかけた。

「ん……何?」ハーリは眠りかけていたようだった。

「そっちに行ってもいい?」

「いいけど、ベッドはせまいよ」

「ハーリの上に乗っちゃ駄目?」

「いいよ。毛皮が恋しいの?」

 ルダはベッドからおりると、ハーリの上に乗った。傷口はもうどこにも見当たらなかった。

「あの、ね」

「うん」

「胸がドキドキしてるの」

「そりゃあんなことがあったからね。人を殺すっていうのは、もの凄い負担さ」

「それはたぶん、すぐにおさまると思う」

「……本当に豪胆だね、君は」

「ドキドキしてるっていうのは」

「うん」

「何ていうか、その……」ルダの言葉は歯切れが悪い。

「君らしくない。はっきり言ってよ」

「ひょっとするとね」

「うん」

「私、ハーリのこと好きなのかもしれない」

「そりゃあ、嫌いな奴と旅はできないでしょ」

「そうじゃなくて、そういう好き嫌いじゃなくて……何て言ったらいいのかな」ルダはハーリの胸に顔を埋めた。「ハーリならわかるんじゃない? これがどういう気持ちかって」

「どうかなあ」

「教えて」

「……いや、俺にもわからない」ハーリは軽くかぶりを振った。「もう寝た方がいいよ。寝ないと、明日に響く」

「あのね、私、今日会った男に対して『粗末なもの』とか『不能』とか言ったでしょ」

「言ってたね。あれはひどかった」

「あれ、どういう意味?」

「……は?」

「私が考えた言葉じゃないのよ。ただ、男にとって股にあるそれは大事なもので、大きいだの小さいだのって自慢したり馬鹿にされたりするものだってことしか知らないの。用を足す以外に、あれは何に使うの? 不能って何? 女の人を満足させるってどういう意味?」

「……本当に知らないの?」

「知らない」ルダははっきりと言った。「誰も教えてくれなかったから。ただ、村の人がたまにそんな話をしてるのを耳にしただけで」

「んー……」ハーリは悩んでいるような、困っているような声を出した。

「そんなに悩むこと?」ルダはつめ寄った。「そんなに言いにくいの?」

「言いにくいと言えば、言いにくい」

「やだ、私そんなこと口走ったの?」ルダはあわてた。「私、村の連中みたいな下品なことは絶対に言いたくなかったのに」

「下品じゃないよ」ハーリは言った。「とっても大切なことだ」

「そうなの?」

「そうだよ。だってルダに罵倒された男、怒ってただろ。それはとても大切なことを侮辱されたから怒ったんだ」

「ねえ、どういうことか教えてよ」

「え」ハーリはかたまってしまった。

「大切なことなら、私も知っておきたい」

「ルダにはまだ早いと思うよ」

「私が子供だってこと?」ルダは怒ったように言った。「大丈夫よ。どんなことだって受けとめるから。子供あつかいしないで」

「んん」ハーリは咳ばらいをし、「わかった。教えるよ。教えるけど、怒らないでくれるか?」

「怒らない。約束する」

「簡単な説明と、くわしい説明、どっちがいい?」

「くわしい説明」ルダは即答した。

 ハーリは右手で目を覆い、「本気?」

「本気よ。早く教えて」

「わかった。まず、男の股には、女にはないものがあるだろ」

「うん」

「女の股にも、男にはないものがあるだろ」

「ある」

「そこに、男の……」

 五分ほどかけてじっくり説明を受けたルダは、暗闇でもわかるほど、真っ赤になっていた。

「馬鹿ぁ!」ルダは両の拳をハーリの胸に叩きつけた。

「ぐふぁっ」ハーリは思わず咳きこんだ。

「そ、そ、そんなことって……それじゃあ私のこの体勢って」

「い、いやいや、俺にそんな気はないから」

「やだやだ! 何やってんのよ私!」

 ルダはあわててハーリからはなれ、自分のベッドにもぐりこんだ。昼間、男たちが言っていた言葉の意味も、今ようやくわかった。自分はなんて無知だったんだろうと、赤面がとまらない。

 明日、どんな顔してハーリと話そう。

 考えるだけで眠れなくなった。


 ほとんど眠れないまま、朝が来た。ハーリが先に寝室を出ていったのは、気配でわかっていた。

 ルダがおそるおそる寝室から出ると、ハーリが缶詰の朝ごはんを用意しているところだった。

「おはよう、ルダ」

「あの、ハーリ、昨日は」

「よく眠れた?」

「え? うん、まあ」もじもじしながら、テーブルにつく。

「次の目的地はかなり遠い」ハーリは言った。「今のうちにしっかり栄養をつけておかないとね」

 ハーリは今までどおりだった。それに比べて自分は、ハーリの顔をまともに見られないでいる。うつむいたまま、缶詰の料理をほうばった。

 私は、自分で思っているほど、大人ではないのかもしれない。

 ハーリに大人の余裕のようなものを感じて、ルダは少し気落ちした。自分が無知であったことも、拍車をかけていた。

「どうしたの? 具合悪い?」

 ハーリが顔を近づけてきたので、ルダはあわてて、手で顔を押しのけた。「何でもない、何でもないから!」

 ハーリは顔を押されながら、くくっ、と笑いだした。そのときになってはじめて、ルダは自分がからかわれていることに気がついた。

 ルダは席を立つと、自分の大剣を鞘から抜いた。

「ルダ?」

「真っ二つにしてやる。そこに座れ」

「待て待て待て! 死ぬ! 死ぬから!」

「うるさい! 刺されて死なない奴が頭割られたぐらいで死ぬか!」

「だから死ぬって!」

 ハーリはルダをからかった代償を支払わされることになった。

 ハッチから出て、ハーリはいたた、とうめいた。「本気で斬るんだもんなあ。もうふさがってるけど、二度としないでくれよ」ハーリは斬られた腕や足を見ながら言った。傷痕はない。

「そっちこそ、二度と私をからかわないで」ふん、とルダはそっぽを向いた。「で、どっちに向かっていくの?」

「ひとまず、太陽がのぼってきた方角からだ」ハーリは言った。

「こんな深い森の中で、そんなのわかる?」

「大丈夫、〈研究所〉内の機械と、俺が持ってる地図を照らし合わせて確認してある」

「機械って?」

「……風呂とか明かりとか、ああいうのを全部機械って呼んでいいよ」

「ん、だいたいわかった」ルダはうなずき、「じゃあはじめましょうか、はみだし者とよそ者の世界救済を」

 ハーリはうなずき、歩きはじめた。そのあとにルダが続く。

 途中で川にさしかかった。幅の広い川で、ハーリの足ならともかくルダの足では少々わたるのがつらい。

 ハーリは先に川を飛びこえると、ルダに向かって手をさしだした。ルダは黙ってその手をとり、川を飛びこえた。

「驚いたな」ハーリが言った。

「何が?」

「黙って俺の手をとった。絶対、ひとりで跳ぶと思ったのに」

「……そうね。昔の私なら、そうしてたかもしれない」

 ルダはハーリを見あげた。ハーリは、どうしたの、という顔で首を傾げている。相手がハーリじゃなかったら、手をとったりしなかったかもしれない。

 川を振り返る。その向こうは、鬱蒼とした森が広がっている。これまでルダが生きてきた森だった。


 じゃじゃーん、という声とともにハーリが取りだしたのは、円柱型の瓶のようなものだった。大きさは手の平ぐらいだ。

「何これ。水でも入ってるの?」

「いや、水よりもっといいもの」

 時間はすでに夜。日はとうに暮れ、ルダは獣人となったハーリと向かい合せになって、焚火で夕食の用意をしているところだった。

「これをこうやるとだな」ハーリは円柱を縦に何度か振ってから、円柱の上についている突起物を押した。その途端、しゅーっという音ともに何かが噴きだした。ハーリは見えない何かを、あたりに振りまいている。

「何してるの?」ハーリの奇行に、ルダはさすがに眉をひそめた。

「これはね、猛獣よけのスプレーなんだ」ハーリは言った。「このあいだの〈研究所〉で見つけたんで、拝借してきた」

「スプレー?」

「猛獣が嫌うにおいを発生させる道具、て言えばいいのかな」ハーリは言った。「これでもう、毎晩襲われなくてすむと思う。少なくとも、襲われる可能性は十分の一以下になるはずだ」

 へえ、とルダは感嘆の声をあげた。「昔の文明って凄いのね。何でもできちゃう。ガラスは作れるし、缶詰で食料を簡単に保存しちゃうし、しかも猛獣よけまで」

「技術力だけは凄かったよ。今と比べれば」ハーリは苦笑し「ただ、人間の心は、今とそれほど変わってないと思う」

「……ああ、そうなんだ」ルダはハーリが言わんとしていることが何となくわかった。

 昔も今も、人間は変わっていない。嫌な奴もいればいい奴もいる。人をよそ者あつかいする者もいれば、自分の子供にしようとする者もいる。

「技術じゃ人間の性根は変わらなかったんだ」

「残念ながらね」ハーリは真剣な表情になり「実は、少し心配してることがある」

「何?」

「〈大研究所〉のことだよ」ハーリは言った。「海の向こうにあるらしいけど、いったいどれぐらいの大きさの島に住んでるのか、全然情報がない。人口もどれぐらいかまったくわからない。〈星の暴走〉から数百年経っている。今でも生き残っているかどうか……」

「食料の問題は大きなことだものね」ルダはうなずいた。「私がいた村でも、食料問題が起きたぐらいだから」

「交配の問題もある。近親交配が進めば、それだけ問題が」

「その話はやめて」ルダは顔を背けた。「大切なことなのはわかるけど……何だか、嫌」

「そうか、ごめん。セクハラだったか」

「セク……?」

「異性に対する嫌がらせ、とでも思っておいて」

「嫌がらせをしてるとは思ってないけど」それ以上、ルダは何も言えなかった。

 ハーリに男と女について教わってから、ルダはハーリを妙に意識するようになってしまった。川をわたるとき、ハーリが手をさしだしてくれたので思わず手を握ったが、内心ドキドキして、握った手をずっとさすっていた。

「猛獣よけがちゃんと機能してればいいけどなあ」ハーリは見えない空を見あげた。「ルダ、先に休んでいいよ。俺が見張りをするから」

「……うん、わかった」

 ハーリは足を伸ばすと、「おいで」とルダに言った。自分の足を枕代わりにしろ、と言っているのだ。

「今日は、いい」ルダは地面に横になり、ハーリに背を向けた。

「どうしたの?」ハーリは心配そうに言った。「いつもなら飛んでくるのに。もしかして、俺、何か悪いこと言った?」

「ちがう。ハーリは悪くない」ルダは背を向けたまま言った。

 そうだ、悪いのはハーリではない。ハーリを妙に意識している自分が悪い。ハーリの心づかいや言葉のひとつひとつが、ルダの心を揺さぶった。

 あんまり近づかないようにしよう。ルダはそう心に決めた。近づきすぎると、変な気分になってしまうような気がした。

 気配が動いた。ハーリが近づいてきている。ルダの心臓が強く脈打つ。何で近づいてくるのよ、と叫びたくなる。

「ルダ」ハーリは言った。「このあいだの話、気にしてるなら、大丈夫だよ」

 ルダは黙っていた。

「俺はルダに手を出したりしない。だって、ルダは恋人じゃなくて、相棒だから」ハーリはルダの頭をそっとなでた。「流れ上仕方なかったとはいえ、ルダに話すのは早かったみたいだね。本当にごめん」

「ハーリが謝ることじゃない。私が教えてって言ったんだから」

「それはそうだけど、年長者として、配慮すべきだった」

 焚火のはぜる音が聞こえる。スプレーが効いているのか、猛獣の気配はしなかった。

「ねえ」ルダは言った。「あの大男もそうだったけど、男って、女とそういうことをやりたがるの?」

「……否定はしない」ハーリは言った。「男は女性のことをそういう目で見ることがある。それは認めるよ」

「じゃあ、ハーリも?」

「ルダ」ハーリは言った。「君は自分が思っている以上に魅力的だ」

 ルダの頬が熱くなる。耳まで赤くなっているのは焚火のせいではない。

「でも、ああいうことは一方的な思いでしていいことじゃない。互いの同意が必要なんだ」ハーリは言った。「それに、さっきも言ったように、ルダは恋人じゃなくて相棒だから。絶対にそんなことはしない」

 ルダは黙っていた。

 ハーリにとって、私はそんなに魅力がないのだろうか。その……触れたい、だきたい、と思うほどの魅力には乏しいということか。

 聞こえないよう、短くため息をつく。なぜか、自分にひどくがっかりしたような気がした。

 右頬の傷痕に触れる。これがなければ、ハーリが私を見る目も少しは変わっただろうか。

 ハーリの手が、傷痕に触れるルダの手に重ねられた。

「その傷痕は、君の魅力とはまったく関係ない」ハーリは言った。「むしろ、君の魅力のもとになってると言ってもいい。強くて、頼りになる人物の証だ。誇ることはあっても、恥じることじゃない」

 ハーリは優しい。その心づかいが嬉しかった。

「……ありがと」ルダはすなおにハーリの言葉を受けとめた。

「どういたしまして」背後でハーリが動く気配がした。「見張りをするから、寝てて。明日に響くからしっかりね」

 うん、と小さくうなずき、ルダは目を閉じた。


 森の中はうっすらと明るくなっているのに、ハーリはまだ眠っていた。

「うーん、もうちょっと食べたい……缶詰は持てるだけ持とう」寝言まで垂れ流す始末である。

 何度揺すっても起きない裸の男を前に、ルダはとうとう切れた。

「とっとと起きろ、この馬鹿!」

 思いきり蹴飛ばすと、「いったぁ!」という悲鳴とともに、ハーリは起きあがった。「はっ! 料理は!? 缶詰は!?」

「缶詰は持てるだけ持ってきてる! いつまで寝てるつもり? さっさと行くわよ!」ルダはそっぽを向き「早く服を着てよね」

 あ、とハーリは声をあげ、「これは失礼しました」と、いそいそと服を着はじめた。

 ルダはため息をついた。毎朝こんなんじゃあ、私の心がもたない。

「ハーリ、明日から私が先に見張りをするから」

「ええ!? 夜の一番危ない時間帯じゃないか。そんなの任せられないよ」

「相棒を信じられないの?」ルダはハーリをにらみ、「それに、毎朝ハーリの裸を見せられるのは……その……あんまりよくないんだけど」

「……そうだね」ハーリは納得したようであった。

 二人は小高い山をのぼることになった。山をこえた先に目的地があるらしい。

 山の上から見える森は、圧倒的だった。どこを見ても緑しかない。村の場所も森に埋もれてはっきりとはわからない。ただ、ここが今まで……十六年間生きてきた世界なのだと思うと、ルダは不思議な気がした。

 こんなところに十六年もいたのか、という感情がわいてくる。

「意外とせまい世界で生きてたのね、私」正直な気持ちを口にした。

「そうだよ。世界はここよりずっと広い」ハーリは言った。「村を出たこと、後悔してる?」

 全然、とルダはかぶりを振り、口に両手を当てて、叫んだ。

「おじいちゃん、行ってくるからねー!」

 ルダの声は、こだまとなって返ってきた。

「行こう」ルダは歩きだした。

 もう振り返ることはなかった。ルダは十六年すごした世界に、別れを告げたのだった。


(了)


(「世界を変える運命の恋」中編コンテスト出品作品のため、続きが出るかは未定です)

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狩人の女とはみだしモノ 柳明広 @Yanagi_Akihiro

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