迷い猫 4
ユカ姉は「場所、変えよっか」と言った。
「うん……。いいよ」
「ていうかさ、コージ、帰らなくていいの? まあ、小学生も、たまには見るけどさ」
「うん。家、近いから。もう少しは」
「家のひとに怒られない?」
「うん……。いや、怒られるかな。僕の保護者は、結構おこりんぼうだから」
「おこりんぼう、って。そのフレーズ、ひさびさに聞いたわ」
と、ユカ姉は笑った。僕もつられて笑いながら、少し怖くなってきた。漣果さまは地獄耳だ。どこかで聞いていて、あとから文句を言われるかもしれない。――もっとも、そうだとしたら、勝手に外に出ている時点で叱られていただろうけど。
「それじゃさ、駅の方へ行こっか。どこか、お店とか入ろっかな」
そう言うユカ姉に、僕はついていった。
このとき、僕の体は乾きはじめていた。ほんとうは巾着袋の中の雪片を口にしたかったが、ユカ姉の手前、それを我慢した。ユカ姉に正体がばれるのが嫌だった。自分が、雪片だけをよすがに生きる、不死の魔性であることを知られたくなかった。
僕の体がどれほど傷つけられても、漣果さまが治してくれる。雪片さえあれば、老いることも病むこともない。しかし、雪片がなくなれば、乾いていき、最後は活動できなくなってしまう。
広場の脇には少女たちが立って、スマートフォンをずっと操作していた。その横を通りすぎて路地に入ったとき、一匹の猫が見えた。
明るい茶色の体毛で、おとなしそうな猫だった。
「あー! かわいー!」
と、ユカ姉は追いかける。しかし、猫は逃げていった。そこに、すうっと、一台のワゴン車が近づいてきた。
そのとき、突如として野太い声がした。
「おい、ユカ、待てよ」
見ると、男がワゴン車から降りてくるところだった。
迷彩柄のパンツに、黒いTシャツを着た、太った男だった。坊主頭に稲妻の剃りこみ。腕にはタトゥーが見えた。大きな因業そうな顔に、色眼鏡をかけていた。
続いて、もうひとりが出てきた。坊主頭の男に比べればほっそりとした、金髪にドクロのTシャツを着た青年だった。
ユカ姉は怯えたように固まった。坊主頭の男は、
「なんで返信しねえんだよ」
そう言って、ユカ姉に詰め寄ってきた。細い腕を掴み、ユカ姉をワゴン車に押しつけた。ユカ姉は眉をゆがめて、
「やめて。お願い……」
「おまえが無視するからだろ? なめてんじゃねえよ」
するとユカ姉は爆発するかのように大声を出した。
「うるせー! ぶっ殺すぞ! 離せー!」
すると、男は右手を振りあげ、ユカ姉の顔をたたいた。乾いた音が響く。ユカ姉は横目で坊主の男を見た。
「おい、土屋」坊主の男がそう言うと、もう一方の、土屋と呼ばれた青年が前に出てきて、ポケットからバタフライナイフを取りだした。それをくるりと回して光る刃を出すと、土屋は低い声で言った。
「おとなしく、車に乗れよ。二人とも」
運転は坊主頭の男がしていた。
僕とユカ姉は後部座席に並んで座っていた。後部座席のドアは左側にしかなく、そこに押しこめられる形になっていた。一番奥に僕が座り、真ん中にユカ姉。一番ドアに近いところに、ナイフを持った土屋がいた。
車は暗い道を走っていく。
どこに向かっているのかはわからない。
車内には激しい洋楽が大きな音でかかっていた。それに、鼻が溶けるほど甘いにおいが充満していた。それが、マットのゴム臭さと混じり、ひどいにおいになっていた。
ユカ姉は僕の耳に、小さな声でささやいた。
「あのデブ、柴田っていうんだよ。ハッパ食ってるから、やたら車に香水をまいて、ごまかそうとしてるんだよ」
僕はよくわからず、「やなにおいだね」と言った。
すると、ユカ姉は眉を潜め、申し訳なさそうに、
「コージ、ごめんね。お姉ちゃんのせいで。……あいつ、エンの客だったんだけど。キレててうっとうしくてさ。たまんないよね。……コージは、絶対逃がしてあげるからね」
そのとき、運転席から柴田の大声がした。
「ひそひそやってんじゃねえよ! だまってろ!」
僕はびくりと体を震わせた。
やがて車が停まった。
土屋が後部座席のドアを開けて、ナイフを突きだしてきた。
「降りろ」
その声にしたがって、ユカ姉と僕は車を降りた。
そこは、あるスナックの前の小さな駐車場だった。
柴田は店の鍵を開けて、ドアを開けた。青年におどされながら、僕らはスナックへと入っていった。
内部は閑散としており、右手には黒いソファがあった。カウンターの中にはガラクタが積まれていた。それに、ひどくかび臭かったことを憶えている。
僕らは土屋にナイフを突きつけられ、ソファへと座らされた。
ソファの前のテーブルをはさんだところに、柴田がスツールを置いて、そこに座りこんだ。土屋はその横に立っていた。
「ユカ。なんで連絡よこさねえで、無視するんだよ」
ユカ姉は目を釣り上げて、
「なんで連絡しなきゃいけないの? おまえがうざいからだろ? 一回相手してやっただけで、彼氏ツラすんなよ」
「おい、口に気をつけろよ」
そこで土屋が、ユカ姉へとナイフを走らせた。すると、テーブルの上にユカ姉の前髪がはらりと落ちた。
ユカ姉は短い悲鳴を上げて、額を右手でおさえた。
柴田は言った。
「なんどメッセージ送ったと思ってるんだよ。ユカ! 恥かかすんじゃねえよ。聞いてんのか? 痛い目を見ねえと、わかんねえのか?」
そうして柴田は、ユカ姉の顎を掴んで引き寄せる。ユカ姉は汚物でも見るように顔をそむけた。柴田はまた、ユカ姉の頬をたたいた。
ユカ姉はきっ、と相手をにらんで、
「……なにするのよ!」
と言い返すのだが、恐怖のためか声が震えていた。
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