第5話 最後の一粒
「あれで尾行してたつもりですか。最初からバレバレでしたよ。田辺さん」
「いやまことに面目ない」
僕と佐藤君はベランダにあぐらをかき、缶ジュースを飲んでいた。僕はコーラ。佐藤君はコーヒー。佐藤君が冷蔵庫から持ってきてくれたものだ。
山の一軒家は、うるさいほどの虫の声と、蚊取り線香の香りに包まれ、僕に、子供の頃によく行っていた母方の祖父母の家を思い出させた。
「すみません、タバコ吸います」
佐藤君は僕にことわりをいれると、作務衣のポケットから煙草のケースを取り出した。慣れた手つきで一本抜きとり、ライターで火をつける。
吸い先を咥えて、頬をすぼませ煙を吸い込んでから、一拍。佐藤君は夜空に向かってふー、と白い煙を吐きだした。
「……飴屋が飴を作りづづけられなくなった時にはね、その時、最も飴に魅入られていた者が後継ぎになるんですよ。そういう決まりらしくて」
―― その時ちょうど俺、タバコの代わりになるものを探しててね。タバコが欲しくなくなる飴が店にあって、それに夢中になっちゃって。
佐藤君はそう続けると、自嘲気味に笑った。
店にいる時と、随分雰囲気が違うなと僕は思った。店にいる時は所作も雰囲気も上品で、洗練された職人のようだったが、今はどこにでもいる普通の若者だ。
「さっき消えたのが、前の店主?」
「そ。俺の師匠ですよ。俺と同じで、肺に嫌なもんができちゃってた人で。いよいよ体がやばくなっちゃって、バトンタッチを望んでた時に、丁度俺が」
―― そうか、肺に。
僕の祖父は、胃だったな、と思い出す。祖父が逝ったのは、ちょうど十年前だから、僕が二十五の時か。
しかし病気の割に、佐藤君は元気そうだった。普通に働いているし、タバコも吸っている。
素直に疑問を口にすると、佐藤君は、「飴屋の力らしいっすわ。不思議っすよね」と答えて、タバコの煙を、また吐いた。
「痛くも苦しくもないし、身体も普通に動くんです。でもね、やっぱり日に日に、あっちに近づいている気はするんですよ。多分、余命は変わんないんだと思います」
「でも君、まだ若いのに」
「この病気、歳なんか関係ないすよ。むしろ若い方が進行早いし」
佐藤君の淡々とした語り口が原因だろうか。妙に心細くなった。
僕が黙っていると、佐藤君がぽつりと言う。
「師匠、帰ってきたらもう消えてるだろうと思ってたけど、間に合ってよかったっすわ」
その声は彼自身の病を語っている時よりも、ずっと温かさに満ちていた。その師匠という人物と、いい関係を築けていたのだという事が、彼の穏やかな横顔と声からみてとれる。
「ねえ田辺さん。あんた、今の仕事好きなんでしょ?」
ふいに問われ、僕はしばし、返答に困った。
好きと言えば好きなのかもしれないが……もっと条件のいい転職先があれば迷わずそっちを選ぶ程度の『好き』だ。
考えながらそう答えると、佐藤君はタバコを咥えながら、「それだけ好きなら十分じゃないすか」と笑った。そして三度目の煙を吐いた彼は、笑顔のまま僕に告げた。
「今の状況だと、俺の後継ぎはあんたっすよ」
これは彼なりの警告なのだと察した。
このままでは、あんた、今の仕事辞めさせられて、飴屋の主人になっちまいますよ、と。
「夢中になってるのは僕じゃないよ」
慌てて指摘すると、
「何言ってんすか、尾行までしておいて」
と鼻で笑われた。
返す言葉もない。
「飴屋協会みたいなのがあってね、生活の保障はされます。それから、飴食ってたら腹も減りませんし喉も渇きません。病気までは直んないけど、身体はギリギリまでよく動く。でもね――」
歳とりません。病気か事故で死ぬまでずっと、飴屋ですよ。
「他の飴屋、いたでしょ。あの中には、第二次世界大戦前からあそこに座ってる婆さんがいます」
僕はぞっとした。
顔に出ていたのだろう。僕を見た佐藤君が、声を上げて笑う。
「ね。健康体の人にはキツイんすよ、この仕事。俺は有難いんすけどね。本来、病気で味わうはずの苦痛を免れて、死ぬ時は眠るように、綺麗な光の粒になって消えていけるんだから」
そう言うと彼は、開けてから一口しか飲んでいない缶コーヒーの中にタバコを捨てた。
「病気の原因は、それ?」
僕はコーヒー缶を指さした。正確には、中に捨てられたタバコの吸い殻をさしたのだが。
佐藤君は膝を抱えると、「さあ? でも結局やめられなくて」と困ったように笑った。
「飴に匂い移っちゃ駄目なんで、一日一本にしてますけどね」
余命はあとどのくらい?
思わず訊きそうになり、僕は慌てて口をつぐんだ。
普段ならこんなぶしつけな事は訊かないのだが、非日常の空気と、佐藤君の飄々とした雰囲気が、僕が培ってきた社会性というものを、あやふやにしようとしていた。
僕は残りのコーラを飲み干すと、立ち上がった。
佐藤君には悪いが、これ以上ここにいると、本当に取りこまれる気がした。
「帰るよ。上司には、『見失った』って言っとく」
そうしてもらえると助かります。と佐藤君は僕を見上げて目を細めた。
☆
佐藤君は、駐車場まで僕を送ってくれた。
車に乗る直前、彼は作務衣のポケットから玩具の指輪が入っているような透明なプラスチックケースを取り出し、僕にくれた。
蓋を開けると、取引先の孫にプレゼントしたものと同じ、虹色の飴が一粒入っていた。
「プレゼントです。取引先のお孫さんには、これが最後の一粒で、店はもう無くなった、と言ってやって下さい」
寂しげに微笑んだ彼は、離れられなくなっちゃう前にね、と言い足した。
僕は「ありがとう」と頷いてから、車に乗った。
扉を閉めて、エンジンをかけて、挨拶の為に窓を開けると、佐藤君がすい、と右手を振った。
「さよなら田辺さん。会えてよかったですよ」
フロントミラーには、僕の車が見えなくなるまで小さく右手を振り続ける、佐藤君の姿が映っていた。
それから、半年ほどたって、僕は一度だけ飴市に顔を出した。
うすら寒い細い裏路地に一列に並ぶ、飴屋台。
そこにはもう、彼はいなかった。代わりに、酒味の飴を舐めていたあの老人が、藍染風の作務衣を着て、彼がいた場所に背中を丸めて座っていた。
〜完〜
一雫中毒 みかみ @mikamisan
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