迷い猫 5

 そんな中で僕は、ますます体が乾いてくるのを感じていた。ずっと雪片を我慢していたし、緊張していたこともある。


 自分の手を見ると、しわが目立ってきていた。そこで僕はポケットに手をのばし、巾着袋を出そうとした。


「おい、なにやってんだ」


 と、柴田に手を掴まれた。巾着袋は床に落ち、雪片が床に散らばった。柴田は雪片を踏みつけて、


「おい、ガキ。だいたい、おまえはなんなんだよ」


 僕はおそるおそる顔を上げた。


「わかりません……」

「わからない? なんだよそれ。なめてんのか?」


 柴田は僕の髪の毛をつかんだ。そのとき、柴田はなにか珍しいものを見つけたように言った。


「おまえ、顔が変わってねえか? 気持ちワリィな……」


 事実、ひからびて人相が変わっていただろう。そのとき、ユカ姉の声がした。


「その子に手を出さないで!」


 そう言ってユカ姉は柴田の手を僕から振り払おうとした。


 すかさず、柴田の足が大きく上がり、ユカ姉の顔を蹴りつけた。ユカ姉は悲鳴を上げて、ソファの上に倒れこんだ。



 僕は立ち上がろうとしたが、力がうまく入らなかった。雪片を食べなければ。でも、巾着袋は床に落ち、雪片は散らばっている。


 絶望に押しつぶされそうになりながら、僕は漣果さまの顔を思い浮かべた。助けを乞うたらきてくれるだろうか。――いや、勝手に逃げてきた僕などを、助けてはくれないだろう。そんなことを考え続けた。


 それに、助けを求めるような、大きな声を出せる気もしなかった。


 そのとき、ソファに倒れていたユカ姉が、男たちを警戒しながら、よろよろと起き上がった。目の端が腫れて、血がにじんでいた。鼻血も出ていた。


「コージ、大丈夫? ごめんね。あたしのせいで……。それに、どうしたの……? 顔が、おじいちゃんみたいに……」


 ユカ姉には、乾きゆく姿を見られたくなかった。それでも僕は、かすれる声を振り絞った。


「ユカ姉、お願いがあるんだ」

「え? ……なに?」

「あるひとを、呼んでほしいんだ」

「なに? だれを?」

「そのひとは、僕の保護者で、漣果さまっていうんだ……。その名前を、大きな声で……」


 すると、柴田が太い腕をのばしてきて、僕の喉をつかんだ。僕はカエルのような声をだした。


「や、やめて……」

「クソガキが。黙ってろ。誰も、助けにきやしねえよ」


 その声とともに、僕は顔をテーブルに打ち付けられた。星が飛び、鼻がしびれ、血のにおいがした。


 柴田は続けた。


「よし、ユカ。……もうわかったからよー。許してやるよ。だから、仲良くしようぜ」


 そうして柴田は、ユカ姉に腕をのばした。毛に覆われた蛇のタトゥーが見えた。ユカ姉は甲高い声を出す。


「やめて! 触らないで!」


 僕は顔を上げて、柴田に迫られているユカ姉に向かって、もういちどかすれた声を絞りだした。


「ユカ姉……。漣果さまを、呼んで。お願いだ。漣果さまを……」


 すると、こんどは金髪の青年――土屋が近づいてきて、僕の髪を引っ張り上げた。そのまま突き飛ばされ、僕はカウンターの前に転がった。床の上には散らばった雪片が見えた。少し手を伸ばせば届きそうだが、その力すら残っていなかった。


 そこで、ユカ姉の声がした。


「れんか、さま……」

「あー? だれだよ」と男の声。それでもユカ姉は続けた。


「……漣果さま! 助けてください!」



 その声は店内に響きわたった。


 しかし、声の余韻は虚しく消えた。ユカ姉は柴田に突き飛ばされ、ソファに押し倒された。


「ああァ……!」


 絶望するようなユカ姉の泣き声が聞こえた。


 僕は心の中でなんども願った。



 お願いします。神様。どうか、ユカ姉を救ってください。


 漣果さま。あなたが悪魔でなければ、どうか助けてください。お願いします。


 僕はどうなってもいいんです。


 お願いします。


 ……お願いします!



 しかし、なにも起こらなかった。そのとき、僕の体から最後の力が抜けていった。それと同時に、冷たい絶望に体が浸された。やはり、漣果さまは救ってくれない。僕は、気まぐれに拾われた人形にすぎなかったのだ。――そんなふうに思った。




「暴れるんじゃねーよ!」


 という男の声に続いて、ユカ姉の声がした。


「やめてーーッ!」


 ユカ姉の声が響く。






 ――――そのときだった。


 突如、店の照明が消えた。


「なんだ? ブレーカーが落ちたのか?」


 と、柴田の声がした。それに土屋の声が答えた。


「わかりません……」


 すると、照明がふっと、一瞬だけついた。そのとき僕は、店の中に妙なものを見た。白くたなびく布が、意思を持ったようにうねり、舞っていたのだ。


 同時に、柴田は戸惑うような大声を上げた。


「どうなってんだ? 照明の故障か?」




 やがて暗闇の中で、僕は粉っぽい感じの甘いにおいに気づいた。その香りに、安堵と恐怖を覚えた。


 やがて、店の中に響き渡るような声がした。


「名を呼んだな……。人間が」


 そこでユカ姉は、「ヒッ」と、息を呑むような悲鳴をあげた、


 再び暗闇の中から声がした。


「わたしの名を、人間ごときが……」




 そのとき、やっと店の照明が戻った。カウンターの上に女の姿があった。――それは、漣果さまだった。


 漣果さまは脚を組んで、カウンターの上に腰掛けていた。薄紅色の着物を着ていた。


 大儀そうに黒髪を撥ね上げると、漣果さまはユカ姉を一瞥し、男たちを見て、最後に僕へ言った。


「幸次郎。おまえはこんな所で、なにをやっているんだ? それに、そんなに、乾いてしまって……」


 そのとき、土屋がナイフを突きだし、漣果さまに近づいていった。


「おい、てめえ、なに言ってんだ? こらァ」


 僕はなんとか声を出そうとした。


「やめて、ください……」


 それは、漣果さまに言ったのだ。


 漣果さまは右手の指先をのばすと、土屋の鼻先で小さな円を描いた。すると、ごりごりと、低い奇妙な音がした。しまいに土屋の首が真横に曲がり、自分の右肩の上に頭を載せる格好になった。


「控えなさい……」


 漣果さまはそう言うと、土屋への興味を失ったように視線を外し、カウンターから降りた。


 土屋の体がゆっくりと傾き、床へと倒れこんだ。そのとき僕の目に土屋の顔が見えた。土屋は白目をむき、口と鼻から血を流していた。首は不自然な角度で曲がったままだった。

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