⑨
「……悪かったな」
レイを見つめていたジュードがふとこぼした。
どうして謝られたんだろう。私、今感謝を伝えたはずなのに。
「なにがですか?」
「なにもかもだ。なにが分かると言ったことも、妻を娶るつもりはなかったなどと言ったことも」
首を傾げて問うと、返答とともにジュードが一歩レイに向けて踏み出した。え、と思っていると、一歩、また一歩と、ジュードは歩みを進めてくる。
「だ、旦那様、それ以上は近寄られないほうが、」
「なぜだ」
「な、なぜって、私、まだ制御ができなくて……」
思わぬ接近に、身体を駆け抜け始める雷気。それを認識していないはずはないのに、ジュードは止まる様子がない。ゾッとする。いくら呪いでないと分かったとはいえ、使い方を誤れば、人を傷つけることに変わりはない。
「っ旦那様、お下がりください! 旦那様、だん、」
レイは必死に下がりながらジュードを制止した。だが、柱廊に背中がぶつかるとパニックになってしまい、それ以上逃げ出せなくなった。
無視して近づいてきたジュードの腕を、とうとう雷気がぴしゃりと弾く。射程圏内だ。当初よりジュードに慣れてきたとはいえ、これ以上は本当にまずい。
「旦那様、お願い、お願い退がって! 傷つけたくないんです!!」
悲痛の叫びにも、ジュードは止まらない。一歩一歩、ゆっくりと、だが着実に、レイに向かってくる。
「言っただろう。こんなものは、ただのイバラの棘だ。こんなもので、取り返しのつかないことは、起こりようもない……っ!」
そう言いながらも痛みがあるのだろう。ジュードは歯をくいしばっている。だが、またもう一歩踏み出した。近づけば近づくほどますます雷気の威力は増していくというのに、逃げも隠れもせず、正面から突破してくる。
ジュードの手がレイに伸びてくる。その腕にも、雷気は容赦なく牙を突き立てる。夫の腕がバチバチと音を立てて感電する様に、レイは平常心を呼び戻そうと、慌てて目を瞑って耳を塞いだ。
次にレイが感じたのは、暖かい重みだ。
それは両の肩から背中に回り、レイを軽く引き寄せた。と、と軽い音を立てて額がぶつかり、焦げたような匂いが鼻をくすぐる。はたと目を開けたが、強く明滅する雷気が目に入るばかりで、何も分からない。
「──ほらな。見ろ。こんなものでは、誰も死なない。俺がその証明だ」
言葉が上から降ってきて、レイはやっと夫に抱きしめられているのだと気がついた。
信じられない気持ちでそっと上を向く。彫刻のような美しい顔の頬に、かすかな焦げ跡を作ったジュードが言った。
「お前は一つも悪くない。お前はここに必要な存在で、ここは間違いなく、お前の居場所だ。レイ。ここにはお前を損なうものも、傷つけるものもない。今まで、よく頑張った」
ハッとするほど美しい瞳がたたえる真摯な光に、なだめるような熱に、雷気が徐々に鳴りを潜めていく。
──そうか。この人はいいんだ。怖がらなくても。
──この人は、私を傷つけないから。
ジュードの指が頬に触れた。骨ばった指先だった。そのまま右手がレイの頬を包む。少し荒れた皮膚が、触れられている事実により深い実感をもたらす。冷たい温度は踊りで上気した頬によく馴染んだ。
「よく、生きて辿り着いた。俺の元に。──我が妻よ」
言葉が心臓を突き抜けていく衝撃とともに、一瞬、ピタリと雷気が収まった。
だが、それは本当に一瞬だった。
──バチーンっ!!
先ほどとは比べようもないほどの威力の雷気が、レイの全身から放たれた。
まるで溜まりに溜まった何かが、一滴の化学反応を経て唐突に爆発するような、そういう雷気だった。堪らず弾かれたジュードの体が宙に浮き、柱廊一つ分をゆうに吹っ飛んでいく。
「「「ぼ、ボス――――っ!!」」」
それまでは、新婚だね……。初々しいな……。ボスも人の子だったんだな……。と見て見ぬ振りを貫いていた中庭のセッタたちも、さすがに驚愕して駆け寄ってくる。
「生きてる!? ジュード生きてる!?」
「い、生きてる。生きてるけど、……気絶してる……!」
「嘘だろ? 数多の死地をくぐり抜けて、切っても死なない常勝の軍神とまで呼ばれたボスが……!?」
ジュードを囲み、青ざめるセッタたち。一方、へたり込んだレイの元にはヨルが駆け寄ってきた。
「レイ様! 大丈夫ですか! レイ、様……?」
レイの顔を確認したヨルの言葉が尻すぼみに勢いを失う。
なにせ、真っ赤だったのだ。顔が。
それこそ、このままだと脳が沸騰して死ぬんじゃないかと思うくらい。
「レイ様、あの、大丈夫ですか? どこかお加減でも悪いのでは……」
「あ、あの、その、ち、違くて、ヨル、あの……」
熱で潤んだ瞳のまま、レイは首を振る。一体なにが起きたのか、なにが違うのか、自分でもまだよく分かっていなかった。
だが、「どうした?」「痴話喧嘩か?」「さすがのボスも雷撃浴びると倒れんだなあ」と野次馬がますます集まってくると、とんでもないことをしてしまった、とやっと気づいた。
元の赤と凍りつく青とが入り混じった顔色は、もはや紫色になっている。
「ご、ご、……っごめんなさーーーーーいっ!!」
レイは頬に雷気を散らせながら絶叫し、脱兎のごとく離宮への道を駆け出した。その姿はまさに遁走の言葉がふさわしく、ヨルたちがいつも対峙する砂漠の盗賊たちも舌を巻く逃げっぷりだ。だが、レイには他にできることがなかった。だって、説明できないだろう?
──あまりにときめき過ぎて、夫を吹っ飛ばしてしまった、だなんて!!
レイは東の離宮への道を駆けながら思う。
こんなはずじゃなかった。
恋ってもっと穏やかで、慎ましやかで、森の木陰にひっそりと咲く、花のようなものだと思っていた。父と母はそういう夫婦だったから、ずっと、ああいう穏やかなものなんだとばかり。それが長年連れ添った夫婦にのみ訪れる平安だと、レイは知らなかった。他にサンプルがなかったからだ。
それに、雷気が発生するのは恐怖とか、拒絶とかだけじゃない。胸が高鳴った時にも出るだなんてことも、レイは今の今まで知らなかった。
最悪最悪最悪!! 旦那様を吹っ飛ばしただけでも最悪なのに、こんな、こんな……バカみたいにずっとほっぺがパチパチいってるだなんて!! 信じられない!!
一刻も早く、雷気をコントロールする術を学ばなくては。
だってこんなこと、誰にも説明できない。ヨルにもセッタにも。ジュードは特に、一番だめだ。
別に好きでもなんでもない妻が、自分に心を許すどころか、ただ慰めるためにした行為に胸を高鳴らせて、うっかり恋に落ちてしまっただなんて。そんな、そんなバカみたいなこと。
絶対絶対──ジュードにだけは知られるわけにいかない!!
「な、なんでこんなことに~~~~っ!!」
廊下を駆け抜けながらの大絶叫が、砂漠の空に響き渡る。その間、ずっと頬の雷気は収まらなかった。
竜の秘宝は本が持てない 〜ゼロから始める神獣セラピスト業〜 朝夜 千喜 @choya_senki
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