第5話
水曜日がやってきた。オリバーとのティータイムの約束の日だが、湊音は坂を上る気になれなかった。オリバーに怒られたこと、そして彼の青い目が一瞬悲しい色に染まったこと。
迷子だと言って、オリバーを傷つけてしまった。紅茶の少し苦い味が口の中に広がる気がした。
「湊音、今日は行かないの」
放課後の教室に残っていた湊音に、朝陽が声をかける。
「ああ、うん」
「ここ最近、水曜日はいつも一番に教室を出ていってただろう」
「もう行くことは無いよ」
湊音はしょんぼり項垂れる。
「どうしたの」
朝陽はいつも快活な湊音が気落ちしていることを心配する。
「うん、友達とケンカしちゃったんだ」
湊音は「友達」という言葉が自然と飛び出したことに自分でも驚いた。
「仲直りしなよ」
「でも、傷つけちゃったんだ」
「ごめんっていいなよ。本当の友達ならきっと仲直りしたいはずだよ」
朝陽はそれだけ言って、塾があるからと教室を出て行った。
本当の友達、か。相手は外国人、しかも大人だ。子供に馬鹿にされて怒っているに違いない。湊音はオリバーの澄んだ青色の目を思い出す。よく晴れた日の海を映したような綺麗な色だ。海の色が悲しみに染まったのを見たとき、心がひどく軋んだ。
オリバーに謝ろう、湊音は校門を出て夕陽が照らす坂道を力一杯駆け上がった。
肩で息をしながら、屋根に立つ風見鶏を見上げる。動かなくなった鉄の鳥は北を向いたまま、澄ました表情で止まっている。
バラの生け垣を抜けて、屋敷の庭に忍び込む。庭を望むオープンテラスのテーブルには空のティーカップが二つ並んでいた。オリバーはここで待っている。湊音は嬉しくなった。
いつもはテラスの椅子に腰掛けているオリバーの姿がない。テラスから出窓のある部屋への扉が開いていた。湊音はそっと部屋を覗き込む。独特の匂いが鼻を刺激して、湊音は眉根を顰める。
オリバーは真剣な表情で絵筆を握っていた。目の前にあるキャンバスに色を作って丁寧に乗せていく。湊音はオリバーの姿を静かに見守っていた。
「ミナト、来ていたんだね」
オリバーは驚いて目を丸める。白い髭に緑色の絵の具がついているのを見て、湊音はプッと吹き出した。
「オリバー、この間はひどいことを言って、ごめん」
ひとしきり笑ったあと、湊音はオリバーに深々と頭を下げた。
「いいんだ、わしも大人げなかったよ」
また来てくれて嬉しい、とオリバーは気恥ずかしそうに微笑む。
「仲直りだね」
二人は仲直りの握手を交した。
「きれいな絵だね」
湊音はオリバーの隣に並んで、彼の描いた絵を見上げる。
「これはわしの故郷だよ」
オリバーは憧憬に目を細める。白い雲がぽっかり浮かぶ青空、風になびく緑の草原、煉瓦造りの一軒家、奥には海が広がっていた。白いのは羊の群れだろうか。異国の美しい風景に湊音は思わず溜息を漏らす。
「妻といつか故郷で暮らそうと思っていたんだ」
家の前に立つ黒髪の女性がオリバーの妻だろうか。
「奧さんはどうしてるの」
「亡くなったんだよ。もう十五年になる」
オリバーは物憂げな笑みを浮かべて絵筆を置いた。
彼の妻は日本人で、港の食堂で働いていた彼女を見初めたのだという。それからずっとこの家に住んでいたが、彼女は病気で亡くなった。引退したらオリバーの故郷イングランドの海の見える丘で暮らすことが夢だったという。
「さあ、スコーンが焼けたよ」
オリバーは暖炉からほくほくの香ばしいスコーンを取り出す。
「今日は特別だ」
湊音の好きなクロテッドクリームといちごジャムを両方出してくれた。温かい紅茶が注がれ、いつものティータイムの準備が整った。
「あの絵が完成すれば、夢が叶う」
オリバーは香り立つ紅茶を飲みながら絵を眺めている。夢とは、故郷に帰ることだろうか。湊音はそれを口にすると彼が遠くに行ってしまいそうな気がして黙り込んだ。
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