最終話 海賊達の船出

 吐く息が白い。一層冬の空気が街全体を包み込む。


 湊はスマホでお気に入りのバンドの曲を選ぶと、切なさを内包したギターのアルペジオと、細かく刻むハイハットが軽快にイヤホンから流れる。


 今日の日付は、十一月三十日。

 湊達の知らなかった、十一月二十九日より先の新しい時間だ。


「そう言えば、百年後に飛ぶ前のこの季節は、自分の進路のことで頭が一杯だったっけ」


 白鯨とか魔鯨とかそう言うものが無かければ、彩子は、優奈は、真司は、どんな道に進むつもりだったのだろうか。

 バルバロは役者を志していたから、百年後に飛ばなければそのうちテレビで見たりもしただろうか。


 そんなことを考えながら、湊は歩く。

 完全に陽は暮れて、東京のビルやマンションの明かりが地上の星のように夜の闇に瞬いている。

 湊はその星の一つ、あるマンションの一室のインターホンを鳴らした。


「いらっしゃい、湊」


 出迎えてくれた部屋着のスウェット姿の彩子。今夜は久々に、湊と彩子二人きりの夕食の時間だ。


 あの夏の決戦が終わってから、この世界に残ったクロウラーは彩子の部屋に居候していた。

 定期的に喧嘩をしては湊とバルバロが仲裁に入ったりしていたが、それでもなんだかんだ打ち解けて、上手くやっていたようだった。

 今夜はクロウラーが「最後にとびきり美味しいビールが飲みたい!」と駄々をこね、バルバロが渋々連れて行って留守にしている。


 食卓には、この世界に戻って彩子が最初に作った特製カレー。湊のリクエストだ。


「美味しすぎる! やっぱ、行く前にこのカレーはもう一回食べておかないと」

「ふふっ、そんなに気に入ってくれて、嬉しいわ」


 ――今夜、湊達は再び、あの海の世界へ発つ。


 それは湊の意思だった。東京の沈没は防げたとは言え、優奈も真司もこの世界にはいない。


 “いずれベリーとバルバロと、彩子達もみんな揃って、群れを作って暮らしたい”

 いつだったかあの海で、湊のシャチの魂が望んだ、そんな未来。


 ――欲しいものを、手に入れる。

 ――欲しい未来を、奪い取る。

 

 海賊の本能に従い、これから湊達は、優奈と共存する道を探しに行く。

 その後に暮らす世界がこの世界になろうと、百年後の海の世界になろうと、それはどちらでも構わない。


「さ、出発よ。支度できた?」

「うん。バッチリだよ」


 彩子はバイクに取り付ける大きなサイドバックに荷物を詰めた。湊は自分のリュックサックを背負いながら、それを腕に抱えて玄関を出た。

 荷物の半分はブルーブル。ベリーに沢山あげようと、多めに積んだのだ。


 ――ベリー、もうすぐ、戻るよ。

 湊は胸元に光るベリーの作ったネックレスに、優しく手を添えた。


 オートロックのエントランスを出たところで、不意に彩子が立ち止まる。


「サイコ先輩?」

「……っ」


 俯いたまま、彩子は突然小さな嗚咽を漏らして泣いた。


「……ごめんね、こんな時に。今まで繰り返した時の事、思い出しちゃって」


 湊は荷物を降ろして、彩子の心を受け止めるかのように正面に立った。

 初めて目にした泣き顔を、ただ見つめる。


「この三度目の世界は上出来よ。湊、あんたが生きてる。だけどその前のどの世界でも、あたしはあんたを目の前で失った。友達も家族も、全部消えた。どれだけ新しい思い出をいくら作っても、どれだけ楽しい時間を誰かと共有しても、毎回、あたし以外からは消えて無くなった」


 拳を握って小さく震えて、唇を噛んで泣く彩子の涙を、湊は無言で親指で拭う。


「……湊、知らないでしょうけど、あんたとだってね。いいえ、あんたが一番、あたしとの思い出が、いっぱい、あるのよ」


 今まで気丈に振舞っていた彩子の、秘めて来た本当の心が、堰き止めきれずにぼろぼろと涙となって零れ落ちる。


「これからは、もう独りじゃないよ」


 湊は彩子の手を握って繰り返す。


「サイコ先輩は、独りじゃない。僕がいる。何度だって、一緒にやり直せる」

「……うん」

「バルバロとクロウラーだって仲間だし、優奈と真司とだって絶対に、また一緒にいられる」

「……うんっ」


 彩子は、鼻をすすって顔をあげて、笑った。


「最高よ、湊」

「今度、聞かせてよ。僕との思い出」

「嫌になるくらい、聞かせてあげる。きっとあんた、びっくりするわ」


 その時の彩子の涙でくしゃくしゃな笑顔は、きっと一生忘れることの無いくらい、優しく綺麗な笑顔だった。


 ▼


 臙脂色のコートに、細身のジーンズとロングブーツ。そして真紅のスカーフを首に巻いた彩子が、バイク用のグローブに指を通す。

 これからバルバロ達と落ち合う目的地へと向かうのだ。


 彩子がバイクのエンジンをかけて、湊が後ろに跨る。このバイクの後ろに乗るのも、これが最後かもしれない。

 湊は彩子のウエストを、名残惜しむように優しく抱き締めた。


「ブッ」


 途端に彩子は吹き出した。


「ちょっと、手つきがやらしい!」

「いやそんなつもりは」

「まったく、海賊になってちょっと男らしくなったと思ったら、そういうトコまで男らしくなっちゃったのかしら」


 ぷんすかと怒りながら、彩子はアクセルを捻って夜の湾岸線にバイクを走らせた。



 到着した場所は、湊がいつも放課後に海を眺めて、グラウンド・ブルー・アラウンドの曲を聞いていた公園。

 人の手で作られた場所。そしてすぐ側にある対を成すはずの母なる自然の海が、不思議と心の落ち着くコントラストを描く。

 その一角に、一隻のクルーザーヨットが止まっていた。


「あ、いたいた」


 彩子が手を振ると、船上から二人の人影もそれに応える。

 バルバロと、クロウラーだ。


「よう、時間通りちゃんと来たな。オルカ、スカーレット」


 まずは彩子がバルバロに手を引かれて、岸から船に乗った。


「ん? 湊、どうしたの?」


 すぐに後に続くと思った湊は、海に面したベンチの上に何かを置いた。そして辺りの地面をキョロキョロと探すが目当ての物は落ちていなかったようで、背負ったリュックサックからブルーブルを一本取り出し、そこに立てた。


「なんだオルカ。あのブルーブルは持ってかねえのか?」

「うん。あれは、いいんだ」


 バルバロの手を掴んで、湊も船に飛び乗った。


「あ、久しぶりクロウラー。ビールは飲めたの?」


 湊がそう問いかけると、クロウラーは少し酔っているのか満面の笑みで答えた。


「色々種類があって、すっっっっごい美味しかったぞオルカ! バルバロはいけ好かない筋肉バカかと思いきや、良い店を知っている。見所があるな」

「店のビール全種類三杯ずつ飲んだんだぜこいつ。ザル女め」


 バルバロは憎まれ口を叩きながらエンジンのレバーを倒し、舵を切って船を出した。


「お前達、本当にもう行くのか? もうちょっとだけいてもいいんだぞ。ほらオルカ。男の目から見てどうだ。私綺麗になったと思わないか? 化粧品とは素晴らしいな! この世界は、最高だ!」


 ぐいっと湊に詰め寄るクロウラー。まつげは自然に際立って、唇は潤って艶がある。肌もなんだか透明感が増していて、長身も伴ってモデルにしか見えないくらいの美貌だった。


「勘違いするな。お前の肌じゃなくてファンデーションの粉が綺麗なんだ」

「バルバロ貴様……。それは恐らく、この世界の女達に絶対に言ってはならない台詞だぞ!」

「クロウラー、もうだーめ。今日出るって、決めたでしょ」

「……仕方がないな。またお前達が戻ってくる時に、こっそり付いてくるとしよう」


 船は都会の七色の輝きを背に、レインボーブリッジを越える。

 やがて段々と街の明かりが遠ざかり、やがて真っ暗な闇に囲まれて、遠くの海と夜空の区別がつかなくなった。


「まるで、百年後の夜みたいだ」

「ええ、海って、いつの時代も変わらないわね」


 船のエンジンを止めて、湊達四人は甲板に並んだ。


「お願い……時海月トキクラゲ


 彩子が目を閉じそう願うと霧が立ち込めて、真っ暗な海面がぼんやりと発光した。

 そこから何本もの輝く触手が伸びて、湊達を包む。


「さて、お前達。あちらの海では容赦しないぞ」


 クロウラーは海賊の表情に戻り、持ち前の妖艶さで挑発的に微笑む。


「カカッ、上等だ。返り討ちだよ、クロウラー」


 バルバロは犬歯をぎらりと見せて、好戦的に笑う。


「湊」


 彩子が、湊の手を握る。


「大丈夫。独りじゃないよ、サイコ先輩」


 湊もその手を握り返す。


 やがてトキクラゲの触手は湊達を覆い蒼く輝く球体となり、一際強い光を放った後、辺りを漆黒の闇に戻した。


 霧の晴れた海は誰も何もいなくて、静かに海だけが潮騒を奏で、揺れていた。



  ▼


 湊達は、優奈と生きる未来を探す航海に出た。

 いずれその未来を手に入れたとして、すぐまた次の“欲しい未来”を目指して、船を出すだろう。



 海賊が、どこまでもお宝を追いかけるように。

 人生という長い航海は、死ぬまで続くのだから。



 湊がよく佇んでいた、公園の海に面したベンチ。

 置いて行ったブルーブルの下に、一枚の紙がぱたぱたと潮風にはためく。



 その紙は、夏休み前に配られた進路調査票。

 氏名欄には、周防湊。

 第二志望と第三志望は空欄だ。


 第一志望の欄には『海賊』と、力強い大きな字で書かれていた。

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目が覚めたら東京が水没していたので、海賊になりました。 シャオバイロン @Syao44

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