第6話
色を乗せただけの絵はどんどん緻密さを増していった。湊音は絵の完成が待ち遠しい反面、本当にオリバーが遠くへ行ってしまうのではないか、という寂しさを覚えていた。
「わしは若い頃、船乗りだった。世界中のいろんな海を見てまわった」
オリバーは船から見た景色の話をしてくれた。氷の海で見た七色のオーロラ、底まで透けて見える珊瑚礁の海、港で上がる大輪の花火、果てしない水平線に沈む夕陽。
オリバーの語る数々の美しい景色は、小さな港街から出たことの無かった湊音の胸を躍らせた。
オリバーが湊音に尋ねた。
「君の夢は何かな」
「ぼくの夢は船長になることだよ。大きな船で外国にも行くんだ」
オリバーの話を聞いて決めた、とは気恥ずかしくて言えなかった。父のようにお役所で働くのだろう、とぼんやり考えていた。
「そうか、素晴らしい夢だ」
「うん、そうだ、ぼくが船長になったらオリバーを故郷へ連れていくよ」
オリバーはそれは頼もしい、と白い髭を揺らして笑った。
***
その日は学校の掃除当番で遅くなってしまった。終礼のチャイムは随分前に鳴っている。早く行かないと、オリバーの焼いたスコーンが冷めてしまう。
湊音が坂道を駆けていくと、その脇を黒い乗用車が猛スピードで通り過ぎていく。車は風見鶏の洋館の前で停まった。
「おじいちゃん、こんなところに来ているのね」
「徘徊癖には困ったよ」
車から洒落たジャケットを着た中年の男と、同年代のグリーンのワンピースの女が降り立った。男はサングラスを取り、タバコに火を点ける。
「オリバーを探しているの」
車に追いついた湊音は息を切らしながら尋ねる。
「じいさんの名前を知っているのか」
男はオリバーの息子で、女は彼の妻だという。
「おじいちゃん、認知症で町の老人ホームに入っているんだけど、よく抜け出すのよ。いつもはちゃんと帰ってくるんだけど、今日は帰りが遅いから探していたの」
女が困った顔で肩を竦める。湊音は驚きを隠せない。
「もう私たちも困るから、遠くのホームに移すことにしたの」
オリバーはもう少しで絵が完成すると言っていた。それまでここにいさせてもらえないか、と湊音は男に食い下がった。
「絵なんてどこでも描けるよ。キャンバスごと持って帰ろう」
そうじゃない、オリバーはこの家で絵を描くのを楽しみにしていた。ここはオリバーの家なんだ。湊音はバラの生け垣を抜けてオープンデッキに走った。
テーブルの上には温かい紅茶とスコーンが用意されていた。オリバーは出窓のあるバルコニーで絵を描いているはずだ。彼らに捕まったらここへ戻れなくなってしまう。
「オリバー、オリバー、どこにいるの」
名を呼んだ。しかし、返事はない。出窓が開いて、穏やかな潮風にカーテンが揺れている。温かい橙色の夕陽が埃っぽい部屋に差し込んで、キャンバスを照らしている。
キャンバスの絵は完成していた。
海の見える丘の家。家の前にはオリバーと妻が肩を並べて立っていた。二人は笑顔でこちらに手を振っている。煉瓦造りの煙突からは一本の煙が立ち上っている。暖炉ではスコーンを焼いているのかもしれない。
遠景の海には大きな船が浮かんでいた。先週まで描かれていなかった船だ。
「この船はきっとぼくの船だね、オリバー」
乱暴に柵を壊す音がして、息子が入ってきた。
「おやじ、帰るぞ。どこにいるんだ」
息子は家じゅうを探したがオリバーの姿はどこにも無かった。湊音はイーゼルに腕を伸ばし、キャンバスを大事に手に取る。
彼は本当に魔法使いだったのかもしれない。絵を完成させて、妻と共に故郷へ帰るという夢を叶えたのだ。
「この絵、もらっていいですか」
「ああ、構わないよ」
ホームにもたくさんあって処分に困っている、と息子は付け加えた。
***
それから三十年が過ぎた。
一艘の豪華客船が小さな港に寄港した。白い船長帽を被った湊音はデッキに立ち、正面に見える丘の上を双眼鏡で眺める。隣に立つ女性が誇らしげにその横顔を見つめている。
「風見鶏のある白い家だよ」
湊音は懐かしさに頬を緩める。
「あの家でオリバーと出会ったのね」
「オリバーから世界の美しさとティータイムがいかに素敵かを教えてもらったよ」
オリバーの昔話を湊音から何度も聞いていた彼の妻は、嬉しそうに頷く。
オリバーが消えて三年後、当時上がっていたリゾート計画は町の人々の反対に遭い頓挫した。歴史を大切にしようと丘の上の洋館群は町の指定で保存されることになった。剥げた壁は塗り直され、内装も整備されて今では町の観光資源として保護されている。
船長になる夢を叶えたとき、湊音はオリバー邸に一枚の絵を寄贈した。いつしか、その絵を見ると夢が叶う、と口コミが広がりオリバー邸は観光客で賑わうようになった。
出窓の並ぶ陽当たりの良いバルコニーに、イングランドの海の見える丘の風景画が飾られている。
オリバーの描いた絵 神崎あきら @akatuki_kz
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