第十章 輝かしい未来へ(8)
六月三十日木曜日。海は凪いでいた。梅雨明けしたかのような快晴だった。
千葉市美浜区のコンベンション施設には、続々とシャインの株主が集まる。予想を超える来場に急遽、別会場が設けられたほどだ。改めて、今回の株主総会の注目度の高さをうかがわせた。
「これより第三十一回シャインベーカリー株式会社の株主総会を開催いたします」
午前十時。議長の星崎が開会を宣言した。
圭介はその様子を別室に設けられたプレスルームから今、固唾を飲んで見守っていた。
が、冒頭から異例づくめの展開となった。
「まずは議長として、そして、シャインの現社長として、皆様にお話ししたいことがございます」
星崎は深々と頭を下げてから、二ヶ月半の混乱についての経緯を詳細に説明した。
わかば銀の鴨崎頭取やシャイン生え抜き派、ロベリア監査法人に対しては、調査が全て完了次第、厳正に対処すると言及。刑事告発も辞さない構えを見せた。
そして、皆を驚かせたのは最後の一言だ。
「私はあくまでもリリーフの緊急登板だと思っています。ですので、早期に再建を果たし、一定のメドがついた段階で、社長職を辞したいと考えております」
──社長職を辞す?
圭介は隣席のコミショウと顔を見合わせる。
その後、滞りなく議事は進行していく。
いよいよ質疑応答に入り、マイクを握ったのは最前列に座る男だった。
「一〇二番の輝川誠と申します」
誠本人だった。第二位株主であり、前社長であることを説明するまでもなく、会場中にさざめきが広がった。
「株主の皆様、並びにシャイン経営陣の皆様にお伝えしたいことがあり、マイクを取らせていただきました。私は昨春の父の急死後、社長に就任しました。ですが、社長として未熟でした。一連の粉飾に全く気付きませんでした。先ほど、壇上の星崎社長は私の責任について一切言及しませんでした。しかし、今回の不正は私にも責任の一端があります。当時、社外取だった星崎社長とも激しく対立してしまい、経営混乱に拍車をかけました。混乱を招いてしまった責任を痛感しております。株主ではなく、前社長として、皆様に直接謝罪をしたく、発言させていただきました」
もはや質疑ではなかったが、議長の星崎は制止しなかった。
それから、誠はくるりと株主が着座する後方を向いて、深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした」
しばしの沈黙を挟み、会場にこだましたのは拍手だ。株主の顔は皆、朗らかで、誠に対して同情的な顔さえあった。
これで発言が終わると圭介も思ったが、誠は星崎同様、最後に思いがけない言葉を放つ。
「シャインは上場会社です。創業家のための会社ではなく、株主のための会社です。私は創業家として、第二位株主として、今後、どうシャインと関わり合いを持っていくかをずっと考えていました。私は決断しました。シャインの輝かしい未来へ向けて、保有する株式を全て売却します。天国の父もこの決断を応援してくれると思います」
一切、迷いのない表情だった。
一方で会場は静止した。プレスルームもそうだ。記者全員が呆気に取られ、前方のスクリーンを見つめていた。それほどまでに予想外の発言だった。
──誠さんもシャインを去る? じゃあ、今後は誰がシャインを担う?
その時、スクリーンの壇上に角谷未来の姿が映った。圭介はハッとする。
──『輝かしい未来』その言葉は、輝川家として、未来にバトンを託したいとの誠なりの思いを映した言葉なのではないか?
会場をこの日一番の拍手が包んだ。
その後は、この二ヶ月半の混乱が嘘のように、総会は淡々と進んだ。全ての議案が無事に承認され、議長の星崎が閉会を宣言した。
「コミショウ、株主のコメント取り、任せて良いか?」
総会終了と同時に圭介は席を立つ。
「もちろんです! 任せてください」
その快活な声に押されるようにして、圭介はプレスルームを飛び出していく。
会場の出入り口からは次々と株主が吐き出されていた。
──いた。
その人混みの中からある人物を探し出すと、圭介はゆっくり近づいて声をかける。
「誠さん」
誠は圭介を視認すると微笑む。そのまま二人で海辺の柵まで移動してから圭介は問う。
「本当にシャインを去ってしまうんですか?」
「僕なりのケジメですよ」
先ほど同様に誠の表情は晴れ晴れしかった。
「だからって、株式を全て売却しなくても良いじゃないですか」
「僕が大株主でいたんじゃ、みんな、気を遣うじゃないですか」
誠はクスリと笑う。
「輝かしい未来のために、僕は喜んで身を引きます。それにです」
誠は眼前の大海原に視線を戻した。前髪が海風で揺れていた。
「父の夢の続きを見たくなったんですよ」
「龍造さんの……夢の続き?」
「はい。僕もシャインのパンを海外でも食べて欲しい。だけど、海外事業はそんな簡単じゃなかった。改めて、調べてみると、流通網やコスト、在庫管理など課題は山積でした。だから……」
誠の視線の先で海鳥たちが風に乗っていた。
「僕、アメリカに渡ります。あっちで勉強して、日本の外食企業の海外進出を後押しするベンチャーを立ち上げたいんです」
誠は目を輝かせて、自らのプランを圭介に語った。
ベンチャーは博打だ。成功するかは分からない。が、誠の全身からは既にベンチャー経営者特有のバイタリティが溢れ出ていた。
正真正銘の創業者になってやる──。そんな気概を感じさせた。
「深堀さん、見ていてください。今度こそ、本当のスティーブ・ジョブズになってみせますよ。その時は是非、僕に単独インタビューしてください。父が成し遂げたかった佳子さんとの夢、今度こそ必ず実現しますから」
そんな言葉を残して、誠は颯爽と駅の方に去った。その背中が見えなくなるまで、圭介は見送った。
「良かったら今から飲みに行きませんか?」
その日の夜。十四版の降版後に朝刊番デスクの青木を圭介は誘った。
遊田との十年前の騒動以来、青木は酒席を頑なに拒んでいる。だから、来てくれるかは賭けだった。が、意外にもすんなり、圭介の指定した神田のバーにやってきた。
深夜三時。暦上は七月に入った。今、クラシック音楽が流れる暗がりのバーで、圭介は青木と向かい合っていた。
「お疲れ様です」
圭介は乾杯のビールを掲げたが、眼前の青木から言葉はない。
威圧感に目を合わせることもできず、しばし乾杯後の沈黙が続いた。
「そういえば今日、青木さんもシャインの総会に来ていましたよね」
会話の糸口を探るように言葉を紡ぐ。
百人ほどが集まったプレスルームの片隅で、隠れるようにして青木もいた。
「近くで用事があったから寄っただけだ」
青木はそう返したが嘘だ。そもそも、プレスルームに入るには事前申請が必要で、ふらりと立ち寄って、入れる類のものではない。
再び途切れた会話をかろうじてクラシック音楽が繋いでくれていた。
「で、テメェが呼び出した理由は何だよ」
痺れを切らした青木が問うてくる。
──やはり見抜かれていた。
圭介も意を決して本題を切り出す。
「青木デスク、今回のシャイン取材の件を通して思いました。あなた、実はずっと僕を守ってくれてましたよね?」
「何のことだよ?」
ブルーライトカットメガネの奥の瞳はバーの暗さもあって全く見えない。
「思えば、青木デスクは最初から僕とは見えていた景色が違うんですよ。四月十四日深夜、ウィレットの遊田記者が特ダネを打ってきた時、すぐに気付いたはずです。遊田記者は、かつて青木の部下だった田村江麻。そして、シャインの後任社長は、かつて同期だった星崎さん。偶然が重なりすぎている。何か裏があると直感したはずです」
青木の眉間に皺が寄る。
「青木デスクは僕に度々、『取材が甘い』と言って怒りました。口は悪かったですけど、今振り返ると、あの時、指摘してたことって、至極真っ当だったんです。記者としての矜持を教えていただきました」
そうなのだ。感情を排して改めて考えると、青木の指摘は的を射たものばかりで、むしろ圭介を育てようとしていた。
「それに僕はいつ担当を変えられてもおかしくない状況でした。実際、堂本局長や谷部長から、左遷の可能性を示唆されました。でも、結局、そうはなりませんでした。僕が取材していた裏で、青木デスクが二人を何度も説得していたからですよね」
先日、翠玲から知らされた。自宅療養中なのに社内のことは、相変わらず圭介よりも知っている。
「僕がシャインネタを掴めずに空振りした時に備えて、独自ルートで取材も進めていましたね? 帝国ビバの大川内社長は、あなたのネタ元だったんですね」
わずかに引き攣った青木の表情がイエスであるのを物語っていた。
『毎経は青木さん以外は信用ならない』
ホテルのラウンジで対峙した際、大川内がそんな本音を漏らしたのを圭介は聞き漏らさなかった。
「米山キャップが虚偽のメモを僕に送り続けていたことにも早い段階で気付いていたんですよね。真の裏切り者が誰かを見極めた上で、担当の僕をずっと守ってくれていたんです。あの、どうして……どうして、ここまでしてくれたんですか?」
圭介はまっすぐと青木の顔を見つめる。
青木は腕を組み、しばし押し黙っていた。それから大きく深呼吸すると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「アサボリ。テメェは何で自分が採用されたか知ってるか?」
「僕の採用理由……ですか?」
あまりに唐突な問いに首を傾げる。
「テメェ、就活の時、言ったろ。『世界中を旅して留年したが、決して無駄ではなかった。きっと、この経験を生かせる日が来る』って話をよ」
──確かに三年前の秋採用の面接で、そのようなことを言った記憶がある。
「でも、なぜ……それを?」
「二次で面接官だったのは俺だ」
「嘘⁉︎」
「テメェに嘘ついてどうなる。三人の面接官の一人として俺はいた。他の二人の面接官は呑気に旅なんかに興じて留年かましたテメェにバツをつけた。一方、俺は二重丸をつけてやった」
この学生は絶対取るべき──。そう面接官が判断した場合は二重丸をつける。そうすると、無条件で最終面接まで進めるらしい。
面接官の経験者である翠玲がかつて言っていた。
「どうして、僕に二重丸なんか」
「それをテメェが言ったらダメだろ。せっかく俺のおかげで、記者になれたのによぉ」
今日初めて青木の言葉に笑いが混じった。
「あいつもかつて、テメェと全く同じことを言っていたんだ」
青木は遠くを見やる。
「集団面接で面接官から大学を三留している理由をしつこく問われた時だ。奴は平然と言いやがった。『世界中を旅して、たくさんの人に出会った。三留は無駄ではない。きっと、この経験を生かせる日が来る』ってな」
──圭介とほとんど同じ言葉だ。いや、それよりも……。
「まさか……その人って」
圭介の網膜にはある男の顔があった。
「そうだ。星崎の野郎だ。あいつは同期の英雄だった。将来は会社を率いていく存在になるはずだった。なのに、あんなクソみたいな事件に俺が巻き込んじまった。そして、あいつは何も言わずに社を去った。本当は……俺が去るべきだったのによ」
青木は唇を噛む。
その反応を見て圭介は悟る。かつて温厚だった青木が何故、今のような喋り方になったのかを。
圭介だけではなく、青木も今回のシャイン取材を通して、過去の因縁に決着をつけようとしていたのかもしれない。
「もし青木デスクが僕の担当じゃなかったら、正直、勝てなかったと思います。僕は早々にシャイン担当を解任されて、何が真実か分からぬまま記者人生を終えていたと思います」
それは紛れもない本音だった。
「確かに口は悪いですし、理不尽だなって思うこともあります。だけど、そのおかげで、僕は少しだけですけど、成長できた気がするんです」
青木は腕を組んだまま圭介を見つめていた。
調子に乗るのもいい加減にしろ──。それくらいの小言は言われるかもしれないと圭介は身構える。
が、青木はポツリと呟くのみだった。
「今回のシャイン取材、良くやった……。フカボリ記者」
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