迷い猫 6
ソファの上の柴田は、漣果さまへ目を向け、固まっていた。ユカ姉に襲いかかろうとした体勢のままで。
「ほう、やけににおうと思ったら、畜生みたいなのがいるねえ」
と、漣果さまは柴田に言った。
すると、柴田はにわかに正気を取り戻したのか、ソファからころげるように降りた。そして、漣果さまを恐怖の眼差しで見すえたまま、ふらふらとよろめきながら、店の出口の方へ向かった。
「ふうん。感心しないねえ。その目が。まるで化け物でも見るようじゃないか……」
という漣果さまの声が、しだいに低く、鋭くなっていく。
「どこに行くんだい? 話の途中だよ」
すると、柴田は情けない声を上げて、店の扉に手をかけた。しかし、なにがどうなっているのか、その手の上に漣果さまの白い手が載っていた。
僕は言った。
やめてください。漣果さま、もう……。
その言葉は舌の上で震えただけで、声にならなかった。体に力が入らなかった。
漣果さまは柴田の顔を手でとらえた。そして、その顔に自身の顔を近づけると、柴田の唇に口づけした。
柴田ははじめ、体を硬直させ、手を突っ張って漣果さまを拒んでいた。しかし、しだいに力がゆるんでいき、最期は、うっとりとした表情で、漣果さまの唇を受けいれた。
柴田は土屋とは違い、恍惚の表情で床に倒れた。その顔は真っ青で、しわがれていた。
漣果さまはうすい笑みを浮かべて、顔を上に向けた。ばさりと黒髪が舞った。
「アア……。魂の甘いこと。昏く、これ以上なく淀んでいて……」
そうやって、心底満悦そうにつぶやいて、手の甲で口元をぬぐうのだ。僕は震えながら、その姿を見ていた。
やがて漣果さまは、やっと思いだしたかのように、床に倒れている僕を見た。
漣果さまは腰を曲げて、床に手をのばし、ひとつの雪片をつまんだ。
それから僕の近くにやってきて、その雪片を口もとに運んでくれた。
僕は口を開けて、その雪片を乾ききった舌に受けた。雪片をなめたとたん、それはあまりに濃厚な、蜜の塊のようにも感じられた。それから、体のすみずみに熱が広がっていく感じがした。
漣果さまは言った。
「少しは、思い知るといい。おまえが、いかに弱いかを」
力を取り戻した僕は、やっと立ち上がった。ソファの上では、ユカ姉がおびえるようにこちらを見ていた。
僕はユカ姉に近づこうとした。すると、ユカ姉は目を見開いて、
「や、やめて。……こないで。イヤッ」
「ユカ姉……。もう、大丈夫だから……。ユカ姉……」
「いやだ。もう……」
そこで、漣果さまはユカ姉を見て言った。
「これも、片付けないといけないね」
そこで僕は、ユカ姉をかばうように、漣果さまの前に立った。
「どういうことですか?」
「なにを言う。この娘を生かしておいて、あれやこれや吹聴されると、手におえないだろう」
「ユカ姉は、僕に優しくしてくれました……。ほんとうのお姉さんみたいに」
「いいや、そこをどきなさい」
漣果さまは僕の肩をつかみ、ぐいと押しのけた。僕はまた、床に転がった。それでも僕は上体を起こし、噛みつくように言った。
「漣果さま……、お願いです。ユカ姉を殺さないで」
それにも関わらず、漣果さまは右手を上げ、ユカ姉に近づいていった。
ユカ姉は目を丸く広げて、漣果さまを、それから僕を見た。
僕は叫んだ。
「漣果さま! やめてーッ!」
◇ ◇
僕は生命というものについて考える。
あっけなく、不条理に失われる命もあれば、汚れて傷つきながらも、懸命に生きようとする命もある。
あのとき出会ったユカ姉は、そのはざまで揺れ動く、子猫のような存在だった。
戻る場所もなく、腹をすかせて、敵におびえながら、惑い続ける。――そして、それが人生というものだった。
ユカ姉は、懸命に夜の中を歩いていた。死にたいと叫びながら、光を探して。
夜はまだ深かった。
自動販売機と、侘しい街灯の光を頼りに、僕とユカ姉は暗い路地を歩いていた。
前方には漣果さまが歩いていた。しかし、なぜか足音がしない。まるで、漣果さまの存在そのものが、宇宙の
路地の向こうに、少しずつ通りの光が見えてきた。真夜中の繁華街の喧騒が、どこかあたたかく思えた。
漣果さまは足を止めて振り返った。
「ここまでだ」
僕とユカ姉も立ち止まった。ユカ姉は、名残惜しそうに僕を見て、
「きみは、どこにいくの?」
僕は答えた。
「わからないよ。いろいろ」
「ねえ、コージ」
そうして、ユカ姉は腰をかがめて、僕の手をとった。
「ありがとう。きみと、漣果さまがいなかったら、あたし……」
「ううん。いいんだ。それより、ユカ姉が無事で、よかったよ」
「うん。ありがと」
そこで、漣果さまが言った。
「幸次郎。はよう。時がうつる」
僕はユカ姉の手を、そっとほどいた。ユカ姉の瞳はうるんでいて、いまにも泣きだしそうだった。でも、僕の方が先に泣いていた。
「元気でね、ユカ姉……」
すると、ユカ姉は言った。
「また、きてね」
僕は少し考えてから、
「うん。……でもさ。ユカ姉は、この街から、出なきゃダメだよ」
その言葉に、ユカ姉はいささか顔を曇らせた。
僕はユカ姉の横を通りすぎ、漣果さまの元に行った。そこで漣果さまはユカ姉を一瞥すると、こう言った。
「娘……。もう会うこともなかろうよ。しかし、誇りに思うがいい。人間の身で、このわたしを
ユカ姉はその声にびくりと肩を震わせ、うつむいていた。
漣果さまは僕を包みこむように抱き、呪をとなえはじめた。その声は高く、低く、うなるように、あるいは歌うように響いた。気がつくと、僕と漣果さまの体は白い布になっていた。二筋の細長い布となり、僕らは夜の路地へ舞った。
ユカ姉は両手を胸の前で組んで、顔をあげて、僕の名を呼んでいた。その姿も街の灯の中に消えていった。
夜空を飛ぶ中で、心の中に漣果さまの声が響いてきた。
「なぜだ。勝手にねぐらを出たのは」
僕は答えた。
「夢を、見ました」
「夢、だと?」
「はい。昨日の夜、夢を見たんです。僕には家族がいて。……たぶん僕は、人間でした。でも、なにかに、殺されて。なにかに……」
「そうかい。本当の記憶なのかはわからないね」
「はい……。あの夢を見て、僕は、外に出たくなって……」
「まるで理由にならないねえ」
「すみません」
それから、漣果さまは静かになった。夜空には丸く黄色い月が出ていた。吸いこまれそうな月だった。
迷い猫 おわり
夜の巡礼 浅里絋太 @kou_sh
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