第2話

 廊下のコンクリート製の水道には水が張られ、真っ赤なヒトデが張り付いている。トゲトゲの黒い塊はウニだ。その脇をカニが横歩きしていた。

「ここ、水族館みたいだ」

 湊は面白がってヒトデをつまみ上げる。

「学校が水族館に、そんなバカな」

 現実とは思えない奇妙な光景に、航平はほっぺたをつねってみる。痛みは現実だった。


「ようこそ、まほろば水族館へ」

 不意に背後から聞こえた明るい声に、二人は慌てて振り向いた。そこには黒い燕尾服に白いドレスシャツ、黒色の蝶ネクタイ、ストライプのズボンを履いた細身の男が立っていた。

「私は館長の鮫島です」

 豊かな白い髪を撫でつけ、くるんとそり返ったヒゲ、片眼鏡をかけてステッキを持つ姿はこんな田舎町にそぐわない異国の紳士の佇まいだ。鮫島館長は背筋をぴんと伸ばして二人の少年に丁寧なおじぎをした。

 その仕草はまるで西洋の御伽話に登場する老執事のように完璧だった。


 勝手に校舎に忍び込んだことを咎められると萎縮したが、拍子抜けした。

「さあ君たち。私の自慢の水族館をご案内しましょう」

 館長は意気揚々と次の教室へ誘う。二人の探検者は驚いて目を見開いたままの顔を見合わせた。しかし、逸る好奇心が抑えきれず、戸惑いながらも館長の後をついてゆく。


 美術室の前で館長が立ち止まる。

 窓を覗き込んだ航平と湊は、同時にわっと声を上げた。

 目の前に澄み渡る青が広がっていた。珊瑚礁が絨毯のように敷き詰められ、天井から降り注ぐ光のカーテンが揺らめいている。

 珊瑚の隙間を赤、青、黄色の色鮮やかな魚たちが心地よさそうに泳いでいる。黄色と黒のしま模様の熱帯魚の群れがすいすいと目の前を通り過ぎていった。

「まるで南の島みたいだ」

 湊はガラスに張り付いてはしゃいでいる。

 航平は疑問に思う。どうやって教室を丸ごと水槽にしたのだろう。こんな古い木枠の窓から水が漏れないのが不思議だ。


 ふと、窓の木枠に真鍮製のパネルが打ち込んであることに気がついた。パネルは新しいもの、古いもの、いろいろだ。青黒く錆びついているものもある。

 パネルには数字の羅列が刻まれていた。何か規則があるのだろうか。

「少年よ、次は外を案内してあげよう」

 パネルに集中していた航平の顔を、鮫島館長が屈み込んで覗き込む。航平はわっ、と声を上げそうになるのをぐっと我慢した。

 館長は目を細めて口髭の下で薄い唇を吊り上げて微笑む。ピカピカに磨かれた金歯がキラリと光った。


 館長は廊下突き当たりの扉を開いた。錆びの浮いた螺旋階段を降りていくと、二十五メートルプールが見えてきた。プールに張られた暗い水の中から海亀がひょこりと顔を出す。

「海亀だ、いち、に、さん、三匹もいる」

 湊がプールを指差す。大きな海亀が三匹、広いプールを悠々と泳いでいた。


「ぼく、海亀好きだよ」

 航平は嬉しくなって、プールの縁にしゃがみこむ。プールの真ん中をを泳いでいた一匹がすうっと航平の方へ近付いてきた。円らな瞳で航平を見上げている。甲羅についた青々とした藻が水面にゆらゆら揺れていた。随分年嵩のように思えた。

 航平が頭を撫でてやろうと身を乗り出した。飛び込み台にも教室の窓枠と同じプレートが打ち込んであるのを見つけた。プレートの数は三つ。八つの文字、いや数字が刻まれているようだ。


「ダメだよ。海亀は噛むんだから」

 館長に鋭い声で怒られて、航平は伸ばした手を慌てて引っ込めて立ち上がった。先生に怒られた気分になって、しょんぼりする。

「今夜のツアーは終わり。明日またおいで」

 館長はニッと口の両端を吊り上げて笑う。ピカピカの金歯がキラリと光った。そして、二人を校門まで見送ってくれた。校門を抜けて振り返ると、いつのまにか校舎の明かりは消えていた。


「まほろば水族館のことは秘密にしよう」

「うん、ぼくたちだけの秘密だ」

 航平と湊は拳をぶつけて約束を交した。大人たちに教えたら夜の廃校に子供だけで忍び込んだことを咎められると思ったし、まほろば水族館が消えてしまうような気がした。


 海岸沿いの遊歩道から竹藪を抜けて、それぞれの家に帰った。

 その夜、航平は興奮して眠れなかった。湊と大人の知らない秘密を共有できたことが嬉しかった。イワシの大群や、美しい熱帯魚、そしてふさふさの藻を背負った海亀のことを思い出した。

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