チョウカク少女
環
チョウカク少女
__みーん、みーんみんみん
帰り道、聞こえてくるのは出てくる日を勘違いしたおちゃめな蝉の歌声。
「じゃーなー優斗ー」
「おー、またなー」
誰かはわからなかったけど、とりあえず返事をしてみた。
カンカン照りの中自転車を猛スピードで飛ばす友達を目で追いながら上る歩道橋は僕の通学路。
汗でメガネが滑り始めたころ、やっと家に着いた。
さて、勉強を始めようと椅子に腰かけたとき
「…あれ?ない……」
僕の手帳が見当たらない。
引き出しの奥や鞄を探しても見つからない。
どこかへ置いてきてしまったのだろうか。あれには僕が分析した先生たちの問題傾向がまとまっているのに。
テスト前にとんだ大失態だ。
「はぁ……。暑すぎて溶けそうなのに…」
おいてきた記憶なんて少しもない自分に呆れながらだれも傷つかない愚痴をこぼし、ローファーに足を入れた。
さっき通った道を巻き戻して、ぬるい風を浴びる。
放課後の学校は久しぶりだな。
というのも、僕は入学早々帰宅部を選択し、即帰宅する生活を送っていたので放課後の学校とは無縁なんだ。
_____。
教室に戻っても、職員室前の落とし物置き場にも目当ての品はない。
通りすがりの先生にも聞いてみたけれど、そもそもこの無駄な時間を勉強時間に充てるのが得策なのではないかと思って昇降口に向かう。
時間をこんなことで溶かしてしまったという罪悪感から放心状態でいつもよりも長い階段を下った。
「なっがぁ、こんなに長かったっけ」
もとから絶対その長さのはずなのにいつもの何倍にも感じる。
らーらーらら__らるーらるら__
ようやく昇降口が見えたところで、なんだか不思議な声がした。
惹かれるけれど気味が悪い。足早に廊下を曲がって上履きを履き替えようと思ったとき、
きらっと一筋の光が足元に差し込んだ。
「ん?」
光を視線でたどると、少しだけ空いた美術室のドア。
はやく勉強しないと、と思っていた気持ちは、ほんの数秒の出来事が見事にかき消した。
体が勝手にドアに手をかけてガラッと引く。
扉の先で見たのは、空っぽの美術室だった。
「え……?見間違えだったのか?」
さっきまでの高揚感がすっかり消えてしまい、つま先が再び昇降口に向きかけた時。
「わあ〜!]
「おわぁっ!!」
少女が上から降ってきた。
いや、正確にはそうじゃなくて、引き戸の上についている窓に足を引っかけ、逆さにぶら下がった陽気そうな少女がそこにいた。
すたっと飛び降りた少女は倒れて尻もちをついている僕のことをのぞき込んできた。
ようやく少女がしっかりと見えた僕は息を飲む。
「ほ、ほうたい?」
腰あたりまで伸びたブロンズの髪に白のワンピース。
それだけは息をのむほど美しいのだが__少女には目が無かった。
目には清潔そうな包帯がぐるっと何周か回されていて、鼻から下は普通に露出している。
現実世界にあまりにもアンマッチな純白の目隠しは、彼女が普通の女の子ではないことを示唆していた。
「えっと~……どなたですか?」
処理落ちした頭がようやくひねり出した言葉は間違っていなかったと思う。
ニコッと笑ったままの彼女は
「自己紹介なんて堅苦しいな〜。私今絵描いてるからさ、ちょっと見ててよ」
どうやら彼女の感覚だと自己紹介は堅苦しいものらしい。
髪とワンピースをひらりとなびかせ、美術室のほうを向いた。
連れられるままに美術室の奥へ進むと、何枚ものキャンバスが円状に並べられていて、その中央にぐちゃぐちゃに塗られているキャンバスがあった。
「ここはね、私のテリトリーなの」
「……」
「いま、こいつ絵下手すぎるだろって思ったでしょ」
黙ってしまったからか図星を突かれた僕は慌てて返す。
「いや!別にそんなことない!……でも……」
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ〜。よく言われるの、なんで目隠ししながら絵なんて書いているんだって」
よく見ると筆はきちんと丁寧に並べて置かれているのに、目を使わずに見ないで洗うからなのか筆先はパサパサしていて絵の具が落ち切っていない。
「蝶を書きたいの」
「蝶か……」
蝶といえば色とりどりのきれいな羽やくるくると動き回る様子を描くもののような気がするが、この絵はどうだろうか____見えない中で唯一簡単な描写なのだろう、黒色の十字架が中央にでかでかと飾られて、数字の三と三をひっくり返したような単純な形の蝶と思われるものが祀られているようだった。
おまけに目を隠しているせいで混ざってしまった絵の具は深緑色をしているから…
蝶を描きたいのだといわれなければ気づかなかっただろう。
「ねえ、あなた名前は?」
彼女はまるでその包帯の先がはっきりと見えているかのように、こちらに体を向けて尋ねた。
「…優斗」
「何でそんなに不審がるのよ~」
むすっとした表情で彼女は頬を膨らませた。
「だって…そんなの不審に思うにきまってるじゃないか!いきなり上から降ってきたと思ったら目がなくて、しかも何に感化されてるのか包帯まで巻いてて!……ついでに『みててよ』って言ったくせに絵も下手だし……」
勢いで出た言葉に少しだけ後悔があるけれど、おかしいのは相手のほうなんだと自分に言い聞かせた。
「大丈夫〜!絶対蝶になるんだから!」
「えぇ…」
見ていくという意思を見せてしまった手前、優斗の優しい性格では帰る、なんて到底言えなかった。
彼女は手探りで筆をとると、足の先を起用に滑らせてバケツやら雑巾やらをよけて椅子に座った。
多分これから絵の続きを書くということなのだろう。
これ以上なにか聞いても相手にしてもらえないような気がしたから、僕もそこら辺にあった椅子に適当に腰かけて彼女の様子を観察した。
人が絵を描くところ__芸術家でも何でもない、むしろ人よりも絵なんて向いていない子__なんて見ることがないのだから、変な知的好奇心が掻き立てられて思わずじっと見入っていしまった。
「じゃあ始めよっか!」
少女は僕の位置がわかっているかのように正確にこちらを振り向いて、ニコッとした。
彼女の手に拘束された筆はすいすいと動き出して、ぐちゃぐちゃなキャンパスにさらに色を足していった。
僕が見始めてから三色目ほどで、少女が口を開いた。
「ねぇ、今更なんだけどさ、なんで怖がらないの?」
「いや怖いけど」
反射的に答えてしまって、アッと少女を見る。
少女は固まってしまっていて、傷つけてしまったであろうことはすぐに読み取れた。
「あ!いや…そういうわけじゃなくて!、ごめん、つい…」
少女はせかせかと筆を動かしている。きっと機嫌を損ねてしまっただろうな。
「わたしね、チョウカク少女って言われてるの」
チョウカクってあの聴覚か?それとも…
思考をめぐらしていると次の言葉が降ってきた。
「これまでにもね、偶然というか…優斗くんみたいにみにきてくれるひとがいたの。たぶん
美術室を閉めていないからなんだけど」
彼女はゆっくりとキャンバス隣の机に胡坐をかきながら僕を見た。
「何年か前から目が見えなくてね。あ、勿論目ん玉はあるんだよ?」
__彼女は盲目だった。目隠しなんてしていなくても目は機能していなかったんだと衝撃を受けつつ、目ん玉があるかどうかは今じゃないだろうと芸人並みの速度でツッコミを入れたくなって、でもそれだって今じゃないとかいろんなことを考えて思考をあきらめた。
彼女はというと僕があたふたしている間も、ふふっと上品な笑い声を僕の耳に届けた。
「とても残酷なことなんだけどさ、元から目が見えなかったわけじゃないから絵だって、風景だって、人の笑顔だって大好きなんだ。今でもね」
先ほどまで笑っていた口元は口角こそ上がっているもののどこか寂しさを感じた。
「でもね、見えなくなってから気づいたこともあるの、『現代は視覚にとらわれすぎてる』ってね」
僕は、はっと顔を上げた。
顔を上げた先には彼女がいて____澄み切った目が二つ並んでいた。
「え…?あ…包帯が…」
あえて例えるとしたら透明。そんな目に僕なんて映ってしまっていいのだろうかと思うほど綺麗だった。
「今君には何が見えているのかな?私かな?」
魅了された僕は何も言葉が出てこなくて、かろうじで出てきてくれたのは
「きれい」
きれい、なんて言葉はいつぶりだろうか。ふわっと香る彼女の髪と、彼女が笑う声、手に擦れたワンピースの布、少しだけ開いた口から伝わる絵の具であろう味。
感じるものすべてがそう言わせたのだ。
「そう?嬉しい。私が言いたいこと?っていうか伝えたいこと分かったかな…。目はね、とっても大事なものだよ。でも普通に生きてればそれは五感の五の中の一番で、ほかの四はないがしろになる。ほかの四は一を大事にするために奪われ続けてる」
彼女が言っていることが、僕に浸み込んできた。
”ほかの四は一を大事にするために奪われ続けてる”なんて彼女以外に誰が言えるのだろう。
「だからね、わたしは視覚がなくなっちゃってから、ずっと聴覚少女として蝶描く少女なんだ」
彼女は満足げに椅子に座ってキャンバスへ向き直った。
__夕日が差し込む美術室に溶け込んだ君は、この世のものとは思えないほど美しかった。
真っ白な服にとんだ絵の具、彼女を包み込むキャンバス。すべての環境が君のために作られているみたいできれいだった。
「よしっ!完成~!」
ぼくは思わず目を見開いた。
「すごい...!すごいね!画家さんみたいだ!」
僕が美術室に入ってきたときにはぐちゃぐちゃだったキャンバスに、オーロラ色に煌めく蝶が十字架に飾られていた。その周りに飛んだ色は目になっていた。
「これはね、たぶん風刺画みたいな感じになってるとおもうの。美しい象徴の蝶が囚われの身になっていて、その牢獄の監視員は視覚なの。現代人は自分たちの感情を一番有能な視覚に閉じ込めさせてるんじゃないかってね……」
そこまで言い切ると、語ってしまったことが恥ずかしくなったのか彼女は目を伏せて頬を赤らめた。
僕は思わずつぶやいた。
「君は
チョウカク少女 環 @tama1012
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