中編 旅立ちのとき
朝日がのぼるころに、ルダは目をさました。隣には、ハーリが眠っている。人間の姿のままだが、服を脱いでいた。獣の姿になることがわかっていたため、脱いだのだろう。
裸の男といっしょに寝ていたことに、ルダは少し戸惑ったが、すぐに平静を取り戻した。たかが男じゃないか。村の男と何も変わらない。変わらないはずなのだが……
なぜだろう、ルダはドキドキしていた。村の男に対してこんなに緊張したことはないのに、ハーリを見ていると緊張してしまう。同じよそ者同士だから、だろうか。
ルダはそっと寝床からおりると、ハーリの身体に薄い布をかけた。ハーリは下半身まで裸になっていた。
昨日食べたスープをあたためなおしていると、ハーリが目をさました。「おはよう」
「お、おはよう」ルダの声がうわずる。
「え……あっ」ハーリは自分の姿に気づいたのか、あわてて服を着だした。「ご、ごめん」
「いいよ、気にしないから」自分でもバレバレの嘘をついてしまった。
ハーリと向かいあってスープを飲みながら、「昨日のことなんだけど」とルダは言った。
「あなた、いったい何者なの? 本当にただの旅人なの?」
「……ただの旅人、ていうのは嘘。ごめん」
「いいよ別に。でも、嘘だって言ったってことは、教えてくれるんでしょ?」
「うん。一宿一飯の恩もあるし、何から話せばいいかな」
「昨日、変身したの、あれは何だったの?」
「あれは……その……」ハーリは言葉を濁した。
「話せないの?」
「信じてもらえるかわからない」
「信じるよ。この目で見たんだもの」
「見て、どう思った?」
「正直、こわかったよ。でも、ハーリだってわかったら、不思議とこわくなくなった」
ハーリは驚いたように顔をあげた。「そんな風に言われたのははじめてだ。ほかの村では、姿を見られた途端、狩られそうになったのに。誰も俺のことは信じてくれなかった」
「少なくとも、この村の男よりは信用してるよ、ハーリのこと」
「それはありがたい、て言っていいのかな」ハーリは笑い、「うん、わかった。とにかく話すよ。どこまでわかってもらえるか、わからないけど」
「うん」
「大昔……もう何百年も前、この地上には高度な文明が存在していたんだ」
「……はい?」ルダは首を傾げた。
「まあ、最後まで聞いてくれ」ハーリは言った。「人は空を飛び、大地を獣以上の速さで走り、最後には星の外……空の向こうにまで飛びだした」ハーリは目を伏せ「だけど、ある日突然、終わりが来た」
「終わり?」
「〈星の暴走〉」ハーリは言った。「突然、地上を巨大な木々が覆い尽くした。木々は文明を破壊した。人間は抵抗したけど、ありとあらゆる兵器……武器をもってしても、木々をとめることはできなかった。最後はほかの木よりもはるかに大きい巨木が生え、地上は木々で支配されてしまった。人々は分断され、文明は衰退の一途をたどった」
「聞いたことある」ルダは言った。「神官が言っていた、〈大神樹〉の伝説」
「あれはおおむね事実だ」ハーリは言った。「実際に起こった歴史なんだ。今では伝説あつかいされてるけど」
「昔ははるかに発展した文明があったけど、木々のせいで滅びた」ルダはたしかめるように言った。「それで?」
「でも、人間は死に絶えてはいなかった。ある科学者……まあ、今でいうところの魔術師みたいなもんだね……は、〈大神樹の世界〉でも生きていける人間を作ろうとした」
「人を、作る?」
「生きている人間の身体に手を入れて、改造……作り変えようとしたんだ」
「ちょっと待って、何よそれ、こわい」
「それでできあがったのが、俺みたいな奴らだ。科学者は俺たちを〈生体兵器〉と呼び、俺は獣人というものに分類された」
「獣人……けものの人」昨日見たハーリの姿を思いだす。あれはたしかに、獣人だ。
「だが、俺は失敗作だ。夜にしか獣人化できず、昼間は獣人のときの力を少ししか出せない」ハーリは言った。「改造に成功した者もいた。しかしそれはわずか数人だけだと聞いている」
「その人たちはどうなったの?」
「わからない」ハーリはかぶりを振った。「〈星の暴走〉は深刻で、改造は中断されてしまった。そのあとどうなったかは、わからない」
「ねえ、今の話、おかしくない?」ルダは言った。「ハーリの言うとおりなら、ハーリの年齢は……」
「百歳から数えるのをやめたよ」ハーリは笑った。
「嘘みたい……」ルダは呆然とハーリを見つめた。「でもいい。信じる」
「ありがとう」
「それで、ハーリが旅をするはめになったのは、獣人である自分を抑えられないから? ひとつの村にとどまれない理由って、それしかないよね」
「いや、とどまれないんじゃなくて、とどまらないんだ。俺の旅には、目的がある」
「何をしようとしているの?」
「〈神の国〉への到達」
ルダは匙をスープの中に落とした。「本気で信じてるの、そんなおとぎ話」
〈神の国〉とは、〈大神樹〉の力もおよばない、広大な平地が広がっていると言われている場所だ。村を出た者の多くは、そんなおとぎ話を信じ……帰ってこなかった。
「おとぎ話じゃないんだ。今のは、君にわかりやすいように言っただけだ」ハーリは言った。「〈神の国〉というのは、〈大研究所〉の別名だ」
「〈大研究所〉?」
「〈星の暴走〉の原因を突きとめ、星をもとに戻す研究をしている場所だ」ハーリは言った。「海、て知ってるか?」
ルダはかぶりを振った。
「海という大きな湖みたいなところの向こうに、〈大研究所〉はある。俺はそこに行かないといけない。生みだされたとき、そう命令を受けたんだ」
ルダは黙ってハーリの話に耳を傾けた。
「だけど、〈大研究所〉に行くだけじゃあ意味がない。〈大神樹の世界〉の各地に残されている、〈研究所〉に行かないといけない」ハーリは言った。「そこには、〈星の暴走〉の原因を書きとめた資料と、〈大神樹の世界〉のサンプルがある。それを〈大研究所〉に届けなければ、研究は進まない。何しろ、〈大研究所〉の人間はそこから出られないからね。〈大神樹の世界〉で、村に守られずに生きていけるのは、俺のような〈生体兵器〉だけだからだ」
「その……〈研究所〉っていうところにあるものを、〈神の国〉……〈大研究所〉に持っていくのがあなたの使命で、それが成功すれば、〈星の暴走〉っていうのがおさまって、木々が消えて、人がまた住めるようになるってこと?」
「凄い。しっかり理解してるじゃないか」
「馬鹿にしないで」ルダは憤慨した。「そういう言い方されると、村の奴らに馬鹿にされてる気になってくる」
「そうか。ごめん」
「使命、か……」ルダはテーブルに肘をつき、うつむいた。「大変だね」
「大変だ」
「ひとりで世界中をまわってるの?」
「ああ。〈研究所〉の場所はある程度わかってるからね」ハーリは革袋を指さし「場所は紙に記録してる。でも、風雪にさらされて、何度か書きなおしてるから、正確じゃないかもしれない」
「ねえ、ひょっとしてこのあたりに来たのって」
「ご名答。この近くに〈研究所〉があるんだ」
やっぱり、とルダは思った。
「じゃあ、もう行かないと駄目?」
「ああ。〈大研究所〉に資料を届けないとな」
「でも、その資料って、持ち運べるの?」
「いや、それは無理だ。でも、〈大研究所〉にちゃんと届くよう、やれることはある」ハーリはそう言って、スープをかきこんだ。「ごちそうさま。おいしかったよ」
ルダは無言で皿を片づけた。ハーリは革袋の中身や靴の調子などを見ている。
もう、行ってしまうのね。
ハーリは立ちあがり、「ありがとう、ルダ」と言った。
「礼を言うのはこっちの方よ。助けてもらったし」
「必要なかったみたいだけどね」
ハーリが笑ったので、ルダは頬がゆるむのを感じた。こんな風に笑うのは、いつぶりだろうか。
互いに無言になった。何か言わなければならないのに、何を言えばいいかわからない。ルダは少し混乱していた。どうしてこんな気持ちになるのだろう、と。この村では、ハーリが私と同じよそ者だから、親近感をいだいているのだろうか。それとも……
「じゃあ、俺は行くよ」ハーリは戸を開けた。日光が薄く、部屋の中にさしこむ。
「ま──」待って、と言いかけたが、その言葉はハーリの「いたっ」という声にかき消された。
「どうしたの」ルダはハーリの隣に並び、彼を見あげた。ハーリの額から血が出ていた。
ルダの家を、村人たちが半円形に囲んでいた。昨日の男たちが石を持っている。女たちはひとり残らず、憎悪のまなざしをルダに向けている。
またか、と思ったが、今日はいつもよりひどい。
「村長を買収して男を連れこむなんて、とんでもねえ女だ」
「嫌な女」
「結婚したばかりのあいつに怪我をさせたそうじゃねえか」
「だから俺は、よそ者を入れるのは反対だったんだよ」
「よそ者はよそ者を呼ぶ。現に、変な野郎を連れこみやがった」
「男を連れこむなんて、やらしい」
「出ていけよ」
「そうだ、出ていけ!」
出ていけ、という声が合唱のようにルダたちを襲った。
「うるさいな」ハーリは耳を押さえた。「ルダ?」
ルダは家の中に引っこんでいた。家にあるものをかき集め、最後は弓矢と槍、大剣を持って、ハーリの横に立った。
「黙れ!」
ルダの大声は、村人を黙らせるのに十分だった。耳を押さえていたハーリは、あまりの大声に足がふらついていた。
「そこまで言うなら出ていってやるよ! こんな村、滅びちまえ! 〈大神樹〉に食われちまえばいいんだ!」ルダはハーリの手を引っ張った。「行こう」
「いや、行こうって、ルダ」
「いいからっ」
村人たちが道を開ける。ルダは前だけを見て歩いていった。門の前まで来ると、「開けろ!」と傲然と言いはなった。
森に出て、十分ほど歩くと、唐突にルダは足をとめた。肩で息をし、震えていた。
「ルダ」ハーリは何と声をかければいいかわからない様子だった。「よかったのか」
「いいの。いずれ出ていってやるって思ってたから」ルダは小さな声で言った。
「だけど、ずっと暮らしてきた村だろう? たしかに、感じの悪い連中だったが……」
「私ね」ルダは何かを振り払うように言った。「おじいちゃんが暮らしてきた村だから、尊敬を集めていた村だから、できるだけ溶けこもうとした。子供のころは。だって、大切なおじいちゃんの村だもの。嫌な態度はとりたくなかった」でも、とルダは続けた。「結局、村が私を受け入れてくれることはなかった。それどころか、おじいちゃんが亡くなったとき、誰も顧みなかった。私ひとりで葬儀をするしかなかった。あんなに尊敬を集めた人なのに、私のせいでひどい最期を……」
「ルダのせいじゃない」
「私のせいよ」ルダは吐きだすように言った。「私がよそ者だから、よそ者の私をかばったりしたから、おじいちゃんは」
そのあとは言葉にならなかった。ルダは自分が泣いていることに気づいた。手で目をぬぐうが、涙はとめどなくあふれてくる。
背後から、そっと腕がまわされた。
「ルダは悪くない」ハーリは言った。「悪くないんだ」
ルダは目をごしごしとこすり、無理やり涙を振り払った。泣いても何もはじまらない。行動をしなければ。
「ハーリ、私を連れていって」ルダは言った。「絶対に役に立つから」
「ルダ……」
「あのね、ハーリが私と会ったのは、きっと神様が……そんなものがいるならだけど……村を出ろって私に言ったんだと思う」ルダはハーリの目を見て言った。「〈生体兵器〉のハーリがいっしょなら、森で野垂れ死ぬことはないって、神様が言ってるんだと思う」
「いやしかし」
「お願い」
ハーリは黙りこんだ。ルダを見おろし、何かを考えている。ややあって、大きなため息をついた。
「まったく君は……押しは強いわ気は強いわ……」
「腕っぷしも強いよ」ルダは力こぶを作った。獣人と化したハーリにはおよばないが、女としてはとんでもなく腕が太い。「それに、弓もうまい」
「それは体験済みだ。あと少しで、頭を射抜かれるところだった」
「だからそれはごめんって」
「まあ、君がいてくれると助かるといえば助かるよ」ハーリはあきらめたように言った。「情けない話だけど、俺は獣人にならないとまともに戦えない。人間のときでも少しは力を出せるが、君ほど強くない。今まで生き残れたのが不思議なくらいだ」
「そうね。どうやって生き残ってきたの?」
「昼間はできるだけ動かないようにして、獣人になってから森を走りまわった」
「あの姿で?」獣人となったハーリが、枝から枝へ飛んでいく姿を想像し、ルダは噴きだした。「猿みたい」
「猿っていうな。これでも、狼の遺伝子が移植された獣人だぞ」ハーリは怒ったように言った。「狼男っていうみたいだけど」
「まあ、何でもいい」ひとしきり笑ったあと、ルダは手を出した。「これからよろしく、ハーリ」
ハーリはルダの手をじっと見つめた。
「握手よ。前の文明では、握手の文化はなかったの?」
「あ、いや、あったよ。ただ」
「ただ?」
「ルダの手って、意外と小さいんだなって」
「馬鹿にしてる?」
「してないしてない」ハーリは勢いよくかぶりを振った。「ちなみに、この小さい手であの大剣を握るの?」
「そうよ。私の相棒」ルダは腰の大剣をぽんぽんと叩いた。
「ちょっと見せてもらってもいい?」
「どうぞ」ルダは大剣を抜き、ハーリにわたした。
大剣はハーリが両腕に力をこめて、ようやく支えられる代物だった。長さや刃の幅は普通の剣より上で、とにかく重い。
「これぐらいないと、いざというとき頼りないのよ」ルダは言った。
「ちなみに、これでどんな獲物を仕とめてきたの?」
「鹿みたいな奴とか、熊の首を一刀両断してきた」
「……絶対、君とは喧嘩しない」ハーリは情けない宣言をしながら、握手をかわした。
「じゃあ、行きましょうか」ルダは言った。
ああ、とハーリはうなずき、「この近くなんだ。〈研究所〉は」と言った。
狩りでも山菜採集でもない、ただ単に森を歩くという試みは、ルダにとって新鮮だった。いつもは獲物を探して神経を研ぎ澄ませているが、ここまでリラックスして森を歩くのははじめてだ。
空を仰ぐ。大木の枝葉が張りめぐらされ、日光はほとんどふってこない。薄暗く、少し肌寒さも感じる森の中を、二人で歩き続けた。
ハーリは〈研究所〉が近づくと、革袋から紙をとりだし、あたりに注意しながら歩く速度を落とした。
「本当にここ?」ルダは言った。
「ああ、このあたりなんだが」ハーリは不安そうだ。「木に埋もれたか」
「建物があるの?」
「いや建物はない。〈星の暴走〉で、平地が侵食されたから、新しい建物を外に建てるのはほぼ不可能だったらしい」ハーリは地面を踏みしめ、「〈研究所〉は、全部地下だ」と言った。
「地下かあ。そりゃ一度も見たことがないわけだ」このあたりはルダも狩りで来たことがあるが、人工物は一度も目にしたことがなかった。
しばらくのあいだ、二人は無言で森を歩いた。木の根をよじのぼり、槍で草を払い、〈研究所〉に向かってひた進む。
ルダは欠伸をした。危険な森でこんなことをするのははじめてだ。いかんと思い、ルダは首を振った。
「ねえ、ハーリ」ルダは声をかけた。「ハーリが獣人になる前……つまり〈星の暴走〉っていうのが起きる前の世界ってどんな感じだったの?」
「どんな感じって」紙を見ながらハーリは言った。「まず、狩りはしなかったな」
「狩りをしない!?」ルダは驚いた。「それでどうやって食べていくの!?」
「貨幣というものがあって、それを手に入れるために働くんだ。で、手に入れた貨幣で、スーパーとかで食料品を買う」
「スーパー?」
「ん……店、て言ったらわかるか?」
「あ、わかった」ルダはうなずいた。「森でとった山菜を鍛冶屋に持っていって、鍋とか包丁とか作ってもらうみたいなものね」
「……うん、その理解でいいよ」ハーリは紙を見ながら頭をかいた。「おかしいな。このへんのはずなのに」
「目印はないの?」
「ないと思う。土の色が変わってるとかしてればいいんだけど」
「ちょっと掘ってみようか」
いや、とハーリはかぶりを振り、空を見あげた。枝のあいだに見える空は薄暗くなっていた。「もうすぐ日が暮れる。探索は明日だ」
日が暮れかかると、ハーリは「しばらくこっちを見ないでくれ」と言った。ルダは少しはなれ、木の裏に隠れた。
ううう、といううめき声が聞こえてきた。ハーリが獣人に変化しているのだろうと察しはついた。
見るな、と言われるとつい見たくなってしまう。いや、ハーリが嫌がっているのだから、と思ったが、ルダはつい、木からそっとハーリの方をのぞいた。
変身はほぼ完了していた。身長は二メートルをこし、身体中を剛毛が覆っている。これがハーリだと言われても、誰も信じないだろう。
「ごめん、いいよ」
ハーリが言ったので、ルダは木の陰から姿を現した。焚火をはさんでハーリと向かいあうように座る。
「痛いって言ってたけど、そんなに痛いの?」
「体組織が変化を起こすからね。そのせいだと思う」
「ふうん」
ルダは木の枝に、道すがら狩った猛獣の肉を突き刺し、焚火であぶりはじめた。
「ねえ、ハーリって〈生体兵器〉って呼ばれてたんだよね」
「そうだ」
「兵器、てたしか、人を殺すための道具よね」ルダは言った。「ハーリは誰を殺すつもりだったの?」
「〈大神樹〉だ」
ルダはあっけにとられた。〈大神樹〉を崇める神官を信じているわけではないが、この世の中心にあるという〈大神樹〉は理解の外であるという意識があった。それを殺すとは、昔の人間は途方もないことを考えたものだ。
「……ま、それは最初の話だけどな」
「どういうこと?」
「すべての兵器が〈大神樹〉や大木に効果がないとわかったとき、人間の研究者は人間そのものを作り変えようとした。だが、どう作り変えても〈大神樹〉を殺すことはできない。だから、〈星の暴走〉後にできあがった〈大神樹の世界〉で生きられるような人間を作ろうと、方針を変えたんだ。〈生体兵器〉という名前は、昔の計画の名残だな……と、この話は前にしたかな」
「一部はね」ルダは焼けた肉をハーリにわたした。
おいしそうに肉をほうばるハーリを見て「何だか不思議ね」とルダはつぶやいた。
「何が?」
「森の中で火をおこして、食事をしていることがよ。狩りのときは干し肉をかじってすませてたし、狩りが早くすめば日が高いうちに村に戻るから」
「そうか」ハーリは空を見あげ「森でのはじめての夜ってわけだ」
「だから注意してね」ルダは言った。「おじいちゃんも言ってたけど、夜は猛獣の動きが活発になる。油断しちゃ駄目」
「わかってるつもりさ」
「本当?」ルダはハーリをじろじろと見た。ハーリは百歳をこえて旅をしていると聞いたが、森を歩くハーリはどうも危なっかしい。木の根から滑り落ちそうになるし、すぐ近くまで迫っていた猛獣には気づかないし──「あなた、本当に旅をしていたの?」
「えっと……」ハーリは頭をかき、「実は、旅をはじめたのは、ここ二年ぐらいなんだ」
「え!?」ルダは声をあげた。「二年!? それまで何してたの!?」
「〈研究所〉のひとつに隠れてた」ハーリはばつが悪そうにつぶやいた。
「百年以上も?」
「こわかったんだよ。外へ出るのが」ハーリは落ちこんだように言った。「でも、やらなきゃいけないことがあるからって、出てきたんだ」
「ずいぶん時間がかかったわね」
「ほかの人間がやってくれると思ってたんだ。でも、誰も〈研究所〉にはやってこなかった。だから俺は、自分がやらないといけないんだって思いなおしたんだ」
「あきれた」ルダは肉にかみついた。「森の達人かと思ったのに」ルダはハーリに対する認識をあらためた。これは自分がしっかりしなければ、森では生きていけないかもしれないぞ、と。
「だますつもりはなかったんだ」ハーリは頭をかいた。「でも、失望させたのなら悪かった」
「でも、二年も森をさまよってたんでしょう? だったら、私の先輩よ」ルダは森で狩りをしていたが、村から遠くはなれたことはない。「その点にかんしては、頼りにしてる」
「ありがとう」ハーリは微笑んだように見えたが、顔が狼なので、獲物を見つけてにたりと笑っているようにしか見えない。「じゃあ頼りにされてる証として、最初は僕が見張りに立とう」
「そう? ありがとう」ルダは提案をあっさり受け入れた。「私もさすがに疲れたわ。いつもなら、今ごろ村の中だもの」ルダは身体を伸ばし、こきこきと肩を鳴らした。「でも、交代でやろうね。時間が来たら起こして」
「わかった」
ルダは雑草が生えた地面にごろりと横になった。緊張して眠れないかと思ったが、何とかなりそうだと安堵した。
ぱちぱちと薪がはぜる音が聞こえる。焚火から背を向けようと思ったが、何となく、少し目を開けてみた。
ハーリがあぐらをかいて座っていた。茶色い剛毛の獣人。普通の人間なら悲鳴をあげるところだが、ハーリの姿は、どこかかわいい犬を思わせた。
「ふふ」
ルダが小さく笑うと、ハーリが「あ、ごめん、何かうるさかった?」と言った。
「ちがうよ」ルダは言った。「ねえ、そっちに行ってもいい?」
ハーリの返事を待たず、ルダは彼のそばに近寄っていった。「足伸ばせる?」
「こう?」
ハーリが足を伸ばすと、ルダはその上に頭を置いた。「ふかふかして気持ちいい」
「そんなに?」
「うん。それに、あたたかい」ルダは鼻をハーリの身体に押しつけ、においをかいだ。「草と土の香り。ハーリのにおいは独特ね」
「ほめられてるのかな」
「ほめてるのよ」ルダは言った。「いつ以来かな、こんなの。おじいちゃんが生きてたときは、いつもいっしょに寝てたなあ」
「おじいちゃんのこと、好きだったんだね」
うん、とルダはつぶやいた。「おじいちゃんは優しかったし、身体はごつごつしてたけどあたたかかった。いっしょにいれば、何も不安はなかった」
「……今は?」
「ひとりでいたときは最低だった」ルダは恨みをこめて言った。「でも、もういいの。あんな村のこと、忘れる」
「……それでいいのかな」
いいのよ、とルダは言いはなった。「……ああ、そうなんだ」
「何が?」
「おじいちゃんといっしょにいるのが心地よかったんじゃないんだって、今わかった」
「どういうこと?」
「誰かといっしょに……それも心を許せる相手といっしょにいるのが心地いいんだって、わかった」
ハーリはルダの頭に毛だらけの手を乗せた。「そうか。それはよかった」
「言っとくけど」ルダは言った。「誰とでもこうやって寝たりはしないから」
「わかってる」
「ハーリだけよ」ルダは言った。「もう寝る。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ルダは目を閉じた。睡魔はあっという間に襲ってきた。
ごとん、と頭が落ちる衝撃で、ルダは目をさました。十分しか寝ていないようにも思えるし、五時間ぐらい寝たような気もした。
「どうしたの」と目をこすりながらハーリに呼びかけようとして、ルダは自分たちが囲まれていることに気がついた。
木々のあいだに、影が見える。ひとつや二つではない。ざっと数えて十はある。夜の森で行動を活発化させる、猛獣たちだ。
四本足で角の生えた猛獣、熊のように巨大な猛獣、身体が小さいが喉笛をかみきるのに十分な前歯を持った猛獣……。
ハーリは猛獣とルダのあいだに立ちふさがり、戦闘態勢をとっていた。
「ハーリ」
「ルダ、悪いが後ろの奴らを頼む」ハーリは言った。
ルダはうなずき、槍を手にとった。
猛獣がいっせいに襲いかかってくる。ルダは突進してきた四足獣の胸に槍を投げつけた。槍は深く突き刺さり、一撃で猛獣を絶命させた。
素早く大剣を抜き、熊のような猛獣の一撃をかわす。その腕を叩き切り、猛獣の身体に接近、顎を真下から突き刺した。
小さな猛獣が鋭い前歯を突き立てようと迫る。その開いた口に、ルダは大剣を叩きこんだ。剣は脳まで貫通し、猛獣の命を奪った。
ほんの一分足らずのできごとだった。
ルダはハーリを振り返ると、ハーリは熊とがっぷり四つに組んで、力比べをしている真っ最中だった。ルダは熊の真横にまわりこむと、腕を叩き落とし、脇腹を突き刺した。
あたり一面血だまりだらけの中、ルダとハーリは立っていた。
「悪い、起こした」ハーリは謝った。
「何言ってるの。寝てる人間を起こすのが見張りの役目じゃない」ルダはあきれた。「それとも、あれだけの数をひとりで相手しようとしたの? 冗談言わないで」
「……すまない」
「それに、熊と力比べで互角なんて。もっと力があると思ったのに」
「いや、熊よりは強いよ俺は」ハーリは言った。「ルダの助けがなくても、あれぐらい」
「どうにかなってた?」ルダはハーリを見あげた。「……それならいいんだけど」
「しかし、森の猛獣は、火をこわがらないから困る」ハーリはため息をついた。「早いところ〈研究所〉を見つけよう。猛獣に対抗するための道具があるかもしれない」
「そんなものがあるなら、早くほしいところね」ルダは言った。「ところで、私、どれぐらい寝てた?」
ハーリは少し考え「四時間ぐらい、かな。たぶんだけど」
「じゃあ、次は私が見張りをする。ただ」ルダはあたりを見まわし「ここにはいられない。血のにおいで猛獣が寄ってくるのは間違いないし」
「どうする?」ハーリが言った。
ルダはしばし考えこみ「ねえ、あなた木登り得意?」
「この姿なら登れる」
「じゃあ、木の上に連れていって」ルダは言った。「獰猛な鳥もいるけど、少なくとも、地上にいるよりはましよ」
「わかった」
ハーリはルダを肩に乗せると、猛然と大木をのぼっていった。適当なところに太い枝があったので、そこに乗っかった。
「ここなら大丈夫かな」
「うん、上出来」ルダは下を見た。「寝ぼけて落ちても、ハーリなら死んだりしなさそう」
「そんなに寝相は悪くないよ」
少し憤然とするハーリに、ルダは微笑みかけ「わかったわかった。じゃあ、おやすみなさい、ハーリ」
「ああ、最高のベッドを提案してくれてありがとう」そう言ってハーリは枝をかかえるようにして、寝る態勢を作った。「何かあったら、すぐに起こしてよ」
「見張りは、みんなを起こすのが仕事よ」
「そうだったね」ハーリは苦笑し、枝に頭を預けて目を閉じた。すぐにいびきが聞こえてきた。
ハーリって、獣人のときはこんないびきをかくんだ。ルダは下を見たが、いびきに引き寄せられてやってくる猛獣の姿はなかった。むしろ、このいびきが猛獣よけになっているのではないかと思った。ハーリのいびきは、獰猛な猛獣のそれと同じだったからだ。
日がのぼる前に、ルダはハーリを起こした。ハーリには木からおろしてもらわなければならない。人間に戻った途端、転落死などされたら目も当てられない。
ハーリとともに地上へおりたとき、あたりがうっすらと明るくなってきた。
「服を着るから、あっち向いてて」ハーリの剛毛は薄くなりはじめていた。
ルダはハーリに背中を向け、ハーリが服を着るのを待った。
服を着終わり、二人は、これからどうしようかと話しはじめた。
「このあたりに〈研究所〉があるのは間違いないの?」
「うん。俺が持ってる紙にはそう書いてある」
「でも、地上にはないんだよね」ルダが言った。「じゃあ、地面を掘って、入り口を探すしかなさそうね」
「大木でつぶされてなければいいけど」ハーリは不安そうに言った。
「そんなこと言ってたら何もはじまらないじゃない」ルダは言った。「とにかくこのあたりからやってみましょうよ」
「うん、そうだね」ハーリはうなずいた。
ハーリは意外と気が弱い。そんなことでよく〈大神樹の世界〉を生き抜けたなと思うが、百年以上〈研究所〉にこもるぐらいだから、気が強い方ではないのはたしかだ。
でも、
「ごめんね、ハーリ」
「え、何が?」ハーリが言った。
「私、ハーリのこと頼りないとか気が弱いとか思ってた」
「……まあ、はずれてはいないと思うけど」
「でも、昨日はあんなに勇敢に戦った」ルダは言った。「立派な戦士よ、ハーリは」
「戦士だなんて」ハーリは苦笑した。「〈大神樹〉を殺すこともできないのに」
「その話はまた今度にしましょ」ルダがぱちんと手を叩いた。「今は〈研究所〉とやらを探すことに集中しましょう」
ハーリはうなずいた。
ルダとハーリは、地面を掘り返しはじめた。ハーリの話によれば、「〈研究所〉は地下深くに存在する」「ただしその出入口は地上まで伸びているため、深く掘り起こす必要はない」とのことだった。だが、数百年という年月により、深く埋没してしまったおそれもあるらしい。
だが、何にせよ掘ってみなければわからない。ルダはハーリが的をしぼった場所を入念に、槍の柄で掘り返した。ハーリも使えそうな木の枝を折って土を掘り返した。大木の枝を折る姿を村の人間が見れば、怒り狂うか恐怖におののくかのどちらかだろうが、気にはしなかった。
夜は見張りをしながら、ハーリが地面を掘り起こした。獣人の力は凄まじい。あっという間に地面は掘り起こされ、ルダが見張りを交代するころには、あちこちが穴だらけになっていた。
猛獣の襲撃も絶え間なく続いた。毎晩のように死闘をくり広げ、ルダは次第に疲弊していった。ハーリは平気な顔をしている。獣人の持つ力によるものなのだろうか。
「大丈夫か?」
ハーリに心配され、ルダは無理やり笑顔を作った。「大丈夫よ。心配いらないから」
「早いとこ〈研究所〉を見つけよう」ハーリが言った。「〈研究所〉にさえ入れれば、猛獣を気にせずぐっすり休める」
「それならいいんだけど」ルダは槍の柄を地面にぐっと突き刺した。
何かかたいものが当たった。木の根ではない、もっとかたいもの……金属のような感触だ。
ルダはハーリを見た。ハーリは気づいたのか、槍の柄が刺さった部分を掘り起こしはじめた。ルダも必死になって土をどける。
「……あった」ハーリはつぶやくように言った。
それは円形の、鍋の蓋のようなものだった。だが蓋よりも直径ははるかに大きい。蓋の上には円形の取っ手のようなものがついている。
ハーリは取っ手をつかむと、力を入れてまわしはじめた。びくともしないので、ルダも手を貸した。思いきり力を入れると、取っ手は左方向に向かって回転しはじめた。
一度回転しはじめたら、あとはラクだった。きりきりと音を鳴らしながら、取っ手をまわしていくと、空気が抜けるような音がし、蓋が開いた。
蓋の向こうは真っ暗闇だった。梯子があるので、これを伝っておりろということなのだろう。
「俺が先に行く」ハーリは言った。「ルダはあとからついてきてくれ」
ルダがうなずくと、ハーリは開いた蓋の中に入っていった。しばらくして、ルダもあとに続いた。
梯子はかなり長かった。入り口が豆粒のような大きさになったところで、ようやく床のようなものに足が接した。
「ちょっと待っててくれ。明かりがこのあたりに」ハーリが暗闇の中から言った。「そうだ、このあたりだ……作りはどこも同じはず。電源さえ生きていれば」
カチ、という音とともに、まばゆい光がルダの目に襲いかかってきた。ルダは思わず目を閉じ、おそるおそる目を開けた。
そこはまったく見たことのない空間だった。
広い円柱形の部屋で、天井が光っている。見たこともない器材や入れ物などがテーブルの上に載っている。
「よかった、電源が生きてた」ハーリは安堵し、両腕を広げた。「ようこそ、〈研究所〉へ」
「ここが、〈研究所〉?」
「そうだ。〈星の暴走〉の原因を突きとめ、世界を救うための研究をしていた場所だ」
ルダはテーブルに触れた。ほこりひとつついていない。何百年もそのままだったというのに、どうしてなのだろうか。
「あ、あまり触らない方がいいよ。危険なものもあるからね」
ルダはテーブルに、木の根が入った箱があることに気がついた。箱は金属で覆われ、表面は、透明な何かで覆われていた。
「これは、何? どうして中が見えるのに触れないの?」
「ああ、それはガラスっていうんだ」
「ガラス」
「こっちにおいで」
ハーリが手招きしたので、近づいていった。
「じゃーん」ハーリはさっきのガラスと同じようなものでできた、かめのようなものをルダに見せた。ルダの村で、門番にわたしたものと同じものだ。
「そのかめ……」
「瓶、ていうんだよ。ガラスでできてる」
「その瓶にもお酒が入ってるの?」
「そうみたいだね。ここの研究員も、お酒が好きだったみたいだ」ハーリは杯のようなものを二つ持って、テーブルに並べた。「これはグラス」
グラス。透明ということは、これもガラスでできているのだろう。
「祝杯をあげよう。せっかく〈研究室〉が見つかったんだから」ハーリは瓶の蓋を開け、中身をグラスに注いだ。「飲んでごらん。あ、ゆっくりとね」
ルダはグラスを手にとると、おそるおそる飲み物を口にした。喉がかっと熱くなったかと思うと、熱は胸のあたりまでおりてきた。
「うえっ、何これ」
「ウィスキーっていうお酒だよ」ハーリは平気な顔で飲み物をあおった。「うまいだろ」
「私、お酒飲むのはじめて」ルダは言った。村人は飲んだことがあるだろうが、ルダは一度も飲ませてもらえなかった。そもそも、そんな集まりに出席したこともなかった。
「そうか、じゃあちょっとキツすぎたかな」ハーリは浮かれているように見えた。〈研究所〉が見つかったことが嬉しいのだろう。
「……で、〈研究所〉は見つかったけど」ルダは部屋を見まわし「これからどうするの?」
「〈大研究所〉に知らせる」ハーリは言った。「ネットワークにつないで、この場所を知らせるんだ」
「ネットワーク?」
「……狼煙をあげて、〈大研究所〉に場所を教える、てことかな」
「だいたいわかった」
「まあ、もうインターネットなんて使えないから、信号を送るだけになるんだけど」ハーリは残念そうに言った。「ネットワークが生きていれば、〈大研究所〉の人間と話せるんだけどな」
ルダはもう質問しなかった。前文明のことなどわからないと、あきらめたのだ。
「場所を知らせると、どうなるの?」
「いずれ、この場所へやってくるはずだ」ハーリは言った。「ここには研究資料が山ほどある。運びだせれば、絶対に役に立つ」
「私たちの手では」言いかけてルダは部屋を見まわし「……無理ね、絶対に。これが全部資料だっていうんなら」
「そこはあきらめてる」あと、とハーリはカードを一枚見せた。「信号が駄目になったときのために、このカードを持っていく。〈研究所〉の位置が緯度と経度で記されているんだ」
「……要は、信号っていうのが駄目になっても、そのカードがあれば〈研究所〉の場所がわかるのね」
そのとおり、とハーリは言った。「こういうときのために、各〈研究所〉はこういうカードを用意したんだ。いつか連絡をとりあうために」
とにかくひと休みしよう、とハーリは言った。「上のハッチを閉めてくるから、ちょっと待っててね」と、梯子をのぼっていってしまった。
ルダはひとりで、〈研究所〉の中を見てまわった。戸を開けると、寝床のようなものがいくつも並んでいる部屋があった。
別の戸を開けると、浴室のような部屋だった。何に使うのかわからない棒が伸びていることを除けば、浴室だとわかった。
「気になるの?」戻ってきたハーリが言った。
「ここ、浴室?」ルダはたずねた。
「疲れてるだろうし、ひとっ風呂浴びてく?」ハーリは言った。「お湯張るから、ちょっと待ってて」
「お湯?」ルダは驚いた。「こんなところでお湯をわかせるの? どうやって火をおこすの?」
ルダが浴室から出ると、ハーリは四角いガラスに向かって何か言っていた。調べものをしているように見える。
「水の貯蔵は半分、てとこか。でもまあ、俺たちが使うには十分だな」ハーリは振り返り、「今から湯を張るからね」
ルダは背後から突然、水の流れる音がして「きゃっ」と高い声をあげて飛びあがった。
「きゃっ、て」ハーリは笑った。「君、そんなかわいい声出せたんだね」
「う、うるさい! 馬鹿にしないで!」
「してないよ……ああ、もうすぐわくからね」
え、もう、と言っているあいだに、ピーッという音が鳴った。
「どうぞ」
「どうぞって」
「水浴びはするだろ? そういうつもりで入ったらいい。中に棒みたいなのがあっただろ。あれはシャワーだ。熱いから気をつけて」ハーリは自分の腕をこする仕草をし「中に四角くてやわらかい『スポンジ』っていうのがあるから、『ボディ』て書いてあるクリームみたいなのをつけて身体をこするといいよ。きれいになるから」
「そんな急にたくさん言われてもわからないよ」
「じゃあ、見本を見せるね」
ルダはハーリといっしょに浴室に入った。ハーリはスポンジと呼んだ四角い物体に、白い粘ついた液体のようなものをふくませた。二、三度スポンジを握ると、泡が出てきた。
「これで身体を洗うといい。足りなくなったら、クリームを足してね」
「う、うん、わかった」
ハーリは髪の洗い方まで教えてくれた。これも専用のクリームとシャワーとやらを使うらしい。
「あと、浴室は汚してもいいから。ここには長居しないし、用がすんだら出ていくから」
ハーリが出ていったあと、ルダは服を脱ぐとひとりで浴室に入った。熱い湯がなみなみと張ってある。生まれてこの方、熱い湯につかるのははじめてだった。川で水浴びをするのがせいぜいだ。
ハーリは汚してもいいと言ったが、さすがに身体を洗ってから入った方がいい気がした。スポンジからいい香りがした。身体につけてこすると、泡が身体に付着した。だが、何度もこすっていると、泡がどんどん減っていった。身体が汚れすぎていて泡立ちが悪いことを、ルダは知らない。ルダはクリーム……ボディソープをスポンジにつけ足し、入念に身体を洗い、髪も洗い、シャワーで泡を落とした。
熱い湯にそっと足を入れる。最初はおっかなびっくりだったが、腰まで湯につかり、肩までつかると、意識していないのにため息が出た。
気持ちいい。水浴びとは全然ちがう。身体の疲れが溶けていくみたいだ。
完全に気が緩んだところに、戸の向こうからハーリの声が聞こえてきた。
「着がえ、ここに置いとくね。あと、女性物の下着があったからいっしょに置いとく。女性の研究員がいたんだね、たぶん」
「はぁい」ルダはとろけきった声で返事をした。戸の向こうでハーリが忍び笑いをしている雰囲気が伝わってきた。
「ルダの服は洗濯できないけど、手入れはできるよね?」
「だぁいじょぉぶ」
風呂から出たあと、ルダは用意された服を身につけた。下着はルダのものよりやわらかく、素材がちがっていたが、身につけ方は同じだった。ズボンとシャツも身につける。こちらも簡単だった。鏡に映る自分を見て、まるで自分じゃないような気がした。
浴室から出てくると、ハーリはひととおりの仕事を終えたようであった。ハーリはルダの方を振り返り、目を見張った。
「どうしたの?」
「いや」ハーリはよそを向いて言った。「ルダってきれいだなって思って」
「お世辞はよして」ルダはにらんだ。「こんな傷痕がある女がきれいなわけないじゃない」
「いやそんなことないって」
「もういい。で、何してたの?」
「信号を〈大研究所〉がわかるように発してたんだ」ハーリは言い、二枚のカードを見せた。「これがさっき言ったカード。緯度と経度が書いてあるから、ここの場所がすぐわかる」
「ふうん。でも、何で二枚?」
「君にも持っていてほしい」ハーリは真剣なまなざしで言った。「俺に何かあったとき、君に任せたい」
「何かって……冗談やめて」
「俺は本気だよ」ハーリはうつむいた。「正直なところ、俺はこの任務を果たす自信がない。でも、君といっしょなら何とかなるかもしれないと思ってる」
「私?」
ハーリはうなずいた。「前にルダは言ってただろ。神様が村を出ろって言ってるって。俺がいれば野垂れ死にしないって」
ルダはうなずいた。
「俺もいっしょだ。ルダが生まれるまで待てって、神様に言われたんだと思う」
ルダはハーリが持っている金属のカードを見つめた。そのときはじめて、ルダは自分の使命のようなものを自覚した。
私は、この人といっしょに世界を救うんだ。
ルダはカードを受けとった。
「言っとくけど、私は予備じゃないからね」ルダは言った。「私とあなたで世界を救うの。わかった?」
ハーリは目をまるくし、笑った。「君は本当に気が強いな。世界を救う、なんて言葉、そんなに簡単に出てこないよ」
「仕方ないじゃない、これが私なんだもの」
「いい。いいよ、ルダ」ハーリは言った。「二人で世界を救おう」
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