かえってきた、おとうと
秋野てくと
私宅監置
……兄さま。
どうして、どうして返事をしてくださらないのですか。
こうして、こうして呼びかけているというのに。
まさか、村の連中の言うことを信じているのですか。
何を言うか、あの連中は……滑稽なこと、この上ない。
……でしょう?
「狐憑き」――などと。
わかっておられるはず……。
「狐憑き」などではありません……兄さまは判っているはずだ。
宗助は、いたって正気でございます。
莫迦莫迦しい……狐の霊に憑かれたなどと……。
畜生如きに祟られる宗助ではございません。
惑うことも迷うこともないのです。
私はすべてを知っています。すべてを覚えているのですよ。
ネエ、兄さま……覚えております。
宗助の頸に、しっかりと絡んだ兄さまの指を。
ごつごつとした親指が鎖骨に食い込む痛み。
繋がる指の腹は首輪となり、きゅうきゅうと肉を絞り上げてゆきました。
あんなに苦しいことは他にありませんでした。
苦しみを与えたのは兄さまなのでございます。
脳の髄までもが白く――白く。
頭蓋はどんよりと染まる重石となり、頭を垂れていきました。
何度も何度も、許しを乞うように頭が下がりました。
兄さまは、決して私を許すことはありませんでした。
兄さま。
宗助は、こうして還ってまいりましたよ。
◇
薄汚れた襤褸からのぞく華奢な鎖骨。
そこから顎へと伸びる、線で引いたように綺麗な青白い筋。
確かに――俺がこの手で締め上げた、宗助の「頸」と同じものだった。
屋敷の庭で鼠に噛りついているところを発見されたとき、口元を血で染めた姿を見たことで、家人は「ついに宗助が発狂した」と確信するに至った。
わけのわからない言葉を喚き散らし……三日三晩のあいだ、夜を迎えるたびに遠吠えまでしてみせた……いよいよ手に負えなくなったとみて、父は「宗助を座敷牢にて監置せよ」と俺に命じた。
野崎家では時折、「狐憑き」が出ると言われている。
蔵の座敷牢もそのためにある。
憑依体質――とでも云うのだろうか。
「狐」の霊に憑かれた先祖は、油揚げを好んだり、村人に嚙みついたりと、まさに人であった身を忘れ、その心の底までもが「狐」のような在りようとなったという。
ところで、こんな逸話も残っているのだが――大昔に現れた、ある野崎の「狐憑き」の体質たるや凄まじく――心がけだものへと変貌するにつれて、その「姿」までもが「狐」そのものとなってしまったのだとか。
身体変化。
まさしく、妖怪変化である。
「心」と「肉体」が不可分のものならば、心が獣となった人間はその肉体すらも獣に成り代わるということだ。
俄かには信じがたい話である――が。
残念ながら座敷牢に放り込んだ「これ」は「狐憑き」などではない。
加えて、「宗助はすでに死んでいる」。
そのことを知るのは俺だけだ。
「これ」の正体は幽霊か?
あるいは生ける屍なのか?
答えを悟ったのは、昨晩のことだ。
すっかりと毒気を抜かれたように大人しくなったかと思うと、滔々と「
灯り一つ無い座敷牢で常人の「眼」が光ってみせるわけがない。
はて、正気を失ってしまったか……思わず火が灯る「眼」を覗きこむ。
瞳孔は縦に開ききっていた。
◇
アァ……「狐憑き」ですか。
ご苦労なことです。
あたくしも立場がありますから、面倒なことは言いませんがね。
いい加減に狐だ、狸だ、という時代でもありますまい。
野崎の家の体面があることもわかります。
私宅監置でしょう? かわいそうに。
当世では「臨床人狼病」というのですよ。
一種の精神疾患です。有効な治療法はありません。
昔だったら、それこそ首でも絞めて埋めてしまったんでしょうがね。
……顔色が悪いですな。なにか失礼でも?
いえ……。話を続けます。
「狐憑き」は動物霊がとり憑くというオカルトな話ではないということです。
極度の緊張によって引き起こされる突発的なヒステリー、それに起因する精神錯乱。
遺伝性についての仮説もあります。
あくまで研究段階ですが、いいですか、ある種の精神疾患はその形質が血統により遺伝すると考えられているのですよ。
宗助さんには気の毒な話です。
……はぁ。
祈祷師の紹介なんかできません。
ここは精神治療をするところですよ。
……あたくしは専門外ですがね。
動物の霊だなんて。
いくら野崎のあたりでは、よく林に狐が出るといってもネェ。
たとえば「狐の霊」なんてものを見たことありますか、あなた?
マァ、「人間の霊」ならそりゃあ……。
化けて「出る」かもですが、ね。
◇
「キツネ」
哺乳綱 食肉目 イヌ科 イヌ亜科
イヌ亜科の一部の総称。
イヌ同様に鼻は細長く、耳は三角形で身体は長い。
毛は尾までふさふさと長い。
夜行性。
目はネコ同様に縦長のスリット状となっており、
非常に夜目が効くのが特徴。
◇
兄さま。
宗助は還ってきました。
身体の勝手が違うのには参りましたが……。
すっかり、なじみましたとも。
痕となったのはこの「眼」だけ。
この身はもはや、けだものではなく……。
「狐憑き」でもありはしない……。
ご覧のとおり。
宗助は、身も心も、
人間そのものでございます。
<了>
かえってきた、おとうと 秋野てくと @Arcright101
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