狩人の女とはみだしモノ
柳明広
前編 ルダとハーリ
※現在、全面的に書きなおし、最後まで書く準備をしています。
※書きなおした作品をカクヨムで公開するかどうかはわかりません。
※掲載されている作品は、そのまま残しておきます。もし、書きなおされた作品が日の目を見ることがあったら、ちがいを楽しんでいただけると幸いです。
きりきりきり、と弓がひきしぼられていく。
彼我の距離は百メートルほど。少女は、この距離で弓をはずしたことはほとんどなかった。
頬を汗が伝う。猛獣の皮で作った服の内側は汗だくだ。巨大な木々で形作られた広大な森は、広がった枝葉によって日光がさえぎられ暑くはなかったが、少女の汗は緊張から来るものだった。
目標が頭をあげたところで、少女は指をはなした。
木々の合間を縫って、凄まじい勢いで矢が飛ぶ。矢は狙いあやまたず、目標……鹿の頭を貫通した。
少女は軽く頭を振って汗を振りおとした。まだ終わっていないことは、少女が一番よくわかっていた。
もし、あれがただの鹿なら、ここで少女の仕事は終わっていただろう。
だが、鹿……いや、鹿のようなモノは、頭を射抜かれているにもかかわらず、誰もが腰を抜かしそうな雄叫びをあげ、少女に向かって突進してきた。
少女は弓を捨てると、地面に刺しておいた槍を手に取った。大木の巨大な根を足がかりに跳躍し、自らも鹿のようなモノとの距離をつめていく。
距離が二十五メートルを切ったところで、少女は槍を思いきり投げた。槍は一直線に飛び、鹿のようなモノの胸を貫いた。鹿のようなモノは槍の勢いを殺しきれず、その場にどうと倒れた。
少女は鹿のようなモノにゆっくりと近づいていく。腰にさした、少女の使うものとしては重すぎる両刃の剣を引き抜く。
鹿のようなモノはまだ死んではいなかった。倒れてはいたものの、首だけを持ちあげ、少女の首にかじりつこうと、歯をがちがちと鳴らしている。
少女は無表情のまま、その首に剣を叩き落とした。剣は一撃で、皮も、肉も、骨も断ち切り、鹿のようなモノに死を与えた。
ふっ、と少女は息を吐いた。狩人……いや、戦士のようだった顔に、年ごろの少女らしい表情が戻ってくる。
「いっちょあがり」剣についた血を払い、少女は言った。
少女は鹿のようなモノを担いで、森を歩いていた。重さは百キロ近いだろうが、少女はものともせず足を動かしている。
どこまで行っても大木が続く、深い森の中であった。この世界はどこでもそうだ。人が住めるような平地はほとんどなく、山と大木が地表を覆っている。
〈大神樹の世界〉と人々は呼んでいた。
この世界の中心には〈大神樹〉という巨木があり、すべての木々はそこから伸びていると言われている。もっとも、少女は〈大神樹〉というものを見たことはなかったが。
大木の根が道をふさいでいた。少女は仕方なく、急いで迂回路を探す。早く村に戻らなければ、とんでもなく凶暴な猛獣が現れる。夜の森は危険だ。
「お、ここからなら」少女は大木と大木のあいだにせまい道を見つけ、歓喜した。仕とめた獲物がつっかえるかと思ったが、その心配はなかった。小道だが十分な広さを備えていた。
それにしても、と少女は思う。
最近、森の猛獣たちが凶暴化してきているように感じていた。少女が幼いころ……おじいさんといっしょに森に入ったころは、矢で刺されても向かってくるようなものはいなかったはずだ。それが、今では矢だけで仕とめることはかなわず、槍で機先を制し、大剣で首をはねなければとまらない。
「やっぱり、何かおかしくなってるよね」ひとりごち、なぜこうなったのか考えようとしたが、やめた。少女にとって世界とは、自分が暮らす村と、それを囲む広大な森だけなのだ。その程度の知識で、猛獣の変化について考えるのは無理があった。
少女は生まれ育った村の人間以外、誰も知らなかった。村から出ていく者もいなければ──森に出て帰らないということは死を意味していた──、村にやってくる者もいない。大人子供あわせて五十人程度の村は、木の実などの採集や狩りなどでやっていくのが精いっぱいだった。
川が見えてきた。ここをわたれば、村までもうすぐだ。
川岸に立ったところで、少女は見知った顔と出くわした。村の男たちだ。
男たちは五人で行動していた。ひとりで森へ入るのは自殺行為だからだ。その自殺行為を行っている少女を見て、あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
「ルダだ」
「またかよ」
「森がこわくないのか」
少女……ルダは無視して川に足を突っこみ、腰までつかりながら向こう岸にたどりついた。
「おい」男が声をかけてきたので、ルダは立ちどまった。「村長の言葉を忘れたのか? ひとりで森に入るなと言われてるだろ」
「それで、私には飢え死にしろっていうのかい?」振り返り、ルダは嘲笑した。「馬鹿馬鹿しい。自分の取り分ぐらい、自分で取るよ。あんたらには頼らない」
「村の掟を守れ」
「黙れ。干渉するな」
男の表情が険しくなる。「この、ガキが」
「もう十六よ。ガキじゃない」ふん、とルダは鼻を鳴らした。「五人そろってないと戦えない腰抜けの方が、よっぽどガキだよ。つるまないと何もできないの?」
「この野郎!」
男がルダに食ってかかろうとしたが、別の男がとめた。「よせ、かかわるな」
「お前、馬鹿にされて黙ってるってのかよ!」
別の男はかぶりを振り、「しょせんはよそ者の戯言だ。まともに取りあうな」
男は冷静さを取り戻したのか、ぺっ、と地面に唾を吐いた。「そうだったな。よそ者のいかれ女が。温情で村に置いてもらってるってこと、忘れるなよ」
「その吐いた唾」ルダは顎をしゃくった。「〈大神樹〉に見られてなければいいけどね。見られてたら、あんたら死ぬよ」
男たちの顔色が真っ青になった。
〈大神樹〉を神聖視する者は多い。ルダの村の人間など特にそうだ。人間は〈大神樹〉の恩恵、あるいはあわれみによって生かされている。そう信じている者は少なくない。〈大神樹〉の怒りを買えば、命はない。
ルダは男たちに背を向け、獲物を担ぎなおして再び歩きはじめた。
くく、と笑い声がもれる。男たちは完全に怯えていた。その姿が面白くてたまらなかった。
村は木で作った塀で囲まれていた。
すべての木は〈大神樹〉につながるため、おいそれと切り倒すことはできない。使っていいものは、地面に落ちた枯れ枝か、神官によって聖別された大木、あるいは村の中まで侵食してきた大木だけだった。
……馬鹿みたい。
ルダは〈大神樹〉を崇める連中を見くだしていた。木はしょせん木だ。たしかに生き物のように村を侵食してくることはある。だが、大木よりおそろしいのは、森に巣食う猛獣たちだ。大木によって死んだ者はいないが、猛獣によって殺された者は大勢いる。みな、おそれる相手を間違っている。
村の門の前には、二人の男が立っていた。男たちはルダを見るや、手に持っている槍の穂先を向けた。
「何だよ、私の顔、忘れたの?」
「ひとりで狩りに出ることは禁止されている」男は言った。「村長の言葉を忘れたのか?」
またか、とルダはため息をついた。ルダはわざと媚びをふくんだまなざしを男に向け、「じゃああんたが私を養ってくれるのかい?」
ぐ、と男は口ごもったが、槍を持つ手に力をこめ、「黙れ、小娘が」と言った。
目の前まで突きつけられた槍を右手でそっとどけ、「私をひとりで外へ出してくれたのは、村長の命令なんだろう? どうして帰るときにそんな説教を聞かないといけないのさ」
「お前が村の調和を乱すからだ」男は言った。「村長が許しても、俺たちは許さない。温情で村に置いてもらってることを忘れるな」
「はいはい、温情温情」さっきも聞いた言葉をルダはくり返した。「別に許さなくてもいいからさ、どいてくれる?」
男たちはしばらくルダをにらんでいたが、仕方なくといった様子で、門を開けた。
大した広さもなければ活気もない、陰気な村だった。ときおり侵入してくる大木の根によって地面はがたがたで、小さな畑は無惨にも破壊されていた。
それでも、狩りに出られない女子供は畑を耕す。衣類や武器など、日用品も必要だが、まずは食べていかなければならないのだ。
獲物を担ぐルダを見て、村人は全員、目を見開いた。無理もない。男五人がかりでも、こんな獲物をつかまえてくることはかなりめずらしい。ルダは天才的な狩人だった。
羨望と嫌悪がまじったまなざしがルダに向けられる。その中にはルダと同年代の少女たちの姿があった。少女たちは一様に嫌悪の表情を浮かべ、自分の右頬から首にかけて指を走らせ、くすくすと笑った。
ルダの右頬から首にかけて、猛獣の爪でえぐられた深い傷痕が残っていた。おじいさんが狩りを教えてくれたときについた傷で、ルダがはじめて、死というものを感じた瞬間でもあった。
その傷を、女たちは笑う。羨望を嫌悪と侮蔑で埋め尽くすために。
ルダも気にならないわけではなかった。だが、気にしても仕方がないと思っていた。生きていくためには、きれいなままではいられない。自分の手も汚さず、傷つきもせず、男たちがつかまえてきた獲物を食べ、男たちに媚びを売る女たちを、ルダは心底軽蔑していた。
「また生きて帰ってきたの?」同年代の女がひとり、ルダに言いはなった。「猛獣の餌になってしまえばよかったのに」
「そうよそうよ」
「汚いツラぶらさげて、温情で村に置いてもらってるくせに」
「死んじまえ、馬鹿」
ルダは足をとめた。獲物をその場に落とし、女の方を見た。「死んじまえ」と言った女の方を。
「な、何よ」女は怯えていた。
ルダは女に大股で近づくと、その首を無造作に右手だけでしめあげた。げえ、という蛙のような鳴き声が響く。女の足が宙を浮く。
「教えてあげようか?」ルダは無表情で言った。「死ぬ、てどういうことか」
ルダの突然の行動にかたまっていた周囲の者たちが、いっせいに動きだした。ルダと女を引きはなそうとする。ルダはあっさりと、女の首から手をはなした。女はその場にくずおれ、げほ、げほ、と乾いた咳を吐きだした。
「今度は教えてあげるよ」ルダは獲物を担ぎなおし、微笑んだ。「死ぬ、てどういうことか」
ひっ、と女は自分の首を押さえ、小さな悲鳴をあげた。ルダは彼女を無視して、自分の家に向かった。
「人でなし!」誰かが叫んだ。「彼女が何したっていうのよ! 首をしめることなんてないじゃない!」
そうだそうだ、と合唱のように、ルダに声がぶつけられる。ルダは無視して歩きだした。
後頭部に小さな石が当たった。それを皮切りに、次々と石がほうり投げられた。ルダは自分とおじいさんの家に向かって歩きだした。
家についた。板で作った小屋のようなもので、板戸でふさがれた窓がひとつある。この家の板は、神官によって聖別されていないと言いがかりをつけられ、燃やされそうになった過去がある。
鍵もついていない戸を開けた。
「おじいちゃん、ただいま」
薄暗い部屋の中には、誰もいなかった。当たり前だ。ルダ以外、誰も住んでいないのだから。だが、ルダは家を出るときは「いってきます」と言い、帰ってくると「ただいま」と必ず言う。誰もいなくなったこの家で、たったひとりで行っている「儀式」のようなものだった。
ルダは戸をしめると、板戸を開けて日の光を家の中へ入れた。藁を敷きつめた寝床と暖炉、古ぼけたテーブルにかまどがある。たったそれだけの、簡素な内装だった。
ルダは弓矢と槍、剣を暖炉のそばに置くと、獲物を担いだまま外に出て、解体作業をはじめた。燻製にしたり塩漬けにしたりと、やらなければならないことは山ほどある。村人が嫌悪の目でこちらを見ていたが、ルダは気にしなかった。
今日はたくさんお肉食べようね、おじいちゃん。
今日、食べるぶんを切りわけながら、ルダの心ははねるようにうきうきしていた。
ルダは捨て子である。
物心ついたときには、カノという名の老人といっしょに住んでいた。ルダが「おじいちゃん」と呼び、尊敬し、慕っていた人物である。
村と村の交流は森によって完全に絶たれ、カノのいる村に人がやってくることはまったくなかった。ルダを見つけたのは、カノが狩りに出ていたときだった。
人ひとりを食べさせることも難しい今、捨て子など相手にしていられなかった。
カノとその仲間は親を捜したが、見つからなかった。ルダが捨てられていた場所は木の根元で、見つけづらいところだった。おそらく、ルダの親は猛獣からルダを隠し、戦いに臨み、敗れ、食べられたのだろうとカノたちは結論づけた。
置いていこう、という仲間たちの意見をはねのけ、カノは捨て子にルダという名前を与え、自分が育てると言い張った。誰も文句は言わなかった。カノは村でも一、二を争う狩人で、尊敬されていたからだ。
だが、村長はちがった。赤子であったルダを「よそ者」と呼んで蔑み、もしルダを育てるというならお前を許さない、と村長は言い張った。もともと、村長にはカノが尊敬されていることを面白く思っていなかった節があった。
カノは村長の言葉をはねつけ、ルダを育てた。カノは村での尊敬を失い、孤立するようになった。
それはルダも同じで、成長すると村の子供たちからいじめられるようになった。
カノはルダに、自分の狩人としての知識と技術をすべて教えこんだ。いつか、この村を出るようなことがあったとき、ひとりで生きられるように。
ルダが十歳のとき、カノは死んだ。森でひときわ大きな猛獣と遭遇し、ルダを守るため、相討ちになったのだ。
以来、ルダはひとりで狩りをし、ひとりで暮らしている。仲間と呼べる人間はひとりもいなかった。
獲物を保存し、あまった部分を焼いて食べ、ルダはすっかり満足していた。日が落ちたので暖炉に枯れ枝で小さな火をつけ、藁の寝床で横になった。
今日もいい日だったと、ルダは思った。大きな怪我もせず、食べるものにもありつけた。これ以上の幸せはないだろう。狩って、食べて、寝る。ただそれだけの人生。
──本当にそうか、とルダの頭の隅で疑問がわいた。
この村で暮らすことは、それほどの幸せなのだろうか。カノおじいちゃんは、ルダがいつか村を出るときが来たときのために、外で生きていく手段として狩りを教えてくれた。だが、年を経るうちに、ひとりで村をはなれ、二度と戻らずに外へ外へ向かっていくことは自殺行為だと知るようになった。
結局、私はこの村からははなれられないんだな。どんなにくそったれな村でも、ここは自分を守ってくれる場所なのだ。どれほど蔑まれようと、村なくして生きていくことは不可能なのだ。
そう思う一方で、本当にそうか、という考えが浮かんでくる。少なくとも、カノはそう思っていなかった。そうでなければ、「この村を出るようなことがあったとき」などとは言わなかっただろう。
ルダは寝返りを打ち、猛獣にえぐられた傷痕にそっと触れた。カノが亡くなって六年。ひとりにはなれたはずなのに、ときおり、寒風のように、さびしさが吹きこんでくる。
少し眠りこけてしまったのか、ルダはうっすらと目を開けた。暖炉の火は消えているが、板戸の隙間から、明かりがもれていた。村人の騒ぐ声が聞こえる。
「何……?」気になって、ルダは戸をそっと開けた。
村の広場に巨大なやぐらが組まれ、燃えていた。そのまわりを、村人たちが狂ったように踊りまわっている。豪勢な料理が並べられたテーブルがあり、上座に、若い男女が座っていた。女は、昼間、ルダが首をしめた女だった。
ああ、そういうことか、とルダは気づいた。自分は呼ばれなかった。ただそれだけのことだ。
今日は結婚式だったのだ。みんな、新しい夫婦の誕生を祝うため、火をたき、踊り、酒を飲んでいるのだ。
ルダには結婚式のことは知らされていなかった。村の神官が大量の木材を聖別する儀式を行っていたが、家の補修でもするのだろうと思っていた。あれはやぐら用の木材だったのだ。
ルダは夫婦となった二人を見た。男も女も嬉しそうであったし、幸せそうに見えた。
ルダは戸を閉め、寝床に横になった。
あの男のどこがいいのか、とルダは思った。あの男は以前、ルダに「よそ者」と喧嘩を吹っかけてきた男だ。かなり酔っ払っていたが、ルダは相手が泣きだすまで徹底的に殴り、蹴り、しめあげた。喧嘩を吹っかけておいて泣きだすなんて情けない。泣くぐらいなら、はじめから喧嘩などしかけるな。
まあ、あの女にはぴったりの男だろうと思い、ルダは目を閉じた。外のどんちゃん騒ぎを意識的に聞かないようにする。
無意識のうちに、右頬の深い傷痕に触れた。
男は美しい女を選び、女は強い男を選ぶ。
もし自分が美しい女だったら、と思いかけ、ルダは頭を振ってつまらぬ妄想を追いだした。
男なんて、口先だけの弱い生き物だ。強い男などこの世には存在しない。少なくとも、自分よりは。
もう寝よう。よけいなことは考えるな。
ルダは身体をまるめて、無理やり夢の世界へと逃げこんだ。
翌日、日がのぼる前に目がさめた。ひどく嫌な夢を見たような気がしたが、思いだせない。思いだしたくもなかった。
外へ出ると、あちこちで男たちが酔いつぶれていた。新郎新婦の姿はない。ルダはだらしなくのびている男たちを心底軽蔑した気持ちで見くだしながら、井戸に向かった。
井戸で水をくみ、顔を洗っていると
「あら、ルダじゃない」と声をかけられた。
じろりと挑むようなまなざしを向けると、先日、首をしめた女が立っていた。結婚式の新婦だ。
「何か用?」ルダは言った。
「用がないと話しかけちゃ悪い?」女はどこまでも余裕を持ってルダに話しかける。
「悪いけど、これから忙しくなるから、あんたなんかに構ってるひまないの」
女の顔に一瞬、憎悪の色が浮かんだが、すぐに消えた。「大変よねえ。ひとりで狩りをして、木の実をとって、生活しないといけないなんて」
「好きでやってることよ」
「ねえ、私ね、村長とは少し関係があってね」女はにやりと笑った。「もしよければ、村の食料を融通してもらえるよう、頼んであげてもいいわよ」
ルダは女に背を向け、顔を洗いはじめた。「見返りは?」
「昨日のことを心底謝って、私の足をなめなさい」信じられないことを女は口にした。「それで許してあげる。人を殺そうとしたんだから、それぐらい当然よね。むしろ、軽いぐらい。感謝してほしいわ」
ルダは口の中を水でゆすぐと、ぺっと吐きだした。「いいわよ」
「え?」女は拍子抜けした表情で言った。「いいって、あんた」
「あんたの足、なめてやるって言ってるの」ルダは言った。
は、ははは、と女の口から断続的に笑い声がもれた。「自分の立場をよくわかってるじゃない。それでいいのよ。あんたはしょせん、よそ者なんだから、それぐらいやって当然ね」女は細い足を見せた。「さ、なめなさい」
ルダは女の足に頭を近づけると、足首のあたりをぺろりとひとなめした。
そして、思いきりかみついた。
女は村中の人間が飛び起きるような悲鳴をあげた。酔いつぶれていた男たちも、なにごとかと起きあがった。
「ルダ!」悲鳴に近い声をあげたのは、昨夜の新郎だった。悲鳴を聞いて家から飛びだしてきたらしい。
ルダは男たちが殺到する前に、女の足から口をはなした。水をくんだ桶から水をすくい、口の中を念入りにゆすいでから、ぺっ、と吐きだした。
「まずい。あんた、猛獣以下ね」
「こ、こ、この、けだもの!」女は叫ぶように言った。
「足なめろっていうからなめてやったじゃない。そこから先をどうするかは言われなかったけど、なめたあとは実際に食べてみるのが普通じゃない?」
「どこの普通よ、この、よそ者!」女は泣きながら足を押さえている。
駆け寄ってきた男たち、女たちの視線がルダに突き刺さる。ルダはその視線を受け流し、「足をなめろ、なんてなめたことぬかしたのはそいつだ」と吐き捨て、さっさと家に戻った。
後ろ手に戸を閉め、ため息をつく。
もう少し村人とうまくやれないか、考えたことはある。態度を軟化させ、優しく親切に接していけばあるいは、と思ったことは一度や二度ではない。
だが、村人は……特に村長は、ルダが厄介なよそ者というだけで差別した。村長に同調する者の態度はひどかった。ルダを差別しない者もいる。村人が尊敬していたカノおじいちゃんが育てた子供だからだ。だが、差別をしないだけで、仲間に入れてくれるわけではない。ルダはそこに存在しない。無視するだけだ。
「やっぱり無理だよ、おじいちゃん」ルダはひとりごちた。
カノは生前、村人と仲よくするように、とは言わなかった。カノもまた、村長の強権と、それに同調する村人の強さをよくわかっていたのだろう。だから、ルダにはひとりでも生きていける術を教えた。たとえ村をはなれ、二度と戻らなくなったとしても──
いっそのこと、本当に村を出てしまおうかとルダは思った。〈大神樹の世界〉は過酷だ。大木で埋め尽くされた大地で、人が生きていくのは困難だ。ましてやひとりで生きていくなど、不可能に近い。
だが、もうその日が来たのではないかと、ルダは思いはじめていた。
焼いた干し肉を朝食にして、ルダは弓矢と槍、大剣を持って家を出た。
男がルダの前に立ちはだかった。足をかまれた女の夫になったばかりの男──新郎だ。
「お前、よくも、よくも……!」新郎は血走った目をルダに向けた。
「どいて。今日の仕事があるから」ルダは新郎の肩を押して、無理やりどかせた。
「待て」新郎はルダの手を取った。「今日という今日は我慢ならん。村長に言って、村を追いだしてやる」
ああ、やっぱりだ。もうその日が来たという直感は、間違っていなかったようだ。
「カノおじいちゃんの娘を追いだすの?」
う、と新郎は身を引いた。だが、新郎は「関係ない」と吐き捨てた。「お前はもともとよそ者だ。カノさんがいなければ、お前は森で死んでいたんだ。十六年前に死ぬか、十六年後に死ぬか、それだけのちがいだ」
新郎はルダの手を引っ張った。「来い! 村長の前に突きだしてやる!」
「汚い手で」ルダは右足を引いた。「触るな!」新郎の股間を思いきり蹴りあげた。
新郎は股間を押さえ、無様にもその場に膝をついた。痛みで声も出ないのか、うずくまり、身体を震わせている。
ルダは新郎を放置し、門に向かって歩いていった。「開けて。仕事だから」
門番たちは何か言おうと口を開いたが、何も言わずに閉じた。門がゆっくりと開く。
大木の合間を、ルダは軽やかに走り抜けた。川をわたり、大木の巨大な根の上を走り、獲物を探す。木の実をはじめとした山菜や、火をつけるための枯れ枝の回収も忘れない。
日光は広く張った枝葉によってさえぎられ、森は薄暗かった。しかし、ルダにとっては何の障害にもならなかった。この程度の暗さなら、弓矢を当てることは可能だ。少なくとも、村のだらしない男どもよりは腕がいいと自負していた。
大木の根の上から、あたりを見わたす。
遠くに、動くものが見えた。大木と大木のあいだを縫うように進んでいる。歩みは速い。鹿だろうか。それとも、鹿のようなモノか。
ルダは獲物にばれないよう、慎重に近づいていき、大木の陰から獲物を確認した。獲物は二本足で立っていた。大きさは把握しづらかったが、熊の類かもしれない。
ルダは弓に矢をつがえた。熊なら、何度も相手にしたことがある。たとえこちらへ向かってきたとしても、その首を叩き落とすだけの自信があった。
〈大神樹の世界〉には、熊などよりおそろしいものが存在する。熊におじけづいていては生きていけないのだ。
慎重に弓矢の狙いを定める。獲物が動かないことを確認し、ルダは矢をはなった。
いつもどおりに頭を狙った。絶対にはずさない自信があった。ルダはカノの娘なのだ。
だが、命中の瞬間、獲物は腰をかがめ、矢をかわした。ルダは目を見張った。獲物は偶然腰をかがめたわけではなく、矢をよけようと意識的に腰をかがめたように見えた。
獲物の姿が大木の陰に隠れた。逃げられたか、それともこちらへ向かってくるか。ルダは地面に刺しておいた槍に手を伸ばそうとした。
風を切る音とともに、ルダの眼前に矢が飛んできた。少しでもルダが前傾姿勢をとっていたら、頭に突き刺さっていたことだろう。
力任せに矢を引き抜き、槍を持って大木の反対側に隠れる。矢をよく見ると、村で使われているものだということがわかった。
私を狙っている奴がいる?
疑問のこたえは、すぐに出た。
「おい、ルダ、出てこいよ」男の声が聞こえた。複数の人間が、枯れ木や枯れ葉を踏みしめる音も。
「何のつもり? 村の人間を狙うなんて。頭どころか目まで悪くなったの?」
へへへ、と下卑た笑い声が聞こえてきた。「村の人間? 馬鹿言っちゃいけねえ。いつ誰が、お前を俺たちの仲間だって認めたよ」
は、とルダは息を吐いた。
結局、こういうことなのだと、ルダはあきらめにも似た気持ちで、大剣の柄に手を伸ばした。よそ者どころか、もはやルダは敵なのだ。
ルダにも非はあったかもしれない。カノにも非はあったかもしれない。だが、二人がどうあがこうが、あの村はルダを受け入れる気などなかったし、カノをいずれ排斥しようと考えていた。二人の意志や力によってどうこうできる問題ではないのだ。
ルダは男たちの前に姿を現した。男たちの数は五人。村人が狩りに出るときの掟を、よく守っている。
「さっきはよくもやってくれたな」若い男がひとり、前に出た。ルダが股間を蹴りあげた男……昨晩、新郎となった者だ。「礼はたっぷりさせてもらうぜ」
「粗末なもんを持った新郎は大変だね」ルダは鼻で笑った。「そんなもんで新婦を満足させられるのかい?」
新郎の顔が真っ赤になった。「馬鹿にしやがって!」と叫び、全員に向かって「おい、絶対に殺すなよ! ここで女に生まれたことを後悔させてやる!」
男たちは全員、剣を抜き、襲いかかってきた。ルダは弓を捨て、槍を思いきり投げた。槍は男たちのあいだを抜けて、飛んでいった。一瞬、男たちの意識が槍へと移る。
その瞬間、ルダは男たちに肉薄していた。
勝負はあっという間だった。ある男は剣の柄で顎を殴りつけられてぶっ倒れ、ある男は蹴られ、体当たりされ、木の根から落ちた。この高さなら死にはしないだろうという目算はあった。四人目はルダにおそれをなし、悲鳴をあげながら木の根をおりていった。
最後に残ったのは、新郎だった。
ルダは柄を握る手に力をこめ、腰を落とした。新郎はほかの男たちとはちがう。人を殺したことはないが、狩りの名人だ。油断していい相手ではない。
「貴様、よくも」
「あんたで最後だよ。どうする? 本気で殺しあいをしたいのかい?」
「ほざくな!」新郎は木の根を蹴って、ルダとの距離をつめた。
巨大な影が、新郎とルダのあいだに立ちはだかった。上の枝からふってきたのか、根を陥没させるほどの凄まじい音が響いた。
新郎もルダも息を呑んだ。巨大な影は、人の形をしていたからだ。
「人間……?」ルダはつぶやいた。
「な、何だてめえ!」
新郎が剣を振りかぶった。だが、振りおろすより早く、巨大な影の拳が新郎の腹に炸裂した。新郎は反吐を吐きながら、その場にくずおれた。すぐに起きあがってくる様子はなかった。
呆然とするルダの手を、巨大な影は握った。
「逃げるぞ」そう言って、走りだした。
ルダはわけもわからないまま、巨大な影にくっついて走りだした。
巨大だと思った影だが、走りながらよく見ていると、背が高いだけで横幅がなく、巨大とは程遠かった。むしろ華奢と言った方がいいかもしれない。
腕にはそれなりに筋肉がついていたが、どちらかというと、ルダの方が筋肉質だ。腕相撲をすればルダが勝つのではないだろうか。
五分ほど走り、その男は足をとめた。「ここまでくれば大丈夫だろう」
男は振り返った。黒髪の、優しそうな表情をした男だった。ルダより年齢は少し上のように見える。
「あ、ありがとう」ルダはとりあえず礼を言った。「どこの誰か知らないけど、助けてくれて」
「いやいや、女の子ひとり相手に男五人がかりはないだろう」男はじろじろとルダを見て「まあ、俺が手を貸す必要もなかったかもしれないがな。弓の腕も相当なもののようだし」
「何で私の弓の腕を知ってるの?」
「さっき、射られそうになった」
あの獲物は、彼だったのか。
「それは……悪いことをしたわね。当たらなくてよかった」
「弓もそうだが、凄い腕だな。男連中も圧倒してたし」
「そうね。あの程度の奴ら、私ひとりで充分よ」男の正体がある程度つかめてきて、ルダの心に余裕が出てきた。「あなた、ほかの村から来た人? この近くにほかに村があるなんて聞いたことないけど」
「いや」男はかぶりを振った。「俺は……ひと言で言うなら、旅人だ」
「旅人?」ルダは目を見開いた。「村で暮らしてるんじゃないの?」
「ちょっと事情があって、この〈大神樹の世界〉を旅している」
「ひとりで?」
ああ、と男はうなずいた。
信じられなかった。猛獣が徘徊するこの森で、男はただひとりで寝泊まりしながら旅をしているというのか。帰る村もなく旅をするなど、ルダには考えられなかった。
ルダは男の姿をあらためて見た。腰に剣を帯び、猛獣の皮で作った服を着ている。革製の袋を持っているが、中には旅に必要なものがつまっているのだろう。
「信じられないとは思うが、事実だ」男は腰の剣を軽く叩き「こう見えて、それなりに腕は立つんだぜ」
「そうみたいね。じゃないと、とっくに死んでる」
「ちがいない」男は笑った。「ところで嬢ちゃんはこのへんの村に住んでるんだろ?」
「ルダよ」ルダは名乗った。「一応住んではいるけど、それがどうしたの?」
「いや、村があるなら一晩でいいからとめてもらえないかと思ってな」男は言った。「ずっと野宿だったからな。たまには、屋根のあるところで身体を休めたい」
ルダはじろじろと男を見た。
「何だよ」
「村がどういうところか、知らないの?」
「知ってるさ。人間が押し寄せる大木から身を守るために作ったコミュニティだろ」
「コミュ……何?」ルダは怪訝な顔をした。
「すまん、忘れてくれ」男は手を振った。
「ほかの村はどうか知らないけど、うちの村はもの凄く排他的よ」ルダは言った。「連れていってもいいけど、入れてもらえるかどうかはわからない」
ふむ、と男は顎に手を当てた。「土産でも持っていけば、入れてもらえるかな」
「土産?」
「まあいい。嫌じゃなければ、案内してもらえないか。できるだけの礼はする」
ルダは黙りこんだ。男は悪い人間のようには見えないが、人はいくらでも皮をかぶる。何を企んでいるかなどわかったものではない。だが、男ひとりが村の脅威になるとも思えなかった。それに、必要なかったとはいえ、助けてもらった恩もある。
「いいわ。連れていってあげる。その代わり、今日のぶんの狩りの手伝いをして。それが終わったら帰るから」
「了解」
ルダは男に背を向け、歩きだそうとしたが、あることを思いだして振り返った。
「そういえば、名前は?」
「ハーリだ。そう呼ばれてきた」
「じゃあハーリ、私の狩りを手伝って」
「イエッサー」
「イエ……?」
変な言葉を使う男だ。
狩りはあっという間に片づいた。今日は数羽の鳥をつかまえることができた。
ハーリの腕前は大したものだった。ルダなら弓で狙うところを、ハーリは足音も立てず獲物に近づき、一瞬で首をはねてしまった。
「どこでそんな技術おぼえたの?」ルダが驚くと、
「まあ、長いこと生きてりゃ色々おぼえるさ」とハーリは肩をすくめた。
長いことって、私とそう年は変わらないじゃない、と思いながらも、ルダはハーリの腕前を認めざるを得なかった。
村へ戻ってくると、案の定、二人の門番にとめられた。
「ルダ、誰だそいつは」
「友達です」ハーリはにこやかにこたえた。
「このあたりに村はない」門番は言った。「まさか、化けた猛獣じゃないだろうな」
「そんなファンタジー、あるわけないじゃないですか」
ファンタジー? ルダも門番も首を傾げた。
「入れてくださいよ。一晩でいいから、屋根のあるところで寝たいんです」ハーリは言いながら、革袋から何かを取りだした。「これでひとつ、どうにかなりませんかね」
男は茶色くて小さな、蓋をしたかめのようなものを門番にわたした。かめに似ているが、透明で、中には液体が入っているのがわかる。門番は顔を見合わせたあと、耳もとでかめを振り、おもむろに蓋を開けてみた。
「酒のにおいだ」手の平に少し垂らし、なめてみる。途端に表情が変わり「何だこれ、滅茶苦茶うまいぞ」
「さしあげますので、一晩だけどうにかなりませんかね」
門番はすぐに村長のもとへ走っていった。しばらくして戻ってきた門番は、「入れ」と言った。「村長の許しが出た。一晩だけだぞ」
「そいつはどうも」
ハーリはルダとともに村に入った。村人の視線がいっせいに集まる。
ルダが男を連れてきた。よそ者がよそ者を連れてきた。何だあいつは。おかしな奴じゃないだろうな。村人が口々にしゃべる。
「人気者ね」ルダは言った。「注目の的」
「人気なのは君の方じゃないのか?」ハーリは言った。「男も女も君の方を見てる」
「私のは、いつものことよ」ルダは肩をすくめ、「好意的には見えないでしょ」
たしかに、とハーリは言った。
そのとき、門が再び開き、新郎をはじめとした五人組が帰ってきた。
「この野郎」新郎は今にもかみつかん勢いでルダをにらんだ。
「ああ、生きてたの?」ルダは嘲笑した。「運がいいこと」
「うるっせえ! 俺たちにあんな真似してただですむと思ってるのか!」
「先に殺しに来たのはあんたたちでしょう? 正当防衛ってやつよ」
「ふざけやがって」
「ふざけてるのはどっちだ」ハーリが前に出た。
男たちはハーリをじろじろと見ていたが、新郎が「あのときの奴だ」と言った。
「女の子ひとりに男五人で襲いかかるなんて、感心しないなあ」ハーリは苦笑いを浮かべ「返り討ちにあってちゃあ、ざまあないけどな」
男たちのあいだで怒気が膨れあがる。しかし事実であるためか、何も言えなくなっていた。
「このことは村長に報告させてもらう」
「君たちの立場が悪くなるだけだと思うけどなあ」ハーリは軽い口調で言った。「そもそも、何で君たちはルダを襲ったんだい?」
「よそ者には関係ない」
「よそ者、ねえ」ハーリは肩をすくめ「なるほど、排他的だ。でも、女の子にはもう少し優しくしてもいいんじゃないかな」
「うるっせえよ、よそ者同士が! だいたい、何でお前がここにいるんだよ!」
「村長の許可」ハーリは胸を張った。
行きましょ、とルダはハーリの腕を引っ張った。「私の家で休むといいわ」
「嬢ちゃんはもてもてだな」ハーリがからかうように言った。
「その嬢ちゃん、ていうのはやめて。子供じゃないんだから」
「そうか。じゃあ……ルダで」
ルダ。そのひと言で、心の中が少しだけ、あたたかくなってきたような気がした。好意を持って名前を呼んでくれたのは、カノだけだったから。
小屋に入ると、「ひとりで暮らすには十分だな」とハーリは言った。
「夜は私がスープでも作るから、あんたは寝床を使って」ルダは保存してある食料を調べながら言った。「私は外の小屋で寝るから」
え、とハーリが大きな声をあげたので、ルダはぎょっとして振り返った。
「な、何? 私変なこと言った?」
「いや……俺が外の小屋で寝るよ。君はベッドを使ってくれ」
「何言ってるの。屋根のあるところで寝たいって言ったのはあんたじゃない」
「いや、そうだけどさ」ハーリは口ごもり「女性のベッドを占拠するのは気が引ける」
さっきまで「嬢ちゃん」と子供扱いしていたのに、いきなり大人の女性あつかいされると、調子が狂う。
「いいじゃない。長旅だったんでしょ? ゆっくり身体を休めるといいわ。まあ、そんなにいい寝床じゃないけど」ルダは言った。「男と同じ部屋で寝るのが非常識なことぐらいわかってるから、私は外へ行かせてもらうけど」なぜ非常識なのかはわからないが、村の女はそう言っていた。
「だけど……」
「いいの、私がそう決めたんだから、寝床を使いなさい」ルダははっきりと言った。
ハーリはなおも逡巡していたが、「わかった。じゃあ借りるよ」とあきらめたようであった。
その日の夕食は、簡素ながら、楽しいものとなった。ハーリとの会話ははずみ、ルダの訊くことには何でもこたえてくれた。
「どうして旅をすることになったの?」
「村が大木の侵食でつぶされて、ね」
「それは……ご愁傷様。家族は?」
「君と同じで、俺ひとりだよ。家族はみんな、流行り病で死んじまった。そのあと大木の侵食が発生したんだ」
「それで旅を……」
「あの大木だけは、俺ひとりの力じゃどうにもならん」ハーリはスープに目を落として言った。「俺ひとりじゃあ」
「そう、ね。そうかもしれない」ルダは言った。
食事のあと、ルダは旅について話しをした。どれほど大変なものか、心細くはないのか、どこを目指しているのか──訊きたいことは山ほどあった。
しかし、ハーリはどの質問も、ひと言ですませてしまった。「やれば何とかなるもんさ」
ルダには、ハーリがあまり話したがらないように聞こえた。それに、これまでの話の中に嘘もまじっているような気がした。
夜になると、ルダは寝床をハーリにわたし、外へ出た。家の隣には小屋があり、薪や藁が置いてある。ルダは藁の上に横になった。人ひとりが横になれる場所があれば、たとえ土の上でも眠れる。そうしなければ、〈大神樹の世界〉では生きていけない。繊細すぎる者は、死ぬだけだ。
眠りはすぐに訪れた。夢の中で、ルダは森の中を歩いていた。どこに向かっているのかはわからないが、少なくとも、村に戻る気はないという確固たる信念があった。
こんな夢を見るのは、ハーリの話を聞いたからだろうか。村をはなれ、広く過酷な森の中を旅する──そんな夢を、ルダはたしかに見た。
引きあげられるように、目がさめた。身体を起こし、あたりを見まわす。小屋に変化はない。しかし、
──今、獣の声がした。
ルダの頬を冷たい汗が伝う。弓も槍も剣も家の中だ。猛獣が村の外で鳴いているならいい、というものではない。猛獣の中には、塀を破って入ってくる奴もいる。村の中だからといって、安心しきってはいけないのだ。
ルダは素早く小屋から出ると、家の中に入った。壁に立てかけておいた大剣を手にとった。
すぐ近くで獣のうなり声が聞こえ、ルダは悲鳴をあげそうになるほど驚いた。
はじかれるように振り返る。恐怖心はすでに払いのけた。恐怖は身体の動きを鈍くする。生き残りたければ、恐怖には必ず打ち勝たねばならない。
しかし、家の中に、いつの間に猛獣が入りこんだのか。一瞬、ハーリのことが気になった。家から逃げてくれていればいいが、眠ったままだとしたら、もう死んでいる。しかし、血のにおいはしなかった。
暗闇に目がなれてくる。寝床の上に、何かがうずくまっていた。天井に頭が届きそうなほどの巨体、針のような剛毛。熊ではない。だが、うなり声はその生き物から聞こえてきた。
ルダは大剣を抜き、両手で構えた。じりじりと生き物との距離をつめる。生き物は動かない。
ルダは駆けだし、一気に距離をつめた。剣を突きだす。剣はその生き物を貫通するはずだった。
だが、剣は剛毛に先端をめりこませただけで、とまってしまった。どれだけ押しても、それ以上動かすことができない。
「待ってくれ!」人間の声が聞こえた。「待ってくれ、俺だ」
ルダは、その生き物が声を発していることにようやく気付いた。生き物──獣はルダの方を振り返った。頭部はまるで狼のようだった。
「俺だ、ハーリだ」狼は言った。「信じてくれ」
「え……ハーリ?」ルダはきょとんとした。たしかに、ハーリの声だった。「どうしたの、その姿」
「うまく説明はできないが」ハーリは言った。「夜になると、俺はこんな姿になってしまうんだ」
華奢なハーリからは想像もつかない巨体だった。立てば、ゆうに二メートルはこえるのではないだろうか。
「化け物か何かだったの、ハーリ」ルダは油断しない。剣を持つ手に力をこめる。
「いや、ちがうんだ。そりゃあ、君たちから見れば化け物に見えるかもしれないけど」ハーリは必死になって弁解する。「君たちを襲う気はない。信じてくれ」
ルダはなおも剣をはなさなかったが、やがて鞘におさめ、壁に立てかけた。
「信じてくれるのか?」
「ハーリがおかしな人だっていうことは知ってるつもり。ひとりで森を旅して生きてる変人だって。だから、今さら化け物に化けたって驚かない」それに、とルダは言った。「ハーリは優しいもの。襲うつもりなら、うなり声なんかあげたりしない。黙って私にかみつけばすむ話だし」
暗闇の中で、ハーリは目を見開いた。「驚いたな。どこまで豪胆な嬢ちゃんなんだ」
「だから嬢ちゃんはやめてって」ルダは言った。
「悪かった……うなり声をあげるのは、癖みたいなものなんだ。この身体に変わるとき、身体に痛みが走るんだ。それでつい」
「昔からそんな身体だったの?」
昔、とハーリはつぶやき、「ああ、昔からだ。おかしいだろ」
「まあ、ね。それよりも」暗闇の中で、ルダはハーリの剛毛に触れた。「剣が全然通らなかった。でも、こうやって触ってみると、やわらかい。どうなってるの」
「強い衝撃を受けたときだけ、かたくなるんだ。君の剣のように」ハーリは言った。
「ふうん」ルダは毛の中に手を沈みこませた。「あったかい」
「そうか?」
「気持ちいい」そう言って、ルダはハーリにだきついた。「眠い」
「ちょっと待てよ、外で寝るんだろ?」
「やだ。ここで寝る」ルダは首を振った。「ハーリの毛、あたたかい」
「常識はどこ行った」
「森の中で死にました」
ルダはハーリにだきつくと、すぐにうとうとしはじめる。
このあたたかさには、おぼえがあった。
「おじいちゃんといっしょに寝てるみたい」
「そ、そうか?」
「おやすみぃ……」ルダはすぐに眠りに落ちていった。
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