エピローグ・三年後

 リリリリン──。スマホの咆哮がベッドルームの静謐を蹴破る。

 深い眠りの泉。沈んだ意識の底から圭介は急速に浮上していく。

「うーむぅう」

 目を瞑っていても勝手知ったる配置。圭介は枕元のベッド棚に手を伸ばすと、スマホを掴む。ゆっくりと瞼を開ける。眩い光彩を放つ画面が鼓膜のみならず、視界までも痛ぶる。

「はい、深堀です」

〈ニューヨーク支局長・青木俊一〉

 通話ボタンをタップし耳に押し当てる前、かろうじて、その名前を視認していた。

「おお、深堀記者。夜分に悪いな」

 謝罪の言葉とは裏腹に、青木には全く申し訳なさが感じられなかった。

 ベッド上の壁掛けデジタル時計に視線を這わす。午前三時過ぎだった。

「メールの件だが、俺が当たってみた。間違いねぇぞ」

 圭介は前日、支局長の青木や現地の証券市場担当記者にメールを送っていた。

〈シャインベーカリーがナスダック上場するという観測が出てます。日米での同時上場も視野に入れているかもしれません。お手隙の際に、そちらの証券市場関係者にそれとなく当たっていただけないでしょうか。〉

 そんな内容だったが……。

「えっ!」

 圭介は驚いて叫ぶ。観測が当たっていたことにではない。支局長の青木自身が取材に動き、しかもこんな早くネタが正しいと打ち返してきたことだ。

 眠気もろとも吹っ飛んでいた。が、その段になって、自分が今、ベッドの上にいることを思い出して、慌てて口を手で覆う。

 傍の翠玲を見やる。

 ──大丈夫だ。起きた様子はない。

 圭介はそっとベットを抜け出して、隣室のリビングに移動した。

「先日も星崎の野郎が、こっちに極秘に訪れていたらしい。俺が確認しているだけで、今年に入ってもう五回だ。相変わらず裏でコソコソ動いて、姑息な野郎だぜ」

 そんな毒を吐きながらも、電話越しの青木は何だか嬉しそうだった。


 あのシャインの騒動から三年の月日が流れた。

 二二年六月末の株主総会直後、シャインはMBO(経営陣が参加する買収)を発表して、上場廃止した。

 星崎社長の下で改革は進んだ。シャインの代名詞ともいうべき国内産の厳選小麦を使った「魔法の粉」が復活した。工場のファクトリーオートメーション(FA)化を進めて、職人に頼らなくても高品質の焼きたてパンが製造できる会社に変貌した。

 それが実った。業績はV字回復し、前期(二〇二五年三月期)は最高益となった。

 二週間後の七月には、商品開発部長の角谷未来取締役が社長に昇格する予定だ。

 好調な企業に漂う特ダネの香り──。記者としての独自の嗅覚で、圭介が〈日米同時株式上場〉の可能性を掴んだのは今から二ヶ月前のことだ。それからというものの、この案件の取材を極秘で進めてきた。

「青木支局長、一部の記者には今の話を共有させてください」

「おうよ。その代わり、ウィレットに抜かれることだけは勘弁してくれよな」

 ──ブラックジョークにも程がありすぎる。

 圭介は苦笑する。

 一方の青木は快活に笑って電話を切った。

 通話後、再び静寂が圭介を包む。ソファに座りながら目を瞑り思案する。

 ──さて、このネタをどう昇華させるか。

 現在の東証担当記者はあの巻だ。

 三年前のあの事件後、巻はゴンザレスによって自宅謹慎を命じられた。が、処分はなかった。販売局に飛ばされ、階級も降格した米山とは対照的だった。

 当時こそ、圭介はその裁定に不満を持ったが、ゴンザレスなりに何かを見抜いたのだろうと今は思っている。

 実際、その後の巻の活躍は凄まじかった。圭介も何度も助けられ、社を去った翠玲の残像を見るような思いだった。

 ──巻さんなら、シャインが東証に申請する前に何らかの連絡をくれるだろう。きっと大丈夫だ。

 次に浮かんだのはコミショウの顔だ。

 現在、コミショウは企業部の別グループで証券会社担当をしている。

『圭介さん、シャインの国内上場の幹事社、分かりましたよ。豊洲証券です』

 一ヶ月前にはそう報告してきた。

『このネタで社長賞狙いましょう。いや、日米同時上場なんて斬新だし、新聞協会賞も夢じゃないです。引き続き、バイブス、上げていきましょう!』

 昨日、電話した際、コミショウは内面の昂りを隠しきれない様子だった。

 ──コミショウも問題ない。

 何の因果か、あのシャインの騒動のメンバーがこの取材でも密接に関わっていた。

 圭介は思案しながら顎をトントンと人差し指で叩く。その姿は翠玲を彷彿とさせた。

 ──となると……やはり、気になるのは新人君か。

 網膜には現在のシャイン担当の新人記者の顔が浮かんだ。

 圭介が今、在籍する第二グループとは別グループだが、企業部フロアではよく目にする。終始、空回り気味で、デスクには良く詰められて、しょんぼりしている。何だか数年前の自分を見ているようだった。

 圭介はスマホを手に取ると、新人記者に電話をかける。

「あわわ」

 おそらく寝ていたのだろう。電話越しでも、焦っているのが分かる。

「こんな時間にごめんね。実は君の担当するシャインが株式の日米同時上場を近々発表するかもしれないんだ」

「日米同時上映⁉︎」

 ──いや、映画じゃないんだから。

「日米で同時に株式を上場することね」

 再度ゆっくりと言うが、圭介の言葉が電話の先の新人に浸透した気配はない。

 当たり前だ。研修を終えて数週間前に配属されたばかり。上場が何かも知らないだろう。生まれたばかりの「ひよっこ記者」なのだ。

「あのね。とにかく、朝回りして、シャイン幹部に当てる必要があると思うんだ」

「シャインの……幹部?」

 その反応だけで、新人が食い込んでいないのが分かる。

「実は前任からちゃんと引き継ぎを受けていなくて」

 しばらく、あたふたした後で、新人は申し訳なさそうに言う。

「前任のせいに絶対しちゃダメだよ。今の担当は君でしょ?」

 その部分だけは口調が強くなる。かつての自分を叱る思いだった。

「すみません……」

 新人が急速に萎むのが分かる。慌てて、圭介はリカバーに入る。

「突然だけど、今から出れるかな? 来月に社長になる角谷取締役っているでしょ。彼女のヤサに朝回りをかけようと思うんだ」

「えっ、あの角谷取締役と面識があるんですか⁉︎ 深堀さんは商社担当ですよね。それに、どうしてヤサまで知っているんです?」

 そうだ。圭介は今、かつて翠玲が担当していた花形の商社担当だ。

「昔、ちょっとだけ縁があってね」

 圭介が三年前にシャイン担当でえらい目にあったことを新人は知らないらしい。

「ええ、凄いです。角谷さんはテレビでしか見たことないので」

 芸能人にでも憧れるような声色だった。

 有名キャラとのコラボパン、ダイエットパン、冷凍パン……。角谷はこの三年間、その才能を遺憾無く発揮した。商品開発担当として次々にヒット作を世に送り出し、シャインの復活を象徴する存在となった。外食業界ではちょっとした有名人だ。

「角谷さんの朝は早いから、じゃあ、ヤサ前の公園に五時集合で」

 圭介は新人に角谷宅の住所を教えると、電話を切った。立ち上がりかけてから、尻をソファに再び埋める。

「俺も一応、予定稿を用意しておくか」

 そう独りごちると、カバンから小型の記者端末を取り出した。

 カタカタカタカタ──。記者端末のキーボードを叩く音がリビングで反響する。圭介は物凄いスピードで原稿を紡いでいく。


【手作りパン工房「モグモグ」を全国展開するシャインベーカリーが、日米で株式を同時上場することが★日、分かった。株式の再上場を東京証券取引所に申請したほか、米ナスダック市場への上場を米証券取引委員会(SEC)にも申請した。早ければ★月にも双方に上場する。

 同社は二〇二二年のMBO(経営陣が参加する買収)後に東証の上場を廃止。その後、投資ファンド、東洋キャピタル主導で海外事業の清算や国内事業のテコ入れを進め、前期(二五年三月期)は最高益となった。今回の上場で調達した資金は、海外など新たな成長分野に投資するとみられる。】


 五分で予定稿は完成した。あとは出稿の際に、★の部分を埋めれば良いだけだ。

 ふと、新人のことを思い浮かべる。

 ──彼は記者として、これから大丈夫だろうか。

 その思考を新たな気付きが塗りつぶす。

 ──そっか、三年前の青木さんもきっとこんな気持ちだったのかな。

 圭介の口の端が一際上がる。

「じゃあ、支度しますか」

 ポンと膝を打つ。スーツに着替えて、身支度を数分で整える。

 出来るだけ音を立てないようにして、リビングを抜けて玄関へと向かう。

「圭ちゃん」

 その時だった。背後から声がした。

 振り返った先の簡易照明の下に、パジャマ姿の翠玲が直立していた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「うん、実は電話が来た時から起きてたの」

 翠玲が白い歯を見せる。

 二年前、翠玲はパニック障害を克服した。しかし、復帰のタイミングで毎朝経済新聞社を退職した。

「次の人生は自分のペースで、自分のために働きたいの」

 その言葉を胸に、豊銀が立ち上げたベンチャー企業で働いている。

 圭介自身は記者としての翠玲をもっと見ていたかった。が、以前よりも生き生きと働く翠玲を前に、その思いはたち消えた。

「電話来てたけど何かあった? 大丈夫?」

 翠玲が心配そうに問う。

 いつか通った道。三年前も見た表情だった。

「いや……実はその……」

 圭介も深刻な表情を作る。それから言葉をゆっくり吐き出す。

「特ダネ、抜きまして」

 圭介はニヤリと笑う。

 翠玲もプッと吹き出す。

「だと思った。圭ちゃん、最近調子良いね」

 翠玲は笑みを浮かべたまま、少しだけ大きくなったお腹をさする。

「じゃあ、いってくるね」

 その言葉と共に圭介は踵を返す。再度、翠玲に手を振って玄関を出た。

 外に出た瞬間、圭介の顔からはスッと笑みが消えていた。それは取材という戦場に向かう記者の顔だった。

 一方の翠玲は玄関で直立したまま、見えなくなった圭介に思いをはせる。取材の成功を祈るように、スッと目を閉じて呟いた。

「いってらっしゃい、深堀記者」

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特ダネ、抜かれまして 松井蒼馬(旧・萌乃ポトス) @moenopotosu

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