第5話

「あっ」

 航平は声を上げた。プールの水は抜かれて、ペンキの剥げた水色の床が丸見えだった。海亀はどこかに連れ去られたのだろうか。

 航平は呆然とプールの底を見つめている。飛び込み台にあった真鍮のプレートはそのままだ。プールは清掃中で、一時避難しているのかもしれない。


 陽の光の下で三枚のプレートの数字が読み取れた。

 ――19980523

 ――20140607

 ――20200831

 すべて八桁だ。生物たちの管理番号だろうか。それにしては数字が飛んでいる。


「これ、日付だ」

 二〇二〇年八月三十一日。過去帳の日付を見ていなければ思いつかなかった。パネルのひとつはじいちゃんの命日だ。こんな偶然があるだろうか。もしかして、あの海亀はじいちゃんじゃないか。湊はすうっと背筋が寒くなる気がした。

 外から図書室の窓を覗き込むと、そこには古い椅子と机、本棚が並ぶのみでまんぼうや他の魚の姿は無かった。


 燃え尽きた夕陽が山の端に沈み、ひぐらしがもの悲しい声で鳴き始める頃。湊が航平の部屋の窓を叩いた。

「鍵屋のばあちゃんが死んだって」

 航平は館長の言葉を思い出す。新しい仲間、みんな最後にはここにくる。まほろば水族館には死んだ人間の魂が閉じ込められているんじゃないか。館長は魂を海の生き物に変えてコレクションしているのだ。


「ぼく、海亀を助けたい」

 航平は窓から身を乗り出す。飛び込み台のパネルの話をすると、湊は表情を曇らせる。

「怖いよ、館長は悪魔かもしれない」

「ぼくも怖い、でも、どうしてもあの海亀を助けたいんだ」

 いつも自分の後をついてくるばかりの航平が意見をはっきり言ったことに湊は驚いた。


「うん、わかった。助けよう」

 湊は頷いて航平と拳をぶつけた。

「よし、じゃあ今夜決行だ」

 二人で作戦を練った。まず、大きな桶を用意する。桶は湊の家の倉庫にある。今夜も見学ツアーに参加して、帰ったふりをして海亀を桶に入れて海岸までつれていく。それは子供ながらに名案に思えた。


 ***


「ようこそ、今日は地下を案内しよう」

 鮫島館長は階段下の錆びた鉄の扉を開け、湿ったコンクリートの階段を降りていく。

 地下はボイラー室になっていた。時折蒸気を伴って響く轟音に航平は肩を竦める。薄暗い地下室はまるで深海のようだ。目の前の大きな水槽に黒い影が見えた。


「サメだ」

 湊は水槽から飛びのいた。巨大なサメが冷たい目でこちらを凝視しながら泳いでいく。錆びた水道管に大きなウツボが牙を剥いてひしめき合い、不気味な形の深海魚は水槽の底で膜の張った白い目で虚空を見上げている。

 青と黒の縞模様のウミヘビがからだをくねらせて二人の目の前を通り過ぎた。

 エイが水槽の壁面に張り付いた。腹側についた鼻と口が悲しい顔をしたおじさんに見えた。


「これは今日新しく入った仲間だ」

 館長が自慢げに薄暗い水槽を覗き込む。そこには大きな伊勢えびが身体を丸めていた。

 鍵屋のばあちゃんは長いことしていた畑仕事のために腰がひどく曲がって、いつもおじぎをしているような格好だった。

 黒ずんだコンクリートの土台に嵌め込まれた真鍮のパネルは新しく、鈍色に光っている。日付は今日を示していた。

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