第4話

 けたたましく降り注ぐ蝉時雨に目を覚ました。

「夏休みだからっていつまでも寝てるんじゃないよ」

 母親に布団から追い出され、航平は眠い目を擦りながら顔を洗う。仏間から線香の匂いが漂ってきた。襖を開けるとばあちゃんが仏壇に手を合わせている。

「お盆じゃからじいさんが帰ってくる」

 ばあちゃんは小さな背中を丸め、手を合わせて念仏を唱え始めた。


 じいちゃんは航平が十歳の時に死んだ。漁に出て急なシケに遭い、大波の前に木の葉のような漁船はいとも簡単に転覆したのだ。

 古希を手前にしてなお現役で漁をしていた。悔いはなかろう、とばあちゃんは言った。真っ黒に日焼けした顔でにかっと笑うと白い歯が覗いたのを覚えている。


 じいちゃんのことは好きだった。

 航平の父もじいちゃんを継いで漁師をしており、息子が漁師を継ぐことを当然のように期待していた。しかし、航平にとってはそれは押し付けでしかない。航平は漁師になんてなりたくなかった。


 五歳のとき、隣町の親族のところへ出かけた。そこで電車を見に海沿いの無人駅へ行った。鯨浜町には線路は通っていない。初めて見た本物の電車に感動して、胸が躍った。たった二両の電車の先頭を見たくて、ホームの端まで走った。先頭車両にいた運転士が目を輝かせた小さな航平を見つけ、運転席からの景色を見せてくれた。


 たくさんのスイッチや計器類がついた操作盤やハンドル、窓の先に続く線路、全てが新鮮だった。何より制服を着た運転士がカッコ良かった。

 発車時刻になり、警笛を鳴らして電車が動き出した。航平は海を背に走り出した電車が山の向こうに見えなくなるまで手を振った。

 そのときの太陽に輝く水面のような気持ちは今も航平の心に焼きついている。大きくなったら電車の運転士になりたい。それが航平が初めて抱いた夢だった。


 家に帰って興奮しながら父に話すと、

「そんなもん、つまらん」

 と叱られた。父は航平に漁師の仕事を継がせることしか頭に無かったのだ。航平は父に否定されたことが悲しくて布団をかぶって泣いた。


 その週末、じいちゃんと防波堤で釣りをしていた。大きな魚を釣り上げた航平をじいちゃんはめっぽう褒めた。

「お前は良い漁師になれるぞ」

「じいちゃん、ぼく、じつは」

 航平は電車の運転士になりたいんだと打ち明けた。

「そうか、お前は何にでもなれる。夢を大事にしろ」

 そう言って節くれだったしわくちゃの手で頭を撫でてくれた。じいちゃんの手は大きくて温かった。


 航平はじいちゃんの笑顔を思い出しながら線香を上げて、仏壇に手を合わせた。顔を上げると、じいちゃんの位牌が目に入った。位牌には令和二年八月三十一日と書かれていた。じいちゃんの訃報が届いたのは夏休みの最後の日だ。暑い日に大人達はみんな黒い服に身を包み、慌ただしく葬式の用意をしたのを覚えている。


 羽根が傾いた扇風機がカラカラと音を立てて回る。夏休みの宿題は手につかなかった。まほろば水族館のプールにいた海亀のことがぐるぐる頭を巡る。館長に刺叉で突かれて怪我をしていないか、どうしても気になった。母親は庭で洗濯物を干している。

「宿題終わったから遊びに行く」

 航平は叫んで返事も待たず、玄関を飛び出した。


 湊を誘おうと思ったが、もう水族館に行かないと約束したばかりだ。それに今は昼間で眩しいほどに明るいから怖くなんてない。航平はひとり、海沿いの廃校へ向かった。

 夏の強烈な日差しが降り注ぎ、遊歩道に出る頃には汗だくだった。航平は校門の鉄柵を乗り越える。校庭の樫の木にとまった蝉がけたたましく鳴いている。


「あれ、開かない」

 ステンドグラスのついた玄関の扉は固く閉ざされていた。押しても引いても扉は動かない。館長が鍵をかけているのだろうか、航平は首を傾げる。まほろば水族館が開館するのは夜だけなのかもしれない。

 プールの方へ向かい、鉄錆の浮いた手すりを握って階段を上る。


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