第3話 五〇年前の詩的想像力

 それにしても、ジョージャイとグラショーが大統一理論の原型を提唱したのが一九七四年です。

 賢治が詩「五輪ごりんとうげ」を書いたのは、詩集『春と修羅』にまとめられている詩を書いたすぐ後で、賢治自身が記した日付によれば一九二四年三月のことです(『春と修羅』は一九二四年四月刊行)。

 大統一理論が発表される五〇年前。

 もっとも、この「物質全部を電子に帰し」の部分は後になって書き加えられたことがわかっているので、五〇年前にはなりませんが、それでも四〇年以上前です。

 これは、率直に、すごいと思います。


 賢治が最も活発に文学活動を行った一九二〇年代には、原子が、プラスの電気を帯びた「原子核」とマイナスの電気を帯びた電子に分かれているらしい、ということまではわかっていました。

 ……けど、それだけ。

 原子の重さ(質量)がだいたい水素原子の整数倍になることから、水素の原子核が原子を構成する単位になっていることは推測されていましたが、それが実験を経て証明され、「原子核を構成する基本的粒子」が「陽子(プロトン)」と名づけられたのは一九一八年です。

 現在は、陽子は、アップクォーク二個とダウンクォーク一個の三つの基礎的粒子で構成されていると考えられていますが、一九二〇年代には「クォーク」の存在など想像もされていませんでした。

 電子も光も「真空の振動」の一種である、ということは、一九二四年、まさに賢治が「五輪峠」を着想した年に、ルイ・ド‐ブロイ(ドブロイ)が提唱した「物質波」の考えかたから出て来ます。この一九二四年という年には、賢治は詩集(「心象スケッチ」集)『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を刊行したほか、「銀河鉄道の夜」も書き始めています。


 さらに、「物質全部を電子に帰し」というためには、「プラスの電気を帯びる電子」、現在のことばでいう陽電子(ポジトロン)が存在しなければなりません。

 もともと発見されていた「電子」はマイナスの電気を帯びるものだけだったからです。その電子しかない状態で「物質全部を電子に帰し」をやってしまうと、すべての物質がマイナスの電気を帯びていることになり、これは現実の世界と矛盾します。それと、ほとんどの物質が電気を帯びていないという現実を折り合わせるためには、「プラスの電気を帯びる電子」の存在が必要になります。

 この「プラスの電気を帯びる電子」が存在するらしいと言われ始めたのが一九二八年、物理学者ポール・ディラックが、相対性理論と「シュレーディンガー方程式」という式を合わせて解いて「ディラック方程式」というのを編み出したときでした。

 その「プラスの電気を帯びる電子」、陽電子が実際に発見されたのは一九三二年のことです。賢治が亡くなるのが一九三三年ですから、その前年です。


 この一節が「五輪峠」に追加されたのが賢治の晩年であることを考えると、ドブロイの「物質波」の提唱、ディラック方程式による「陽電子」存在の予想と、年代的に間に合わないわけではない。

 しかし、賢治は農業技術者ではありましたが、素粒子物理学者ではありません。

 たとえ最先端の素粒子物理学の知識が賢治のもとに届いていたとしても、それを詩のなかの世界観にうたい込んだのは、やっぱり、賢治に、すぐれた、独創的な詩的感覚があったからでしょう。

 賢治とその素粒子物理学の知識とを結びつけたのは、賢治が傾倒していた『法華経』の世界観ではないかと思うのですが。

 そのことは、また別の機会にお話しすることにして、今回は、「五輪峠」という詩の一部分を紹介するだけにとどめましょう。


 (終)

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「いまとすこしもかわらない」 宮沢賢治の「五輪峠」と大統一理論 清瀬 六朗 @r_kiyose

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