第4話
「習字道具、見つけたんだね」
「うん、あの家の庭に落ちてたよ」
湊音は親友の朝陽に嘘をついた。オリバーのことは秘密にしなければ。それは彼との約束だ。
それから、湊音は丘の上の風見鶏の家に住む異国の老人、オリバーに会いに行くようになった。約束は毎週水曜日。授業が終わると、一番に教室を駆け出す湊音を朝陽は怪訝な顔をして見送る。
夕方のティータイムを湊音と過ごすことを、オリバーも楽しみにしていた。
湊音が丘を駆けていくと、風見鶏の家から香ばしい匂いが漂ってきた。オリバーは暖炉の火をオーブン代わりにスコーンを焼いてくれた。
「どうしていつもぼくが来る時間が分かるの」
湊音は不思議に思っていた。湊音が庭を覗き込むと、いつもぴったりにオリバーのティータイムが始まるのだ。
「わしは魔法が使えるんだよ。だから君がやってくるのが分かるんだ」
オリバーは悪戯っぽい笑みを浮かべる。白髭の老人はさながら魔法使いのようだ。
しかし、湊音は知っている。丘の麓にある小学校の終礼のチャイムがここまで聞こえることを。オリバーはチャイムが聞こえたらスコーンを焼き始めるのだ。
オリバーのスコーンはいつもサクサク、中はほろほろでほんのりした甘みがある。スコーンにはジャムやクリームをトッピングする。湊音のお気に入りはいちごジャムだった。
「今日はクロテッドクリームを作ったよ」
オリバーが濃厚な白いクリームをスコーンにたっぷりつけてくれた。
「わあ、おいしい」
生クリームのように柔らかいけど、バターのような濃厚さがある。湊音にとって初めての食感だった。
「クロテッドクリームは牛乳をじっくり煮込んで、一晩おいてできあがるんじゃ。わしの故郷イングランドの伝統的な乳製品だよ」
オリバーは得意げに白い髭をしごく。
「こんな美味しいものがつくれるなんて、オリバーは魔法使いだね」
湊音とオリバーは声を上げて笑う。
湊音の一番のお気に入りはクロテッドクリームになった。
***
「丘の上の廃墟に不審者が出るそうよ」
「物騒な話だな」
夕食のテーブルで交された父と母の会話に、湊音は全身がかあっと火照り、目を泳がせる。
「なんでも大柄な老人らしいわ」
大柄な老人、きっとオリバーのことだ。湊音の心臓がどくんと跳ねる。母はぼけ老人が徘徊しているんじゃないか、と困った顔をしている。
「徘徊ってなに」
聞き慣れない言葉だ。湊音は意味を母に尋ねた。
「帰り道が分からずにうろうろすることよ」
迷子、ということだろうか。オリバーはあの家に住んでいるはずだ、湊音は不思議に思う。
「丘の上には行くんじゃないぞ」
「うん、行かないよ」
心配した父に釘を刺された。湊音は興味が無さそうな振りをした。
***
次の水曜日がやってきた。
オリバーの淹れた温かい紅茶を飲みながら、湊音は落ち着かない気分だった。
「ねえ、ここは本当にオリバーの家なの」
湊音は気になっていたことを躊躇いがちに尋ねる。オリバーはスコーンにジャムを塗る手を止めた。
「どうしてそんなことを聞くんだい」
「オリバーは迷子なんじゃないかって」
湊音の言葉に、オリバーは顔を真っ赤にして震えている。
「ここは昔からわしの家だ、迷子なんて誰が言った」
穏やかだったオリバーが突然、大声を張り上げる。湊音は肩をびくっと震わせる。指が震えてカップが滑り落ちた。テーブルの脚に当たり、破片が砕け散る。
「ご、ごめんなさい」
湊音は弾かれたように立ち上がり、鞄を掴んで駆け出した。背後で名前を呼ぶ声が聞こえたが、湊音は振り返ることができなかった。
坂道の途中で割れたコンクリートに躓いて派手に転んだ。膝小僧を擦りむいて血が滲んでいる。湊音は力無く立ち上がり、夕闇迫る坂を下っていく。オリバーがあんなに怒るなんて。遅れてきた恐怖に、目尻に涙が滲んだ。
怪我をした膝がじんじんと痛む。しかし、オリバーと仲違いした心の痛みの方がずっと大きかった。
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